現在東京都美術館ではエゴン・シーレ展を開催中だ。ウイーンにあるレオポルド美術館所蔵の彼の絵を中心にしたもので、国内では30年ぶりの本格的なシーレ展となっている。
実は私も約10年前にレオポルド美術館でシーレの絵に衝撃を受けた経験がある。また、写真撮影も可能だったので作品資料もある。そこで当時の回想も含めてシーレの作品と生涯を振り返ってみた。
エゴン・シーレは1890年生まれ。そのころのウイーン社会は大きな変革の時期を迎えていた。街を囲んでいたリンクと呼ばれる城壁が取り払われ、その外壁跡の通りに次々と新しい建築が建てられた。
それも、ゴシック、ルネサンス、ギリシャ様式など、過去の建築様式を取り入れて新たに建築するという画期的な手法が採用された。壮麗な建築群が並び、その天井や壁画には新しい人材が起用された。
その一人がグスタフ・クリムト。
ブルク劇場の天井画で才能が認められ、さらに新しい芸術を志向して「分離派」を結成、運動の中心となった。長く続いたハプスブルク帝国最終版の円熟期だった。
シーレはそうした風潮や変革の風を感じながら成長、1906年には美術アカデミーに合格、絵の道を歩み始めた。
シーレはクリムトを尊敬し、師と仰いでいた。その表れとして挙げられるのが「枢機卿と尼僧」だ。左に男性、右に女性を配し、膝まづいてキスするこの作品の構図。
それはクリムトの代表作「接吻」と全く同じだ。
だが、彼はそこに留まろうとはしなかった。
「隠者たち」という作品で、新しい境地をそこに表現した。クリムトは生涯の尊敬の対象であった。従って濃密な関係であることを、まるで一体化したかのような姿で表しながらも、クリムトを後方に置き、師を振り向くこともせず新たに前を向いて進もうとする自らの決意を描いているように見える。
それは、風景画でもはっきりと表れる。
母の出身地であるクルマウ(現チェスキークルムロフ)を描いた作品「モルダウ河畔のクルマウ」。ぎっしりとすき間もなく並ぶ家々は、暗い色彩で塗りつぶされ、人は全くいない。町全体が喪に服しているように見える。「僕は死にゆく町や風景の悲しみ、孤独を深く求めた」。
一方、クリムトの風景画を見てみよう。生涯の友であったエミーリエ・フリーゲとともに幾多の夏を過ごしたカンマー湖の風景を描いた「カンマー城の公園の並木道」は、吹き抜けるような風と光と温かさを感じる。シーレの晩秋を思わせる重苦しさとは実に対照的だ。
こうして、シーレは独自の道を切り開いて行く。
なお、シーレが学んだウイーンの美術アカデミーの時期、「 IF 」のつく大きなエピソードが残されている。
というのは、シーレが入学した翌年の1907年と1908年、若かりしアドルフ・ヒトラーが試験を受け、不合格となって画家への道を断念するということがあった。
美術に大きな関心を持っていたヒトラーがもし合格していたならば、そしてシーレと共に絵を学んでいたならば、政治家になることも、独裁者になることもなく、そして戦争やホロコーストという大事件を起こすこともなかったのでは・・・・という気持ちになってしまう。
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