極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

馬毛島の‘Three Kingdoms ’

2011年05月16日 | 時事書評

 

5月16日(月)2時30分 毎日新聞
<米軍再編>鹿児島・馬毛島で艦載機訓練 政府調整

馬毛島(まげしま)は大隅諸島の島の一つであり、鹿児島県西之表市の
大字である。郵便番号は891-3118。面積は8.20km²、周囲16.5km、最高
地点は島中央部の岳之越の71.7m、地勢は低くて平らである。種子島の
西方12kmの東シナ海上に位置している。島内にはニホンジカの1亜種で
あるマゲシカが棲息し、周辺は好漁場となっている。

ピーク時の1959年(昭和34年)には113世帯528人が住み、サトウキビ栽
培や酪農を営んでいたが、河川がなく農業に適さない土地であることに
加え、害虫や鹿の農作物被害が増加、生活が困窮し、徐々に島民が減少
していった。1980年(昭和55年)3月に最後の島民が島外に移住し、西
之表市立馬毛島小・中学校も最後の卒業生を送り出して閉校、一時無人
島となり、日本の無人島の中で北海道の渡島大島に次いで2番目に面積が
大きい島とされていた。しかし、2005年(平成17年)の国勢調査では15
人の住民がおり、再び有人島扱いとなっている。



かつての平和相互銀行の子会社であった馬毛島開発が、昭和50年代に石油
備蓄基地の候補地として買収を進めた結果、島の大部分を所有し、残りの
部分は市道と旧学校地が西之表市の公有地となっている。石油備蓄基地の
外にレジャーランド開発、自衛隊レーダーサイト、使用済み核燃料中間貯
蔵施設、日本版スペースシャトルの着陸場誘致など様々な利用構想が打ち
上げられてきたが、いずれも実現することは無く、わずかに土石採取など
が行われてきた。

2007年(平成19年)には硫黄島に代わる米海軍機の夜間離発着訓練場とし
ての利用も計画されたが、周辺自治体により反対決議がなされている。
2009年(平成21年)12月には沖縄県宜野湾市にある普天間飛行場の移設候
補地として検討されたが、この案は立ち消えとなっていた。






【三国志を巡る精神遺伝子】

中国で放映が始まるや、視聴率ランキングを独走し続けた大河ドラマ『三
国志Three Kingdoms』が日本上陸。TV初登場する。プロジェクト発足か
ら脚本完成までに4年、撮影と編集に2年の歳月を費やし、総製作費は中国
ドラマ史上最高となる25億円にのぼったという超大作。兵士15万人、馬1
万頭、このドラマを撮るにあたり、ロケ地の提供、審査の緩和など、国家
からの手厚サポートに加え、延べ15万人を超えるエキストラの多くは人民
解放軍の現役兵士を起用している。リアルな肉弾戦に『ロード・オブ・ザ・
リング』を手がけたスタッフによる特殊効果を加え、歴史的な大戦を驚異
の映像で描かれているという。



レンタルDVD を鑑賞し、五丈原(陳倉城)を巡る戦いのシーンは圧巻。し
ばしば、落涙を禁じ得ず。返却のための車中も、愛犬との散歩も思い出し
ては慟哭を押し殺し平静を取り繕うも乱れ甚だし。と、いうことになるの
だが、個人的な、季節の移ろいなどの背景や諸々の情況が重なり共感して
しまうのは、何もわたしだけであるまい。そうだ、これは中国は言うに及
ばず、朝鮮半島、日本列島の周辺の住民の「精神的遺伝子」ではないか。
いや、物質的な記号としての遺伝子ではなくて、不可避的に精神遺伝子の
記号を想定するしかない‘広大妄想領域’(私的浪漫主義)が広がる。

とまれ、『三国志』の伝来時期は正確には判明していない。天平宝字4年
(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の
暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣として
のイメージが形成されていた事が窺われという。天平宝字4年(760年)
淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」
「孫子九地」といった陣法を修得させている(『続日本紀』巻23)。また
神護景雲3年(769年)には称徳天皇が大宰府の請に応じて『史記』『漢書
』『後漢書』『三国志』『晋書』を下賜している(『続日本紀』巻30)。
これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例とされる。



『太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」(西源院本
の事書)には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、
斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ、
燈明寺畷での義貞の戦死を予感するという描写がある。この物語は曹操・
劉備存命中に五丈原の役が起こるなど日本でアレンジされた一つの三国志
物語とされるが、中世以降、五山の学僧や江戸の漢学者は主に朱子学に基
づき三国志の人物を論評す。諸葛亮が「王佐の才」を有するか否かについ
て鵜飼石斎はこれを肯定し、伊藤仁斎はこれを否定した。林鵞峰以降、江
戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれ、特に関羽と諸葛亮が至
忠の烈臣として讃えられた。

明治期の土井晩翠の新体詩「星落秋風五丈原」(明治32年(1899年)『天
地有情』所収)もこの伝統を踏まえ、明治以降の正史に基づいた史伝とし
て内藤湖南『諸葛武侯』(東華堂 1897年)、吉川幸次郎『三国志実録』
(筑摩書房 1962年)がある。また陳舜臣『秘本三国志』などの小説の一
部には正史の記述が取り入れられている。しかし、吉川三国志などの急速
な普及により三国志といえば、『三国志演義』の物語を指すのが通常であ
ったが、井波律子らにより『世界古典文学全集24 三国志』(全3巻、筑摩
書房 1977年 - 1989年)で、『正史 三国志』が初めて日本語完訳され、
ちくま学芸文庫版(全8巻、1993年)が、改訂再刊され、多くの人々が『
三国志演義』により固定化されていたイメージに疑問符がつく。



『三国志演義』の伝来時期も確定されていな。江戸初期には『演義』受容
の記録が漸く増加し、詩文などの中に演義の影響を受けたものも見られる。
林羅山は慶長9年(1604年)までに『通俗演義三国志』を読了し、元和2年
(1616年)に徳川家康の遺志により駿府の文庫から水戸藩・尾張藩へ移さ
れた書籍の内に『演義』があったと言われる。『三国志演義』の日本語訳
が、元禄2年(1689年)~692年)に湖南文山による『通俗三国志』が刊行。

昭和から平成にかけ、小川環樹・金田純一郎『三国志』(岩波文庫 1973
年完結時は全10巻、1988年に改版後は全8巻)、立間祥介『三国志演義』
(平凡社、初版1958年/徳間文庫全8巻 1983年、のち改訳改版され全4
巻)井波律子『三国志演義』(ちくま文庫全7巻、2003年)、渡辺精一『
新訳三国志』(天・地・人の巻で全3巻、講談社、2000年)がある。



『通俗三国志』の刊行以後、大衆文化にも三国志が普及し歌舞伎において
は早くも文化8年初演「助六由縁江戸桜」に「『通俗三国志』の利者関羽」
という台詞が出る。また万延元年初演「三人吉三廓初買」では「桃園なら
ぬ塀越しの、梅の下にて」義兄弟の契りを結ぶ場面があり、元文2年初演
の作品の「関羽」もある。近年では市川猿之助のスーパー歌舞伎『新・三
国志』がある。青森ねぶたでは『三国志演義』の登場人物になぞらえた山
車が『水滸伝』と共に出されている。



戦後のメディア作品としては吉川三国志をそのまま漫画化した横山光輝の
漫画『三国志』や人形劇の『人形劇三国志』などが高い評価を受け、コー
エーのゲームソフト『三國志シリーズ』がヒット作品となった。高度成長
期のビジネス競争の過熱の中で、競争を生き抜く知恵や企業のリーダー像
の見本として『孫子』などともに『三国志演義』もしばしば引き合いに出
され、『三国志演義』に学べとしたビジネス書が多数刊行されるが、ゲー
ム・漫画(アニメ化も)において爆発的な三国志ブームが起き、三国志は
ジャンルの一つとして定着している。

なるほど、こう言った背景がありわたしの意志とはかかわりなく‘感動’
させるのかと納得するのと同時に、返す思いに‘納得’している自分に納
得いかない自分がいる。

SimaYi.jpg

司馬 懿(しばい)は、中国後漢末期から三国時代魏にかけての武将・政
治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。
字は人知れた仲達。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号
される。河内郡温県孝敬里出身。司馬防の次子で、楚漢戦争期の十八王の
一人である殷王司馬卭の12世孫にあたる。司馬氏は代々尚書などの高官を
輩出した名門の家柄で、司馬懿自身幼い頃から厳格な家風の下に育つ。

司馬懿は若年の頃から博覧強記・才気煥発で知られ、司馬八達の中でも最
も優れた人物といわれ『晋書』「宣帝紀」によると、司馬懿は苛烈な性格
であったが感情を隠すのがうまく、内心激しい怒りを抱いている時も表面
では穏やかに振る舞ったといわれる。  
  

        天地開闢 日月重光
        遭遇際会 畢力選方
        将掃穢甫 還過故郷
        肅清万里 総斉八荒
        告成帰老 待罪武陽

          司馬懿「讌飲詩」  

青龍2年(234年)、諸葛亮が5度目の北伐を敢行してきた(五丈原の戦い)。
ので司馬懿は防衛に徹すが、諸葛亮は屯田を行い持久戦の構えをとって五
丈原で司馬懿と長期に渡り対陣するも病死し蜀軍は撤退する。退却したの
ちその陣跡を見て「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたといわれるが『漢
晋春秋』によれば、撤退する蜀軍に追撃したが、蜀軍が魏軍に再度攻撃で
司馬懿は退却し「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言う諺が生まれた
が、これに対し司馬懿は「生者を相手にすることはできるが、死者を相手
にするのは苦手だ」と言ったという。




嘉平3年(251年)、司馬懿は魏における全権を握ったものの、自身は同年
に死去し、遺言に従って首陽山に埋葬された。後に孫の司馬炎が魏より禅
譲を受けて皇帝となると、高祖宣帝と追号。司馬懿は死に際して息子達に
「みな私が謀反すると疑っていたので、私はいつもそのような疑いを懐か
れぬよう注意を払ってきた。私が死んだら、お前達はうまく国を治めるよ
う慎重に行動せよ」と言い残したが、曹操は「司馬懿は誰かに仕えるよう
な男ではない」と警戒されたが予言通り的中する。



 


【耐震産業用水配管と破断場所の自動検出】

今回の地震で農業用水配管が破壊され稲作が開始されないというニュース
みて、漏水などの箇所の自動検出ができないのか気になりネットで下調べ
する。通常、土質力学、地盤工学とか呼ばれる分野に関係するのだろうが
対策技術はあることが理解される。これらをマトリックス展開し、足らざ
るところを開発研究すれば良いわけだが、問題は、施工基準と埋設配管の
高度化(=高付加価値化)にともなう工事単価上昇の支援システムの構築
だろう(財政原論の見直し、関連法制の再構築)。これについては改めて
考えてみる。



【符号の説明】

10 ホースアセンブリ、11 ホース、12 継ぎ手金具、13 ICタグ(RFID)、
14 吸湿膨張材シート、15 電磁遮蔽膜、16 多孔質シート、17 ケース、18
防湿フィルム、20 熱源を有する装置、21 冷却水ホースアセンブリ取り付
け口、22 固定具、31 アンテナ、32 整流器、33 復調器、34 変調器、35 
メモリ、36 制御部、40 ICタグリーダ、41 アンテナ、42 送信器、43 受
信器、45 制御部、50 主制御部。

【課題】

工事やメンテナンスが比較的簡単であり、液漏れを早期に検出できて信頼
性が高い液漏れ検出方法、液漏れ検出システムを提供する。

【解決手段】

配管接続部にパッシブ型ICタグ13を配置し、その周囲に多孔質シート16
を配置する。また多孔質シート16の周囲に水溶性導電性高分子からなる電
磁遮蔽膜15と樹脂フィルム17とを配置し、ICタグ13とICタグリーダと
の間の通信を遮断する。液漏れが発生すると、漏えいした液体が多孔質シ
ート16を拡散して電磁遮蔽シート15と接触し、電磁遮蔽シート15は液体中
に溶解して消滅する。これにより、ICタグ13とICタグリーダとの間が
通信可能となり、液漏れの発生が検出される。



特開2010-216923




特開2008-51776

課題】

地中に埋設された水道配管等の漏水位置を高精度に検出する。

【解決手段】

漏水検出装置10は、配管5の検査区間の両端の位置A・Bに設置された振動
検出装置20A・20Bと、水中音と共通する周波数成分を有する配管振動の信
号を共通周波数成分信号として振動検出装置20A・20B毎に抽出する共通周
波数成分抽出部34と、各振動検出手段20A・20Bの共通周波数成分信号を相
互相関処理する相関処理部35と、相互相関処理の結果に基づいて、配管5
の漏水を検知するための漏水検知部36と、各振動検出装置20A・20Bに対応
する共通周波数成分信号の伝播時間の差Δτを求める時間差算出部37と、
伝播時間の差Δτに基づいて配管5の漏水位置Pを検出するための漏水位
置算出部38とを備える。



普天間移転問題に対する米国側からの動きがあった。これは大きくは米・
日・中の三国による外交枠組みが重要だと考えられる。そんなことを考え
ていたら中国テレビドラマ新版『三国志』を見終えたばかりだったので、
重なりあった。‘浪漫’も大切だし、それに繋がる‘大きな思考展開’も
大切だと思った次第。
                                                             
                              

 

 

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