日々の出来事 10月27日 吉田松陰
今日は、吉田松陰が亡くなった日です。(旧暦 安政6年10月27日)
“ 至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり。”(孟子)
これは、吉田松陰が松下村塾の塾生に宛てた手紙の言葉です。
この言葉の意味は“すごく純粋な誠の心で動かぬものはこの世にはない”です。
吉田松陰は、9歳で毛利侯の御前講義をし、小さい頃からその才能を世間から認められていました。
そして、その心に従った実行力は群を抜いており、いささか過剰とも言える行動力を持っていました。
脱藩してまで日本全国をつぶさに見て廻り、松下村塾を主宰してからは老中の間部詮勝暗殺を企て、ロシア艦隊への密航が頓挫するとペリー艦隊に潜り込む計画を実行して丁重に断られ、この罪で身柄を拘束され江戸に護送されます。
でも、吉田松陰は捕まったのは間部詮勝暗殺の件と思って取調べでこれをベラベラ喋り、幕閣は“ビックリくりくり”、勘違いと分かった吉田松陰も“ビックリくりくり”、ここで吉田松陰は、“遠島かなァ~”なんて思っていたら斬首となって、“えっ!”と言う訳で30年の人生に幕を下ろしました。
“行動なき者に語る資格は無い”と言う吉田松陰の門下生からは、新しい時代を切り開く人々である木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文等が育って行きました。
吉田松陰は、ムチャはやるけど、結構、いいヤツなのです。
吉田松陰
☆今日の壺々話
つボイノリオ
吉田松陰と言えば、やはりこの人“つボイノリオ”です。
昔、オールナイトにっぽんでも活躍していました名古屋の有名人、“つボイノリオ”はホントに面白いです。
番組を聴けば、つボイノリオの話術は、なかなかスゴイことがわかります。
オールナイトにっぽんの番組改変時、パーソナリティが続々降板するのを横目で見つつ、アハハハハ、アハハハハと辞めさせられた理由を有ること無いこと喋って、だからダメなんだァと言って安心し切っていた次の週、“突然、辞めることになりました”と涙の会見、オールナイトにっぽんを去って行きました。
そして、舌禍事件やKBS京都の倒産危機で番組を降ろされるなど、パーソナリティー歴は波乱に満ちたものでした。
つボイノリオは、今も名古屋で活躍しています。
頑張れ、つボイノリオ!!
また、全国に放送が流れることを心から祈っています。
山下達郎の話
“ つボイさんは実際に会うと、とてつもなく腰が低くいい人だが、いざ歌となると狂気の世界に突入します。”
それでは、ここで、つボイノリオの放送禁止歌を二つほど挙げておきます。
知る人ぞ知る“つボイノリオ”の放送禁止歌
その1、吉田松陰物語(18禁)
作詞・作曲 つボイノリオ 編曲 池多孝春
♪ヽ( ・∀・)ノ吉田松陰は夜更けまで
勉強をしました
人それぞれに癖はつきもので
鉛筆の芯を舐める癖
吉田松陰 芯舐めた
松陰 芯舐めた♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙鎖国の日本で松蔭が
東南アジアに 夢はせる
その中で特に松蔭は
シンガポールを恋しがる
吉田松陰シンガポール恋しがる
松陰 シンガポール恋しがる♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙吉田松陰は南蛮の書物を、
いろいろ読みました
その中でもシンドバットの冒険を
みんなにみんなに見せました
吉田松蔭シンドバット見せる
松蔭 シンドバット見せる♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙時の流れは非常なもので
ついに弾圧の手が伸びる
役人が大勢遣って来て“御用御用”とわめきたて
“吉田松陰 神妙にしろい”
“松陰 神妙にしろい” ♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙捕らえられた松蔭は
使命 半ばにして 最後を遂げる
愛する妻や門弟が涙を流し悲しがる
“吉田松陰死んじゃいや”
“松陰死んじゃいや やり遂げて欲しかった”♪ ヽ(´∀`)ノ
♪ヽ( ・∀・)ノ時代は変わり 時は過ぎ
全てのものが変わっても
歴史が彼を審査する
吉田松陰 審査する
松陰 審査する♪ ヽ(´∀`)ノ
その2、金太の大冒険
♪ヽ( ・∀・)ノある日金太が歩いていると
美しいお姫様が逃げてきた
悪い人にネェ 今おわれているの
金太 守って 金太守って
キンタマ モッテ♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙しかし金太は けんかが弱く
友達とやっても 負けてしまう
腕力に自信のない金太君
けんかはいつも 負けが多い
金太 負けが多い 金太負けが多い
キンタマ ケガオオイ♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙やがて悪人がやってきた
身の丈2メートルもある大男
金太と悪人の大決戦
金太 負けるなとお姫様
金太 負けるな 金太負けるな
キンタマ ケルナ♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙悪人は金太におそいかかる
金太は思わず とびのいた
アー そこにあったは大きな木
そのまわりを金太はグルグルまわりだす
金太 回った 金太 回った
キンタマ ワッタ♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙悪人はいつか目をまわし
そのすきにお姫様と逃げだした
お姫様の美しさに金太君
目をパチパチまたたいた
金太 またたいた 金太 またたいた
キンタマ タタイタ♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙しばらくゆくと二人は
おなかのすいたのに気がついた
フト見るとマスカットの木がはえている
金太はナイフで切ったとさ
金太 マスカット ナイフで切る
キンタマ スカット ナイフデ キル♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙おなかのふくれた二人は
さらに安全なマカオに行くことにした
行けども行けどもマカオは見えず
お姫様はイライラして金太に聞いた
ネェー金太 まだ ネェー金太まだ
キンタマ ダ♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙そうしているうちにも二人は
やっとのことでマカオに着いた
金太とお姫様はマカオに着いた
やっとのことでマカオに着いた
金太 マカオに着く 金太マカオに着く
キンタマ カオニ ツク♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙マカオに着いた金太君
知り合いのビルをたずねたとさ
お姫様はそのビルを見て言ったとさ
まぁ金太わりとましなビルね
まぁ 金太 ましなビル 金太ましなビル
キンタマ シナビル♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙中にはいると誰もいない
伝言板にただひとこと書いてある
神田さんから金太君へのことづけで
「 金太 待つ 神田 」と書いてある
金太 待つ 神田 金太待つ神田
キンタマ ツカンダ♪ ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙御存じ 金太の大冒険
これから先はどうなるか
またの機会をごひいきに
それでは皆さんさようなら♪ ヽ(´∀`)ノ
“金太の大冒険”の方が、有名だろうなァ~。
負けるな金太を繰り返し叫ぶ“つボイノリオ”は、面白い、結構、いいヤツなのです。
玄関]・▽・)ノ ぉじゃましましたァ~♪
2010年11月10日 サンケイニュース
カラオケで金太の大冒険を歌った市職員にセクハラ認定
若者が国を動かした時代
大政奉還(1867年)のときの年齢(数え年)
45 勝海舟
44 大村益次郎
43 岩倉具視
41 西郷隆盛 山内容堂
38 大久保利通
35 桂小五郎
34 江藤新平 近藤勇
33 井上馨 坂本龍馬 松平容保
32 榎本武揚 天樟院 山岡鉄舟
31 板垣退助 三条実美 徳川慶喜
30 山県有朋 グラバー
27 伊藤博文
26 沖田総司
24 陸奥宗光
16 明治天皇
コメント
若っ!
年寄り連中を完全に封印して、若い実力者だけで明治政府を立ち上げたから日本は強かったんだよな。
基本的には馬力のある働き盛りの人間に舵取りさせた方が国家は回る。
この時代の平均寿命が短いからじゃないの?
確かに江戸時代の平均寿命は短かったがそれは乳幼児の死亡率が高かったから、幼少期乗り越えればそれなりに生きたぞ。
はがねを鍛へるやうに新しい時代は新しい人間を鍛へる。
そりゃ60~80の軍団とその悪政を自家として育った息子が動かしてんだから変革なんてするわけがない。
やっぱり沖田総司はかっこいいなwww
でも忘れちゃいけないな。
ここ上げられた人間たちは、その世代のほんの極一部だってことを。
自分のため、人のため、日本のため、明日の未来のため、
ある者は幕府のもとに集い、新撰組として戦い、
またある者は、攘夷を叫んで京都の夜に暗躍し、
またある者は刀ととも生きることを選んで、西南戦争、新政府軍と戦った。
多くの犠牲があって、皆がそれぞれの意思を持っていた。
勝利者の下には、骸となって散っていった多くの若者の礎がそこにあることを、我々は忘れるべきではない。
これってつまり老害を駆逐した時代とも言える訳だから、
今の時代でも参考になる部分が多いと思うぞ
世の中色々な考えがあって、目指すものが同じ場合でさえ敵対し合って片方が死ぬ事も良くある。
それはそれで良いのやら、悪いのやら?
つまり東のエデンみたいに、日本を食いつぶす老害どもを潰して若者に権力と金の再分配をすべきだな。
岩崎弥太郎もいれてやってくれ。
老害は死ねってことで。
世界でこの30代40代が国を動かしてる国ってあるのか?
無い。
若い世代が立ち上がるのは革命の時のみ。その後徐々に腐敗しながら歳をとる。
「若者」といっても、10代半ばで一人前の大人として扱われ、公に尽くすための教育を受け、それを実践するのに死をも厭わない人々だ。
現代人と同等には語れまい。
「老害」さえなければいいと解った様な気になっている現代人に、同様の覚悟があると言うのか。
別に明治に限ったことじゃない。
とはいっても五十、六十で隠居ですよ。
長生きといっても肉体の衰えは今の時代と比ぶべくもない。
せめて+10歳位で日本がまわれば面白いかもね。
でも、その連中も10年くらいの政治生命(泣
ん?…10年制(立候補してから)って、これ案外面白いかもw
若者にとか若者がとか、誰のことを指してるんだ。
自分が、とか自分たちが、とは言えないくせに老害老害うるせーよ。
でも明治の元勲が全滅したら迷走開始だったぞ。
現代もなにかやれよ、若者くん。
俺は、素でそろそろ革命起きてもおかしくないと思うけどね。
ただ、明治維新のような、キッカケが無いよね。
あの頃は、不甲斐ない幕府と、海外列強との絡みがあって、起ったヤツにもちゃんと正等な理屈があった。
だが、今あるのはただの腐敗だけ。
言って見れば、徳川幕府の中~後期に相当しており、末期ではない。
もうちょっと先の話かな。
「一将功成りて万骨枯る」
あと老害老害言ってる人へ。
明治維新当時、多くの若者は、旗本(幕府)だったり、とにかく薩長土の若者の数十倍の若者がヨソにいた事実を、なぜ見ないフリをしているのだ?
それとも、単に無知蒙昧なのか?
結局は、環境とかだよ。
若者若者つってるけど、幕府側にだって数多くの若い人が居たけど結局維新側とドンパチやったじゃん。
幕末~明治時代は爆発的なパワーをうまく利用した、利用できる天才達の集まりの結果。
ただその爆発的パワーがずっと続くわけじゃないから、その後の成れの果てが現在な。
こういう話題になると一々、茶々を入れないと気が済まないおっさんが多いこと多いこと、
まあこれが日本の現状なんだろうな…。
「幕府側にも若者が」って言ってるやつら、双方とも若者が中心になったから時代が動いたってことじゃねーの?
16で大人と見れば、当時の40はもう若くないし、
こいつらが後に元老として、力を持ち、老人達に権力が集中する構造を作った一因でもあるわけで。
たしか明治維新起こした人たちってほとんどご近所さんたちだったんだよな。
そういや第一次長州征伐の長州側で、和議のために切腹した老中が18ぐらいだったような。
10代20代でも平気で切腹させてた時代だな。
でも明治政府の汚職はわんさかあったよね。
十代半ばで政治に参加できる人間もいた時代の30代40代と、今の時代を比べられてもなぁ。
環境違うやんとしか言いようがない。
家老職の息子は、家老として育てられるわけで、いわゆる旧世代の価値観である封建制度の「世襲制」があったから、若くして政治に関われた。
政治とか国家とかが、彼らにとって「近い存在」だったことが、明治維新の原動力だろうね。
若者じゃないんだよ、覚悟と夢を持つ者が国を動かしたんだよ。
夢を自分で作り出せないヤツ
夢に命をかけられないヤツ
そういうヤツラは若かろうが年寄りだろうが関係ない。
下のほうあんまり動かしてないだろ・・・と思ってたら。
アル・カポネの最盛期が20代ってのは、衝撃だった。
こいつらが若者って言ってるヤツらはどんだけおっさんなんだよ。
逆に戦国末期、江戸初期は経験豊富な老人が世を引っ張ったわけで、平和な世で育った世代で老人になった指導者は老害に、逆だといい意味での化け物になるのかな。
RPGでは10代のひょろひょろ美男美女が世界救っちゃうもんな!20代後半なんてオッサンだよな!
特にオリエントの古代史において、少なくとも200近くの部族・民族が滅んで現代に生き残ってないことを知るべき。
若者と言っても自己に拠を置くヤツはどこまで行っても何かを動かすことは無い。
あの時代は、本気で国がヤバいと思ったから、若者が国を動かせた。
高須久子
安政五年(1858年)12月26日、吉田松陰が老中・間部詮勝の暗殺計画と梅田雲浜の奪還計画を自白し、再び投獄されました。
若くしてその才能を認められ、長崎や江戸に遊学し、後に、長州(山口県)萩にて開いた松下村塾から、維新で活躍する多くの弟子を輩出した事で、幕末の英雄とされる吉田松陰、彼は、その人生で、二度、同じ野山獄に投獄されています。
一度目は、あのペリーが再び浦賀にやってきた嘉永七年(1854年)、前年の最初の黒船来航の際に、黒船見物をした彼が、自分の目で外国を見てみたいという衝動にかられ、密航しようとして失敗した時です。
どうせバレるなら、と自首した松陰の身柄を、幕府から託された長州藩は、萩の野山獄に投獄します。
そこには、すでに11人ほどの囚人がいましたが、松陰はその中で一番年下です。
最初は周囲から軽く見られていた彼でしたが、しだいに親しくなるにつれ、その関係は変わってきます。
今は、獄中にいる囚人たちでも、その根底には、皆、それぞれに得意なものを持っていました。
シャバで大工をしていたある者は建築にくわしい。
板前をしていた者は料理にくわしい、とか。
そのうち、松陰が、長崎で学んだ事を講義すれば、俳句が得意な者がお礼に俳句を教え、絵の上手な者は絵を教える、といった形で、いつしかそれは獄中サークル活動となっていきました。
しだいに、その輪はどんどん広がっていき、やがては看守までが、サークルへの入会を希望し、松陰の講義に耳を傾けるという人気ぶりでした。
この時の教える面白さ、学ぶ楽しさが、後の松下村塾での講義に影響を与えた事は言うまでもありません。
そんな囚人の中に、一人の女性がいました。
高須久子は、松陰より12歳年上の37歳の未亡人でした。
彼女は、萩でも300石の高禄の高須家のあととり娘でしたが、養子として婿になった夫が亡くなった後、その寂しさを埋める趣味としてはじめた三味線に、いつしか没頭する毎日を送っていた中、あるプロの三味線弾きの集団と仲良くなります。
芸能で身をたてる彼らは、いわゆる身分卑しき人たちとして、当時は、未だ封建的な身分制度の時代ですから、その交際が日常生活にまで及ぶようになると、頑固な父親がその関係に反対し、藩に届け出たというわけなのです。
それでも、本来は、獄につながれるほどの重い罪ではないのですが、彼女は、その取調べの時に、悪びれる事なく、「普通の人と普通の付き合いをやって何が悪いの?」と、主張した事が反感を買い、投獄されていたのです。
こうして知り合った二人、久子は松陰の最先端の話に心踊らせ、松陰は久子の人は皆平等という精神に心魅かれたに違いありません。
もちろん、二人の関係を証明するような直接的な記録は、何もありません。
しかし、囚人たちが、あのサークル活動で残した、いくつかの短歌や俳句には、あたかも、あの万葉集の狭野茅上娘子と中臣宅守ように、歌のみで語る二人の恋の物語が存在するのです。
鴨立つて あと寂しさの 夜明けかな
これは、一年間の囚人生活を終えて、松陰が獄舎を出ていく時に、久子が詠んだ句だと言われています。
『松陰全集』では、「鴨(かも)立つて・・・」となっているのですが、本当は、この部分は「鴫(しぎ)立つて・・・」なのだそうで、それは、松陰の理念である「子義(しぎ)」とかけてあるのだとか、獄中という抑制された中での、ある感情が感じとれます。
開放された松陰は、その後、松下村塾で教鞭をとる事になるわけですが、ご存知のように、そこで学んだ門下生には、高杉晋作・久坂玄瑞・山県有朋・伊藤博文などなど、もう、数えあげたらきりがないくらいの幕末・維新の志士が名を連ねます。
しかし、開国か攘夷かで揺れる安政五年(1858年)、幕府が天皇の許しを得ず日米修好条約を締結した事で、反幕府の意志をあらわにする松陰は、老中・間部詮勝の暗殺と、仲間の梅田雲浜(うんびん)の奪還を計画します。
しかし、その計画は実行される事はなく、松陰は自首、安政五年(1858年)12月26日に、再び投獄されるのです。
この時、松陰は「獄居と家居と大異なし」と書き残していますが、おそらく、以前の野山獄と、今度の野山獄も大異なかった事でしょう。
誰と特定した書き方はされてはいませんが、何人かの囚人が、以前のまま残っていると語っています。
きっと、その中に、あの久子もいた事でしょう。
なぜなら、この半年の後、松陰が安政の大獄の犠牲となって江戸に向かう時の、二人の歌が残っているからです。
箱根山 越すとき汗の い出やせん
君を思ひて ふき清めてん 松陰
手のとわぬ
雲に樗(おうち・センダンの古名)の 咲く日かな 久子
一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす) 松陰
遠く離れて行く愛しい人を、手の届かぬほど成長するセンダンにたとえ、忘れたくないその声をホホトギスに見立てて別れを惜しむ、まさに相聞歌のようです。
そして、安政六年(1859年)10月27日、江戸小塚原にて松陰は処刑されます。
松陰亡き後の久子は、明治元年(1868年)に、新政府のもと罪を許され、出獄しましたが、父親との関係が修復される事はなく、高須家には戻らなかったと言います。
けっこう長生きしたらしいという噂はあったものの、彼女がその後どのように生きたのか、はっきりした記録も証拠となる品も残ってはいなかったのです。
ところが、平成十五年、松陰の門下生であり長崎造船所の初代所長を務めた元長州藩士・渡邊蒿蔵の遺品から、一首の歌が書かれたお茶碗が発見されたのです。
木のめつむ そてニおちくる 一聲(せい・声)ニ
よをうち山の 本とゝき須(ホトトギス)かも
そして、その末尾には、「久子 六十九才」と。
「木の芽を摘んでいると聞こえてくるホトトギスの声は、維新を成したホトトギスなのかも」
「一声」と「一聲」、「郭公」と「本とゝき須」。
これは、明らかに、あの日、松陰が詠んだ歌への返歌です。
69歳になってもなお、久子の恋は、未だ現在進行形だったのです。
さぁ、あの世で待つ松陰さん!
今度はあなたが彼女に歌を返す番ですよ。
高知の路面電車
高知の路面電車は日本が無くした心が残っている。
高知市内を通ると、路面電車のフロントガラスの上あたりに大きく「ごめん」と書いてあることに気づくだろう。
高知にはかつて日本を支えた最良の部分がまだ息づいている。それは礼節を重んじる心である。
高知県外から来る観光客は路面電車に乗って景色を楽しむことはあっても、電車が街中を走ることで市内の通行を乱し、多くの車や通行人に対して迷惑をかけていることに思いを致すことはないであろう。
しかし、高知県民は日ごろからそのような小さな出来事を見逃してはいない。いや、そのような日々の礼節を忘れない心こそが、坂本龍馬をはじめとする偉人たちを生み、幕末の日本を転回させたのだろう。
私は、東京の青山通りを我が物顔に走る高級車を見るたびに、高知の路面電車が「ごめん」とかしこまりながら町を進む姿を思い出すのである。そこには今の日本が無くした心が残っている。
いや、高知には御免線(ごめんせん)という路線があってだな・・・・。
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