金光明最勝王經・長者子流水品第二十五(流水は病者を治した後、池水枯渇で死に瀕した魚達を救い、読経して財施・法施を施したことで魚達は死後昇天すると説く。これが日本でも放生会の根拠となった。流水は釈尊、その父は妙憧、その子は銀憧・銀光、十千の天使たちは当時の魚であると説く)爾時、佛は菩提樹神善女天に告げたまはく「爾時、長者子流水は、往昔時に天自在光王國内に在りて、諸衆生の所有る病苦を療じ、平復するを得 . . . 本文を読む
今昔物語集巻十二石清水にて放生会を行ひたる語 第十
今昔、八幡大菩薩、前生に此の国の帝王(応神天皇)と御しける時、夷□□□軍を引将て、自ら出立せ給けるに、多の人の命を殺させ給ひける。□□□□□□□。
初、大隅の国に八幡大菩薩と現はれ在して、次には宇佐の宮に遷らせ給ひ、遂に此の石清水に跡を垂れおはしまして、多の僧俗の神人を以て、員(かず)知らぬ生類を買放たしめ給ふ也。然れば、公(おほやけ)も御託 . . . 本文を読む
問う、仏教は戒定慧の三學を修練して無漏の聖智を開発し声聞縁覚および無上仏道の悟りを得て涅槃の真理に帰入するとするものではないのか?いまこのように十善十悪三世因果応報のような理論を仏教の大原理となすことは(因果から抜け出そうとする仏教にとって)自家撞着ではないのか?答え、(結論は、「この十善十悪三世因果応報の原理を密教・顕教を問わず、また地獄界から仏界までもこれから離れられないのであるからこれが仏教 . . . 本文を読む
今日は保己一忌です。塙 保己一は文政4年9月12日(1821年10月7日))に76歳で死去しています。百万巻の般若心経を北野天満宮にあげて『群書類従』刊行を祈願したと伝わります。そして幕府・諸大名・寺社・公家などの協力を得て、寛政5年(1793年) から文政2年(1819)までをかけて史書や文学作品、計1273種を収めた群書類従を完成しています。ヘレンケラーが目標とした人とされ昭和12(1937) . . . 本文を読む
以上の如く十善十悪業に各々四種の原因業の区別(順現業・順次業・順後業・順不定業(注1))及び結果報の差異ありて(華報・果報・等流果・増上果(注2))、賢愚老少男女利鈍を問わず、すこしもこの法則から脱することはできない。これを天地自然の真理の制裁という。であるからこの十善戒は近くは人の人たる所以の至徳を全うする事であり、遠くは無漏法性に通達する要道である。(実際、殆どのお経にこの十善戒は出てきます。 . . . 本文を読む
続史愚抄 / 明応七年1498九月十二日乙巳条「十二日乙巳 多武峯神像又破裂」史料綜覧 巻九 / 明応七年(1498)九月十二日条「十二日 多武峰大織冠像破裂ス 十二月ニ至リテ 告文使ヲ発遣ス」・天皇は後土御門天皇。室町幕府は足利義澄。・多武峰(談山神社と妙楽寺)では天下の問題が起こると、藤原鎌足公の御神像が怒りの破裂を起こすとされて恐れられてきた。御破裂は多武峰から摂関家へ報告され、告文使(こう . . . 本文を読む
第五十一代平城天皇は薬子の変で大同五年810九月十二日平城京に戻り剃髮して御出家。薬子は服毒自害。
「大和尚奉爲平安城太上天皇潅頂文」(弘仁十三年822大師が平城天皇に結縁灌頂を授けられた時の文)
「夫れ八繕の深海は修足にあらざれば其底を極ること能ず。九萬の高鳳は鵬翼にあらざれば其の頂を見るを得ず。盤薄厚地は劫火之灰滅する所、靉靆たる濃雲は猛風之搴卷する所なり。摩尼の奇珠は大龍を待ちて而も寶を . . . 本文を読む
この因果の理法はもとより単純ではない。過去現在未来三世に亘りて互いに因となり果となって十方に遍じて互いに因縁となり重踏錯綜して必ずしも現世において悉くその原因結果の賞罰を期すべきものではない。これは植物の例を見てもわかる。わずか数日で果実を結ぶものもあるが一年後二年後さらに十数年後に果をむすぶものもある。業にもこのように「三世四業」「因果四報」の種類がある。「三世四業」には 順現業・順次業・順後業 . . . 本文を読む
㈩正智不邪見戒・・この戒は世の指導者層がもっとも慎み守るべき戒である。自分の我見妄識の憶断を制御して天命を畏れ慎むことをもって止善とする。行善は、「万物はすべて無我無常であり一つとして我意の通りになるものはない、万象はすべて電光朝霧の如くで一定の定まった姿をとどめることのできるものではない、・・万象は三世因果善悪応報の姿でありこの法則を欺くことはできない、しかも万象は幻の如く空である、という真理を . . . 本文を読む
㈨忍辱不瞋恚戒・・・瞋恚とは意にそわない境遇に対して憤怒怨害の心を起こすを言う。この瞋恚に順理と違理とある。順理とは非道なことをされて怒るもので、違理とは怒るべからざることを怒るもの。このように瞋恚に軽重の違いはあるがどちらの場合も怒らないことを止善とする。行善とは慈悲喜捨の四無量心をもって一切衆生を憐憫するをいう。この「慈」に三種あり。衆生縁の慈、法縁の慈、無縁の慈、である。衆生縁の慈とは、一切 . . . 本文を読む
㈧知足不貪欲戒・・・貪瞋痴は心の業である。これを制することができれば功徳著しいものがある。学道の目的はこの心が正邪・曲直を判別できるようにすることにある。この戒の止善は、五感に触れる五塵六欲・男女資材等はみな虚妄無常であって泡沫幻影の朝霧のごとくであると達観して求めないこと。行善は布施をし、他人の財施・慈善を讃嘆随喜すること。 . . . 本文を読む
㈦交友不両舌戒・・・両舌とは口舌をもって両人両家の間あるいは衆人の親交を離間することをいう。他の親交を破る話をせざることをこの戒の止善とする。そして両人・両家・衆人の間に不和あるときはみずから間に入り友愛・真実の語をもって和合せしむるを行善の相とする。 . . . 本文を読む
㈤尊尚不綺語戒・・綺とは順正ならざるという意味。「たわごと・軽口」のこと。故に滑稽・狂詩・狂歌・狂言等をなさずに言語をつつしみ守るを不綺語戒の止善という。行善とは、言語質実正直・謹厳・正実篤厚なるを不綺語戒の行善とする。(慈雲尊者は「十善法語」の中で「不綺語戒の中に法の快樂を得る」とおしゃっていますがこれは不綺語戒を守り質実正直な言葉をつかうことにより宇宙の真理にかなっているという快楽を得る」とで . . . 本文を読む