西郷隆盛像の後方に、彰義隊の墓がある。上野の山は1868年の官軍と幕府軍とによる上野戦争の戦場となった場所だ。それまではこの一帯が寛永寺の広大な敷地となっていたが、その多くが戦火によって焼け落ちてしまった。
もともと彰義隊は15代将軍徳川慶喜の警護や江戸の治安維持を図るための組織だったが、慶喜が大政奉還を行って水戸に引きこもった後も、彰義隊は江戸に残って新政府軍と敵対していた。
このため、大村益次郎率いる政府軍は1868年7月4日朝、上野に籠った彰義隊への攻撃を開始、新兵器のアームストロング砲を打ち込んで、勝負は同日夕には決着した。
戦死した彰義隊266人の戦死体は長い間遺棄されていた。1874年になってようやく遺体が荼毘に付され、この墓所が設置された。今はのどかな公園になっている上野の地も、明治初期は全く想像も出来ない惨状が残されていたということだ。建立された墓石には「戦死者の墓」とだけしか記されていない。
墓の門や浄財箱には「義」の文字だけが記されている。言うまでもなく彰義隊の「義」だ。
識者によると、明治維新によって東京は大きく変貌したが、その原点は上野戦争で彰義隊が敗北するところから始まったともいわれる。
徳川幕府の発足とともに設立され、二百数十年にわたる繁栄と権力の象徴でもあった寛永寺の所在地である上野は、徳川幕府・江戸の栄光を背負ってきた場所でもあった。
そこでの彰義隊敗北と寛永寺の消滅によって、新政府は上野という場所から「徳川」の記憶を徹底的に消していく。
内国勧業博覧会の開催、博物館、美術館。大学などを次々に建設していった。
徳川の後ろ盾によってあれほどの繁栄を誇った寛永寺の大伽藍は、こうして次々と消滅し、人々の記憶から忘れられていく。 そんな大転換の歴史が、このそっけないほどの彰義隊墓所の背景に潜んでいる。
西郷さんの像の前には立ち止まって眺める人たちの姿はよくあるが、彰義隊の墓所に足を止める人は、何度付近を通っても全く見なかった。
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