およそ印度及び支那に於ける大乗諸論士の説を観るに、大に二途に分る。
即ち一は法相の差別を論ずる唯識家と、一は法性平等を明かす性宗家の説である(大乗仏教は唯識派と中観派に分かれる)。
印度にありて無着、世親の唯識家の諸論士は、多く諸法の法相差別を明かす。即ち唯識家にも平等真如の理性を談ぜざるにはあらざれども、「真如は凝然常住にして善悪の縁に随うて開発し萬法を成ずる旨」を説かずして有為の第八阿頼耶識(各人が持っている深層意識)を萬法生起の根本となすものである。しかしてこの阿頼耶識は萬人各別なるがゆえに、阿頼耶識に無漏の佛種子を有するものは成仏し得るも、佛種子を有せざるものは、成仏しえざる、所謂五性各別の(唯識にいう説。五姓とは、菩薩定姓(菩薩になれるもの)・独覚定姓・声聞定姓・三乗不定姓(どれになるかわからないもの)・無性有情(仏性のないもの) )説をなす。
しかるに一性平等を明す法性家即ち龍樹、馬鳴等の諸論士は、差別の萬有は、真如法性より開発せるものとなすがゆえに、一切衆生皆成仏道の義を宣説す。
かく一性平等の理を明かす法性宗(一切皆空としたはての法性、つまり存在の本質は平等)に於いて、色心法爾を談ずる実相家の龍樹の教系と、法性の生起を明かす縁起系の馬鳴論士の教説相分かる。
しかして支那にては三論と天台は色心実相を明かす龍樹の教系に属するものにして(三論宗も天台宗も龍樹の「中論」をもとにしている。)、
真如縁起(一切は真如が縁に遇って顕現したもの、という考え方)を談ずる華厳宗等は寧ろ馬鳴系の教系に属するものである。