1271(文永8年)「御嵯峨法王・・異国降伏の御祈祷、諸寺諸社に始められ、当宮(石清水八幡)には三月五日より浄行の僧四十五人を以て毎日仁王講を行ぜられ、同十三日四日には善法寺長老実相房・法園寺長老中道房を先となし、持戒の浄侶三十人を以て大般若経を転読される。結願にあたって金泥の大般若供養あり。導師は実相上人、請僧三十口は社僧なり。・・・(八幡愚童記)」
1273(文永10年)2月叡尊は、伊勢内宮禰宜荒木田親倫(あらきだちかみち)の進めに従って伊勢神宮に参拝、蒙古来襲に備え異国退散の祈祷を行う。(金剛仏子叡尊感身学正記等)
1274(文永11年)3月蒙古襲来(文永の役)十月二十日蒙古軍博多着即退散。(金剛仏子叡尊感身学正記等)
1274、一遍上人、熊野権現に参籠時、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける(一遍聖絵)。
1275(文永12年)改元建治元年丁亥、叡尊75歳、「伊勢大神宮に二度目の御参詣、関東極楽寺比丘忍性、宋本大般若経一部、鎌倉より船に乗せ先に伊勢國鳥羽郡に着す。当國守護の沙汰の為に菩提山に運送。そのほか西大寺の沙汰のため、図絵両界種子曼荼羅ならびに釈迦三尊十六善神像、又摺寫新訳仁王経十部、梵網経一部、書写瑜祇大雲孔雀理趣経、持参。怖蒙古人重來征の故に。・・(金剛仏子叡尊感身学正記)
七月、叡尊は僧衆百余人を率いて河内の「枚岡(ひらおか)神社」に参拝し、大般若経転読講讃、心経千巻、呪一万辺、理趣三昧,仁王会奉納。
ついで八月、住吉神社にて同じく大般若経・華厳経・大品般若経・法華経・涅槃行を転読講讃。(金剛仏子叡尊感身学正記)
1279、「南都西大寺興正菩薩(叡尊)傳・・・弘安二年秋七月、蒙古兵船大宰府に至る。後宇多帝上邦侵逼を慮り、すなわち百官を集め、其の事を議す。僉(せん)して曰く「佛法力によらずば伏べからず。」ここにおいて師(興正菩薩叡尊)に勅す。師勅を奉じて教興寺に屆き、衆を集め、仁王会を建ち、兼ねて千手千眼経を講ず。神妙章句外国怨敵即自降伏各政治國土に還るに至るようにと。師之を読むこと三度に至る。時に千手大士の像より大光明を放ち、四天王動くこと生身のごとし。満座の僧俗このため驚嘆す。また比丘八百余人を率いて、城州男山八幡宮にいたり、七日間の仁王会を開き、及び愛染明王法を修す。期満日にあたり、山岳揺動、殿の扉自ずから八宇に開く。殿中に声あり。曰く。上人外族を降さんがため大法を勤修す。吾まさに祐佐すべし。言い終わって一箭自ずから殿中より出で光を放って西に去る。その響き雷の如し。尋ねれば素旗三首また殿より出図。一には「妙法蓮華経」の五字あり。一には「大般涅槃経」の五字あり。一には「唯識三十頌」の五字あり。字字におのおの金光を放ちまた西をさして去り、にわかに猛風大起し電砕け雷奔る。大雨河を傾ける。ここにおいて在会の僧俗争って未曾有のことなりと嘆く。このときにあたり、西海に波二十余丈に騰す。兵船数万一時に没す。宇佐大神託して曰く、西大思円上人(興正菩薩)国家のため禳災を欲し、男山に就いて法会を開く。これにより、六六州諸の神祇みな大宰府にいたる。今夜子の刻まさに兵船覆滅のときなり。師の道力かくの如し。・・・七年夏四月帝・・勅して(興正菩薩叡尊が)輿にのりて禁中にいるを許す。・・・」
1275(建治元年)3月叡尊は再び「伊勢神宮」に参宮し、「西大寺」から持参した図絵両界種子曼荼羅・釈迦三尊十六善神像・摺写(しょうしゃ)新訳仁王経十部・梵網経一部その他を奉納して、異国降伏を祈る、叡尊は伊勢の内宮を胎蔵界曼荼羅、外宮を金剛界曼荼羅としてとらえた。
1280(弘安3年)3月叡尊は三たび僧衆を率いて「伊勢神宮」に参宮し、まず「内宮」に参り、ついで「風宮(かぜのみや)」で一禰宜延季(いちノねぎのぶすえ)と会う、 その際一人の巫女に託宣があって、「今度の異国の難ならびに天下泰平・仏法繁昌のための祈願神慮にかない、成就疑いなし」という。
1281、石清水八幡宮で叡尊の蒙古退散の祈祷、「金剛仏子叡尊感身学正記」の記述、「・・・弘安四年(1281年)辛巳(叡尊)八十一歳、七月廿二日、浄住寺に参る。行阿比丘了意房先立ち入寺す。また来謁して曰く、廿六日より異国之用害を脱する為、本朝之静謐を祈る。南北二京の持斎僧を八幡宮に発勧請し、七日七夜不断に尊勝陀羅尼の願を唱念すべし。門徒を率いて参勤すべし云々と。・・叡尊は老衰にて勤行に不堪ず。本寺において不共の行をせんと。行阿比丘了意房曰く、若し参勤難ければ一門の僧百人に共奉せしむべし云々。即ち同法を触れ、評定せしめて云う。趣して曰く、異国来征事は我朝の大事なり。何事か之に如かん。然れば今年衆僧別人と雖も、随分の祈請を致す。至誠懇切の心、発しがたし。一門の僧衆皆霊所に参じ、一味和合不断勤修せんとす。尤も所庶幾若爾者。たとえ陀羅尼満足ならずといえども、宿所に参住云々。仍領状畢。即ち同法等、飛脚をもって諸寺に相触れおのおの同心す。廿六日、三百余人八幡宮に参加、亥時に発願、陀羅尼の間、毎日十二時に供養法在り。其後、行阿了意房曰く、「廿九日、比丘布薩者は、便宜の所において、各々行ぜられるといえども、卅日梵網布薩者は大菩薩の御前にて、南北和合行事所望されるなり云々。もとより在家出家和合の布薩であるからもっともしかるべき旨返答しおわんぬ。よって廿九日、比丘布薩をし、便宜所勤行おわんぬ、卅日、梵網布薩を行ぜんとす、大雨降る故に延引、閏七月一日、南北二京僧五百六十余人、宝前に集会し、一味和合し勤行す。叡尊説戒す。説戒終んぬ。おそれながら述懐す、「即ち平城御宇御託宣をもって、戎難を訴え申す。大菩薩においては、東風をもって兵船を本国に吹送されたし。来人を損ずして、所乗之船を焼失されたし云々」。即ち久しからずして大風吹出、雷鳴声発、西にむかって去る。神諾かと存じたてまつる。三日初夜、陀羅尼結願畢りぬ。四日、奉転読最勝王経百部、仁王経百部、大般若経一部畢りぬ。夕方、院宣下され、明日より一切経転読の旨載せらる。・・九日、民部大夫政康使者をもって示して曰、異国の兵船、去一日、大風皆破損おわんぬ云々・・」
『律苑僧宝伝』にも興正菩薩叡尊の祈祷がでています。
「南都西大寺興正菩薩傳・・・弘安二年秋七月、蒙古兵船大宰府に至る。後宇多帝上邦侵逼を慮り、すなわち百官を集め、其の事を議す。僉(せん)して曰く「佛法力によらずば伏べからず。」ここにおいて師(興正菩薩)に勅す。師勅を奉じて教興寺に屆き、衆を集め、仁王会を建ち、兼ねて千手千眼経を講ず。神妙章句外国怨敵即自降伏各政治國土に還るに至るようにと。師之を読むこと三度に至る。時に千手大士の像より大光明を放ち、四天王動くこと生身のごとし。満座の僧俗このため驚嘆す。また比丘八百余人を率いて、城州男山八幡宮にいたり、七日間の仁王会を開き、及び愛染明王法を修す。期満日にあたり、山岳揺動、殿の扉自ずから八宇に開く。殿中に声あり。曰く。上人外族を降さんがため大法を勤修す。吾まさに祐佐すべし。言い終わって一箭自ずから殿中より出で光を放って西に去る。その響き雷の如し。尋ねれば素旗三首また殿より出図。一には「妙法蓮華経」の五字あり。一には「大般涅槃経」の五字あり。一には「唯識三十頌」の五字あり。字字におのおの金光を放ちまた西をさして去り、にわかに、猛風大起し電砕け雷奔る。大雨河を傾ける。ここにおいて在会の僧俗争って未曾有のことなりと嘆く。このときにあたり、西海に波二十余丈に騰す。兵船数万一時に没す。宇佐大神託して曰く、西大思円上人(興正菩薩)国家のため禳災を欲し、男山に就いて法会を開く。これにより、六六州諸の神祇みな大宰府にいたる。今夜子の刻まさに兵船覆滅のときなり。師の道力かくの如し。・・・七年夏四月帝・・勅して(興正菩薩が)輿にのりて禁中にいるを許す。・・・」
1273(文永10年)2月叡尊は、伊勢内宮禰宜荒木田親倫(あらきだちかみち)の進めに従って伊勢神宮に参拝、蒙古来襲に備え異国退散の祈祷を行う。(金剛仏子叡尊感身学正記等)
1274(文永11年)3月蒙古襲来(文永の役)十月二十日蒙古軍博多着即退散。(金剛仏子叡尊感身学正記等)
1274、一遍上人、熊野権現に参籠時、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける(一遍聖絵)。
1275(文永12年)改元建治元年丁亥、叡尊75歳、「伊勢大神宮に二度目の御参詣、関東極楽寺比丘忍性、宋本大般若経一部、鎌倉より船に乗せ先に伊勢國鳥羽郡に着す。当國守護の沙汰の為に菩提山に運送。そのほか西大寺の沙汰のため、図絵両界種子曼荼羅ならびに釈迦三尊十六善神像、又摺寫新訳仁王経十部、梵網経一部、書写瑜祇大雲孔雀理趣経、持参。怖蒙古人重來征の故に。・・(金剛仏子叡尊感身学正記)
七月、叡尊は僧衆百余人を率いて河内の「枚岡(ひらおか)神社」に参拝し、大般若経転読講讃、心経千巻、呪一万辺、理趣三昧,仁王会奉納。
ついで八月、住吉神社にて同じく大般若経・華厳経・大品般若経・法華経・涅槃行を転読講讃。(金剛仏子叡尊感身学正記)
1279、「南都西大寺興正菩薩(叡尊)傳・・・弘安二年秋七月、蒙古兵船大宰府に至る。後宇多帝上邦侵逼を慮り、すなわち百官を集め、其の事を議す。僉(せん)して曰く「佛法力によらずば伏べからず。」ここにおいて師(興正菩薩叡尊)に勅す。師勅を奉じて教興寺に屆き、衆を集め、仁王会を建ち、兼ねて千手千眼経を講ず。神妙章句外国怨敵即自降伏各政治國土に還るに至るようにと。師之を読むこと三度に至る。時に千手大士の像より大光明を放ち、四天王動くこと生身のごとし。満座の僧俗このため驚嘆す。また比丘八百余人を率いて、城州男山八幡宮にいたり、七日間の仁王会を開き、及び愛染明王法を修す。期満日にあたり、山岳揺動、殿の扉自ずから八宇に開く。殿中に声あり。曰く。上人外族を降さんがため大法を勤修す。吾まさに祐佐すべし。言い終わって一箭自ずから殿中より出で光を放って西に去る。その響き雷の如し。尋ねれば素旗三首また殿より出図。一には「妙法蓮華経」の五字あり。一には「大般涅槃経」の五字あり。一には「唯識三十頌」の五字あり。字字におのおの金光を放ちまた西をさして去り、にわかに猛風大起し電砕け雷奔る。大雨河を傾ける。ここにおいて在会の僧俗争って未曾有のことなりと嘆く。このときにあたり、西海に波二十余丈に騰す。兵船数万一時に没す。宇佐大神託して曰く、西大思円上人(興正菩薩)国家のため禳災を欲し、男山に就いて法会を開く。これにより、六六州諸の神祇みな大宰府にいたる。今夜子の刻まさに兵船覆滅のときなり。師の道力かくの如し。・・・七年夏四月帝・・勅して(興正菩薩叡尊が)輿にのりて禁中にいるを許す。・・・」
1275(建治元年)3月叡尊は再び「伊勢神宮」に参宮し、「西大寺」から持参した図絵両界種子曼荼羅・釈迦三尊十六善神像・摺写(しょうしゃ)新訳仁王経十部・梵網経一部その他を奉納して、異国降伏を祈る、叡尊は伊勢の内宮を胎蔵界曼荼羅、外宮を金剛界曼荼羅としてとらえた。
1280(弘安3年)3月叡尊は三たび僧衆を率いて「伊勢神宮」に参宮し、まず「内宮」に参り、ついで「風宮(かぜのみや)」で一禰宜延季(いちノねぎのぶすえ)と会う、 その際一人の巫女に託宣があって、「今度の異国の難ならびに天下泰平・仏法繁昌のための祈願神慮にかない、成就疑いなし」という。
1281、石清水八幡宮で叡尊の蒙古退散の祈祷、「金剛仏子叡尊感身学正記」の記述、「・・・弘安四年(1281年)辛巳(叡尊)八十一歳、七月廿二日、浄住寺に参る。行阿比丘了意房先立ち入寺す。また来謁して曰く、廿六日より異国之用害を脱する為、本朝之静謐を祈る。南北二京の持斎僧を八幡宮に発勧請し、七日七夜不断に尊勝陀羅尼の願を唱念すべし。門徒を率いて参勤すべし云々と。・・叡尊は老衰にて勤行に不堪ず。本寺において不共の行をせんと。行阿比丘了意房曰く、若し参勤難ければ一門の僧百人に共奉せしむべし云々。即ち同法を触れ、評定せしめて云う。趣して曰く、異国来征事は我朝の大事なり。何事か之に如かん。然れば今年衆僧別人と雖も、随分の祈請を致す。至誠懇切の心、発しがたし。一門の僧衆皆霊所に参じ、一味和合不断勤修せんとす。尤も所庶幾若爾者。たとえ陀羅尼満足ならずといえども、宿所に参住云々。仍領状畢。即ち同法等、飛脚をもって諸寺に相触れおのおの同心す。廿六日、三百余人八幡宮に参加、亥時に発願、陀羅尼の間、毎日十二時に供養法在り。其後、行阿了意房曰く、「廿九日、比丘布薩者は、便宜の所において、各々行ぜられるといえども、卅日梵網布薩者は大菩薩の御前にて、南北和合行事所望されるなり云々。もとより在家出家和合の布薩であるからもっともしかるべき旨返答しおわんぬ。よって廿九日、比丘布薩をし、便宜所勤行おわんぬ、卅日、梵網布薩を行ぜんとす、大雨降る故に延引、閏七月一日、南北二京僧五百六十余人、宝前に集会し、一味和合し勤行す。叡尊説戒す。説戒終んぬ。おそれながら述懐す、「即ち平城御宇御託宣をもって、戎難を訴え申す。大菩薩においては、東風をもって兵船を本国に吹送されたし。来人を損ずして、所乗之船を焼失されたし云々」。即ち久しからずして大風吹出、雷鳴声発、西にむかって去る。神諾かと存じたてまつる。三日初夜、陀羅尼結願畢りぬ。四日、奉転読最勝王経百部、仁王経百部、大般若経一部畢りぬ。夕方、院宣下され、明日より一切経転読の旨載せらる。・・九日、民部大夫政康使者をもって示して曰、異国の兵船、去一日、大風皆破損おわんぬ云々・・」
『律苑僧宝伝』にも興正菩薩叡尊の祈祷がでています。
「南都西大寺興正菩薩傳・・・弘安二年秋七月、蒙古兵船大宰府に至る。後宇多帝上邦侵逼を慮り、すなわち百官を集め、其の事を議す。僉(せん)して曰く「佛法力によらずば伏べからず。」ここにおいて師(興正菩薩)に勅す。師勅を奉じて教興寺に屆き、衆を集め、仁王会を建ち、兼ねて千手千眼経を講ず。神妙章句外国怨敵即自降伏各政治國土に還るに至るようにと。師之を読むこと三度に至る。時に千手大士の像より大光明を放ち、四天王動くこと生身のごとし。満座の僧俗このため驚嘆す。また比丘八百余人を率いて、城州男山八幡宮にいたり、七日間の仁王会を開き、及び愛染明王法を修す。期満日にあたり、山岳揺動、殿の扉自ずから八宇に開く。殿中に声あり。曰く。上人外族を降さんがため大法を勤修す。吾まさに祐佐すべし。言い終わって一箭自ずから殿中より出で光を放って西に去る。その響き雷の如し。尋ねれば素旗三首また殿より出図。一には「妙法蓮華経」の五字あり。一には「大般涅槃経」の五字あり。一には「唯識三十頌」の五字あり。字字におのおの金光を放ちまた西をさして去り、にわかに、猛風大起し電砕け雷奔る。大雨河を傾ける。ここにおいて在会の僧俗争って未曾有のことなりと嘆く。このときにあたり、西海に波二十余丈に騰す。兵船数万一時に没す。宇佐大神託して曰く、西大思円上人(興正菩薩)国家のため禳災を欲し、男山に就いて法会を開く。これにより、六六州諸の神祇みな大宰府にいたる。今夜子の刻まさに兵船覆滅のときなり。師の道力かくの如し。・・・七年夏四月帝・・勅して(興正菩薩が)輿にのりて禁中にいるを許す。・・・」