昔NHK心の時間で、正眼僧堂の山川宗玄老師の法話がありました。中で百丈懐海禅師の「一日作さざれば一日食はず」の禅語についてお話がありました。以下のようなものだったと思います。・・・和歌山興国寺目黒絶海老師が老衰で入院され施す治療もなくなっていた時、弟子の山川老師が見舞いに行かれたとき、回診に来た院長に「なにか治療するすべがあるのですか?」と聞くと院長は「ありません」と答える。「ではなぜ治療に来られ . . . 本文を読む
今昔物語巻十二「沙弥所持法花経不焼給語 第廿九」
「今昔、聖武天皇の御代に、牟婁の沙弥と云ふ者有けり。俗姓は榎本の氏、本より名無し。紀伊の国牟婁の郡の人也。此れに依て牟婁の沙弥とは云ふなるべし。而るに、同国の安諦の郡の荒田の村に居住す。此の沙弥、髪を剃り袈裟を着たりと云へども、翔(ふるま)ひ俗の如し。朝暮に家の業を営みて、昼夜に妻子眷属を養ふ計を巧む。
而る間、沙弥、願を発して、法の如く . . . 本文を読む
長元3年(1030)五月二十三日は、全国に 前年から蔓延した疫疾対策として観音像と請観音経の図写供養が求められた日です長元三年五月二十三日の太政官符に「太政官符五畿七道諸国司 応に丈六観世音菩薩一体・請観音経百巻を図写供養の事。右去春以来疾疫滋蔓し病死尽大。祈祷を致すも空しく旬月を経る。‥それ観世音菩薩といっぱ衆生の依怙なり、能く無畏を施し患病厄者は必ず苦源を抜く。急難に遭ふものはたちまちに解脱を . . . 本文を読む
此のお経は筆舌に尽くしがたい霊験があります。当方も朝夕山寺のこのご本尊に祈願して人も通わぬ田舎から最高学府に入学できました。その後も危機の折折にこの呪を唱えることで筆舌に尽くしがたい霊験を頂いています。
十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経「如是に我聞く、一時、佛、補蛇落山にいまして、衆の為に説法したまふ。其の時、観世音菩薩は仏に白して言さく。我に神呪あり。もし衆生有りて受持するものあれば、 . . . 本文を読む
ブダペスト覚書に裏切られたウクライナ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%80%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%88%E8%A6%9A%E6%9B%B8
ウオールストリートジャーナル
「The Editorial Board、【社説】ブダペスト覚書に裏切られたウクライナ」2022年2月25日
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細菌学者野口英世は1928年(昭和3年)の今日5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去しています。英世の成功の陰には母しかの観音様信仰がありました。野口英世の母シカは観音様に願掛けしたら家出した両親が帰ってきたという幼少期の経験から熱心な観音様の信者になっています。後年産婆になってとりあげた二千人の子はすべて安産で「お産の時は必ず観音様にお祈りしながらやんのし . . . 本文を読む
今日は聖武天皇が大安寺以下の諸寺に墾田等を施入された日。聖武天皇は「令法久住。抜済群生。天下太平。兆民快楽。法界有情、共成仏道」を願って施入されています。続日本紀に「天平勝宝元年(749)五月癸丑【二十】癸丑。詔、捨大安。薬師。元興。興福。東大五寺。各絁五百疋。綿一千屯。布一千端。稲一十万束。墾田地一百町。法隆寺、絁四百疋。綿一千屯。布八百端。稲一十万束。墾田地一百町。弘福。四天王二寺。各絁三百疋 . . . 本文を読む
今日は日本最古の御霊会(祇園祭)が行われた日です。『日本三代実録』の貞観五年(863)五月二十日条に文献上最古の御霊会が記載されています。『日本三代実録卷七貞觀五年(八六三)五月廿日壬午》○廿日壬午。神泉苑において御靈會を修す(注1)。左近衞中將從四位下藤原朝臣基經・右近衞權中將從四位下兼行内藏頭藤原朝臣常行等を勅遣し會事を監す。王公卿士赴集共觀す。靈座六前几筵を設施し花果を盛陳し恭敬薫修す。延律 . . . 本文を読む
三代実録 / 元慶四年(880)五月廿日癸酉条「廿日癸酉 快雨。 勅す。公卿及近衛兵衛衛門六府官人已下で陣頭に見在せる者を録し 穀倉院調布を以て之に賜ふ。 公卿に内蔵寮御服絹を加賚し、各の差有り。 外記内記仗下に侍る者も亦た預焉る。甘澍の賀なり。先是 勅有り、議定す。 廿二日より始めて 三ケ日間 賀茂松尾等社に於いて 将に潅頂経法を修すべし。 祈雨の為也。 崇朝遍雨す。 故に暫く停止す。 是時 右 . . . 本文を読む
今日は祈雨を醍醐清滝と室生竜穴に祈り効験があった日です。「夕拝備急至要抄」に「嘉禎三年1238、五月十九日・・近日陰気、天見ると雖も雨脚未だ地を湿らさず。稼穡の業、便を失ひ人民の愁ひ休なし。醍醐寺におおせられ法印権大僧都実賢,浄侶を率いて明二十日より清滝において孔雀経を転読せしむ。興福寺に於いて権僧正同浄侶を率いて室生寺竜穴神社において仁王経を転読せしむ。各七日を限る。‥時日をい経ずして忽ちに雨澤 . . . 本文を読む
続日本紀 / 天平九年(737)五月壬辰(十九日)条「 (聖武天皇)詔曰 四月以来 疫旱並行し、田苗燋萎す。是に由りて山川に祈祷し神祇に奠祭すれども未だ効験を得ず。今に至り猶苦しむ。朕不徳を以て實に玆の災を致せり。思ふに寛仁を布きて以て民の患を救はむ。国郡をして寃獄を審録し、骼路(きゃくろ・主要道路)を掩ひ、胔を埋めて、酒を禁ち、屠を断たせむ。 高年の徒、鰥寡こ独及び京内の僧尼男女、 疫に臥して自 . . . 本文を読む
今日は義賢が疱瘡平癒を祈り宮中で仁王経を修した日です。(後花園天皇)「)(寶徳四年1452五月)十九日、この日より三宝院義賢を召して禁中に仁王経を修す。」(師郷記、続史愚抄)三宝院義賢は足利満詮の子。後遍智院准后。東寺長者 ・三宝院門跡・醍醐寺座主・准三后(太皇太后,皇太后,皇后の三宮に准ずる待遇を与えられた者をいう)。後花園天皇は102代。寛正二年にも三宝院義賢に心経を供養させています。続史愚抄 . . . 本文を読む