福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観佛による修養

2020-05-23 | 諸経
観佛による修養(密教の生活・栂尾祥雲)

「・・観佛による修養
本当の我を生きたままの姿にて把握する方法として密教には瑜伽三摩地の直観法がある。・・倶舎論についてみても、念力が心統一の定力を生じ定力が事物を如実に照見し直観する正慧を生ずるのであるからこの定慧を体とする瑜伽三昧地法には必ず正念の修練といふことがなくてはならぬ。(阿毘達磨倶舍論巻第二十五に「念根念力念覺支正念以念爲體」。)さればこそ阿含経などでは念仏・念法・念信の三念に、念施・念戒・念天を加えたる六念、更にそれに念休息・念安般・念身・念死を加えたる十念を説き、この正念の力によりて種々の邪念乱想を除き遂には沙門果を証し、涅槃を得るに至ることを強調しておる。(増一阿含経巻一に「孤獨長者所施園時佛在中告比丘 當修一法專一心思惟一法無放逸 云何一法謂念佛念法念僧念及戒念 施念去相次天念息念安般及念身念死・・此名十念」)この中では念仏がもっとも重要なものでこれが「般舟三昧経」や「坐禅三昧経」等の種々の経典に力説されて居る。(坐禪三昧經・第五治等分法門「第五法門治等分行。及重罪人求索佛。如是人等當教一心念佛三昧。念佛三昧有三種人或初習行。或已習行。或久習行。若初習行人。將至佛像所。或教令自往諦觀佛像相好。相相明了。一心取持還至靜處。心眼觀佛像。令意不轉繋念在像不令他念。他念攝之令常在像。・・・」
・・羅什訳の「思惟略要法」では「人の自ら信ずること眼に過ぎたるはなし。當に好像を観じ真佛の如くせよ」といひ(思惟略要法 「念人之自信無過於眼當觀好像便如眞佛先從肉髻眉間白毫下至於足從足復至肉髻如是相相諦取還於靜處閉目思惟繋心在像・・」)、また佛駄跋陀羅訳の「観佛三昧海経」では「如来の滅後、多くの衆生あって佛を見ざるを以ての故に諸の悪事をなす。かくの如きの人、當に像を観ずべし。若し像を観ずる者は我が身(仏身)を観ずるに等しく異りあることなし」と(「佛告彌勒。阿逸多。諦聽諦聽善思念之。如來滅後多有衆生。以不見佛作諸惡法。如是等人當令觀像。若觀像者。與觀我身等無有異」)
。「観佛三昧海経」では、観佛法の詳細を極めており、それによると、仏像の足指より初めて次第に俯観し佛頂上の肉髻に至るを逆観とし、佛の肉髻より初めて次第に眉間・鼻・口乃至足指に至るを順観とす。この順逆二法によりて三十二相八十種好の相々を諦取し心を仏像にかけて余念なく目を閉じても目を開いても常に佛の色身が現前するようにするのである。かくて一像を観じ終われば二像、三像、五像、十像、乃至十方至る所に無数の仏像を観じ開目・閉目、心念をして想々絶えざらしめ自らの前後左右、仏像を以て充たさるることを観ずるのである。ただに静座せる仏像を観ずるのみでなく、さらに進んでは起立し行動せる仏像を思念し、その仏像の眉間より白光を放ち遍く十方一切を照らすと共にその白光の中に千百億の化佛を示現しその化佛が千百億の国々に分かれて一切衆生を摂化するのであるから「一仏を礼すれば即ち一切佛を礼し、一仏を思惟すれば即ち一切佛を見る」(佛説觀佛三昧海經・念十方佛品第十一「我今禮一佛即禮一切佛。若思惟一佛即見一切佛。見一一佛前有一行者。接足爲禮皆是己身。若以一華供養佛時。當作是念。諸佛法身功徳無量。」)この觀佛三昧海經は華厳経を背景としているがこの華厳経に負う所が多い「初会金剛頂経」において三十七尊の各々が光明を放って十方に化佛を示現し種々の行化を垂れたるのち、聚って一体となり一仏となる。・・しかし金剛頂経は歴史上の釈尊でなく法身大日如来が一切のものを照らし一切のものを生かし種々様々のものを種々様々の世界に創造しているので十方一切の諸仏はこの法身大日如来の化現に外ならないのである・・。この不空三蔵の見地に立ち門下たる飛錫は「普敬普佛」の思想を昂揚し現見の事々物々、いつ゛れも法身大日如来の顕現ならざるはないと同時に、これをその本質の上より見る限り一として佛でないものはない。従って現在の凡夫も何れは佛になるものでありそれがそのまま未来佛に外ならないのであるからこれを凡夫なりとして軽賎してはならぬ。一切を軽視せざること,法華経所説の不軽菩薩の如くでなくてはならぬとし、「普観十方尊、同念三世佛」の広範なる念仏観を強調しているのである。
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