61番香園寺の先々住の山岡瑞円師の法話を集めて出版した「人格的生活をめざして」(昭和8年香園寺子安遍照会発行)という本があります。山岡師は戦前「子安大師講」を世界にひろめるとともに「三密学園」という学校をつくるなど大活躍された人で香園寺中興の祖です。 二回目遍路で香園寺に泊まって半年後の19年6月に福山大師寺の西嶋師より頂くというご縁にめぐまれました。
大変素晴らしい内容なのでそのなかの一部を紹介します。「(師は病気で進退窮まって寺に臥せっていました。)世の中を恨んで恨んでうらみのはて、それらに対して復讐的に死んでやるといふ心地であった。 世の中をうらんでいたときは、常に私の心の中に敵があったのです。
あいつがこうしたためにこの私がこのようなどん底に落ちている。 親の行いがわるかったので、世間からさげすまれ、かてて加えて不治の難病に伸吟せねばならぬ、師匠が借銭を遺したため、債鬼に毎日せめられる、 総代が陰険な手段を以って日夜に迫害をして私を独りぼっちに陥れた、信者信者というても其の正体は私をただ使いし、 私の骨までしゃぶろうとするものだ、というふうに私と関係の深いものに対してほど、深く恨みをいだいていた、 困窮のどん底に落ちた私の心が僻みと恨みと腹立ちとに燃え爛れていたのであります。
仏が人を救うなどとそんなことがあるものか、こんな苦しいときにも仏様は私を救うてくれないではないか、この世に神も仏もあるものか、 お経は人を誑かす架空の妄談ではないか、こういう煩悩の嵐が心のなかで吹いて吹いて吹きすさんでいたのであります。・・・ しかし、いくら恨んでも敵をどうすることもできぬ、世の中は私と無関係に進んでいく。 私ごときがいくら恨んだとて針でついたほどの変化もない、もう一切の恨みはさらりと捨てた、このような運命をもって生まれてきたのだから、 甘んじて従うより途がない、食えぬのだから食えないまま死んでいこうと考えた、それに絶対服従をしたのです。
そうすると奇体に敵がなくなったのです。・・・それまでは強度の神経衰弱であった、それは戦って負傷したうめき声でした。 ところが敵がなくなったのでいまや安らかな心持になりこころゆくばかりすやすやと眠りました。 ・・・全く孤独でしたので食べさせてくれる人もありません。ただすべてを忘れて幾日と無く眠りました・・・。 この境地に至って私の不治の難病も薄紙をはぐようにいつのまにかよくなりました。 ・・・この境地においてはなんにも望むところはないのに不思議にも恵まれる一方でありました。 或は巡拝の人がやってきて、私がなにもせずに全くの孤独で病臥していると洗濯もしてくれたり、お米もあつめてきてくれたり・・ それからまもなく私に拝んでくれという人が出てきました。私はなにも知らぬまま拝みました。不思議にもお蔭を受けたのです。 もとより私が治したのでなくて、仏様が相手を連れてきて、私が治したかのような様式をとらせてくださったのです。
・・まったく仏様が治してくださったのです。
・・・私が無我となり不思議にもいろいろな人に助けられてから1週間ばかりして 島根県のおばあさんが行き倒れて重体になったのでわたしに拝めといってきた。
もとより拝む作法も知らなかったがただいわれるままに拝んだら不思議にもお蔭があったのです。 それを聞き伝えてか私ごときものにも拝んでくれという人が段々まいるようになりました。 これまた仏様のお指図ですからもとより仏様が治してくださるものとひたすらしんじて拝みますといつもおかげがあったのです・・・。」
師は仏様を信じた結果数々の霊験がでてきたのです。そして寺は殷賑を極めたということです。
私もここで孫の安産祈願をしたおかげで嫁の高齢出産にも拘わらず無事玉のような赤ちゃんを授かりました。何度もお礼に行きました。ここで子育て祈願をお願いすると別室でご住職がそれはそれは丁寧に拝んでくださいます。子供の魂に大日如来さまが宿るという内容の様です。このような丁寧な祈願ぶりはどこにもありません。それだけ有難く霊験もあたらたかな気がします。
ここでは非常によくできた「勤行法則」を求めることができます。これにはこの寺でのお参りの仕方、食事作法、諸和讃、八十八所御詠歌など多くのことがのっています。
大変素晴らしい内容なのでそのなかの一部を紹介します。「(師は病気で進退窮まって寺に臥せっていました。)世の中を恨んで恨んでうらみのはて、それらに対して復讐的に死んでやるといふ心地であった。 世の中をうらんでいたときは、常に私の心の中に敵があったのです。
あいつがこうしたためにこの私がこのようなどん底に落ちている。 親の行いがわるかったので、世間からさげすまれ、かてて加えて不治の難病に伸吟せねばならぬ、師匠が借銭を遺したため、債鬼に毎日せめられる、 総代が陰険な手段を以って日夜に迫害をして私を独りぼっちに陥れた、信者信者というても其の正体は私をただ使いし、 私の骨までしゃぶろうとするものだ、というふうに私と関係の深いものに対してほど、深く恨みをいだいていた、 困窮のどん底に落ちた私の心が僻みと恨みと腹立ちとに燃え爛れていたのであります。
仏が人を救うなどとそんなことがあるものか、こんな苦しいときにも仏様は私を救うてくれないではないか、この世に神も仏もあるものか、 お経は人を誑かす架空の妄談ではないか、こういう煩悩の嵐が心のなかで吹いて吹いて吹きすさんでいたのであります。・・・ しかし、いくら恨んでも敵をどうすることもできぬ、世の中は私と無関係に進んでいく。 私ごときがいくら恨んだとて針でついたほどの変化もない、もう一切の恨みはさらりと捨てた、このような運命をもって生まれてきたのだから、 甘んじて従うより途がない、食えぬのだから食えないまま死んでいこうと考えた、それに絶対服従をしたのです。
そうすると奇体に敵がなくなったのです。・・・それまでは強度の神経衰弱であった、それは戦って負傷したうめき声でした。 ところが敵がなくなったのでいまや安らかな心持になりこころゆくばかりすやすやと眠りました。 ・・・全く孤独でしたので食べさせてくれる人もありません。ただすべてを忘れて幾日と無く眠りました・・・。 この境地に至って私の不治の難病も薄紙をはぐようにいつのまにかよくなりました。 ・・・この境地においてはなんにも望むところはないのに不思議にも恵まれる一方でありました。 或は巡拝の人がやってきて、私がなにもせずに全くの孤独で病臥していると洗濯もしてくれたり、お米もあつめてきてくれたり・・ それからまもなく私に拝んでくれという人が出てきました。私はなにも知らぬまま拝みました。不思議にもお蔭を受けたのです。 もとより私が治したのでなくて、仏様が相手を連れてきて、私が治したかのような様式をとらせてくださったのです。
・・まったく仏様が治してくださったのです。
・・・私が無我となり不思議にもいろいろな人に助けられてから1週間ばかりして 島根県のおばあさんが行き倒れて重体になったのでわたしに拝めといってきた。
もとより拝む作法も知らなかったがただいわれるままに拝んだら不思議にもお蔭があったのです。 それを聞き伝えてか私ごときものにも拝んでくれという人が段々まいるようになりました。 これまた仏様のお指図ですからもとより仏様が治してくださるものとひたすらしんじて拝みますといつもおかげがあったのです・・・。」
師は仏様を信じた結果数々の霊験がでてきたのです。そして寺は殷賑を極めたということです。
私もここで孫の安産祈願をしたおかげで嫁の高齢出産にも拘わらず無事玉のような赤ちゃんを授かりました。何度もお礼に行きました。ここで子育て祈願をお願いすると別室でご住職がそれはそれは丁寧に拝んでくださいます。子供の魂に大日如来さまが宿るという内容の様です。このような丁寧な祈願ぶりはどこにもありません。それだけ有難く霊験もあたらたかな気がします。
ここでは非常によくできた「勤行法則」を求めることができます。これにはこの寺でのお参りの仕方、食事作法、諸和讃、八十八所御詠歌など多くのことがのっています。