第一二課 衣食住
仏教を非常に消極的なものに考えて衣、食、住のごときも貧弱一方にするのが功徳のように思っている人があります。これは誤っています。むろん奢り贅沢はいけませんが、身分不相応な切り縮め方をして、子供や使っている人を、営養不良色にして得意になっているのは、これまた贅沢の一つです。吝嗇贅沢といいます。
一口にいえば、適時、適処、適事情の三つの条件に当てはまるのがよろしいのです。
専門家の僧は、人から寄附を受けて生命を支え、専ら修業に努力するのが生活の建前ですから、なるたけ寄附する人の負担を軽くするため、また、修業を妨げぬため、極力生活を切り詰めました。釈尊時代は着物なども、死人の着たものなどを貰って来て、それも下着に、上衣に、式着の三枚しか持たないのが僧団の規則だったようです。(六物といって比丘は三衣一鉢、漉水囊(ろくすいのう)(飲水から虫を除くための水こし)と坐具(敷物)の六つのみ所有が許されました、鉢作法の伝授を受けたことがありますが大変ありがたいものでした。鉢には無量の功徳を生む力があります、講元)。
しかし、それさえ像法時代といって、人々を眼で見ることから、崇高な感じを起させ、道に入れなければならない時代になって来ると立派な寺院を造り、立派な仏具を用いて説法の助けにしました。弘法大師なぞは工芸美術の学校を建てて大いに芸術を利用しようとしました。
今日は末法時代といって仏教の弘通にまたひと工夫要る時代となっております。
とにかく、そういうわけで専門家の方でさえ、時に応じ、所に応じ、事情に応じて善処することになっていますから、私たちいわゆる在家のものはなおさら生活様式は時代の適応性を考えなければなりません。
洋装が便利だったら洋装も結構でしょうし、洋食、支那食がカロリーが多かったらそれもよろしいでしょう。ただ生活様式というものは便利一方のものでなく、趣味からも相当精神に影響を及ぼすものですから、私たち日本民族の一員として、その心を養成して行けるような長所のあるものは、生活の要かなめとして衣、食、住の様式の中にますます発達さして行きたいと思います。
ここに至って昔、日本で使われた「和魂漢才わこんかんさい」とか「温故知レふるきをたずねあたらしきをしる」とかいう言葉が観られます。西洋の言葉では「新保守主義ネオ・コンサーヴァチズム」とか「新古典主義ネオ・クラシシズム」とかいうものでしょう。
時に適するようとは、大きくは今日の非常時に適し、小さくは毎日のその時々に適するよう、気配り、工夫が要るということです。国の財政に赤字が多く、外国為替がとても高価いときに、外国品を好んで買うことなぞはいかがなものでしょう。松茸のたくさん出る季節に竹の子の鑵詰をむやみに開けるなぞはいかがなものでしょう。所に適するとは場所場所に応じた気配り工夫が要るということです。いわゆるいたにつくということです。母の会へ芝居行きの着物はいかがなものでしょう。ピアノを外套掛けと並べて玄関口に据えるなぞはいかがなものでしょう。
事情に応ずるとは、事情にちょうど振向いた処置捌きが必要だということです。失業している人の奥さんに昇任の話なぞは禁物でしょう。子供の大勢ある家へ頭数に足りないメロンの贈物なぞは気が利かないでしょう。
兎に角あらゆる物事に五分の隙もなく、ぴたりぴたり当て嵌って行くその自由さ適当さ、これが仏教にこなれた人の働きの理想であります。観音菩薩に三十三身あるというのもその事で、三十三身とは、数を約めた譬えで、実は人間の心の働きは無数無限の方面があって、決して行き詰まることはない。その徳能を磨いて行くのが仏教の実地の修業であります。これが完全に出来れば私たち自身が観世音菩薩であります。それが出来ないうちは、その理想人格、観音さまを拝して導きを受けるのであります。(観音様の三十三身は無限の救いの働きのお姿を示しているというのはその通りで、これがまさに覚りの姿なのでしょう、無限に変化して利他行に努めるということです。)