尊王奉佛論・大内青巒
(大内 青巒は明治から大正にかけての仏教者。
16歳で原坦山の弟子となり、印可を受けています。20歳で明治維新に遇い、上京し西本願寺大津鉄然と交わり第21世宗主大谷光尊の侍講をつとめました。そのためか禅・念仏一致の考えで「禅は面白いところから入って、有難いところに徹底せねばならぬ。念仏は有難いところから入って面白いところまで徹底せねばならぬ。」といっていたということです(明治の仏教者)。島地黙雷・井上円了らとともに天皇崇拝を中心とする仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を結成し、曹洞宗の『修証義』も起草しています。前田慧雲の後を受けて東洋大学の学長にも就任しています。青巒は僧侶は戒律を守り肉食妻帯は避けよとの考えでした。この尊王奉佛論はキリスト教が皇室を廃することになるとして仏教中心の尊皇奉仏大同団を結成する時の論文です。キリスト教と天皇制との関係はいまでも相当デリケートでキリスト教徒の中には天皇制廃止論がいまも根強くあるのは大問題です。)
「・・抑も仏法が日本へはじめて渡りましたのは、人皇三十代欽明天皇の十三年十月に其の頃の交際國であった三韓の内の百済国王、餘聖明といふ方が公使に国書を持たせて我が国へ遣はされた。仏像・経論等を貢献したと歴史に書いてある。(『日本書紀』に「十三年冬十月、百済の聖明王、西部、姫氏達率怒□斯致契らを遣はし、釈迦仏に金銅像一躯、幡蓋若干,経論若干巻を献る・・」)・・・国書といふのは、国王の御手紙だが其の御手紙に「是の法は諸法の中に於いて最も殊勝となす。且つそれ天竺より三韓に及ぶ。又佛の記する所に、我が法は東流す云々」(日本書紀・欽明天皇の十三年十月に、「冬十月、百濟聖明王更名聖王、遣西部姬氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷。別表、讚流通禮拜功德云「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國流通畿內。果佛所記我法東流。」」と仰せられたから、三韓から東の方の日本へ渡るべきはずであると申すことを書いて遣はされた。欽明天皇おおひにこれを御喜びあそばされたが、そのころの大臣に蘇我稲目といふ人があって、物部尾輿といふ人と仲が悪かったのがもとで、議論がおこったによって其の仏像経論を蘇我稲目にお預けになったが其の仏像がいまの善光寺如来で、いまでも矢張り勅封の秘仏でございます。(「扶桑略記」(11世紀)の「善光寺縁起」では以下のように書かれています。「件の仏像は尤も是れ釈尊在世の時、毘舎離国月蓋長者、釈尊の教えに随って正に西方を向き、遥かに礼拝を致し、一心に弥陀如来・観音・勢至を持念す。その時、三尊は一搩手半に促身し月蓋門閫に現住す。長者、面に一佛二菩薩を見、忽ちに金銅を以て鋳写し奉る所の佛菩薩これなり。月蓋長者遷化の後、仏像空を騰び百済国に飛到す。已に一千年を経てその後、(欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来時に)本朝に浮来せり。」)
さてまた其の翌年は河内の茅渟の海といふところへ、おおきな樟木が流れてきたのを拾い上げ勅詔で仏像を刻ませられた。その仏像が今の吉野の世尊寺の本尊じゃ。
(注、日本書紀巻第十九 欽明天皇の条。治世14年夏5月
河内国から「泉郡の茅渟の海(大阪湾)から、雅楽の音が聞こえ、それは雷のように響くほどで、また、麗しく照り輝き日の光のようです」との報告があった。天皇はあやしんで、溝辺直(いけべのあたい)を使わし、海の中を探させた。溝辺直は海の中で照り輝く樟木を見つけ、これを取って持ち帰り、天皇に奉った。天皇は匠に命じて、仏像2体を造らせた。これが今の吉野寺に光を放っている樟の仏像である。
日本書紀巻第二廿 推古天皇三年三月 または 聖徳太子伝暦
土佐国の南海に毎夜、雷光のように光を発する「沈水香(じんすいこう)」という木があり、翌四月には、淡路島に漂着した。島人は、これを薪として火にくべたところ、非常に良い香りがしたので、天皇に献上した(香木の日本の史書における初見)。
これを見た聖徳太子は、この木が南海に自生する栴壇(せんだん)という香木からできた沈水香であると、天皇に奏上した。天皇は喜び、匠に命じて、この香木で観音像を作らせ、吉野の比蘇寺に祀った。この像は、時々光を放った。)
また其の翌年四月になると百済国王から今度は、道深と曇慧といふ二人の僧を送ってきた。これで仏法僧の三宝が揃ひました。その次の天子様が敏達天皇で人皇三十一代でありますが、ご即位七年目に天下に勅して毎月六歳日に放生を行わしむ、と歴史に書いてある。次が三十二代用明天皇でそのお子様が聖徳太子でありますが、三十四代推古天皇の摂政に立たせられて、この天皇の二年に勅詔を以て仏法を興隆せしめられ(日本書紀に「推古二年春二月丙寅朔、詔皇太子及大臣令興隆三寶。是時、諸臣連等各爲君親之恩競造佛舍、卽是謂寺焉」)、十二年の四月に十七条憲法を書かせられたのが日本で国家の規則が定まった濫觴で、神道も儒道のこの憲法でたしかに天下の法律と定められたので(一条は神道の「かんながらのみち」、三条等は儒教といわれる)・・その憲法の第二条目に「三宝とは仏法僧なり。四生の終皈にして万化の極宗なり。何の世、何の國としてかこの法に嚮はざらん」と書せられた。これがまず日本で仏教を広める基がたった最初でございます。かような訳で有りますから、我が国の仏教は最初から我が皇室の御物で、これを天下に弘めるときには天下の御規則すなわち法律に書載せて勅詔で弘められたのでございますから、いまこそ八宗九宗さまざまの宗派も分かれて祖師とか開山とか別々に立っておりますけれども、我が国仏教の惣祖師惣開山と仰ぐべきは聖徳皇太子でございますから、すなわち我皇室は我各宗派の惣本山と申しても宜しい訳であります。最初からかような大関係があるによって代々の天子様はいずれも深く仏教弘通に御心を励ませられ、なかんずく我が皇室の御中興とも申しあぐべき天智天皇及び聖武天皇桓武天皇などの御信仰はまた格別の事で、その御子孫の宇多天皇後宇多天皇様は全く持戒堅固の大僧にまで、御成り遊ばされたので御座いますから、仏教と皇室との関係に就いては実に重大なる御勅詔も多い中に別けて(聖武天皇は)天平十三年三月、護国(尊王)滅罪(奉佛)の二箇寺即ち国分寺を國各に建てさせられ、且つ御宸翰で寫させられた最勝王経を七重の塔に安置せしめられた時の勅詔に「代々の国王を我等の檀越となす。もし我寺興復すれば天下興復す。我等弊衰すれば天下弊衰す。(乃至)若し後代の聖主賢卿、この願を承け成ずることあれば乾坤福を致さむ。愚君拙臣此願を改め替れば神明訓を効さむ」(東大寺要録)と仰せられた。その後また後宇多天皇は二十五箇条の御遺詔を御宸翰で遊ばされた。その第三條に「わが後に血脈を継ぐの法資と天祚を傳ふるの君主と盛衰を同じふすべし。興替を伴にすべし。わが法断廃せば皇統それ廃せん。我が寺興復せば皇業安泰ならむ。努力や努力や。我がこの意に背いて悔ゆること莫れ。」と仰せられてある。わが仏教を廃する時は、我が皇統も廃するぞ、佛教と皇室とは盛衰を同ふするといふことを忘れて後悔せぬ様にせよ、と誠に恐れ入った御誓文でございます。・・いずれの宗旨でも開教の最初から尊王奉佛と推並べて弘まったものでございます。‥天台宗では傳教大師が桓武天皇の御洪業を補佐申し上げつつ、帝都の鬼門に比叡山を開き、皇城鎮護(尊王)一乗圓頓(奉佛)の道場で、其の寺の名は其の時の年号を其の儘に延暦寺と名けられたのがその宗旨の惣本山でございます。真言宗の惣本山は教王護国寺で、これは東寺と申す官立の寺を弘法大師に賜ったのであります。(高野山も嵯峨天皇から大師に与えられたもので、神護寺も「神護国祚真言寺」とし定額寺とされています。)禅宗の諸本山は大抵皆官立の寺で、殊に妙心寺や天龍寺などは全く離宮を其の儘に寺にせられたもので、越前の永平寺などは、承陽大師閑居の地であるけれども、それさえ勅願の道場と申すことに成りて、皇室の御直轄にせられたものであります。・・真宗のごときは王法為本の教えがあり、知恩院も本願寺もみな勅願の道場でありますから(蓮如上人の『御文章』(文明 13 年〈1481〉)には「そも. そも当寺のことはかたじけなくも亀山院・伏見院両御代より勅願所の宣をかうぶり. て他にことなる在所なり」)(知恩院は四条天皇から寺号「華頂山知恩教院大谷寺」を賜り、勅願所になっている。)いずれの宗派もみな皇室を大檀越として弘まったもので・・。昔は皇室の御会計が困難で・・本願寺が数萬円のお金を調達してさしあげて御即位式を行わせられたこともある。(後柏原天皇(15世紀)は践祚後22年間も即位式ができなかったが足利義稙・本願寺光重の援助で即位式をあげたられた。)それが本願寺を仁和寺のような天子様がお開きになった寺(仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和二年(886年)に建て始められた。その遺志を引き継いだ宇多天皇が仁和四年(888年)に落成。 宇多天皇は出家後、仁和寺に「御室」と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室(仁和寺)御所」とされる。)と同じように御門跡の列に加へられた因縁であります。‥現に今日でも、天台宗の妙法院、真言宗の仁和寺をはじめとして御門跡と称ふる寺々や御所號のある寺々二十八箇寺は、宮内省から永代録を賜はり、二百五十石以下、それぞれ等級があって毎年宮内省から石代をお渡しになる。又御菩提所の泉涌寺は相変わらず宮内省で何事も御世話なされ、すでに先年同寺が焼失した時も(泉涌寺のホームページには「現在の建物は明治十五年(1882)の炎上後、宮内省によって明治十七年に再建されたもの」とある)悉皆宮内省で御再建のお世話があり、御代々の御年祭や御例祭等のあるたびに霊明殿において法会を行わせらる(霊明殿には歴代天皇の位牌をお祀りしている)。また(東寺)真言院の御修法なども毎年一月八日から東寺へ勅使を差し向けられて、御衣の御加持を行わせられる(令和の現在もあり)。政教分離を主張する今日でも、国家は国家、皇室は皇室で、皇室と仏教は政治の他に重大な因縁があるので御座います。・・釈迦牟尼世尊の御遺訓にも、我が法を国王大臣に附嘱するとも仰せられて有り(仁王経『佛、般若をもって現在、未来世の諸の小国王等に付属してもって護国の秘法とす』)、殊に心地観経では、四恩と申して仏教徒が報謝せんければならぬ四通りの恩徳を御説なされた中にも、国王の恩を佛の恩と並べて御教へになってある(大乗本生心地観経報恩品「世出世の恩に四種あり。一に父母の恩。二に衆生の恩。三に國王の恩。四に三寶の恩。」)。
・・・古事記の神代の巻の一番最初に別天神と申す天地開闢の神のことが書いてあり、その次に天神七代の御話がありますが、(古事記・神代巻「天地初めて發けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、みな獨神と成りまして、身を隱したまひき。次に国稚く浮ける脂の如くして、海月なす漂えるとき、葦牙の如く萌え騰る物によりて、成りし神の名は宇摩志阿斯訶備比古遲神、次に天之常立神。この二柱の神もまた獨神と成りまして、身を隱したる。次に成りし神の名は、国之常立神、次に豊雲野神。この二柱の神もまた獨神と成りまして、身を隱したまひき。次に成りし神の名は、宇比地迩神、次に妹須比智迩神。次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能地神、次に妹大斗乃辨神。次に淤母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。」)その七代目の神を伊邪那岐命、伊邪那美命と申すので、このお二方の神がこの日本を開かせられたその上に、我が皇室の御先祖で‥天照皇大神を始め奉つり、我々人民の大先祖になった神々までも、皆お産み附け下されたので、其の天照皇大神が地神五代と申す中の初代であるが、ある時、天の安の河原に八百万の神と申して我々人民の先祖の神々をお集めになされて屡々大会議をお開きになり、この日本の国の主となるべき神は那方であろうかといふことを御評議あらせられたが、遂に瓊瓊杵尊が直に其の御位に御即き遊ばされた。これが地神の三代であるが(地神五代は順に、天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・火折尊・鸕鶿草葺不合尊)、天照皇大神がこの瓊瓊杵尊に勾玉と鏡と剣との三種の神器を御授なされ、且つ又天児屋命、布刀玉命フトダマノミコト、天宇受賣命アメノウズメノミコト、伊斯許理度売命イシコリドメノミコト、玉祖命タマノオヤノミコト、といふ五人の神々を御付添に成され、「この豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の國(くに)は、是、吾が子孫(うみのこ)の王たる可き国ぞ。汝ゆきて治めよ。寶祖の盛んなることは天壌とともに窮り無からむ」(日本書紀の「天壌無窮の詔勅」「この豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の國(くに)は、是(これ)、吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無(な)かるべし」)と仰せられたので御座います。この時に天の安の河原で集会した八百万の神といふのが我々一般人民の先祖で、御付添になった天児屋命などの五名の神は中臣とか忌部といふような古い役人の家柄の先祖でございます。さてこの次の地神四代が、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)五代目が鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)で、その御子が人皇第一代の神武天皇でございます。・・
我が仏教は道理を以て成り立った教理で歴史成立の教えではありませんから、どこの国へ弘まってもその国の歴史や王統などに少しも差し支えを起こしたことは御座いません。支那へひろまれば三皇五帝のままで、日本へ渡れば天神七代地神五代、いささか差し支えないばかりではない、我が日本では弘法大師などが、本地垂迹といふ説をたてて我日本の神々をその儘仏教の教義の上から礼拝できるように定められたものであります。(「天地麗気記(弘法大師)」にみる天照大神以前の根源神、天神7代、地祇5代の本地です。
①天神7代とは「 天神七葉は過去七佛(釈迦様出生以前の七仏)・・(天地麗気記)」にあることを勘案すると以下のように本地があると思われます。(なお「天地麗気記」等の他の記述も参考に本地を書きました。)
1国之常立神・・・大毘盧遮那仏(如意宝珠・浄菩提心の玉)
2国狭槌(くにのさつち)尊・・毘盧遮那仏
3豊雲野神尊・・・盧遮那仏
4埿土煑尊(うひぢにのみこと)・・毘婆尸仏。沙土煑尊(すひぢにのみこと)・・尸棄佛
5大戸之道尊(おおとのじのみこと)・・倶留孫仏。大戸之部尊・・毘葉羅仏(熊野では不動明王)。
6面足尊・・狗那含牟尼仏(熊野では釈迦如来、多聞天)惶根尊(かしこねのみこと)・・弥勒仏
7伊奘諾尊(いざなきのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと))・・諾は金大日・冉は胎大日。(伊勢神宮では諾は金剛薩埵、熊野では諾は薬師、冉は千手観音。)
②地祇5代とは「地神五葉は、賢劫の四佛4(倶留孫仏・倶那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦仏)
に舎那(毘盧遮那)を加増へて五葉と為り・・(天地麗気記)」にあるようにさきの過去7仏の後半の仏と重なります。
1天照大神・・・毘盧遮那(胎大日、十一面観音・如意輪との別伝あり。熊野では十一面観音)
2天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)・・・倶留孫仏(熊野では地蔵菩薩)
3瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・・・倶那含牟尼仏(熊野では竜樹菩薩)
4彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・・・迦葉仏(熊野では如意輪観音)
5草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) ・・釈迦仏(熊野では聖観音))
・・この後、大内青巒はキリスト教の蔓延で皇室が危機に瀕するまえに仏教各宗派を大同団結して尊王奉佛大同団を設立することを宣言しています。
(大内 青巒は明治から大正にかけての仏教者。
16歳で原坦山の弟子となり、印可を受けています。20歳で明治維新に遇い、上京し西本願寺大津鉄然と交わり第21世宗主大谷光尊の侍講をつとめました。そのためか禅・念仏一致の考えで「禅は面白いところから入って、有難いところに徹底せねばならぬ。念仏は有難いところから入って面白いところまで徹底せねばならぬ。」といっていたということです(明治の仏教者)。島地黙雷・井上円了らとともに天皇崇拝を中心とする仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を結成し、曹洞宗の『修証義』も起草しています。前田慧雲の後を受けて東洋大学の学長にも就任しています。青巒は僧侶は戒律を守り肉食妻帯は避けよとの考えでした。この尊王奉佛論はキリスト教が皇室を廃することになるとして仏教中心の尊皇奉仏大同団を結成する時の論文です。キリスト教と天皇制との関係はいまでも相当デリケートでキリスト教徒の中には天皇制廃止論がいまも根強くあるのは大問題です。)
「・・抑も仏法が日本へはじめて渡りましたのは、人皇三十代欽明天皇の十三年十月に其の頃の交際國であった三韓の内の百済国王、餘聖明といふ方が公使に国書を持たせて我が国へ遣はされた。仏像・経論等を貢献したと歴史に書いてある。(『日本書紀』に「十三年冬十月、百済の聖明王、西部、姫氏達率怒□斯致契らを遣はし、釈迦仏に金銅像一躯、幡蓋若干,経論若干巻を献る・・」)・・・国書といふのは、国王の御手紙だが其の御手紙に「是の法は諸法の中に於いて最も殊勝となす。且つそれ天竺より三韓に及ぶ。又佛の記する所に、我が法は東流す云々」(日本書紀・欽明天皇の十三年十月に、「冬十月、百濟聖明王更名聖王、遣西部姬氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷。別表、讚流通禮拜功德云「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國流通畿內。果佛所記我法東流。」」と仰せられたから、三韓から東の方の日本へ渡るべきはずであると申すことを書いて遣はされた。欽明天皇おおひにこれを御喜びあそばされたが、そのころの大臣に蘇我稲目といふ人があって、物部尾輿といふ人と仲が悪かったのがもとで、議論がおこったによって其の仏像経論を蘇我稲目にお預けになったが其の仏像がいまの善光寺如来で、いまでも矢張り勅封の秘仏でございます。(「扶桑略記」(11世紀)の「善光寺縁起」では以下のように書かれています。「件の仏像は尤も是れ釈尊在世の時、毘舎離国月蓋長者、釈尊の教えに随って正に西方を向き、遥かに礼拝を致し、一心に弥陀如来・観音・勢至を持念す。その時、三尊は一搩手半に促身し月蓋門閫に現住す。長者、面に一佛二菩薩を見、忽ちに金銅を以て鋳写し奉る所の佛菩薩これなり。月蓋長者遷化の後、仏像空を騰び百済国に飛到す。已に一千年を経てその後、(欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来時に)本朝に浮来せり。」)
さてまた其の翌年は河内の茅渟の海といふところへ、おおきな樟木が流れてきたのを拾い上げ勅詔で仏像を刻ませられた。その仏像が今の吉野の世尊寺の本尊じゃ。
(注、日本書紀巻第十九 欽明天皇の条。治世14年夏5月
河内国から「泉郡の茅渟の海(大阪湾)から、雅楽の音が聞こえ、それは雷のように響くほどで、また、麗しく照り輝き日の光のようです」との報告があった。天皇はあやしんで、溝辺直(いけべのあたい)を使わし、海の中を探させた。溝辺直は海の中で照り輝く樟木を見つけ、これを取って持ち帰り、天皇に奉った。天皇は匠に命じて、仏像2体を造らせた。これが今の吉野寺に光を放っている樟の仏像である。
日本書紀巻第二廿 推古天皇三年三月 または 聖徳太子伝暦
土佐国の南海に毎夜、雷光のように光を発する「沈水香(じんすいこう)」という木があり、翌四月には、淡路島に漂着した。島人は、これを薪として火にくべたところ、非常に良い香りがしたので、天皇に献上した(香木の日本の史書における初見)。
これを見た聖徳太子は、この木が南海に自生する栴壇(せんだん)という香木からできた沈水香であると、天皇に奏上した。天皇は喜び、匠に命じて、この香木で観音像を作らせ、吉野の比蘇寺に祀った。この像は、時々光を放った。)
また其の翌年四月になると百済国王から今度は、道深と曇慧といふ二人の僧を送ってきた。これで仏法僧の三宝が揃ひました。その次の天子様が敏達天皇で人皇三十一代でありますが、ご即位七年目に天下に勅して毎月六歳日に放生を行わしむ、と歴史に書いてある。次が三十二代用明天皇でそのお子様が聖徳太子でありますが、三十四代推古天皇の摂政に立たせられて、この天皇の二年に勅詔を以て仏法を興隆せしめられ(日本書紀に「推古二年春二月丙寅朔、詔皇太子及大臣令興隆三寶。是時、諸臣連等各爲君親之恩競造佛舍、卽是謂寺焉」)、十二年の四月に十七条憲法を書かせられたのが日本で国家の規則が定まった濫觴で、神道も儒道のこの憲法でたしかに天下の法律と定められたので(一条は神道の「かんながらのみち」、三条等は儒教といわれる)・・その憲法の第二条目に「三宝とは仏法僧なり。四生の終皈にして万化の極宗なり。何の世、何の國としてかこの法に嚮はざらん」と書せられた。これがまず日本で仏教を広める基がたった最初でございます。かような訳で有りますから、我が国の仏教は最初から我が皇室の御物で、これを天下に弘めるときには天下の御規則すなわち法律に書載せて勅詔で弘められたのでございますから、いまこそ八宗九宗さまざまの宗派も分かれて祖師とか開山とか別々に立っておりますけれども、我が国仏教の惣祖師惣開山と仰ぐべきは聖徳皇太子でございますから、すなわち我皇室は我各宗派の惣本山と申しても宜しい訳であります。最初からかような大関係があるによって代々の天子様はいずれも深く仏教弘通に御心を励ませられ、なかんずく我が皇室の御中興とも申しあぐべき天智天皇及び聖武天皇桓武天皇などの御信仰はまた格別の事で、その御子孫の宇多天皇後宇多天皇様は全く持戒堅固の大僧にまで、御成り遊ばされたので御座いますから、仏教と皇室との関係に就いては実に重大なる御勅詔も多い中に別けて(聖武天皇は)天平十三年三月、護国(尊王)滅罪(奉佛)の二箇寺即ち国分寺を國各に建てさせられ、且つ御宸翰で寫させられた最勝王経を七重の塔に安置せしめられた時の勅詔に「代々の国王を我等の檀越となす。もし我寺興復すれば天下興復す。我等弊衰すれば天下弊衰す。(乃至)若し後代の聖主賢卿、この願を承け成ずることあれば乾坤福を致さむ。愚君拙臣此願を改め替れば神明訓を効さむ」(東大寺要録)と仰せられた。その後また後宇多天皇は二十五箇条の御遺詔を御宸翰で遊ばされた。その第三條に「わが後に血脈を継ぐの法資と天祚を傳ふるの君主と盛衰を同じふすべし。興替を伴にすべし。わが法断廃せば皇統それ廃せん。我が寺興復せば皇業安泰ならむ。努力や努力や。我がこの意に背いて悔ゆること莫れ。」と仰せられてある。わが仏教を廃する時は、我が皇統も廃するぞ、佛教と皇室とは盛衰を同ふするといふことを忘れて後悔せぬ様にせよ、と誠に恐れ入った御誓文でございます。・・いずれの宗旨でも開教の最初から尊王奉佛と推並べて弘まったものでございます。‥天台宗では傳教大師が桓武天皇の御洪業を補佐申し上げつつ、帝都の鬼門に比叡山を開き、皇城鎮護(尊王)一乗圓頓(奉佛)の道場で、其の寺の名は其の時の年号を其の儘に延暦寺と名けられたのがその宗旨の惣本山でございます。真言宗の惣本山は教王護国寺で、これは東寺と申す官立の寺を弘法大師に賜ったのであります。(高野山も嵯峨天皇から大師に与えられたもので、神護寺も「神護国祚真言寺」とし定額寺とされています。)禅宗の諸本山は大抵皆官立の寺で、殊に妙心寺や天龍寺などは全く離宮を其の儘に寺にせられたもので、越前の永平寺などは、承陽大師閑居の地であるけれども、それさえ勅願の道場と申すことに成りて、皇室の御直轄にせられたものであります。・・真宗のごときは王法為本の教えがあり、知恩院も本願寺もみな勅願の道場でありますから(蓮如上人の『御文章』(文明 13 年〈1481〉)には「そも. そも当寺のことはかたじけなくも亀山院・伏見院両御代より勅願所の宣をかうぶり. て他にことなる在所なり」)(知恩院は四条天皇から寺号「華頂山知恩教院大谷寺」を賜り、勅願所になっている。)いずれの宗派もみな皇室を大檀越として弘まったもので・・。昔は皇室の御会計が困難で・・本願寺が数萬円のお金を調達してさしあげて御即位式を行わせられたこともある。(後柏原天皇(15世紀)は践祚後22年間も即位式ができなかったが足利義稙・本願寺光重の援助で即位式をあげたられた。)それが本願寺を仁和寺のような天子様がお開きになった寺(仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和二年(886年)に建て始められた。その遺志を引き継いだ宇多天皇が仁和四年(888年)に落成。 宇多天皇は出家後、仁和寺に「御室」と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室(仁和寺)御所」とされる。)と同じように御門跡の列に加へられた因縁であります。‥現に今日でも、天台宗の妙法院、真言宗の仁和寺をはじめとして御門跡と称ふる寺々や御所號のある寺々二十八箇寺は、宮内省から永代録を賜はり、二百五十石以下、それぞれ等級があって毎年宮内省から石代をお渡しになる。又御菩提所の泉涌寺は相変わらず宮内省で何事も御世話なされ、すでに先年同寺が焼失した時も(泉涌寺のホームページには「現在の建物は明治十五年(1882)の炎上後、宮内省によって明治十七年に再建されたもの」とある)悉皆宮内省で御再建のお世話があり、御代々の御年祭や御例祭等のあるたびに霊明殿において法会を行わせらる(霊明殿には歴代天皇の位牌をお祀りしている)。また(東寺)真言院の御修法なども毎年一月八日から東寺へ勅使を差し向けられて、御衣の御加持を行わせられる(令和の現在もあり)。政教分離を主張する今日でも、国家は国家、皇室は皇室で、皇室と仏教は政治の他に重大な因縁があるので御座います。・・釈迦牟尼世尊の御遺訓にも、我が法を国王大臣に附嘱するとも仰せられて有り(仁王経『佛、般若をもって現在、未来世の諸の小国王等に付属してもって護国の秘法とす』)、殊に心地観経では、四恩と申して仏教徒が報謝せんければならぬ四通りの恩徳を御説なされた中にも、国王の恩を佛の恩と並べて御教へになってある(大乗本生心地観経報恩品「世出世の恩に四種あり。一に父母の恩。二に衆生の恩。三に國王の恩。四に三寶の恩。」)。
・・・古事記の神代の巻の一番最初に別天神と申す天地開闢の神のことが書いてあり、その次に天神七代の御話がありますが、(古事記・神代巻「天地初めて發けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、みな獨神と成りまして、身を隱したまひき。次に国稚く浮ける脂の如くして、海月なす漂えるとき、葦牙の如く萌え騰る物によりて、成りし神の名は宇摩志阿斯訶備比古遲神、次に天之常立神。この二柱の神もまた獨神と成りまして、身を隱したる。次に成りし神の名は、国之常立神、次に豊雲野神。この二柱の神もまた獨神と成りまして、身を隱したまひき。次に成りし神の名は、宇比地迩神、次に妹須比智迩神。次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能地神、次に妹大斗乃辨神。次に淤母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。」)その七代目の神を伊邪那岐命、伊邪那美命と申すので、このお二方の神がこの日本を開かせられたその上に、我が皇室の御先祖で‥天照皇大神を始め奉つり、我々人民の大先祖になった神々までも、皆お産み附け下されたので、其の天照皇大神が地神五代と申す中の初代であるが、ある時、天の安の河原に八百万の神と申して我々人民の先祖の神々をお集めになされて屡々大会議をお開きになり、この日本の国の主となるべき神は那方であろうかといふことを御評議あらせられたが、遂に瓊瓊杵尊が直に其の御位に御即き遊ばされた。これが地神の三代であるが(地神五代は順に、天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・火折尊・鸕鶿草葺不合尊)、天照皇大神がこの瓊瓊杵尊に勾玉と鏡と剣との三種の神器を御授なされ、且つ又天児屋命、布刀玉命フトダマノミコト、天宇受賣命アメノウズメノミコト、伊斯許理度売命イシコリドメノミコト、玉祖命タマノオヤノミコト、といふ五人の神々を御付添に成され、「この豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の國(くに)は、是、吾が子孫(うみのこ)の王たる可き国ぞ。汝ゆきて治めよ。寶祖の盛んなることは天壌とともに窮り無からむ」(日本書紀の「天壌無窮の詔勅」「この豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の國(くに)は、是(これ)、吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無(な)かるべし」)と仰せられたので御座います。この時に天の安の河原で集会した八百万の神といふのが我々一般人民の先祖で、御付添になった天児屋命などの五名の神は中臣とか忌部といふような古い役人の家柄の先祖でございます。さてこの次の地神四代が、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)五代目が鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)で、その御子が人皇第一代の神武天皇でございます。・・
我が仏教は道理を以て成り立った教理で歴史成立の教えではありませんから、どこの国へ弘まってもその国の歴史や王統などに少しも差し支えを起こしたことは御座いません。支那へひろまれば三皇五帝のままで、日本へ渡れば天神七代地神五代、いささか差し支えないばかりではない、我が日本では弘法大師などが、本地垂迹といふ説をたてて我日本の神々をその儘仏教の教義の上から礼拝できるように定められたものであります。(「天地麗気記(弘法大師)」にみる天照大神以前の根源神、天神7代、地祇5代の本地です。
①天神7代とは「 天神七葉は過去七佛(釈迦様出生以前の七仏)・・(天地麗気記)」にあることを勘案すると以下のように本地があると思われます。(なお「天地麗気記」等の他の記述も参考に本地を書きました。)
1国之常立神・・・大毘盧遮那仏(如意宝珠・浄菩提心の玉)
2国狭槌(くにのさつち)尊・・毘盧遮那仏
3豊雲野神尊・・・盧遮那仏
4埿土煑尊(うひぢにのみこと)・・毘婆尸仏。沙土煑尊(すひぢにのみこと)・・尸棄佛
5大戸之道尊(おおとのじのみこと)・・倶留孫仏。大戸之部尊・・毘葉羅仏(熊野では不動明王)。
6面足尊・・狗那含牟尼仏(熊野では釈迦如来、多聞天)惶根尊(かしこねのみこと)・・弥勒仏
7伊奘諾尊(いざなきのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと))・・諾は金大日・冉は胎大日。(伊勢神宮では諾は金剛薩埵、熊野では諾は薬師、冉は千手観音。)
②地祇5代とは「地神五葉は、賢劫の四佛4(倶留孫仏・倶那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦仏)
に舎那(毘盧遮那)を加増へて五葉と為り・・(天地麗気記)」にあるようにさきの過去7仏の後半の仏と重なります。
1天照大神・・・毘盧遮那(胎大日、十一面観音・如意輪との別伝あり。熊野では十一面観音)
2天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)・・・倶留孫仏(熊野では地蔵菩薩)
3瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・・・倶那含牟尼仏(熊野では竜樹菩薩)
4彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・・・迦葉仏(熊野では如意輪観音)
5草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) ・・釈迦仏(熊野では聖観音))
・・この後、大内青巒はキリスト教の蔓延で皇室が危機に瀕するまえに仏教各宗派を大同団結して尊王奉佛大同団を設立することを宣言しています。