ようやく寛永寺にたどり着いた。
「江戸が東京に代わって決定的に失われたもの」の1つとして必ず取り上げられるものが寛永寺だ。
徳川家康、秀忠、家光三代にわたる将軍に厚遇された天海僧正が創建した、天台宗の関東総本山である大寺院。その敷地は現在の上野公園全体にわたり、30万5千坪という江戸随一の面積を誇った。
ただ、徳川幕府の崩壊とその時の上野戦争による戦火で大半の施設は焼失、さらに明治政府によって領地は接収されてしまった。
ようやく1871年になって寺院復興の許可が下り、かつての子院だった大慈院のあった現在地(東京芸大音楽学部の裏手)に移ったのだが、本堂の建物は川越喜多院の本地堂を移築したものになっている。
内陣には葵の御紋の入った装飾がなされている。(内部は通常入れないので、BSで放映されたものを活用しています)
幕末、鳥羽伏見の戦いで敗れ、江戸にもどった15代将軍徳川慶喜が一時身を寄せたのが、この寛永寺だった。本堂裏手にある書院・葵の間で約2か月間過ごし、江戸城無血開城が決まって、水戸へと旅立った場所だ。これも徳川幕府消滅の1つの象徴だった。
内陣の厨子内には秘仏本尊薬師三尊像が安置されている。が、まさに秘仏のため見る事は出来ない。その代わりの仏像(御前立)が置かれている。これは薬師如来像。
千手観音像もある。
本堂奥は徳川家の墓地になっていて、4代将軍家綱、5代綱吉、8代吉宗など6人の将軍がここに埋葬されている。
他の将軍は、初代家康、3代家光は日光東照宮、15代慶喜は谷中墓地、残る6人は芝増上寺に眠っている。
立派な門があった。4脚の門で切妻造りとなっている。
これはあの「生類憐みの令」で有名な5代将軍綱吉の霊廟勅額門だという。
細部を見ると非常に丁寧に加工されており、しかも光り輝く金箔や朱の色彩が鮮やかに残っている。
上野駅、西郷隆盛像から始まった上野歴史散歩も、ようやく今回で終点の寛永寺にたどり着きました。これが最終回となります。ご覧くださった皆様、本当に有難うございました。