街歩きから、ハイカラさんと名付けられた市内周遊バスで飯盛山へ。山頂までは183段の階段があるが、有料のスロープで一気に山頂へ上った。
ここは白虎隊の聖地。会津藩は戊辰戦争で敗北するが、敗色濃厚となった1868年3月、年少の男たちも兵として組織された。その中の1つに白虎隊もあった。
白虎隊は官軍の攻撃に遭い敗走、戸ノ口堰洞穴をくぐり抜けて飯盛山にたどり着いた。
この高台からは、はるかに鶴ヶ城が見渡せる。
眺めると、城は火の手が上がっており、兵士たちは「城が落城した」と覚悟を決め、この山にたどり着いた20人が切腹、あるいは互いに友を刺して最期を遂げた。白虎隊の悲劇だ。
実際は、敵が城に近づけないように城の周りの家に火を放ったのだが、山からはそれはわからなかった。
こうして白虎隊は壊滅した。ただ、20人のうちただ1人生き残った飯沼貞吉が、後に隊の最後の様子を語り、その模様が後世に伝わることになった。
19兵士の墓は当初明治政府によって埋葬が禁止されていたが、明治17年になってようやく慰霊祭が行われ、墓が造られた。
墓の近くに変わった塔があった。これは白虎隊のエピソードに感銘を受けたイタリアから贈られたもの。円柱はヴェスビオ火山の爆発で埋没したポンペイにあったローマ神殿の柱だという。
墓から少し下った所に、「世にも奇妙な」と形容される堂がある。さざえ堂。1796年に建てられた六角三層の仏堂だ。
高さは16.5m。当時ここにあった正宗寺の住職、僧郁堂が考案したとされる。
内部の通路は二重らせん構造になっており、上りと下りとは全く交わらずに通行できるようになっている。 二重らせんといえばまさにDNA。こうした二重らせんの階段はフランスのシャンポール城にもあり、レオナルド・ダ・ヴィンチが考案したとされているが、これと同じ構造の構築物が会津にもあるという不思議は、なかなかミステリアスだ。 このさざえ堂は国の重要文化財に指定されている。
天井には各種の札が隙間なく張り巡らされていた。
かつては階段に沿って西国三十三観音像が安置されていて、ここをお参りするだけで三十三か所の巡礼に相当するご利益が得られるとされた。今は像はわずかに残っているだけだった。
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