福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「般若心経講義・高神覚昇」をもとに・・5

2016-07-19 | 法話
第五講 空に徹するもの

是故空中無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。


 新緑の世界 いつのまにか花の春も去って、若葉青葉に燃ゆる、すがすがしい新緑の世界になりました。武蔵野に住む私どもにとっては、きょうこのごろが一年じゅうでいちばん恵まれた時候です。ところで、この新緑五月のころになると、いつも私どもの頭に浮かんでくるのは、あの有名な、


眼に青葉 山ほととぎす 初鰹はつがつお


 という句です。説明なしでも、もはや、日本人ならば何人にも十分にわかる句でありますが、これといっしょに新緑のころになると、いつも私の思い起こす句は、あの


衣更がえ手につく藍あいの匂においかな


 という句です。これは衣更えの、新しい、すがすがしい気分を、最も巧みに表わしていることばだと思います。本日はこの二つの句を契機きっかけといたしまして、いささか『心経』の心を味わってゆきたいと思います。
 さて、お経の本文は、
「是この故に、空の中には色もなく、受、想、行、識もなく、眼、耳、鼻、舌、身、意もなく、色、声、香、味、触、法もなく、眼界もなく、乃至ないし、意識界もなし」
 というのであります。この一節は、仏教の世界観を物語る「三科がの法門」すなわち「蘊」「処」「界」の三種の方面から、「一切は空なり」ということを、反覆くりかえして説いたものであります。ところで、まず「蘊」ということですが、いうまでもなく蘊とは五蘊のことです。もっとも、この五蘊のことは、すでにたびたび申し上げた通り、私たち(我)をはじめ、私たちの世界(我所)を構成している五つの元素です。すなわち眼に見、耳に聞き、鼻に嗅かぎ、舌に味わい、身に触れることのできる一切の客観の世界は、ことごとくこの「色」の中に摂おさまるのです。次に五蘊の中の「受」「想」「行」「識」の四は、意識こころの作用で、すべて主観に属するものです。しかも、主観の主観ともいうべきものは、第四の識であって、この意識が、客観の「色」と交渉し、関係することによって、生ずる心象こころのすがたが、受と想と行との三であります。したがって「五蘊は空」だということは、つまり、世間にある一切の存在ものはみんな空だということになるのであります。ゆえに「空の中には色もない、受、想、行、識もない」といえば、私どもも、私どもの住んでいる世界も、つまり、一切のものはすべて空なる状態にあるのだ、ただ因縁によって仮に有るものであるから、執着すべき何物もない、ということになるわけであります。

 次に「処」とは、十二処ということで、「六根」と「六境」といったものです。ところでその六根とは、あの富士山や御嶽おんたけ山などへ登る行者たちが、「懺悔さんげ懺悔、六根清浄(こんしょうじょう)」と唱える、あの六根で、それは眼、耳、鼻、舌、身の五官、すなわち五根に、「意根」を加えて六根といったので、つまり私どもの身と心のことです。別な語でいえば心身清浄ということが六根清浄です。そこで、この「根」という字ですが、昔から、根とは、識を発おこして境を取る(発識取境はっしきしゅきょう)の義であるとか、または勝義自在しょうぎじざいの義などと、専門的にはずいぶんむずかしく解釈をしておりますが、要するに根とは「草木の根」などという、その根で、根源とか根本とかいう意味です。すなわちこの六根は、六識が外境そとのものを認識する場合は、そのよりどころとなり、根本となるものであるから、「根」といったのです。ところが面白いことには、仏教ではこの「根」をば、「扶塵根ぶじんこん」と「勝義根しょうぎこん」との二つに分けて説明しておるのです。たとえば、眼でいうならば、眼球めのたまは扶塵根で、視神経は勝義根です。したがって、そこひの人のごとく、たとい眼球はあっても、視神経が麻痺まひしておれば、色は見えませぬ。これと同時に、視神経はいかに健全でも、眼球に障害があれば、ものを見ることはできないわけです。それゆえに、この「勝義根」と「扶塵根」、つまり「視神経」と「眼球」との二つが、揃そろって完全であってこそ、はじめて私どもの眼は、眼の作用はたらきをするわけです。しかもこれは他の五根についても同様であります。

 対象の世界
 次に六境とは、六根の対象になるもので、色しきと声しょうと香と味と触そくと法とであります。六根に対する六つの境界という意味で、六境といったのです。ところで、この六境をまた「六塵」ともいうことがありますが、この場合、「塵」とは、ものを穢けがすという意味で、私たちの浄きよらかな心を汚よごし、迷わすものは、つまりこの外からくる色と声と香と味と触と法とであるから、「六境きょう」をまた「六塵じん」ともいうのです。「六塵の境界」などというのはそれです。ただし六塵の中の「法塵」は、意根の対象となるもので、嬉うれしいとか、悲しいとか、憎いとかかわいいとかいう精神上の作用はたらき(心法しんぽう)をいったものです。けだし、以上に申し述べました、六根と六境とが、いわゆる「十二処」といわれるものですが、これをまた「十二入にゅう」ともいっています。「処」は「場所」の所で、「生長」の義と解釈されていますが、六根が六境を受け入れ、よく意識を生長せしめるから、これを「十二処」といったのです。しかしてこの根と境とは互いに渉入し、根は境をとり、境から根を生ずるというように、相互に入れちがって、「渉入」するという意味から「十二処」のことを、また「十二入」といったのです。

 最後に「界」とは、詳しくいえば「十八界」ということです。「六根」と「六境」に、さらに「六識」を加えたもので、合計三六さぶろく十八となるわけです。いったい、この認識の作用はたらきというものは、「根」と「境」と「識」との三つが、相応じ、一致しなければ、起こらないものです。で、単に「根」と「境」とだけで「識」がなければ、いわゆる「心ここにあらざれば、見れども見えず」です。あれどもなきがごとしです。現に私どもが何か仕事に夢中になっているときは、知らぬ間に時間がたってしまいます。一時間、二時間が、ホンの五分か十分ぐらいにしか思えないのです。だが、なにも一時間が十分になったわけではありません。スッカリ時間を超越してしまうから、そう感じるのです。ところで、この「界」という字は、科学の世界とか、哲学の世界とか、あるいは新緑の世界などという場合の、その世界で、差別とか区別とか領域とかいう意味です。したがって十八界ということは、十八種類の世界ということで、つまり「根」と「境」と「識」との相対関係によって生じた、十八の世界です。たとえば、「眼根」と「色境」と「眼識」とが和合すると、ここに「眼」を中心とする一つの世界ができるのです。それがいわゆる「眼界」です。つまり「眼の世界」です。いまこの『心経』には、最初の「眼界」と最後の「意識界」だけを挙あげて、その中間の「耳の世界」「鼻の世界」「舌の世界」などの、十六界をば、「乃至」という二字で省略してあるのです。
 話がたいへんめんどうになりましたから、ここらで一まずきり上げて、最初に申し上げた、あの二首の俳句をかりて、一応いままでいったことを、考え直してみたいと存じます。さてまず最初の「眼には青葉山ほととぎす初鰹」という句でありますが、この「眼には青葉」というのは、いうまでもなく、眼の世界です。私どもの眼に映る世界です。そしてその対象は、青葉という「色の世界」です。すなわち、私どもの眼は、眼球めのたまを通して、青葉という「色の世界」を認識したのです。知ったのです。「ああ、もうスッカリ新緑になったな」と眼は知るのです。しかし、「どこかへ一度遊びに行きたいな」となると、もう眼の領域ではないのです。『増一阿含経』というお経の中には、
「眼は色をもって食(じき)となし、耳は声をもって食(じき)となす」
 ということばが出ておりますが、眼の食物は色です。耳の食物は声です。よいものを見たい、いい声を聞きたいというのが、眼の楽しみ、耳の楽しみです。仏教の方では人が亡くなった時に香を手向たむけますが、これは「中有ちゅうう(中陰)の衆生は、香をもって食じきとする」という所からきているのです。したがって食物は、ただ口だけに必要なものではありません。眼にも、耳にも、鼻にも、みんな食じき、すなわち食物が必要なのです。
 山ほととぎすの初音 次に「山ほととぎす」というのは耳の世界です。杜鵑ほととぎすのあの一声は耳の食じきです。残念ながら耳の遠い人は、耳の形だけはありますが、肝腎かんじんの聴神経が麻痺まひしているので、せっかくの山ほととぎすの初音も聞こえないわけです。次に、「初鰹はつがつお」とは、舌の世界です。味覚の世界です。風邪かぜをひいて熱でもあれば、何を食べてもおいしくないのは、舌があってもないと同じです。味覚がないから、少しも味がないわけです。すなわちあじない、まずいというのはそれです。で、要するに、この「眼には青葉」の一句には、「眼」と「耳」と「舌」との三つの世界、およびその対象となっているところの「色」と「声」と「味」との三つの境界が表現されているわけです。

 衣更えの気分
 次に第二の句は「衣更がえ手につく藍あいの匂においかな」というのですが、この句は、つまり、「衣更え」と「手につく藍の匂い」という、二つに解剖してみる事ができます。「衣更え」とは、衣を着かえることで、着ている着物を、ぬぎかえることですから、身体全部に関係するのです。したがってそれは、触覚の世界です。肌はだざわりがよいとか、着心地がよいとか、わるいとか、いうのはそれです。「触」とはふれるという字で、英語のタッチに当たります。「手ざわり」だとか「肌ざわり」だとか、いう感じは触れてみなければなりません。次に「手につく藍の匂いかな」ということは、「鼻」の世界です。したがってその対象は「香」です。匂いです。よい匂いがする。ほんとうにいい香かおりだな、というのはことごとく「鼻」に属するものです。で、この「衣更え」の一句の中には「身」と「鼻」との二つの世界、およびそれの対象となっている「触」と「香」との二つの境界を表わしていることになるのです。かくて私どもは、この「眼には青葉」の句と「衣更え」の句を通じて、ここに眼、耳、鼻、舌、身の「五根」と、色、声、香、味、触の「五境」との関係を知ることができるのです。そして、この五官の中心となって、これを統一する認識の主体が、つまり第六意識です。この意識が「意根」を依り処どころとして、一切のものを認識するわけです。しかも、この第六意識は、一切の万物を広く認識するという意味で、「広縁識こうえんじき」といわれておりますが、現在だけでなく、過去のこと、将来のことまでも、いろいろ思い考えるのは皆この第六意識の作用はたらきです。したがって、この第六識は前ぜん五識しきの主人公です。この主人公がシッカリしておればこそ、眼、耳、鼻、舌、身の五識は命じられるままに、よく働くわけです。「人間は考える動物」だといいますが、この考えの主体はこの意識であるわけです。おもうに仏教の立場からいえば、いったい私どもの認識作用というものは、結局この「根」と「境」と「識」との三つの和合によって生ずるものでありまして、「識」とは認識の主体で、心のことであり、「根」はその識の所依、よりどころ、「境」はつまり所縁、すなわち心によって認識せられる対象であるわけです。しかも私どもの認識を離れて、一切万物は存在しませぬから、『心経』の本文に、
「眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなく、眼界もなく、乃至ないし意識界もなし」
 といっているのは、結局「一切は皆空なり」ということを、くわしく分析して説明したものです。で、頭のするどい人には、はじめから「一切は皆空なり」といえば、すぐに「なるほどそうだ」、とわかるのですが、いまだ「空」の意味を理解しないものは、まず「五蘊うん」の空なることを説き、それでもわからぬものには、「六根」と「六境」の空なることを説明し、さらにそれでもまだ理解し得ないものには、もういっそう詳しく「六根」と「六境」と「六識」の関係を説明したのでありまして、つまりは、「因縁によって作られている、私どもの世界の一切の存在ものは、ことごとく空なり」ということを、説明したものにほかならぬのです。まことに「因縁」より生ずる所の、一切のものは、ことごとく空です。したがって一切の事物は、皆すべて相対依存の関係にあるわけです。もちつもたれつとは、独ひとり人間同志の問題ではありません。世間の一切の万物、皆もちつもたれつなのです。現代の物理学者は相補性原理といっています。相補性原理とは、もちつもたれつということです。有名なアインシュタインはかつて相対性原理を唱えましたが、もはやそれは古典物理学に属するもので、今日ではすべてのものは、互いにもちつもたれつの関係にある、すなわち相補性原理こそが真実だといわれています。
 したがってそれはもちつ、もちつでもなければ、またもたれつ、もたれつでもなく、あくまでもちつ、もたれつです。
まったく「もちつ、もたれつ、互いによらにゃ、人という字は立ちはせぬ」です。
宇宙間の一切の事物もそうですが、特に人間はどこまでも、もちつもたれつ、生かし生かされつつあるべきです。しかもそれがとりも直さず因縁の関係です。相対依存の関係です。ところが一切の万物ものは、もちつもたれつの存在であるばかりでなく、すべてのものは、ちょうど河の水のようにつねに流れているのです。動いているのです。ベルグソンもいっているように、私どもは同じ河の流れに、二度と足を洗うことはできないのです。水の流れは、つねに昼夜をわかたず、流れ流れて止やみません。一度足を洗った水は二度と帰らぬ水です。だが、それはひとり河の水ばかりではありません。私どももまた、つねに変化し移りかわっているのです。昨日の私は、もう今日の私ではありません。今日の私は、もはや明日の私でもありません。したがってこの「万物流転」と「相対依存」とは、まさしく因縁という母胎から生まれた、二つの原理であるわけです。
縦(時間的)から見れば万物流転、横(空間的)から見れば相対依存、この二つの原理は、実に疑うことのできない、宇宙の真理です。しかもこの真理に目覚めざめる時、私どもは、そこにはじめて国家、社会、人類の「恩」を感じ、「人生の尊さ」をハッキリ知ることができるのです。自分独りの自分ではない。私独りの私ではない。すべてのものによって養われている私、一切のものによって生かされている自分を、ほんとうに心から知った時、私どもは、そこにしみじみと、今さらながら、恩すなわちおかげさまということを感ずるのであります。ありがたい、もったいない、すまない、という感謝報恩の心は、湧然ゆうぜんとして、ほとばしり出るのです。したがって、自己おのれの生活に対して、何の懺悔さんげも、反省もなしに、ただいたずらに世を呪のろい、人を怨うらむことは、全く沙汰の限りといわざるを得ないのです。自分の身体にくっついた虱しらみを怨む前に、まず私どもは虱をつけている自己の身体の不潔を反省せねばなりません。しかも一たび「因縁の原理」に目覚め真に「般若はんにゃの空くう」に徹したものは、生のはかなさを知ると同時にまた、生の尊さを知るのです。実をいえば、生ははかないがゆえに尊いのです。「散ればこそいとど桜はめでたけれ」です。散るところに、花の生命があるように、死んでゆくところに、いや死なねばならぬところに、生の価値があるのです。生の尊さ、ありがたさがあるのです。ゆえに空に徹したる人は、生きねばならぬ時には、石に噛かじりついても、必ず生をりっぱに生かそうと努力します。生死しょうじに囚とらわれざる人は、所詮しょせん死を怖おそれざる人です。死を怖れざるゆえに、死なねばならぬときに莞爾にっこと笑って死んでゆくのです。ゆえにそれはいたずらに死を求める人ではありません。「死を怖れず、死を求めず」といった西郷南洲のことばは、真に味わうべき言葉だと思います。昔から「千金の子は、盗賊に死せず」といいます。「君子は分陰を惜しむ」といいます。たしかにそれは真実です。寸陰を惜しみ、分陰を惜しみ、生の限りなき尊さを味わうものにして、はじめていつ死んでもかまわない、という貴い体験が生まれるのです。覚悟はらができるのです。いつも「明日」と同盟する人は「今日」の貴さをほんとうに知らない人です。いつも「明日」と約束する人は、「今日」を真に活いかさない人です。

 ローマの哲学者ポエチウスは牢獄ろうごくのなかで死刑の日を前にして『哲学の慰め』というりっぱな本を書いていますが、これに似た話が中国にもあります。今からちょうど千五百年以前のことです。中国に僧肇そうじょうという若い仏教学者がありました。彼は有名な羅什らじゅう三蔵の門下で、三千の門下生のうちでも、特に優すぐれたりっぱな学者でありました。しかし、ある事件のため、時の王様の怒りに触れて、将まさに斬罪ざんざいに処せられんとしたのです。その時、彼は何を思ってか、七日問の命乞いのちごいをいたしました。彼は、その七日間に、獄中において、みんごと『法蔵論』という一巻の書物を書き上げました。そして、従容として刑場の露と消えたということです。時に彼三十一歳、その臨終の遺偈いげは、まことにりっぱなものであります。「四大元もと主なし。五陰おん本来空。首こうべを以もって白刃に臨めば、猶なおし春風を斬(き)るが如し(四大元無レ主。五陰本来空。以レ首臨二白刃一。猶如レ斬二春風一。)」
 『首を以て白刃に臨めば、猶し春風を斬るが如し』。ああ、なんという徹底した痛快な死生観ではありませんか。
 けだし、かの若き僧肇こそ、まことに般若の経典を心でよみ、かつこれを身体で読んだ人であります。(注『景徳伝灯録』巻27「諸方雑挙徴拈代別語」に「僧肇法師は秦主(姚興)の難に遭い、刑に就くに臨んで偈を説きて曰わく、四大は元より主無く、五陰は本来空、頭を将って白刃に臨むも、猶お春風を斬るに似たり」とあります。チベット文献の『紅史』『漢蔵史籍』には寵愛を失った秦主妃のたくらみにより僧肇法師はきられたとする記録があるとのことです。その後、元の兵に襲われた無学祖元も「電光影裏に春風を斬る(仏光国師語録拾遺)」といったことが有名です。)

人間もここまで来なければ、決して大丈夫ということはできません。しかし、私はその臨終の偈げが、徹底していることよりも、むしろ獄中に囚われの身でありながら、悠々ゆうゆうとして『法蔵論』というりっぱな一巻の書物を、書き残していったという所に、学者として、いや仏教の坊さんとしての彼の偉大さ、真面目があると存じます。今日、私どもは、この『法蔵論』を手にするたびに、「般若の空」の真の体験者であった僧肇の偉大さを、しみじみと感ずるのであります。そして三十一歳で、従容として死についた彼を偲しのぶにつけても、般若を学びつつ、般若を説きつつ、しかもいまだ真に般若を行ぎょうじ得ない、自分おのれを省みるとき、私は内心まことに忸怩じくじたるものがあるのであります。「道は多い、されど汝なんじの歩むべき道は一つ」だといいます。私は『般若心経』のこの講義を契機きっかけとして、真に般若の道を学びつつ、歩みつつ、如実にょじつに一つの道をシッカリと歩んでゆきたいと思っています。そして少なくとも、「生死岸頭に立って大自在を得る」という境地にまで、すみやかに到達したいと念じている次第であります。
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