新イタリアの誘惑

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エドゥアール・マネとその時代を歩く④ 変貌するパリの街で、マネは観察し、語らい、描いた

2017-03-07 | マネと印象派

 当時のマネは連日パリの街を歩き、行きつけのカフェで友人と語らい、またカンバスに向かうという毎日だった。

 カフェは、ただ単にコーヒーを飲む場所というだけでなく、その場に集う様々な人たちが際限なく語り、意見を交わし、友となり、主張をぶつけ合って、時には人生の指針をも得る場所であった。

 19世紀末、パリには2万4千軒ものカフェがあったという。

 マネが通ったカフェは、まず「カフェ・ゲルボワ」。1864年にパティニョール通り34番地に引っ越したが、同じ番地にあったゲルボワには毎日のように通うところとなった。

 この店には、同様に近くに住んでいたラトゥール、バジール、カイユボットといった若き画家の卵たちが集い、さらにモネやルノワールたちも加わって、、後の印象派誕生のきっかけとなった。

 ゲルボワでマネが描いた作品の1つ「ル・ボン・ボック」。

 同地区は19世紀後半に大きく変貌した新興地区だった。1853年、ナポレオン3世によってセーヌ県知事に就任したオスマン男爵は、パリ大改革に着手した。古く狭い通りや不衛生な街並みを一掃し、広い道幅の大通り(グラン・プールヴァール)を全市域に設置、公園や広場を拡大していった。

 今もパリの中心部であるオペラ・ガルニエとオペラ大通りも、この時に整備された道の1つだ。

 また、モンマルトルに「ムーラン・ルージュ」が開店したのも1889年のことだった。

 こうした社会背景のもとに、人々が街に出る都会生活スタイルが広まりだし、そうした市民たちを収容するカフェが急速に普及していった。マネもそうした時代の若者だった。

 「ゲルボワ」の隣りにあったカフェで描いた作品「ラテュイユ親父の店にて」で、マネはまさに陽の差し込む開放的な空間での男女の語らいを作品化した。

 また、お気に入りの店だった「ブラッスリー・ド・レッシュショフェン」というカフェの賑わいの様子も2枚の絵になって残る。

 忙しく働く給仕女もまた彼の絵の対象となった。

 シルクハットの紳士は、友人でもあった版画家のアンリ・ゲラール。その隣の女性は女優エレン・アンドレ。


 エレンはドガの作品「アブサンを飲む人(カフェにて)」のモデルでもあった。

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