福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本、(岡本かの子)より・・その14

2014-02-20 | 法話

第一四課 涙の価値


 物事をいい加減にしていれば涙はありません。苦しくないからです。物事を真面目に考えて、まともに向うと涙があります。苦しいからです。
 なぜ、いい加減にしていれば苦しくなく、真面目になると苦しいのでしょうか。
 いい加減にしていると、矛盾も矛盾に見えず、より良きものが眼につかないからです。今の状態でもどうやらお茶が濁せるからです。それで苦しくありません。
 反対に、真面目になって、まともに向うと、矛盾が目につき、より良きものが望まれ、現状にひどい不満を感じて来るからです。それで苦しみます。
 人間にあって、何が一番深刻な矛盾であって、いつが一番より良きものを望む時でしょうか。仏教にあっては、私たちの内部に「菩提(梵語 〔Bodhi〕 の漢音訳で「覚さとり」の義)心」が蠢うごめくときがそれであるといたします。
「菩提心」とは何でしょうか、自分を良くし、人も良くしようという願い心です。自分も、この上もない智慧を開いて円満無欠な人格に到達し、人も同じくその幸福にあらしめようと願う心であります。
 そんな遠方なものを望んで、今日只今の、この苦しみ、この涙があるのかと不思議がられる方があるかも知れません。そうです、あるのです。事情や形は、さまざまに変っていても、その苦しみ、その涙が、真面目なものである限り、その底には、きっと、「菩提心」が蠢いているのです。

 良心というものは時代によって変り、周囲の情勢によって変ることもあります。自分の肉体の貞操を売っても、夫へ心の貞操を捧げるのを良しと認めた封建時代の女性の良心は、もう今日の女性の良心ではありません。しかし「菩提心」は、時代により情勢によって変るものではありません。人間がある限り、その中に在ってその発展の方向を示し、これを浄化推進して行く羅針盤兼、白血球であります。
 白血球というものは、悪い黴菌が潜入するとき血液内に待受けていて喰い殺す役目を勤める肉体の保護者です。私たちはそれが居るとは知らずに、血液を浄化されています。私たちは菩提心ありとは知らずに、心の清純を保たされています。
 もし良心が時代時代において、道徳維持の適応性を持って来たとしたなら、その良心をしてそうあらしめたものは、その底にある「菩提心」です。
 自動車が走っているとき曲り道の急角度カーヴに出会うと運転手は急に制動機ブレーキをかけます。あの強い反動と、歯止めの軋きしる音は、今まで快速力を楽しんでいた乗客には、かなり不快なことに違いはありません。しかしそのため乗客は生命を救たすかります。
 私たちが、生活という自動車に乗って、人生の路を気ままに走っているとき、過ちの曲り角へ来ると、「菩提心」は急に制動機をかけます。そのとき身に感ずる強い反動が苦しみで、歯止めの軋る音が涙です。しかし、そのため心の生命は救かります。

(ここでいう菩提心とは「仏性」の事とおもいます、一切衆生悉有仏性といいますがわれわれの心の奥底には共通にこの仏性即ち菩提心が眠っていることは確かなのです。それが我々をみちびいてくれているのです。本当に貴いことと思える時があります。「正法眼蔵・発菩提心」には「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに、一切衆生の導師なり」とあります。講元)

 私たちを苦しみや涙が誘うとき、それを徒然なおざりにせず、その原因を深く辿って行くとき必ずこの心の発露に出会います。そしてその心の指図によって新しく正しき人生の方向を執ります。方向転換のときはさすがに辛くあります。しかし、それを越すと何か真直なものに沿うて行く気がして心は軽く確かになります。
 故に涙は反省の機会、余滴です。人生航路の方向の検査水準です。この貴い価値を使わねばなりません。
「生の苦しみ」という事があります。旧き生から新しき生を生み出すときには、必ず苦悩があります。涙があります。樹が芽を吹くとき、樹の皮に現れるものはまず疵です。苦悩です。次に樹脂――つまり涙です。そして新しい生なる五月の新緑が芽生えます。
 わざわざ疵をつけて涙の価値を取出すことさえこの世の中にはあります。たとえば、ゴムです。ゴムは、ゴムの樹が幹に疵をつけられて苦しさのあまりにじみ出した樹の涙です。涙であるが故にゴムは柔かく、しかも、ねばり強く、辛抱強くあります。
 涙の価値を払って、人生の意義を求める道理を人格化して、仏教で説いたものに、常啼じょうたい菩薩(常啼菩薩は七日七夜泣き続け、遂に道を得ました〔智度論〕)というのがあります。私たちは真面目になればなるほど、一面、常啼菩薩です。

(講元・・人生の不条理に泣き、同時に人生の有難さに泣く、涙は止まることはありません。『大智度論』巻96「薩陀波崙品巻八十八」の常啼菩薩のところをだしておきます。
「問うて曰く「何を以てか薩陀波崙(薩陀は秦に常波といい、崙は啼と名づく)と名づくる      や。是れ父母がために名字を作すがためなりや、是れ因縁にて名字を得たるや」と。
答えて曰く、有る人の言く「其の小時に喜んで啼きしをもっての故に常啼と名づく」        と。
有る人の言く「この菩薩は大悲心を行じて柔軟なるが故に、衆生が悪世に在りて貧窮         し、老病し、憂苦するを見て,これがために悲泣す。是の故に衆人号して『薩陀波崙』        となす」と。
有る人の言く「是の菩薩は仏道を求むるが故に人衆を遠離し、空閑の処にあって、心の        遠離を求め、一心に思惟籌量して、仏道を勤求せん。時に世に仏無し。是の菩薩、世世        に慈悲心を行ずるも、因縁小さきを以ての故に、無仏の世に生ず。是の人は悲心もて衆生に於いて、精進して失わざらんと欲す、是の故に空閑林の中にあり。是の人、先世の福徳の因縁、及び今世の一心を以て大欲、大精進す。是の二の因縁を以ての故に、空中に教声を聞き、久しからずして便ち滅せり。即ち復た心に念えらく『我、云何ぞ問わざりし?』と。是の因縁を以ての故に、憂愁啼哭すること七日七夜す。是の因の故に、天、龍、鬼神、号して曰く『常啼』」と。)
    

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