新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

上野歴史散歩㊽ 両大師の黒門には、上野戦争で空けられた大砲の穴が・・・。

2023-03-11 | 上野歴史散歩

 東京国立博物館の奥に両大師と呼ばれる寺がある。1644年に寛永寺を創建した天海僧正=慈眼大師を安置する堂が建てられた後に、天台宗中興の祖とされる慈恵大師良源が合祀されたことから「両大師」の通称が定着した。

 最初、大きな黒い門のある入り口から入ろうとしたが、鉄柵があって入れない。あきらめかけて博物館側に歩いていくと、もう1つの社殿のある入口が開いていて、入場できた。

 境内はたっぷりとした空間。入ってすぐ右手の阿弥陀堂には三体の仏様がにらみを利かせる。

 社殿にお参りして、右側の通路に向かう。

 特に気にも留めずに小さな門をくぐろうとしたら、脇に標識があった。

 なんと、これは「幸田露伴旧宅の門」だった。幸田露伴の代表作は「五重塔」。この小説の主人公、のっそり十兵衛のモデルとなった大工八田清兵衛は、この両大師の根本中堂を手掛けたと言う縁で、谷中の露伴邸からこの門を移築したのだという。いわゆるしもた屋風な素朴な門だ。

 対して大きな真っ黒い門はなんとも仰々しい。この門は寛永寺の旧本坊表門。上野戦争で戦火にさらされたが、どうにか生き残った。一旦帝国博物館正門として使われた後、1989年にここに移築された。その色から「黒門」とも呼ばれる。

 修復が行われてかなりきれいになっているが、一か所左門扉に円い穴が開いているのを見つけた。

 直径10cmもの大きな穴。まさに上野戦争の時、大砲の弾が貫通した痕だ。

 また、黒い塀の中で鮮やかなオレンジの紋(十六菊の紋章)が際立っていた。これは宮様の住まいだったことを表している。

 もう1つ戦争から残ったものが、鐘撞き堂。

 堂の屋根付近にキリンの木彫が残されていた。これも建築時は徳川家の威信を表す象徴として彫られたものだろう。

 

 

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上野歴史散歩㊼ 近現代の日本芸術界をリードする芸術家を生み出してきた東京芸術大学

2023-03-07 | 上野歴史散歩

 先日紹介した黒田記念館の左横の道を進むと、東京芸術大学に行き着く。

 大学は旧東京音楽学校と美術学校とが統合されて1949年に設立された。国内の最高レベルの芸術家を育成する場所で、世界的な活躍をする人を多数輩出している。

 校舎は2つに分かれていて、通りの北側が音楽学部の建物だ。 ここの卒業生では以前奏楽堂の項で紹介した滝廉太郎を始め、山田耕筰、団伊久磨など。

 現在も活躍中の坂本龍一も、ここの卒業生だ。

 少し進むと左側に美術学部が見えてくる。入口には旧東京美術学校玄関が残されている。立派な門構えで1913年の設立。都の歴史的建造物に指定されている。

 構内には大学美術館がある。日本近代美術を中心としたコレクションが約3万点も所蔵されており、同大学卒業生の卒業制作なども多数に上る。

主な卒業生には横山大観、藤田嗣治から現代の村上隆まで多士済々だ。

 中でも異色の存在として岡本太郎も見逃せない。

また、国の重要文化財に指定されている作品もいろいろ。

 上村松園の「序の舞」や

 高橋由一の「鮭」など、教科書で見た覚えのある作品も目白押しだ。

 また、同美術館の階段も「作品」といってよいほどの面白さだ。

 美術学部敷地の東端には別の門がある。これは元々学部正面にあったものだが、大学美術館の建設に伴いこの角地に移転された。レンガ造りが歴史を感じさせる。

 

 

 

 

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上野歴史散歩㊻ 見る者の心をつかみ取る、エゴン・シーレの「目」と「指」

2023-03-03 | 上野歴史散歩

 エゴン・シーレの、あの極度の緊張と衝撃を与える絵画の源は、彼の描く目(顔)と指(手)からもたらされるものと思える。

まずは目。ほとんどすべての目は怒りまたは悲しみに満ちている。それは同じウイーンの代表的画家クリムトの描く目との対比でもはっきりと表れる。

 クリムトの作品「死と生」。ほとんど恍惚とさえ言える柔らかな表情で、いや目を開けてさえいない絵も多いのとは対照的だ。

また、同時代にパリで活躍したモディリアニも人を多く描いたが、これとも対極的な違いを見せる。

 妻ジャンヌの肖像画。モディリアニは目そのものさえ描かずに人物を表現した。

 そうした比較を行うまでもなく、シーレの描く目(顔)の特別なもだえのうねりには圧倒的な魂の表出を感じてしまう。

 参考までに、モディリアニもまた36歳という若さで病死した。シーレの死のほぼ1年後、1920年1月のことだ。それも、モディリアニの死の翌日妻のジャンヌ・エピュテルヌは妊娠8か月の身で投身自殺。シーレ一家の最期とほぼ同じ運命をたどった。

 そして指。どの手、指もやせ細り、とんがっている。

世界で最も有名な人物画「モナリザ」を見てみよう。

 スフマート手法で描かれたモナ・リザの指は、柔らかく肉感的な温かさも感じさせる。いわば‟微笑み“の手なのに対して、シーレは叫びそのものだ。一片の妥協も許さないという主張が、その指先からほとばしっている。

 もう1つ、ロダンの作品「大聖堂」を見てみよう。柔らかく光を包み込むイメージ。希望を感じさせる手、指だ。

 だが、シーレの手はまるで光を拒絶しているかのように見える。

 このように、シーレはわずか28年の生涯を孤高のままで駆け抜け、全く独自の世界を築いて去って行った。
 最後に、ウイーンの心休まる風景を掲載してエゴン・シーレの特集を終えることにする。

 

 

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