昭和生まれ、東北出身の人間にとって、東京とは「上野から始まる大都会」というのが第一印象だった。
なぜなら、初めて上京した時も、東京に住み始めた時も、いずれも夜行列車に乗って到着した東京の駅は上野駅だった。
眠い目をこすりながら列車を降り、駅構内の売店でサンドイッチとジュースを買って上野公園に入り、西郷像の下でベンチに腰掛けて朝食を食べた時の、期待と不安の入り混じった心を今でも思い出すことが出来る。
そんな個人的な思い出も含めて「上野公園を歩く」というこのシリーズは、まず上野駅からスタートすることにした。
上野駅は日本初の私鉄・日本鉄道(現JR)が開業した1883年に、仮駅舎としてスタートした。路線は上野=熊谷間。現在の駅舎は関東大震災で焼失したのち1932年に二代目として完成したもの。
ホームに到着後、改札口に向かう前に15番線ホームの外れに向かう。ここに1つの歌碑が置かれている。
縦に書かれた文字
ふるさとの 訛なつかし
停車場の 人ごみの中に
そを 聴きにゆく
そう、石川啄木の「一握の砂」に掲載されている詩。1985年3月、東北新幹線の上野駅乗り入れを記念して建立されたものだ。
啄木は岩手県出身。1908年に上京し、1912年に26歳で病死するまでの青春時代4年間を東京で過ごした。そのころの、故郷への思慕を含んだ一首。東北出身の人なら誰しも共感を覚える言葉だ。
その歌碑からホームを歩いて、待ち合わせの目印として利用される「翼の像」を見ながら改札口を出る。広小路口から外に出ると、郷愁を呼ぶもう1つの歌碑が建っている。
「ああ上野駅」は前の東京五輪のあった1964年に、青森出身の歌手井沢八郎が歌ってヒットした。この歌は集団就職によって上京した若者たちの心情が素直に描写されている。
当時東北は、高度成長を始めた都会の人材供給の場でもあった。
横断歩道を渡って向かい側の上野駅前通りにも、啄木の歌碑があった。この碑の文字は、啄木と同じ岩手出身の言語学者金田一春彦によるものだ。
このように、上野駅周辺にはまだ、東北とのつながりを示すものがしっかりと残されている。