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極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

天王寺七坂暮情

2015年09月30日 | 時事書評

 

 

    Beer is proof that God loves us and wants us to be happy

         ビールは、神がわれらを愛し、幸せになれと求める証なり。

                      ベンジャミン・フランクリン







【天王寺七坂暮情】


梅田、曾根崎の北区は、日々変化成長する記憶の匂を残しているが、道修町や四天王寺(阿倍
野を含めず)は落ち着いたたたずまいの匂いを残しているのは、享楽街と鉄道駅の集中からは
ずれている所為なのだろう。もっとも、上本町や近鉄が、阿倍野には近鉄と旧国鉄があるもの
の、北の梅田の阪急、阪神、南の難波の南海、旧国鉄(ここだけは環状線の駅はない)の街の
生業に由来するのだろう。ところが、道修町や船場にも大きな神社仏閣が点在するものの、天
王寺の下寺町に仏閣が集中していることに、成人になるまで何の疑問も抱かずにいた。

この下寺町界隈は、南北千四百メートル、東西四百メートルのエリアに約80仏閣が集中し府
内では随一、全国でも珍しい寺町を形成しているが、織田信長と対立し抗争した石難攻不落の
“砦”として10年以上耐え抜いた蓮如による石山本願寺以外には、聖徳太子が建立した四天
王寺、藤原冬嗣発願の藤次寺など、中世からすでに幾つかの寺院が存在していたが、天正11
年(1583年)の豊臣秀吉による大坂の城下町建設とともに――大坂城は上町台地の北端に
位置し、東は平野川・北は大川などが天然の要塞となり、西は東横堀川を開削し守りを固め、
南側の防御を強化するため、上町台地に寺を集中的に移転――寺町作りが始まる。江戸時代に
は11の寺町があり、うち2つは天満に、9つは上町台地に集まっていた。時代によって変遷
があるものの、上町台地の9つの寺町に180余りの寺院が存在し、第二次大戦の大阪大空襲
を免れての現在の仏閣数は、京都を上回る密集状態にある。そういえば、侍という字、寺のひ
とと表し、元来貴族のそばで仕えて仕事をするという意味だが、仏閣を守衛警備という職務も
含まれ、仏閣の造りも、高い壁で守られ、門を閉ざし、高所から矢玉を射掛けやすくなってい
るので大阪城の防衛に機能させたものと考えられる。

ところで、天王寺は、四天王寺の略称として平安時代から使用され、当地で合戦が繰り広げら
れた南北朝時代から地名に転化した。駅北西に位置する一心寺から生國魂神社にかけては「夕
陽丘」と呼ばれ、上町台地はこの辺りが急崖になっており、落陽の眺めが良い。また、天王寺
村は、かつて大阪府東成郡にあった村で、現在の大阪市天王寺区南東半、阿倍野区北西半、生
野区西部、浪速区東部、西成区東部にあたる。さらに、阿倍野は、四天王寺- 住吉大社間の上
町台地上と西斜面をさす地名で、摂津国から和泉国に至る交通の要衝地。高燥地のに荒涼とし
た原野が広がっていたが、中近世には「阿部野」と表記されることが多く、現在でも大阪阿部
野橋駅や阿部野神社にその名残をとどめる。地名の由来として最も有力な説は「阿倍寺」やそ
の建立者である「阿倍氏」とされ、「阿倍野」が近現代においては主流となる。



近世に、東成郡天王寺村と阿部野村となり、天王寺村は既存の7つの集落と四天王寺門前の町
場に加え、天明・寛政年間に天下茶屋を編入し、約1万人の人口を擁する大村となる。一方
阿部野村は1618年(元和4年)に天王寺新家阿部野村になり、1663年(寛文3年)に
天王寺村から分村した人口約三百人の小村で、範囲も狭く、現在の阿倍野区松虫通、晴明通、
相生通、阿倍野元町、王子町、阪南町の2-4丁目付近にすぎず、1889年(明治22年)
に天王寺村と阿部野村が合併して東成郡天王寺村となる。



       江戸の世に各宗派ごと集めたる寺のこぞれりこの七坂に      横山季由



上の一首の「寺のこぞれり」の箇所で流れでつまづく。「寺の挙れり」つまり、寺を残らず集
めたとつづくのでこれは成立するわけだから己の無知を笑うしかない。この短歌は、歌人の横
山季由(ヨコヤマキヨシ)の手になるもの(『天王寺七坂』/「現代短歌」15年9月号)。
なお、作者は、昭和23年5月15日京都府綾部市に生る。昭和42年豊里東小学校、豊里中
学校を経て綾部高校を卒業、4月大阪大学法学部に入学、10月関西アララギに入会。昭和4
4年7月アララギに入会。昭和46年大阪大学を卒業、日本生命に入社。昭和54年早稲田大
学システム科学研究所を卒業(日本生命より派遣)。平成7年三星生命(韓国)顧問。平成1
4年日本生命名古屋支社長、首都圏業務部長、仙台総支社長、営業教育部長等を経てニッセイ
同和損害保険(株)。現在、新アララギ、短歌21世紀、関西アララギ、北陸アララギ(柊)、
放水路、の各会員の経歴をもつ。
 




         一昼夜に四千句も詠みし西鶴の座像は建ちぬ南坊の跡       横山季由

         夕陽ケ丘の一等地に石を建て並べ墓地分譲の幟はためく       同   上 



上の一首は、生玉(生國魂)神社南坊址に、浮世草子の作者の大阪を代表する作家井原西鶴の
像をみて詠
んだもの。この神社は、元は大坂城付近にあり、寺町と同様、秀吉の築城計画に沿
ってこの地へ移した。完成は1585(天正13)年。大坂城の鬼門にあたり、ここも大坂城
防衛戦略に組み込まれた。秀吉は、ここを城の盾とするだけでなく、刀づくりのための鍛冶屋
職人、瓦職人や大工さんなどを集めた技能集団の町に特化させる。生國魂神社境内にある金物
や釜戸の神である鞴(ふいご)社は、製鉄、金属業界の守護神として11月の例祭には多くの
大手製鉄メーカが集まり、家造祖(やづくり]神社にはゼネコンのトップが集まる。

また、江戸時代に生玉神社で活躍した文化人として、上方落語の祖と言われる米沢彦八がいる。
大作家西鶴も初登場の場として生玉神社を選んでいる。このように生玉は、大阪の総鎮守とし
て崇敬されるとともに上方芸能と深い関係がある。また、浄瑠璃・文楽もある。境内には芸能
上達の神「浄瑠璃神社」があり、近松門左衛門をはじめ、三味線、人形遣い、太夫の文楽三業
の物故者が祀られる。

  
 「茶店軒を列ねて賑わしく」「傍邊の貸食屋(りょうりや)には荷葉(蓮の葉)飯を焚て

 進むさる程に遊客の手拍子きねが鼓の音に混じ三絃のしらべ神前の鈴の音に合して四時と
 もに繁盛なる」

                            『摂津名所図会大成』巻四


この賑わいを利用して様々な興行が催され、その中から彦八や西鶴を輩出し今日まで語り継が
れることになる。寛文十三年(1873)三月、当時は井原鶴永と名乗っていた32才の西鶴
が生玉神社南坊で行ったのは「万句興行」。十二日間を要して百韻百巻を成就した一大パフォ
ーマンス。「出座の俳士総べて百五十人、猶追加に名を連ねた者を加へると、優に二百人を超
える」(野間光辰 『刪補 西鶴年譜考證』)という大興行。同年(延宝元年)六月にはそれが
『生玉万句』として刊行されるが、それまで無名の西鶴の本格的デビューする。つまり、お笑
いと人情の上方文化を育んだのが"生玉さん"という背景がこの歌に読み込まれている。
    

         夕陽ケ丘の一等地に石を建て並べ墓地分譲の幟はためく       横山季由

         上町台地の下には海の迫りゐて防人も憶良も船出をしたり       同   上 


山上は、春日氏の一族にあたる皇別氏族の山上氏の出自とされ、山上の名称は大和国添上郡山
辺郷の地名に由来するとされるが、大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌
大宝2年、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。仏教や儒教の思想に傾倒。死や貧、
老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察する。このため、官人にあり
ながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など社会的な弱者をを多数詠み、当時
としては異色の社会派歌人で知られるが、「憶良」と「防人」を並べ詠んだのはそのことも意
識したためと思われる。


      下駄をはき僧衣の裾をひるがへし口縄坂を下りゆきたり   横山季由

       口繩坂登れば梅旧禅院あり芭蕉の木像をみ堂に祀りて       同    上

       降り口に桐の花咲く愛染坂を自転車飛ばし若者下る         同  上



松尾芭蕉のお墓は、滋賀の県大津市にある「義仲寺」にあるが、ここ大坂でも、芭蕉を慕う門
人や後世、芭蕉の顕彰に努めた人達により、墓が建てられる。ここ宝光山梅旧禅院は、曹洞宗
の寺院。松尾芭蕉が南御堂近くの花屋仁左衛門宅で亡くなった時、当時の梅旧禅院の住職がお
経を読んだと『花屋日記』に記録されている。境内には「芭蕉堂」があり、中には「芭蕉像」
が安置されている。この像は、もとは円成院に志太野坡が芭蕉の墓や句碑を建てた折、芭蕉の
木造を寄贈したが、この木造が粗末に扱われたため、これを知った不二庵二柳が怒り、芭蕉像
を引き取り梅旧禅院に芭蕉堂を建て、安置したと伝わる。口縄坂(くちなわざか)は、天王寺
区にある「天王寺七坂」のひとつ。「大阪みどりの百選」に選定されている。「口縄」とは大
阪の古い言葉で「蛇」のことであり、坂の下から道を眺めると、起伏が蛇に似ていることから
そう呼ばれるようになった。芭蕉の供養塔もこ坂界隈の梅旧院の中にある。

同じく、愛染坂の上には、
勝鬘院(しょうまんいん)がある。この寺院は、和宗の寺院。山号
は荒陵山。本尊は愛染明王で、愛染堂とも呼ばれ、四天王寺別院、西国愛染十七霊場・第一番
札所、聖徳太子霊跡・第二十九番札所である。
   

       

 
      北鮮系の人手に渡りし雲水寺今は統国寺とその名を変へぬ  横山季由

      茂吉らの歌会開きし雲水寺にアララギに繋がる吾らの集ふ  同  上

      昭和十年五月五日の憲吉忌茂吉文明ら雲水寺に集ひき    同  上

      茂吉らに繋がる吾らのひらく歌会を喜び下さる住職夫人は  同  上 

      戦火にも焼けず残りし雲水寺人手に渡り寺の名変へき    同  上



ここの雲水寺、つまり和気山統国寺は釈迦三尊を本尊とする在日コリアンの寺です。境内は
茶臼山史蹟の南部に隣接し難波の百済寺(難波百済古念仏寺)があったといわれている。茶臼
山池(河底池)を望む絶景地で大阪の名勝して知られる。元は聖徳太子が寺をの創建。602
年来日し暦法・天文学・地理学・方術などを伝えた百済の僧観勒(かんろく)が飛鳥寺で仏法
を説き僧正に任ぜられた後 開山住持としてここに招かれ、百済古念仏寺と名づけられ推古天
皇の帰依により国家の厚い保護を受け、元和元年(1615年)の大阪夏の陣で、徳川方に加
勢したため 真田幸村軍の攻撃により全山焼失するが、1689年黄檗宗の法源和尚により再
興されている。

また、宝永6年(1709年)、黄檗四代独湛(どくたん)和尚を招請して黄檗宗(おうばく
しゅう)に属し名を邦福寺と改め、さらに、近くの和気清麻呂が開いた和気堀にちなみ和気山
の山号をつけ。門前には 禅の修行僧が食べた普茶料理をだす坂口楼があり、昭和44年(19
69年)に在日本朝鮮仏教徒協会の傘下に入り、統国寺と改名され再復興する。朝鮮仏教儀礼
と朝鮮の伝統のある儀式を行い、納骨堂には朝鮮人殉難者達の遺骨が奉安され、諸精霊の供養
を通して世界平和を祈る。

古くより 文化人に愛され、斉藤茂吉のアララギ派大阪歌会もここで しばしばおこなわれて
いる。上の一首の憲吉は、この俳人、随筆家。大阪府生まれ。実家は料亭・なだ万の楠本憲吉。
文明は、歌人・国文学者の土屋文明。茂吉は、歌人、精神科医で、伊藤左千夫門下で、大正か
ら昭和前期にかけてのアララギの中心人物の斎藤茂吉。しかし、昭和10年(1935年)5
月5日が意味するところ不詳(要調査)。



      通天閣も統べてビルなかに群を抜きあべのハルカス高く天指す  横山季由




 


さて、今夜は短歌から、天王寺七坂を巡ってみた。思えば、四天王寺は、推古天皇元年(59
3年)に建立。「日本書紀」によると、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏に
ついた聖徳太子が形勢の不利を打開のために、自ら四天王像を彫り「もし、この戦いに勝たせ
ていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう。」と誓願し、勝利の後その誓い
を果すために建立された。敏達元年 (572)、物部守屋は排仏派として、崇仏派の大臣蘇我
馬子と対立していた。同14年(585)諸国に疫病が流行すると,守屋は,この疫病の流行
を馬子が仏像を礼拝し寺塔を建立したためであるとして,寺塔を焼き,仏像を難波堀江に捨て
ている。そう、堀江といえばわたしの実家があったところだった。





● 折々の読書 『職業としての小説家』10

   ときどき世間の人はどうしてこんなに芥川賞のことばかり気にするんだろうと不思議に
 思うことがあります。しばらく前のことですが、書店に行ったら『村上春樹はなぜ芥川賞
 をとれなかったか』みたいなタイトルの本が平積みになっていました。どんな内容だか、
 読んでないのでわからないけど――恥ずかしくてとても本人は買えませんよね――でもそ
 ういう本が出版されること自体、「なんか不思議なものだな」と首を傾げないわけにはい
 きません。だって僕が仮にそのとき芥川賞をとっていたとして、それによって世界の運命
 が変わっていたとは思えないし、僕の人生が大きく様変わりしていたとも思えないからで
 す。世界はおおむね今ある状態のままだったはずだし、僕も以来三十年以上、まあ少しく
 らいの誤差はあったかもしれないけど、だいたい同じようなペースで執筆を続けてきたは
 ずです。

  僕が芥川賞をとろうがとるまいが、僕の書く小説はおそらく同じような種類の人々に受
 け入れられ、同じような種類の人々を苛立たせてきたはずです(少なからざる数のある種
 の人々を苛立たせるのは、文学賞とは関係な(僕の生まれつきの資質のようです)。
  僕がもし芥川賞をとっていたら、イラク戦争は起こっていなかったみたいなことであれ
 ば、僕としてももちろん責任を感じるのでしょうが、そんなことはあり得ない。なのにど
 うして、僕が芥川賞をとらなかったことがわざわざ一冊の本になったりするのか? 

  正直言ってもうひとつ理解できないところです。僕が芥川賞をとったかとらなかったか
 なんて、コップの中の嵐というか……嵐どころか、つむじ風にもならないような些細なこ
 とです。 こういうことを言うと角が立ちそうですが、芥川賞というのはもともと文藷春
 秋という一出版社が主宰するひとつの賞に過ぎません。文熱春秋はそれを商売としてやっ
 ている-とまでは言わないけど、まったく商売にしていないといえば嘘になります。

  いずれにせよ、長く小説家をやっている人間として、実感で言わせてもらえれば、新人
 レベルの作家の書いたものの中から真に刮目すべき作品が出ることは、だいたい五年に一
 度くらいのものじやないでしょうか。少し甘めに水準を設定して二、三年に一度というと
 ころでしょう。なのにそれを年に二度も選出しようとするわけだから、どうしても水増し
 気味になります。もちろんそれはそれでぜんぜんかまわないんだけど(賞というのは多か
 れ少なかれ励ましというか、ご祝儀のようなものだし、間口を広げるのは悪いことではな
 いから)、でも客観的に見て、そんなに毎回マスコミあげて社会行事のように大騒ぎする
 レベルのものなのだろうかと思ってしまいます。

  そのへんのバランスがちょっとおかしくなっている。

  しかしそんなことを言い出したら、芥川賞のみならず、世界中すべての文学賞が「どれ
 だけの実質的価値がそこにあるのか?」という話になってしまいますし、そうなると話が
 前に進まなくなる。だって賃と名の付くもの、アカデミー賃からノーベル文学賃に至るま
 で、評価基準が数値に限定された特殊なものを除けば、その価値の客観的裏付けなんてい
 うものはどこにもないからです。けちをつけようと思えば、いくらでもつけられる。あり
 がたがろうと思えば、いくらでもありがたがれる。



  レイモンド・チャソドラーはある手紙の中で、ノーベル文学賞についてこのように書い
 ています。「私は大作家になりたいだろうか? 私はノーベル文学賃を取りたいだろうか?
 ノーベル文学賞がなんだっていうんだ。あまりに多くの二流作家にこの賃が贈られている。
 読む気もかき立てられないような作家たちに。だいたいあんなものを取ったら、ストック
 ホルムまで行って、正装して、スピーチをしなくちゃならない。ノーベル文学賃がそれだ
 けの手間に値するか? 断じてノーだ」

  アメリカの作家ネルソン・オルグレン(『黄金の腕を持った男』『荒野を歩け』)はカ
 ート・ヴォネガットの強い推薦を受けて、1974年にアメリカ文学芸術アカデミーの功
 労賃受賞者に選ばれたのですが、そのへんのバーで女の子と飲んだくれていて、授賃式を
 すっぽかしました。もちろん意図的にです。送られてきたメダルをどうしたかと尋ねられ
 て、「さあ……どこかに投げ捨てたような気がする」と答えました。『スタッズ・ターケ
 ル自伝』という本にそんなエピソード
が書いてありました。

  もちろんこの二人は過激な例外なのかもしれません。独自のスタイルと、一貫した反骨
 精神を
持って人生を生きた人たちですから。しかし彼らが共通して感じていたのは、ある
 いは態度によ
って表明したかったのはおそらく、「真の作家にとっては、文学賞なんかよ
 り大事なものがいく
つもある」ということでしょう。そのひとつは自分が意味のあるもの
 を生み出しているという手
応えであり、もうひとつはその意味を正当に評価してくれる読
 者が――数の多少はともかく――
きちんとそこに存在するという手応えです。そのふたつ
 の確かな手応えさえあれば、作家にとっ
ては賞なんてどうでもいいものになってしまう。
 そんなものはあくまで社会的な、あるいは文壇
的な形式上の追認に過ぎません。

  しかし世間の人々は多くの場合、具体的なかたちになったものにしか目を向けないとい
 うこと
も、また真実です。文学作品の質はあくまで無形のものですが、賞なりメダルなり
 が与えられる
と、そこに具体的なかたちがつきます。そして人々はその「かたち」に目を
 向けることができま
す。そのような文学性とは無縁の形式主義が、そしてまた「賞を与え
 てやるから、ここまで取り
に来なさい」という権威側の「上から目線」が、チャンドラー
 やオルグレンを必要以上に苛立た
せたのではないでしょうか。

  僕もインタビューを受けて、賞関連のことを質問されるたびに(国内でも海外でも、な
 ぜかよく質問されます)、「何より大事なのは良き読者です。どのような文学賞も、勲章
 も、好意的な書評も、僕の本を身銭を切って買ってくれる読者に比べれば、実質的な意味
 を持ちません」と答えることにしています。自分でも飽き飽きするくらい何度も何度も繰
 り返し、同じ答えを返しているのですが、ほとんど誰もそういう僕の言い分には本気で耳
 を貸してくれないみたいです。多くの場合無視されます。

  でも考えてみたら、これはたしかに実際、退屈な回答かもしれませんね。行儀の良い「
 表向きの発言」みたいに聞こえなくもない。自分でも時々そう思います。少なくともジャ
 ーナリストが興味をそそられる類のコメントではない。しかしいくら退屈でありふれた回
 答であっても、それが僕にとっては正直な事実なのだから仕方ありません。だから何度で
 も同じことを繰り返し口にします。読者が千数百円、あるいは数千円の金を払って一冊の
 本を買うとき、そこには思惑も何もありません。あるのは「この本を読んでみよう」とい
 う(たぶん)率直な心持ちだけです。

  あるいは期待感だけです。そういう読者のみなさんに対しては、僕は心から本当にあり
 かたいと思っています。それに比べれば――いや、あえて具体的に比較するまでもないで
 しょう。
  あらためて言うまでもありませんが、後世に残るのは作品であり、賞ではありません。
 二年前の芥川賞の受賞作を覚えている人も、三年前のノーベル文学賞の受貧者を覚えてい
 る人も、世間にはおそらくそれほど多くはいないはずです。あなたは覚えていますか? 
  しかしひとつの作品が真に優れていれば、しかるべき時の試練を経て、人はいつまでも
 その作品を記憶にとどめます。



  アーネスト・ヘミングウェイがノーベル文学賞をとったかどうか(とりました)、ホル
 ヘールイス・ボルヘスがノーベル文学賞をとったかどうか(とったっけ?)、そんなこと
 をいったい誰が気にするでしょう? 文学賞は特定の作品に脚光をあてることはできるけ
 れど、その作品に生命を吹き込むことまではできません。いちいち断るまでもないことで
 すが。芥川賞をもらわなくて損したことが何かあったか? ちょっと頭を巡らしてみたん
 ですが、それらしきことはひとつも思いつけませんでした。じゃあ得をしたことはあった
 か? どうだろう、芥川賞をもらわなかったせいで得をしたということも、べつになかっ
 たような気がします。

  ただひとつ、自分の名前の横に「芥川賞作家」という「肩書き」がつかないことについ
 てはいささか喜ばしく思っているところがあるかもしれません。あくまで予想に過ぎない
 のですが、いちいち自分の名前のわきにそんな肩書きがついたら、なんだか「おまえは芥
 川賞の助けを借りてこれまでやってこれたんだ」みたいなことを示唆されているようで、
 いくぶん煩わしい気持ちになったんじゃないかという気がします。今の僕にはとくにそれ
 らしい肩書きが何もないので、身軽というか、気楽でいいです。ただの村上春樹である(
 でしかない)というのは、なかなか悪くないことです。少なくとも本人にとっては、そん
 なに悪くないです。 

  でもそれは芥川賞に対して反感を持っているからではなく(繰り返すようだけど、そん
 なもの僕の中にはまったくありません)、自分があくまで僕という「個人の資格」でもの
 を書き、人生を生きてきたことについて、僕なりにささやかな誇りを持っているからです。
 たいしたものじゃないかもしれないけど、それは僕にとっては少なからず大事なことなの
 です。



  あくまで目安に過ぎないのですが、習慣的に積極的に文芸書を手に取る層は、総人口の
 おおよそ五パーセントくらいではないかと僕は推測しています。読者人口の核とも言うべ
 き五パーセントです。現在、書物離れ、活字離れということがよく言われているし、それ
 はある程度そのとおりだと思うんだけど、その五パーセント前後の人々は、たとえ「本を
 読むな」と上から強制されるようなことがあっても、おそらくなんらかのかたちで本を読
 み続けるのではないかと想像します。レイ・ブラッドベリの『華氏451度』みたいに、
 弾圧を逃れて森に隠れ、みんなで本を暗記しあう――とまではいかずとも、こっそりどこ
 かで本を読み続けるんじゃないかと。もちろん僕だってそのうちの一人です。

  本を読む習慣がいったん身についてしまうと-そういう習慣は多くの場合若い時期に身
 につくのですが―それほどあっさりと読書を放棄することはできません。手近にYouTube
  があろうが、3Dビデオゲームがあろうが、暇があれば(あるいは暇がなくても)進んで
 本を手に取る。

                                     「第三回 文学賞について」
                              村上春樹 『職業としての小説家』 


今回もとりたてて食いつくところがなかった。次回はこの続きと、「第四回 オリジナリティ
について」に入る。


                                   この項つづく






  

 

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最新ロギング工学

2015年09月29日 | 省エネ実践記

 

 

    本日9月28日、私、福山雅治は、吹石一恵さんと結婚致しました。

 

 

【省エネ実践記: 冬に備えて】

今夜は大きなニュースが2つ。午後5時過ぎに福山雅治が結婚するというのだが、テレビ画面のアナ
ウンサーを観ていると全国の女性の悲鳴を、驚嘆する姿を肌に感じた。そして、このニュースを伝え
ると彼女が部屋入るなり瞳孔をはち切れんばかりにあけ、「○△※・・・」と叫び声に似たような奇
声をあげていた。やはりこんなことがあるんだと、貴重な体験?をする。2つめは、火星に水が存在
することが映像――火星軌道上から分光計を使ってこれを観測したところ、模様の部分から塩の結晶
とみられる鉱物を計測。NASA がこの結果から、この模様が「塩水が流れていた跡」である可能性が
高いと分析――でとらえられらこと。

"Water on Mars: Nasa reveals briny flows on surface - as it happened" theguardian 2015.09.29

 

毎年のこの時期になる冬の暖房対策と節電を考えることがパターン化している。ということで、2つ
のアイテム
の購入検討を行う。1つは衣料品。ディギンズとオーバーオール――股下が蒸れて困ると
いう残件があるが――の着用は定着したといことで、この冬のアイテムにタートルネックウォーマ、
あるいはオフネックウォーマーとも呼ばれるが、上写真(定価699円)のオフタートルネックを購
入することを決定する。もう1つのアイテムは、電子レンジ用ブレッドメーカ(ルクエ)という調理
容器(下写真)。ブレッドメーカーとしてだけでなく、材料をまぜレンジで数分チン!するだけでお
肉やお魚は素材から出る油でおいしくローストでき、スチームロースター(レクエ製)の約2倍の大
きさで、パンはもちろん、肉、魚、野菜料理にも、野菜はシャキシャキでヘルシー料理でかんたんに
楽しめ、スポンジでさっと洗えお手入れも簡単。値段は高いが、アイデア次第でレシピの数はひろが
る。



【最新ロギング工学: バイオロギングが拓く未来】

生産現場は、人間力、総合科学力で決まると思う。電子部品の製造プロセスのスループットからスル
ーアウトの製造問題解決に長年携わった経験からそう思う。複数のプロセスにまたがる中間製品の製
造で発生する問題を臨機応変で対処するためのツールとして、30、40年前にはデーターロガーな
ど存在すらしなかったと言えば、『デジタル革命渦論』の進展で高性能で、コンパクトが普及した現
在では信じられないだろうが、例えば、中間製品の不良原因を調査に、その製品にセンサとデータロ
ガーを搭載し、その履歴データから原因を突き止めることもできなかったし、できたといても大きな
ものとなり、そのための工程変更が必要になり、変更によるまた新たな不良を発生させるという、時
には危険な目にあいながら、工程管理担当者から叱責されなが、失敗を重ねてきたが、極小で、極薄
軽量で、高性能なセンサとデータロガーが搭載することがあれば、無駄な生産コストを逓減できる。

さて、バイオロギング(上図)の話。 野生生物の行動をモニタリング技術として,バイオロギング
とバイオテレメトリという技術があるが、下図の特許のように、導電性の十分低い淡水中を自由行動
する魚、亀、イルカ、鯨などの移動体(信号源)に取り付けた電極、温度センサ、圧力センサ、速度
センサ、位置センサないしトランスジューサなどから得られる電磁波信号をとぎれなく受信する水中
テレメトリー装置であって、該水中に多数の単位受信アンテナをお互いに大略波長以上の距離を離し

て分布配置し、これら多数の単位受信アンテナの各々から得られる受信信号をすべて同振幅と同位相
にて加算して受信機入力とする如く構成した水中テレメトリー装置を移動体の移動時の姿勢も分析で
きるデータを記憶させることができる、よりコンパクト構造の耐圧性データロガー装置が提案されて
いる(特開2011-080850)。また、水圏生物の複数の個体を、長期間にわたり、安定し高い信頼性で
追跡できる水圏生物のモニタリング装置及び方法を提供が提案されている(特開2013-044670)。さ
らに、音情報を視覚化する発光装置を用いた音源定位推定システムの提案がされている(特開2010-
133964)。
 

ここでは、昆虫の固体に、超小形カメラとデータロガーを搭載したバイオロギングが例はないが、近
い将来、虫ピンほどの薄さのデータロガー、センサや爪楊枝の径のカメラが開発されれば、広く社会
に応用展開され、旦那の浮気履歴データが法廷に提出され裁かれるといった現場か誕生しているかも
せれない。これは、大変面白いことだが、このように、えらい目に遭っているかもしれない。
 



● 折々の読書 『職業としての小説家』9


   文学賞というものについて語りたいと思います。まず最初に、ひとつの具体的な例として、芥川龍之介
 賞(芥川賞)について話します。わりに生々しいというか、かなり直接的で機微に触れ
る話題な
 ので、語りにくいところもあるのですが、でも誤解をおそれずに、ここらへんでひとつ
話してお
 いた方がいいかもしれない。そういう気がします。芥川賞について語ることは、あるい
 は文学
 賞というものについて総体的に語ることに通じるかもしれません。そして文学賞について 
語る
 ことは、現代における文学のひとつの側面を語ることになるかもしれません。


  少し前のことですが、某文芸誌の巻末コラムに芥川賞のことが書かれていました。その中に

 川賞というのはよほど魔力のある賞なのだろう。落ちて騒ぐ作家がいるから、ますます名声
が高
 まる。落ちて文壇から遠ざかる村上春樹さんのような作家がいるからますます権威のほどが
示さ
 れる」という文章がありました。書いたのは「相馬悠々」という名前の人ですが、もちろん
誰か
 の匿名でしょう。 

  僕はたしかにその昔、もう三十年以上前のことですが、芥川賞の候補に二度なったことがあり
 ます。どちらのときも受賞しませんでした。そしてたしかに文壇みたいなところから比較的離れ
 た場所で仕事をしてきました。でも僕が文壇から距離を置いて仕事をしていたのは、芥川賞をと
 らなかった(あるいはとれなかった)からではなく、そういう場所に足を踏み入れること自体に、
 そもそも関心も知識も持っていなかったからです。本来関係のない二つのものごとのあいだに、
 このような因果関係を(いわば)勝手に求められても、僕としては困ってしまいます。
 
  こういうことを書かれると、世の中には、「そうか、村上春樹は芥川賞をとれなかったから、
 文壇から離れて生きてきたのか」と素直に思い込んでしまう人だっているかもしれない。下手を
 したらそれが通説になってしまう恐れもあります。推論と断定とを使い分けるのは、文章を書く
 ことの基本じゃないかと思うんだけど、そうでもないのかな。まあ同じことをしていても、昔は
 「文壇に相手にもしてもらえない」と言われていたのが、最近では「文壇から遠ざかる」と言わ
 れるようになったのだから、むしろ喜ぶべきなのかもしれませんが。

  僕が文壇からわりに遠いところにいたのは、ひとつには僕の側に「作家になろう」というつも
 りがもともとなかったからだと思います。普通の人間としてごく普通に生活を送っていて、ある
 ときふと思い立って小説をひとつ書いて、それがいきなり新入賞をとってしまった。だから文壇
 がどういうものなのか、文学賞がどういうものなのか、そういう基礎的な知識をほとんどひとか
 けらも持っていなかったわけです。

  それからそのときは「本業」を持っていたので、日々の生活がなにしろ忙しく、片づけるべき
 ものごとをひとつひとつ片づけていくだけで手一杯だった、ということもあります。身体がいく
 つあっても足りないというか、必要不可欠ではないものごとと関わりを持つような時間的余裕が
 なかったのです。専業作家になってからは、そこまで忙しくはなくなったけれど、思うところあ
 って現実的に早寝早起きの生活を送るようになり、日常的に運動をするようになり、おかけで夜
 中にどこかに出かけるということもほとんどなくなりました。だから新宿のゴールデソ街にも足
 を踏み入れたことかありません。何も文壇に対して、あるいはゴールデン街に対して反感を持っ
 ているというのではありません。ただ現実的にそういう場所に関わったり、足を運んだりする必
 要性も時間的余裕も、その当時の僕にはたまたまなかったというだけです。

  芥川賞に「魔力がある」のかどうか僕はよく知らないし、「権威がある」かどうかも知らない
 し、またそういうことを意識したこともありませんでした。これまでに誰がこの賞を取って、誰
 が取っていないのか、それもよく知りません。昔から興味があまりなかったし、今でも同じくら
 い(というか、ますます)ありません。もしそのコラムの著者がおっしゃるように、芥川賞に魔
 力みたいなものがあったとしても、少なくともその魔力は僕個人の近辺にまでは及んでいなかっ
 たみたいです。たぶんどこかで道に迷って、僕のところまではたどり着けなかったのでしょう。

  僕は『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』という二作品でこの芥川賞の候補になり
 ましたが、正直に申しまして、僕としては(できればそのまますんなり信じていただきたいので
 すが)、とってもとらなくてもどちらでもいいと考えていました。
  『風の歌を聴け』という作品が文芸誌「群像」の新入賞に選ばれたときは本当に素直に嬉しか
 った。それは広く世界中に向かって断言できます。僕の人生におけるまさに画期的な出来事でし
 た。というのは、その賞が作家としての「入場券」になったからです。入場券があるのとないの
 とでは、話はまったく違ってきます。目の前の門が開いたわけですから。そしてその入場券一枚
 さえあれば、あとのことはなんとでもなるだろうと僕は考えていました。芥川賞がどうこうなん
 て、その時点では考える余裕さえありませんでした。

  もうひとつ、その最初の二作品については、僕自身それほど納得していなかったということも
 あります。それらの作品を書いていて、自分が本来持っている力のまだ二、三割しか出せていな
 いな、という実感がありました。なにしろ生まれて初めて書いたものなので、小説というものを
 どのように書けばいいのか、基本的な技術がよくわかっていなかったのです。今にして思えばと
 いうことですが、「二、三割しか力を出せていない」ということが、遂にある種の良さになって
 いる部分はなくはないと思います。しかしそれはそれとして、本人としては、作品の出来には満
 足しかねる部分が少なからずありました。

  だから入場券としてはそれなりに有効だけど、これくらいのレベルのもので「群像」新入賞に
 続いて芥川賞までもらってしまうと、遂に余分な荷物を背負い込むことになるかもしれない、と
 いう気がしたのです。今の段階でそこまで評価されるのは、いささか「トゥーマッチ」なんじゃ
 ないかと。もっと平たく言えば「え、こんなものでいいんですか?」ということですね。

  時間をかければ、これよりもっと良いものが書けるはずだ――そういう思いが僕にはありまし
 た。ついこのあいだまで自分が小説を書くなんて考えてもいなかった人間としては、かなり傲慢
 な考えかもしれません。自分でもそう思います。でも個人的な見解を正直に述べさせていただけ
 れば、それくらいの傲慢さがなければ、人はだいたい小説家になんてなりはしません。

 『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』、どちらのときもマスコミ的には芥川賞の「最
 有力候補」と言われ、まわりの人も受賞を期待したみたいだけど、前に述べたような理由で、僕
 としては受賞を逃してむしろほっとしたくらいでした。落とす方の選考委員の人たちの気持ちも、
 「まあ、そういうもんだろうな」と僕なりに理解することができました。少なくとも恨みに思っ
 たりはまったくしなかった。またほかの候補作品に比べてどうこうというようなことも考えませ
 
んでした。

   その当時僕は都内でジャズ・バーのようなものを経営しており、ほとんど毎日店に出て働い
 ていたので
 賞を取って世間的に脚光を浴びたりしたら、まわりが騒がしくなって面倒だろうな、
 ということもありました。

  いちおう客商売ですから、会いたくない人間が来ても、逃げるわけにいかない-とはいえ、耐
 えきれずに
 逃げ出したことも何度かありますが。
  二度候補になり、二度落選したあとで、まわりの編集者だちから「これでもう村上さんはアガ
 リです。この
先、芥川賞の候補にはなることはないでしょう」と言われて、「アガリって、なん
 
だか変なものだな」と思ったのを覚えています。芥川賞というのは基本的に新人に与えられるも
 
のなので、ある時期がくると候補リストから外されるようです。その文芸誌のコラムによれば
 回も候補になった作家もいるということですが、僕の場合は二回でアガリだった。どうしてな

 か、事情はよくわかりませんが、とにかくそのときは「村上はこれでもうアガリ」というコン

 ンサスが、文壇的・業界的にできていたみたいです。きっとそういうしきたりだったのでしょう。

  でもアガリになったからといって、別にがっかりすることもなかった。かえってすっきりした
 というか、芥川賞についてもうこれ以上考える必要がなくなった、という安堵感の方が強かった
 ように思います。僕自身は受賞してもしなくても、ほんとにどちらでもよかったんですが、候補
 になると、選考会が近づくにつれて周囲の人たちが妙にそわそわして、そういう気配がいささか
 煩わしかったことを覚えています。変な期待感かあり、モれなりの細かい苛立ちみたいなものが
 あった。また候補になるだけでメディアにも取り上げられ、その反響も大きく、反撥みたいなも
 のもあり、そういうあれこれが何かと面倒でした。二回だけでもずいぶん彭陶しいことが多かっ
 たのに、毎年そんなことが続いていたらと想像すると、それだけでかなり気が重くなります。
 
  中でもいちばん気が重かったのは、みんなが慰めてくれることでした。落選すると、多くの人
 が僕のところにやってきて、「今回は残念でしたね。でもきっと次には絶対とれますよ。次作、
 がんばってください」と言ってくれました。相手が――少なくとも多くの場合――好意で言って
 くれていることはわかるんだけど、そう言われるたびに、何と返事すればいいのかわからなくて、
 僕としてはなんだか複雑な気持ちになりました。「ええ、まあ……」みたいなことを言って話を
 適当にごまかすしかありません。「かまわないんですよ、とくに取らなくても」と言ったところ
 で、誰も額面通りには受け取ってはくれないだろうし、かえって場がしらけそうだし。

  NHKも面倒だったですね。候袖になった段階で「芥川賞を受賞されたら、翌朝のテレビ番組
 に出演してください」と言われます。そういう電話がかかってくる。僕は仕事が忙しいし、テレ 
 ビになんか出たくはないから(人前に出るのがもともと好きじゃない性格なので)、いやだ、出
 ませんと言ってもなかなか引き下がってくれない。遂になぜ出ないのかと腹を立てられたりもし
 ました。候補になるたびにそういうことがいろいろあって、煩わしく感じることが多かったです。



                                      「第三回 文学賞について」
                                  村上春樹 『職業としての小説家』 

                                     この項つづく

 
 

 

 

 

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漂流する日本

2015年09月28日 | 環境工学システム論

 

 

    価値観がゼロであろうが、百であろうがどちらでも、一人一人の
        個性に従って自分の本音を言ったってだれからもとがめられる筋
        合いはない、というのが今の社会。それは別に遠慮することはな
        いと僕は思っています。

                                                   吉本 隆明 / 『国家と宗教のあいだ』 

 

 



● 折々の読書 『職業としての小説家』8


中国プラントの仕事を終え、仕事休みの午後、家でアサヒの壜ビールやあるいは35年に米国で、6
5年に日本初めて販売された缶ビールを飲み、81年初めてイタリア最大の調理師学校(CRFP)教授
フランチェスコの技術伝授の伊藤ハムのピッツアを食べながら村上春樹の小説を読むのが楽しみだっ
た時がしばらくつづいたが、コンテンポラリーな軽妙な『風の歌を聴け』と出会うことがなければこ
の生活スタイルはなかっただろうと思う。『羊をめぐる冒険』を経て村上の五作目の『ノルウェイの
森』までそれはつづいたが、それをやめた理由についてはあとにするとして、今夜も読み進めよう。


  ときどき「おまえの文章は翻訳調だ」と言われることがあります。翻訳調というのが正確にど
 ういうことなのか、もうひとつよくわからないのですが、それはある意味ではあたっているし
 る意味でははずれていると思います。最初の一章分を現実に日本語に「翻訳した」という字義通
 りの意味においては、その指摘には一理あるような気もしますが、それはあくまで実際的なプロ
 セスの問題に過ぎません。僕がそこで目指したのはむしろ、余分な修飾を排した「ニュートラル
 な」、動きの良い文体を得ることでした。僕が求めたのは「日本語性を薄めた日本語」の文章を
 書くことではなく、いわゆる「小説言語」「純文学体制」みたいなものからできるだけ遠ざかっ
 たところにある日本語を用いて、自分自身のナチュラルなヴォイスでもって小説を「語る」こと
 だったのです。そのためには捨て身になる必要がありました。極言すればそのときの僕にとって、
 日本語とはただの機能的なツールに過ぎなかったということになるかもしれません。

  それを日本語に対する侮辱ととる人も、中にはいるかもしれません。実際にそういう批判を受
 けたこともあります。しかし言語というのはもともとタフなものです。長い歴史に裏付けられた
 強靭な力を有しています。誰にどんな風に荒っぽく扱われようと、その自律性が損なわれるよう
 なことはまずありません。言語の持つ可能性を思いつく限りの方法で試してみることは、その有
 効性の幅をあたう限り押し広げていくことは、すべての作家に与えられた固有の権利なのです。
  そういう冒険心がなければ、新しいものは何も生まれてきません。僕にとっての日本語は今で
 も、ある意味ではツールであり続けています。そしてそのツール性を深く追求していくことは、
 いくぶん大げさにいえば、日本語の再生に繋がっていくはずだと信じています。

  とにかく僕はそうやって新しく獲得した文体を使って、既に書き上げていた「あまり面白くな
 い」小説を、頭から尻尾までそっくり書き直しました。小説の筋そのものはだいたい同じです。
 でも表現方法はまったく違います。読んだ印象もぜんぜん違います。それが今ある『風の歌を聴
 け』という作品です。僕はこの作品の出来に決して満足したわけではありません。書き上げたも
 のを読み直してみて、未熟で、欠点の多い作品だと思いました。自分か表現したいことの二割か
 三割くらいしか書けていない、と。でも初めての小説をなんとか、いちおう納得のいく形で最後
 まで書き上げたことで、自分はひとつの「大事な移動」を為し終えたのだという実感がありまし
 た。言い換えれば、あのときの  epiphany  の感覚に、ある程度自分なりにこたえることができた、
 ということになるかもしれません。

  小説を書いているとき、「文章を書いている」というよりはむしろ「音楽を演奏している」と
  いうのに近い感覚がありました。僕はその感覚を今でも大事に保っています。それは要するに、
  頭で文章を書くよりはむしろ体感で文章を書くということなのかもしれません。リズムを確保し、
 素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること。とにかく真夜中にキッチン・テーブルに向か
 って、新しく獲得した自分の文体で小説(みたいなもの)を書いていると、まるで新しい工作道
 具を手にしたときのように心がわくわくしました。とても楽しかった。そして少なくともそれは、
 僕が三十歳を前にして感じていた心の「空洞」のようなものを、うまく満たしてくれたようでし
 た。

  最初に書き上げたその「あまり面白くない」作品と、今ある『風の歌を聴け』を並べて比較対
 照できればわかりやすいのでしょうが、残念ながら「あまり面白くない」作品の方は破棄してし
 まったので、それはできません。どんなものだったか、自分でもほとんど覚えていません。とっ
 ておけばよかったんだけど、こんなもの要らないと思って、あっさりゴミ箱に放り込んでしまい
 ました。僕に思い出せるのは、「それを書いているときあまり楽しい気持ちにはなれなかった」
 ということくらいです。そういう文章を書くことが楽しくなかったんですね。それはその文体が、
 自分の中から自然に出てきた文体ではなかったからです。サイズの合わない服を着て運動してい
 るのと同じです。

  「群像」の編集者から「村上さんの応募された小説が、新人賞の最終選考に残りました」とい
 う電話がかかってきたのは、春の日曜日の朝のことです。神宮球場の開幕戦から一年近くが経ち、
 僕は既に三十歳の誕生日を迎えていました。たぶん午前十一時過ぎだったと思うのですが、仕事
 が前の日の夜遅くまであったので、そのときまだぐっすり眠っていました。寝ぼけていて、受話
 器をとったものの、相手がいったい何を僕に伝えようとしているのかうまく理解できません。僕
 は、本当に正直な話、その原稿を「群像」編集部あてに送ったことすらすっかり忘れていたから
 です。それを書き上げ、とりあえず誰かの手に委ねてしまったことで、僕の「何かを書きたい」
 という気持ちはもうすっかり収まっていました。いわば開き直って、思いつくままにすらすら書
 いただけの作品だったから、そんなものが最終選考に残るなんて予想してもいませんでした。原
 稿のコピーさえとっていません。だからもし最終選考に残っていなかったら、その作品はどこか
 に永遠に消えてなくなってしまっていたはずです。そして僕はもう小説なんて二度と書いていな
 かったかもしれません。人生というのは、考えてみれば不思議なものです。

  その編集者の話によれば、僕のものを含めて全部で五篇の作品が最終選考に残ったということ
 です。「へえ」と思いました。でも、眠かったこともあって、あまり実感は湧かなかった。僕は
 布団を出て顔を洗い、着替えて、妻と一緒に外に散歩に出ました。明治通りの千駄谷小学校のそ
 ばを歩いていると、茂みの陰に一羽の伝書鳩が座り込んでいるのが見えました。拾い上げてみる
 と、どうやら翼に怪我をしているようです。脚には金属製の名札がつけられていました。僕はそ
 の鳩を両手にそっと持ち、表参道の同潤会青山アパートメント(今は「表参道ヒルズ」になって
 いますが)の隣にある交番まで持って行きました。それがいちばん近くにある交番だったからで
 す。原宿の裏通りを歩いて行きました。そのあいだ傷ついた鳩は、僕の手の中で温かく、小さく
 震えていました。よく晴れた、とても気持ちの良い日曜日で、あたりの木々や、建物や、店のシ
 ョーウィンドウが春の日差しに明るく、美しく輝いていました。

  そのときに僕ははっと思ったのです。僕は間違いなく「群像」の新入賞をとるだろうと。そし
 てそのまま小説家になって、ある程度の成功を収めるだろうと。すごく厚かましいみたいですが、
 僕はなぜかそう確信しました。とてもありありと。それは論理的というよりは、ほとんど直観に
 近いものでした。
  僕は三十数年前の春の午後に神宮球場の外野席で、自分の手のひらにひらひらと降ってきたも
 のの感触をまだはっきり覚えていますし、その一年後に、やはり春の昼下がりに、千駄谷小学校
 のそばで拾った、怪我をした鳩の温もりを、同じ手のひらに記憶しています。そして「小説を書
 く」意味について考えるとき、いつもそれらの感触を思い起こすことになります。僕にとってそ
 のような記憶が意味するのは、自分の中にあるはずの何かを信じることであり、それが育むであ
 ろう可能性を夢見ることでもあります。そういう感触が自分の内にいまだに残っているというの
 は、本当に素晴らしいことです。

  最初の小説を書いたときに感じた、文章を書くことの「気持ちの良さ」「楽しさ」は、今でも
 基本的に変化していません。毎日朝早く目覚めて、キッチンでコーヒーを温め、大きなマグカッ
 プに注ぎ、そのカップを持って机の前に座り、コンピュータを立ち上げます(ときどき四百字詰
 原稿用紙と、長く愛用していたモンブランの太い万年筆を懐かしく思いますが)。そして「さあ、
 これから何を書こうか」と考えを巡らせます。そのときは本当に幸福です。正直言って、ものを
 書くことを苦痛だと感じたことは一度もありません。小説が書けなくて苦労したという経験も
 (ありかたいことに)ありません。というか、もし楽しくないのなら、そもそも小説を書く意味
 なんてないだろうと考えています。苦役として小説を書くという考え方に、僕はどうしても馴染
 めないのです。小説というのは、基本的にすらすらと湧き出るように書くものだろうと思います。

  僕は何も、自分を天才だと思っているわけではありません。何か特別な才能が自分に具わって
 いると、あらためて考えたこともありません。もちろんこうして三十年以上、専業小説家として
 メシを食っているわけだから、まったく才能がないということはないはずです。たぶんもともと
 何かしらの資質、あるいは個性的な傾向みたいなものはあったのでしょう。でもそんなことにつ
 いて自分であれこれ考えたって、何も利するところはないと思っています。そんな判断は他の誰
 かに――もしそういう人がどこかにいるとすればですが--jまかせておけばいいのです。

  僕が長い歳月にわたっていちばん大事にしてきたのは(そして今でもいちばん大事にしている
 のは)「自分は何かしらの特別な力によって、小説を書くチャンスを与えられたのだ」という率
 直な認識です。そして僕はなんとかそのチャンスをつかまえ、また少なからぬ幸運にも恵まれ、
 このように小説家になることができました。あくまで結果的にではありますが、僕にはそういう
 「資格」が、誰からかはわからないけれど、与えられたわけです。僕としてはそのようなものご
 との有り様に、ただ素直に感謝したい。そして自分に与ええられた資格を――ちょうど傷ついた
 鳩を守るように――大事に守り、こうして今でも小説を書き続けていられることをとりあえず喜
 びたい。あとのことはまたあとのことです。

                                     「第二回 小説家になった頃」
                                  村上春樹 『職業としての小説家』 

                                     この項つづく 
                             

 

  

【再エネ百パーセント時代: 時代は太陽道を渡る 15 】 

● データで見る日本のエネルギー政策の孤立性と特異性

 前回段で「ベストミックス」という用語と概念がいかに世界の潮流から乖離した日本固有の発想で
あるかが安田陽氏により論じられた
が、今夜はひきつづき、国際比較分析を進め、日本のエネルギー
政策(特に電源構成のあり
方)がいかに世界から孤立しているかをデータとエビデンスで示していく
上図5、6は前回と同様、90年から13年(現在統計データが入手可能な最新の年)までの電源構成
を時系列
で並べたもので、今回は図5にドイツ、図6に欧州(ただし経済協力開発機構(OECD)
に加盟している欧州25ケ国の
平均)のグラフを示す。前回は変動性再エネ(VRE)の導入が著し
いデンマーク、ポルトガル、スペインの3ヶ国を例にったが、ドイツや欧州全体もこの3ケ国ほどで
はないものの、2000年以降少しずつ再エネ(特に風力と太陽光)の比率(導入率)が増加しており、
電源構成を徐々にかつ確実に変革させてきたことがグラフから読み取れる。

 このように再エネを増加させ、化石燃料を減らす努力を行っているのは何も限られた特殊な国だけ
の試みではなく、世界的な傾向となっている。このことを客観的に視覚化するために、以下では複数
の相関グラフを作成し、より高度な分析を進める。



● 相関図による国際比較分析

 上
図7は横軸に90年と13年の火力発電導入率の差を、縦軸に同再エネ導入率の差を出して各国
のデータをプロッ
トしたもの。図を一瞥してわかるよう、原点から左上ヘプロットが並んでいる分布
傾向が見てとれるが、これ
は「どの国も火力発電の比率を下げながら再エネの比率を上げてきた」と
いう傾
向を示しす。特にデンマークは左上の領域にダントツで飛び抜けており、前述で示したように
90年代にはほ
とんど化石燃料だけで占められていた電源構成を、10年代まで30年かけて劇的に
変革した、ということをよく表している


 一方、図7には比較のために、日本の
10年(原発事故直前)、13年(原発事故後入手可能な最
新のデータ)30
年のデータもプロットしている。まず10年のプロットを見ると、90年に対する
変化幅がマイナス、すなわち、
再エネの比率を下げていることがわかります。これは他の主要先進国
の傾向
と比較すると、特異的な現象であると言える。日本は原発事故前まで、再エネの比率を上げる
努力をしてこなかっ
たばかりか、むしろ結果的に下げてしまった(すなわち再エネ以外の電源の比率
を上げることに専心していた)ことがわかる。

 さらに
、日本は11年の原発事故の後、火力発電を増加させざるを得なかったが、他国並みに早い
年代から再
エネを推進していれば、その分火力の増加もこれほど極端ではなかった可能性もあること
がこのグラフから推測できる。30年の目標案でも、「現在のフランス・米国より少しマシ」といっ
た程度に留まり、主要先進国各国の現在の実績(すなわち、30年から振り返ると15年以上も前の
各国実績)に遠く及ばない。というポジションであることが明らかになる。

● 石炭と再エネの相関に注目

 各国が火力の比率を下げ、再エネを増加させる努力を行っているのは、ひとえに地球温暖化防止(
最近では「気候変
動緩和」と呼ばれることの方が多い)のための二酸化炭素排出量削減が目的として
いる
。それに加えエネルギー輸入依存率の低減といったエネルギー安全保障の観点を重視するす。二
酸化炭素排出量削減という点で
は、化石燃料の中でも最も二酸化炭素排出量が多く気候変動枠組条約
締約国会議
(COP)でも削減が強く叫ばれている石炭火力に着目して、上図7と同様の分析を行う。

 上図8は石炭火力と再エネの相関に着目した90年比の増減ポイントの相関グラフです。90年か
ら13年の約30年間で石炭の比率を増加させている国はほとんどない。この理由としては、昨夜の
図2の欧州全体の電源構成の変遷を見るとわかる。欧州の多くの国では2000年前後からガス火力
を新設し、石炭火力の比率を下げる努力を行ってきたからだと理解できます。
 一方、下図4のプロットの分布状況から一瞥して明らかな通り、日本のみが突出し(グラフの右下
の領域に位置しています。すなわち日本は主要先進国の中で唯一「再エネを増やさず石炭を大きく増
やしている」国であることがわかる。さらに、30年の目標でも石炭は大きく増えたままとなってお
り、日本は石炭を削減する意思がない、とも読み取れる

 

● 世界のトレンドと日本のポジション

 さらに、90年からの各国の電源構成の変革の履歴に関しても、相関グラフで分析すると、下図9
は横軸に火力発電導入率、縦軸に再エネ導入率を取った相関グラフ。各国の90年から

5年ごとの履歴をプロットしたもの(最終年のみ最新データである13年をプロット)。図(a)に
変動性再エネ(VRE)の導入率トップ5の国(デンマーク、ポルトガル、スペイン、アイルランド、
ドイツ、図(b)にそれ以外の主要先進国をプロットしている。この図9から、各国とも年を追うごと
にグ
ラフの右下から左上ヘプロットが移動していく傾向が見てとれる。特にデンマーク・ポルトガル・
アイルランド
の3ヶ国は原子力発電を持たないため、再エネが増えた分だけそのまま火力が減ること
で左上がりの45度線上にプロ
ットがきれいに並ぶことがわかる。

 それ以外の国も増減の大きさには差が
あるものの、いずれもグラフの左上に移動する傾向を示す。
一方、日
本のプロット点の移動を見ると、他国と逆方向へ動いている。一番右のプロットである原発
事故後の13
年を例外と見たとしても、90年から10年まではほぼ同じ位置に留まり、日本以外の
他の先進国とは明ら
かに異なる傾向となっている。同様に石炭火力と再エネの相関も90年からの履
歴を取ってみると、図6のようにな。ここでもほとんどの国がグラフ左上ヘプロットが移動する履歴
(すなわち石炭を下げ、再エネを上げる傾向)が見て取れる。なお、10年から13年にかけていくつ
かの欧州諸国で石炭の導入率が若干上昇する傾向を見せており、ここだけを取り出し、「再エネが増
えているのに石炭が増えており、再エネは二酸化炭素削減の役に立たない」とする主張も一部に見ら
れる
が、90年からの長期的傾向を見れば、このような主張が近視眼的な分析であることが一目瞭然
となる。

 なお、この欧州の石炭の増加傾向の主原因は、再エネの増加というよりシェールガスに押された米
国産の安価な石炭の流人によるものだと推測されると安田氏は推測している。


下図10における日本の傾向に注目すると、グラフ右側へ水平移動している(すなわち再エネを増や
さず石炭を増やす)という傾向がはっきり見て取れれす。日本以外のすべての国がグラフ左上へ移動
する傾向を示すのとはまったく対照的に、日本のみが極めて特異な傾向を見せていることが、この相
関グラフの分折で明らかである。



これは、風力発電の導入量の数量をみると明らかである。先日、新エネルギー・産業技術総合開発機
構(NEDO)によると、3月末時点の日本の風力発電設備の導入は発電規模を示す出力ベースで2
93万キロワットだった。設置数は2034基。前年と比べ発電規模で24万キロワット、設置数で
113基それぞれ増えた。固定価格買い取り制度開始前の12年3月時点との比較では38万キロワ
ット、168基の増加にとどまる。2000万キロワットの設置がある太陽光発電に比べると導入ペ
ースは遅いと報告しているが
(下図/上)、世界は370ギガワット(14年実績、下図/下)だか
日本のそれはわずか、0.8%と極端な特徴パラメータとなっている。

 

● 日本はどこへ向かうべきか?

  以上のように、再エネと火力発電(特に石炭火力)の相関グラフを用いた分析
から明らかになった
ことをまとめると、
主要先進国はどの国も火力発電(とりわけ石炭火力)を下げながら再エネを増
す努力を行ってきている傾向がはっき
りと読み取れる。火力低減や再エネ増加の度合いについては各
国でスピード感
が異なるものの、その方向性にほとんど違いはない。それに対し、日本のみ、再エネ
を増
やさず石炭を増やすという、他の先進国の傾向から大きく乖離した特異性を見せている、という
ことがわかる。

 このように、統計データを用いて客観的な国際比較分析を行ってみると、いかに日本のエネルギー
政策が他の主要先進国の動向から乖離しており、特異性と孤立性を際立たせているかが浮かび上がり
ます。もちろん、必ずしも他国に追従せず独自路線を歩むという選択肢もありますが、その場合でも
特異性や孤立性ではなく、他国から「やはり日本の取り組みはすばらしい」と技術力や姿勢を賞賛さ
れるような独自性が好ましい。現在日本で盛んに議論されているエネルギーミックス(電源構成)は、
今回分析したように国際的潮流から俯瞰すると特異で孤立しており、国際社会の一員としての日本の
立ち位置を認識して議論しないと、国の将来を見誤る可能性があると安田氏はこのように解説する。
しかし、これに対し、現自民党政権は、素直に耳を傾け反応するだろうか?答えは明確である。

                                                                              この項了




今日は午後1時過ぎ、宗安時で母の初回忌・納骨式を無事すませる。夜はスーパームーンの特別な中
秋の名月を迎えた
。ただ、月見団子は土曜日に彼女が食べろと言うことですませている。

菩提寺の控え室での待ち時間、奥にある納牌堂をのぞくと、日光東照大権現家康の位牌も納められる
ことを知る(施錠されているので現認できず)。これも大総督の井伊家の所以かと感心する。

                                          合掌 

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ベストミックスは誰のため

2015年09月27日 | 時事書評

 

 

 

    たとえ言葉や表現の数が限られていても、それを効果的に
        組み合わせることができれば、そのコンビネーションの持
        って行き方によって、感情表現・意思表現はけっこううま
        くできるものなのだということでした。

                                              村上春樹 / 『職業としての小説家』 

 

 




● ポスト・ロストスコア論 Ⅰ: 依然見えぬ脱デフレ不況

8月の消費者物価指数(生鮮食品除く)は、前年同月比0.1%下落し、 日銀が量的・質的金融緩和
に踏み切った13年4月以来のマイナスに転じた。日銀の大規模緩和開始後、物価は順調に上昇基調
をたどったかにみえたが、消費税増税の影響や昨年夏以降の原油価格下落を契機に変調し、緩和効果
が吹き飛び、2%の物価上昇を目指す日銀の「異次元緩和」は振り出しに戻った格好(時事通信 2015.
09.25)。

これによると、黒田東彦日銀総裁は25日、安倍晋三首相との会談後、記者団に「物価の基調はしっ
かりしている」と、エネルギー価格の下落を除けば、物価はプラスを維持しているとの認識を示した。
実際、食料品や日用品などは値上げが相次いでおり、安倍首相も24日の会見で「デフレ脱却はもう
目の前だ」などと強気だが、原油安が続けば、日銀が「16年度前半ごろ」としている2%物価目標
の達成時期がさらに後ずれすることは避けられない。中国など海外経済の減速で国内景気の足が引っ
張られる恐れもあり、SMBC日興証券の牧野潤一チーフエコノミストは「物価が短期間で2%程度ま
で上昇は考えにくく、遅かれ早かれ(日銀の)追加緩和が必要」という。

このように、新興国の経済成長の一巡による下降局面に上海ショック、シリヤ難民問題に顕示された
欧米露列強(+日帝)の世界戦争→冷戦下の代理戦争→米欧の中東への武断介入=戦後70年間の不
毛で無惨なカオス社会の導出。英米流金融資本主義の破綻(リーマンショック)→ギリシャ危機→欧
州共同体崩壊の危機。フォルクスワーゲンの組織犯罪?を引き金としたドイツ経済危機への連鎖など
マイナス要因の天こ盛り状況である。霞ヶ関の天下り族議員天国の自民政権が打ち出した株価・輸出
の偏重のアベノミクスでは、この"赤信号"が点灯する状況を脱するのは覚束無く、ご同情申し上げる。

                                      この項つづく



 

● フォルクスワーゲンの不正はこうして暴かれた?!

13年、ディーゼルエンジンの大気汚染を心配した欧州当局が、米国の路上検査結果が欧州よりも検
査査結果に近いと考え、米国で販売された欧州車の路上走行排ガス検査を委託したのが発端。結果は
その逆となる。カリフォルニア州の調査官25名が選任で検査したところ、フォルクスワーゲが検査
結果を不正改ざんするソフトウエアが搭載――ハンドルの動きなどから排ガス検査中であるかどうか
を識別するソフトウエアを発見。VWは09~15年にかけてこのソフトを、エンジンをコントロー
ルするモジュールに組み込む――されていたことが露見する。そしてその対象が1千百万台であるこ
とも明らかにされた。つまり、技術力が追いついていなかったというわけだ。それにしても、欧州当
局が、クロスチックしなければ、この不正の発覚は遅れたはずだが、かれらの"良心"がそれを許さな
かったというわけだろうか。

なお、検査では窒素酸化物濃度は、規制値の40倍だった。

 

 

 ● 電気で生きる微生物を初めて特定

これは時間軸が非常に大きい話だ。地球上の生物は、光合成と化学合成の生物によって作り出される
有機物によって支えられている。前者は太陽光をエネルギーとし、化学合成生物を水素や硫黄などの
化学物質をエネルギーとして利用し、二酸化炭素から糖やアミノ酸を作り出すが、食物連鎖の出発点
となり、人間を含めた地球上の生命活動を支えてきた。
一方、ごく最近になり、光合成と化学合成に
代わる第3の有機物を合成する生物として、電気で生きる微生物(電気合成微生物)が注目を集める。
特に、深海底や地中などの生物が利用できるエネルギーが極端に少ない環境では、海底を流れる電流
を利用する電気合成微生物が深海生命圏の一次生産者となる可能性があるみられている。

理化学研究所の共同研究グループは、これまでに、深海底には電気をよく通す岩石が豊富に存在する
こと、そして、マグマに蓄えられた熱と化学エネルギーが岩石を介して電気エネルギーに変換するこ
とを解明しているが、この電流を利用し細胞増殖可能な微生物を特定できずに、また、微生物が電気
エネルギーを利用する上で必要となる代謝経路も解明されずにいた。今回、同グループは、10年に
太陽光が届かない深海熱水環境に電気を通す岩石を発見、電気を流す岩石が触媒となり、海底下から
噴き出る熱水が岩石と接触することで電流が生じることを発見する。海底に生息する生物の一部は光
と化学物質に代わる第3のエネルギーとして電気を利用して生きているのではないかという仮説を立
研究をすすめる。

まず、鉄イオンをエネルギーとして利用する鉄酸化細菌の一種である Acidithiobacillus ferrooxidans(A.
ferrooxidans
)に着目。鉄イオンは含まれず、電気のみがエネルギー源となる環境で細胞の培養を行う。
その結果、細胞の増殖を確認し、細胞が体外の電極から電子を引き抜くことでNADH――ニコチンアミ
ド・アデニンジヌクレオチド(nicotinamide adenine dinucleotide)の略。生物が用いる電子伝達体物質の一つ―
を作り出し、ルビスコタンパク質――二酸化炭素を取り込み、糖を合成するタンパク質――を介し二
酸化炭素から有機物を合成する能力を持つことを突き止める。さらに A.ferrooxidansは、わずか0.3
ボルト程度の小さな電位差を1ボルト以上にまで高める能力を持ち、非常に微弱な電気エネルギーの
利用できることを解明する。

この研究成果は、電気が光と化学物質に続く地球上の食物連鎖を支える第3のエネルギーであること
と同時に、二酸化炭素の固定反応わる微生物代謝の多様性を示す。深海底に広がる電気に依存した生
命圏の電気生態系を調査上で、重要な知見になり、極めて微小な電力で生きる電気合成微生物の存在
は、微小電力の利用という観点から新たな知見を提供する。

 

 

【再エネ百パーセント時代: 時代は太陽道を渡る 14 】

● ベストミックスは誰のため?

昨夜の「世界は蓄電池パリティ」(『蓄電池パリティ時代』2015.09.26)では、太陽光電池と蓄電池
のパリティ(グリッドパリティに含まれる概念)が世界の潮流になっていることを考察したが、これ
に対し、日本での取組みが鈍いが、この根底に旧来の「ベース電源」にあるのではとの思いで書いた。
このことはブログ掲載済み(「ネクストディケイド:縮小する電力市場」/『次世代電力のフロンテ
ィア』2015.09.18)であるがここで改めて考察する。

昨夜と同様に、「環境ビジネス」の2015年秋季号の安田陽関西大学システム理工学部准教授の『
旧電源構成に固執し、ガラパゴス化』では、エネルギーミックスとは、発電電力量
におけるエネルギ
ー源の配分(すなわち
電源構成)のことを示し、一方、ベストミックスはよく「最適な電源構成」な
と説明される。しかし海外文献を調査するとわかるのが、実は海外のエネルギー政策に関する議論
では、「energy
mix」という表現はよく使われるものの 「best mix」 という表現はほとんど登場しな
い。最近の審議会等の資料では「ベストミックス」はほとんど使われず、よりニュートラルな「エネ
ルギーミックス」あるいは、「電源構成」が用いられていると指摘する。まず、「ガラパゴス化」と
いう言葉に抵抗、つまり、正当な理由があれば「ガラパゴス化」も結構ではないかと考えているため
だが、それはさておき先を読み進めた。

 しかし、筆者がウェブや新聞データベースで調査した結果では、依然として電力会社をはじめと
 する産業界の資料や政治家の発
言でこの「ベストミックス」という言い回しが多用されています。
 さらにマスコミ
も同様で、多くの日本のメディアがこの用語を好んで用いる傾向にあります。
 なみに米国や欧州連合(EU)の政
府関係の資料では エネルギー政策の文脈で「best mix」を用いた
 ものはほと
んど見られません。Washington Post Wall Street Joumal, The Times,CNN,BBC  など
 海外有カメディアでも同様です。もちろんこの表現を使う記事や報告書は皆無ではありませんが、
 あったとしても再エネの中の配分であったり特定の設備でのベストなエネルギー配分だったりと、
 国全体のエネルギー政策の文脈で best mix という言葉が使われる例はむしろ稀なケースです。
 
  このように、実は「ベストミックス」は限りなく和製英語に近い言葉であることがわかります。本
  稿では、この日本独自の概念である「ベストミックス」を取り上げ、そこに込められた「ベスト
 の意味が一体何のために、誰のためにあるのか、国際比較分析から炙り出していきたいと思い
 ます。

                      安田 陽『旧電源構成に固執し、ガラパゴス化』


 電源構成の変遷の国際比較

他国のエネルギーミックス(電源構成のようになっているかは、日本語でもさまざまな資料やデータ
が入手
可能できるが、政府が毎年公表する「エネルギー白書」でも、ドイツやフランス、米国などの
単年の電源構成のグラフから
異なる視点から分析している。(1)90年から約20年に亘る電源構
成の時系列変化、(2)
再エネ(特に風力)の導入が進んでいるが、日本ではほとんど取り上げられ
ない国(デンマーク、ポルトガル、スペイン)の分析を行う。上図のグラフは、デンマーク、ポルト
ガル、スペインの電源構成を90年から現時点で入手可能な最新の年次の13年まで時系列で描いた
グラフ
。比較に、図4に日本のデータを掲載。

その特徴は、(1)各国とも化石燃料や原子力(スペインの場合)を過去20年で徐々に着実に減ら
している。その裏返しに再エネ(
特に風力発電)がを着実に増やしている。(2)図1のデンマー
は原子力がないことに加え、国が平坦
なため水力がほとんどない、過去20年間で電源構成を大き
く変えてきたことがグラフからわかる。具体的には、90年には石炭火力が95%以上占めていたが、
現在では40%にまで低減。さらに90年代から風力発電を着実に増加させ、現在は風力だけで30
0%以上、バイオマスなどを含めると再エネ全体で50%に達する。デンマークの事例では、石炭に依
存から、20
年かけ徐々に電源構成を変化させ、一国の電力量の半分を再エネで賄うまでに成長して
いる。
デンマークはさらに50年までに電源構成における再エネを百%にする目標を打ち出している。

(3)
図2のポルトガルは元々水力発電が豊富で90年代は40%近く占めていたが、2000年代
後半以降
急速に風力を伸ばし、現在は再エネ全体で60%の導入率を達成している。なお、水力発電
の年ごとの増減は
、渇水年と豊水年の差が激しいため。(4)図3のスペインも同じイベリア半島に
あり、ポルトガルと似
た傾向をみせるが、原子力を保有し、その比率を90年の35%から13年の
20%へと徐々に漸減させてい
る。また、風力だけで約20%と原発と肩を並べ、再エネ全体だと40
%の導入率をすでに達成。

● 日本の「ベストミックス」の「ベスト」って何?

上記の3ケ国と比較するため、(5)図
4に日本の電源構成の変遷を示す。日本の場合、11年の原
発事故
のため、11年を境に断絶的な変化が発生。90年から10年までは多少の波があるものの、
変化はない。10
年までの特筆すべき変化とし、石油を減らす代わりに石炭を倍増する図4では
30年の電源構成の案も
提示。このように過去の変遷の延長線上に置くと明らかな通り、実はこの配
分は、再エネが若干増えて石
油が石炭に置き換わった以外は90年の構成比とほとんどあまり変わら
ない。これは図1~3のように10~20年かけ電源構成を劇的に変革させた国々とは真逆の方向性
にある。この90年代(30年から振り返ると40年前)とほとんど変わらない電源構成が、「ベス
トミックス」と呼ばれいるもの(さすがに経産省自身はそう呼んでいない)。これは誰にとっての何
のための「ベスト」なのか?

今回紹介した3ケ国だけでなく、多くの先進国がここ10年で(先見性のある国はここ20年で)電
源構成を変えている。それは気候変動緩和(二酸化炭素排出抑制)やエネルギー安全保障(エネルギー
輸入依存度低減)の理由からだ。電源構成は本来、めまぐるしく変わるグローバル環境に対応するた
めに、将来を見据えたエネルギー戦略の中でダイナミックに変化していくもの。これに対し、日本で流
布する「ベストミックス」という表現は、「
ベスト」の名の下にこのダイナミックな変化から目を背け、
変革を拒み現状を固定化させる危険性を孕む。これは、「変化しないことがベスト」というメッセージ
だと
、国際社会から取られてしまう。

日本以外の国では「ベストミックス」な
る電源構成は存在しない。あるのは(主に再エネの意欲的な
)ターゲットであ
り、それに向かって前進するための実現可能性のあるロードマップ。ターゲットは通
常、政府が設定し、ロードマップは産業界が競い合い提案。さらにターゲットは定期的に見直されダ
イナミック
に変わっていく。それ故イノベーションが促進される。日本にこのような仕組みや機運は
あるでしょうか? このように電源構成の時系
列の変遷を国際比較すると、日本の特異性が如実に浮
かび上がる。と、このように著者は述べる。特に、「日本にこのような仕組みや機運はあるでしょう
か?」との件は、「蓄電池」「グリッド」のパリティーへの取り組みの「鈍さ」に顕示していると、
腑に落ちることとなる。

 

                                                          この項つづく

 



● 折々の読書 『職業としての小説家』7


    試合が終わってから(その試合はヤクルトが勝ったと記憶しています)、僕は電車に乗って新宿の紀伊
  國屋に行って、原稿用紙と万年筆(セーラー、二千円)を買いました。当時はまだワー
ドプロセ
 ッサーもパソコンも普及していませんでしたから、手でひとつひとつ字を書くしかなか
ったので
 す。でもそこにはとても新鮮な感覚がありました。胸がわくわくしました。万年筆を使
って原稿
 用紙に字を書くなんて、僕にとっては実に久方ぶりのことだったからです。


  夜遅く、店の仕事を終えてから、台所のテーブルに向かって小説を書きました。その夜明けま

 での数時間のほかには、自分の自由になる時間はほとんどなかったからです。そのようにしてお
 およそ半年かけて『風の歌を聴け』という小説を書き上げました(当初は別のタイトルだったの
 ですが)。第一稿を書き上げたときには、野球のシーズンも終わりかけていました。ちなみにこ
 の年はヤクルト・スワローズが大方の予想を裏切ってリーグ優勝し、日本シリーズでは日本一の
 投手陣を擁する阪急ブレしブスを打ち破りました。それは実に奇跡的な、素晴らしいシーズンで
 した。

  『風の歌を聴け』は、原稿用紙にして二百枚弱の短い小説です。でも書き上げるまでにはずい

 ぶん手間がかかりました。自由になる時間があまりなかったということももちろんありますが、
 それよりはむしろ、そもそも小説というものをどうやって書けばいいのか、僕にはまったく見当
 もつかなかったからです。実を言うと僕は、十九世紀のロシア小説やら、英語のペーパーバック
 やらを読むのに夢中になっていたので、それまで日本の現代小説(いわゆる「純文学」みたいな
 もの)を系統的に、まともに読んだことかありませんでした。だから今の日本でどんな小説が読
 まれているかも知らなかったし、どんな風に日本語で小説を書けばいいのかもよくわからなかっ
 たのです。

  でもまあ「たぶんこんなものだろう」という見当をつけ、それらしいものを何か月かかけて書
 いてみたのですが、書き上げたものを読んでみると、自分でもあまり感心しない。「やれやれ、
 これじゃどうしようもないな」とがっかりしました。なんていえばいいんだろう、いちおう小説
 としての形はなしているのですが、読んでいて面白くないし、読み終えて心に訴えかけてくるも
 のがないのです。書いた人間が読んでそう感じるんだから、読者はなおさらそう感じるでしょう。
 「やっぱり僕には、小説を書く才能なんかないんだ」と落ち込みました。普通ならそこであっさ
 りあきらめてしまうところなんだけど、僕の手にはまだ、神宮球場外野席で得たepiphanyの感覚
 がくっきりと残っています。

  あらためて考えてみれば、うまく小説が書けなくても、そんなのは当たり前のことです。生ま
 れてこの方、小説なんて一度も書いたことがなかったのだし、最初からそんなにすらすら優れた
 ものが書けるわけがない。上手な小説、小説らしい小説を書こうとするからいけないのかもしれ
 ない、と僕は思いました。「どうせうまい小説なんて書けないんだ。小説とはこういうものだ、
 文学とはこういうものだ、という既成観念みたいなのを捨てて、感じたこと、頭に浮かんだこと
 を好きに自由に書いてみればいいじゃないか」と。

  とはいえ「感じたこと、頭に浮かんだことを好きに自由に書く」というのは、口で言うほど簡
 単なことではありません。とくにこれまで小説を書いた経験のない人間にとっては、まさに至難
 の業です。発想を根本から転換するために、僕は原稿用紙と万年筆をとりあえず放棄することに
 しました。万年筆と原稿用紙が目の前にあると、どうしても姿勢が「文学的」になってしまいま
 す。そのかわりに押し入れにしまっていたオリベごアィの英文タイプライターを持ち出しました。
  それで小説の出だしを、試しに英語で書いてみることにしたのです。とにかく何でもいいから

 「普通じゃないこと」をやってみようと。

  もちろん僕の英語の作文能力なんて、たかがしれたものです。限られた数の単語を使って、限
 られた数の構文で文章を書くしかありません。セソテンスも当然短いものになります。頭の中に
 どれほど複雑な思いをたっぷり抱いていても、そのままの形ではとても表現できません。内容を
 できるだけシンプルな言葉で言い換え、意図をわかりやすくパラフレーズし、描写から余分な贅
 肉を削ぎ落とし、全体をコンパクトな形態にして、制限のある容れ物に入れる段取りをつけてい
 くしかありません。ずいぶん無骨な文章になってしまいます。でもそうやって苦労しながら文章
 を書き進めているうちに、だんだんそこに僕なりの文章のリズムみたいなものが生まれてきまし
 た。

  僕は小さいときからずっと、日本生まれの日本人として日本語を使って生きてきたので、僕と
 いうシステムの中には日本語のいろんな言葉やいろんな表現が、コンテソツとしてぎっしり詰ま
 っています。だから自分の中にある感情なり情景なりを文章化しようとすると、そういうコンテ
 ソツが忙しく行き来をして、システムの中でクラッシュを起こしてしまうことがあります。とこ
 ろが外国語で文章を書こうとすると、言葉や表現が限られるぶん、そういうことかありません。
 そして僕がそのときに発見したのは、たとえ言葉や表現の数が限られていても、それを効果的に
 組み合わせることができれば、そのコンビネーションの持って行き方によって、感情表現・意思
 表現はけっこううまくできるものなのだということでした。要するに「何もむずかしい言葉を並
 べなくてもいいんだ」「人を感心させるような美しい表現をしなくてもいいんだ」ということで
 す。




  ずっとあとになってからですが、アゴタ・クリストフという作家が、同じような効果を持つ文
 体を用いて、いくつかの優れた小説を書いていることを、僕は発見しました。彼女はハソガリー
 人ですが、一九五六年のハソガリー動乱のときにスイスに亡命し、そこで半ばやむなくフランス
 語で小説を書き始めました。ハソガリー語で小説を書いていては、とても生活ができなかったか
 らです。フランス語は彼女にとっては後天的に学んだ(学ばざるを得なかった)外国語です。し
 かし彼女は外国語を創作に用いることによって、彼女自身の新しい文体を生み出すことに成功し
 ました。短い文章を組み合わせるリズムの良さ、まわりくどくない率直な言葉づかい、思い入れ
 のない的確な描写。それでいて、何かとても大事なことが書かれることなく、あえて奥に隠され
 ているような謎めいた雰囲気。僕はあとになって彼女の小説を初めて読んだとき、そこに何かし
 ら懐かしいものを感じたことを、よく覚えています。もちろん作品の傾向はずいぶん違いますが。

  とにかくそういう外国語で書く効果の面白さを「発見」し、自分なりに文章を書くリズムを身
 につけると、僕は英文タイプライターをまた押し入れに戻し、もう一度原稿用紙と万年筆を引っ
 張り出しました。そして机に向かって、英語で書き上げたI章ぶんくらいの文章を、日本語に
 「翻訳」していきました。翻訳といっても、がちがちの直訳ではなく、どちらかといえば自由な
 「移植」に近いものです。するとモこには必然的に、新しい日本語の文体が浮かび上がってきま
 す。それは僕自身の独自の文体でもあります。僕が自分の手で見つけた文体です。そのときに
 「なるほどね、こういう風に日本語を書けばいいんだ」と思いました。まさに目から鱗が落ちる、
 というところです。

                                                                   「第二回 小説家になった頃」
                                  村上春樹 『職業としての小説家』

 

どのように、村上春樹の読者になっていったかを書かなければと思ったが、今夜は時間切れとなって
しまった。それでは次回を楽しみに。

                                     この項つづく

  ● 今夜の一品

水中ドローン登場?

 

 

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蓄電池パリティ時代

2015年09月26日 | デジタル革命渦論

 

 

   それを境に僕の人生の様相はがらりと変わってしまったのです。
                       ディブ・ヒルトンがトップ・バッターとして、神宮球場で美しく鋭い
                       二塁打を打った その瞬間に。

                                              村上春樹 / 『職業としての小説家』 



【再エネ百パーセント時代: 時代は太陽道を渡る 13 】

● 世界は蓄電池パリティへ

15年6月10-12日にかけミュンヘンで開催された太陽光発電技術関連の展示会「lntersolar
Europe
陽光発電業界では世界最大級の展示会。ここ数年は規模の縮小に歯止めが掛けられず出
展企業は数年前の半
分程度まで落ち込んでいる。原因は太陽光発電パネルと架台関連企業の減少。
太陽光発電パネルメー
カーの話では、中国など海外の太陽光発電パネルメーカーの乱立も一段落し
太陽光発電パネルや架台の
技術も成熟期を迎えて落ち着いた印象が強い。かわりにパワコンメー
ーや蓄電池、太陽熱など関連業種が相反し伸長。
新たに設けられたオフグリッド・プラットフォー
ムや、イノベーティブ・モビ
リティ、スマート・エネルギー・テクノロジー・ソリューションなどのフ
ォーラムのプレゼンスが特徴で
どうすれば効率よく太陽光発電を施工・運営できるかから、太陽
光発電で発電した電力をいかに行き渡らせ、いかに使うかという下流へ移りつつあるという(「世
界は、蓄電池パリティへ」環境ビジネス 2015年秋季号)。

蓄電技術関連企業のここ数年の発展は目覚ましい。数年前にわずか数社だった出展企業数は昨年か
ら蓄電技術関連展示会「ees Europe」として独立するほどに増え、15年の出展企業三百社以上と
なる。今後も十分な蓄電関連の技術発展、市場の成長が見込める。全体的には太陽光発電市場が次
の段階に移行している。

● グリッドパリティと蓄電池パリティ

ドイツでは太陽光発電の発電単価が、平均電力小売価格を下回るグリッドパリティをすでに達成し
ている。そして、パネル+蓄電池の発電コストが小売価格を下回る蓄電池パリティに間もなく到達
すると考えられている。様々な機関が蓄電池パリティに至る時期を予想しているが、15年中から
遅くとも16年前半という予測で一致しているという。蓄電池パリティの損益分岐点については例
えば、
Germany Trade &lnvestは1充電サイクルあたり15~20セント(18~24円)あたりと
予想しており、PV+蓄電池システム全体では30~35セント(36~42円)とみている。

蓄電システムの普及動向

グリッドパリティになれば太陽光で発電している時間帯は自家消費をしたほうが経済的となる。そ
して、蓄電池パリティになれば、昼間に太陽光で発電した電力を電池に蓄え、夜間の電力需要も自
家消費としたほうが経
済的。蓄電池パリティ到達後は原則的にはエネルギー自立が最も経済的な手
段となり、16年以降蓄電池が爆
発的に普及する可能性がでてくる。ドイツ政府は太陽光発電に接
続する蓄電池を家庭が設置する場合に、蓄電池に対する支出の最大30%までをカバーする補助金を
支給。それも蓄電池の普及を後押ししている。補助金が開始された13年5月から15年4月まで
の支援件数は合計で1万余件を超え、支援を受けていない設備も含めればすでに2万台を超える蓄
電池がドイツの家庭に設置されている(同上社、予測)。20年ころには家庭用定置型蓄電池の設
置台数が年間で4万5千件程度となる(予測)。

蓄電池といえば、アメリカのテスラ社が家庭用蓄電池を2モデル販売する。これはすでに掲載した
(『ステラ旋風』2015.09.14)。このように、太陽光や風力などの再生可能エネルギーなどと組み
合わせ、蓄電池を設置することで、蓄電池を社会インフラとし、蓄電池や次世代自動車間の電力融通
等も活用し、非常時に中央からの給電が停止しても、一定期間、一定の地域で自立的に電力供給を可
能とする社会がスタートする。IEA(国際エネルギー機関)による電力系統用の大型蓄電池導入ポ
テンシャル予測(08年)では、世界の蓄電池需要としては、欧州における需要増等に牽引され 20
年に約50ギガワットまで拡大するという

 

蓄電池産業・技術の現状 蓄電池の果たす役割・必要性

再生可能エネルギー導入拡大との関係について、政府は新たなエネルギーの長期需給見通しの策定
が行われているが、長期的には、再生可能エネルギーの大幅導入拡大は不可欠と見込まれている。
短中期的にも、自家消費型の太陽光発電や風力発電といった再生可能エネルギーの拡大が想定され
る。このような導入拡大を現状のままで進めた場合、蓄電池を設置・活用して、余剰電力を無駄な
く活用することが加速する。これを踏まえ、現時点から蓄電池の導入を促進することで、早い段階
で蓄電設備網を構築するとともに、人為的にマーケットを創造し、蓄電池のコスト低減化を進めて
いくことが可能となる。このことによって将来における再生可能エネルギーの円滑な活用、ひいて
は二酸化炭素の排出削減を着実に進めていくことが可能となると、経産省はその市場推移を描いて
いる。

ピークカット・ピークシフト・停電時バックアップ対策

大震災以降、真夏・真冬のピーク時間 帯における電力需給逼迫問題が顕在化した。ピークカット、
ピークシフト対策及び停電時のバックアップ対策が大きな課題となる。ピークカット、ピークシフ
ト対策には、現在は、揚水発電という安価な手段に頼っているが、コスト面さえ解決されれば、技
術的にはよ立地制約が、少なく、建設のリードタイムがより短いという点で蓄電池――NAS電池
などに優位性がある。たとえば、揚水発電の建設リ ードタイムは約15~20年であるのに対 し、
蓄電池は約1年で稼働可能である。これに加え、停電時バックアップ対策としては、現在は、ガス
タービン、ディーゼルエンジン等といった手段に頼っているが、燃料価格に依存しない、化石燃料
を焚く必要がない、ランニングコストで赤字にならない、インフラ整備の制約を受けないという点
で蓄電池(リチ ウムイオン電池など――に優位性がある。

大震災以降、真夏・真冬のピーク時間帯における電力需給逼迫問題が顕在化。このため、ピークカ
ト、ピークシフト対策及び停電時のバックアップ対策が大きな課題になっている。ピークカット、
ピークシフト対策のためには、現在は、揚水発電という安価な手段に頼っているが、コスト面さえ

解決されれば、技術的には、より立地制約が少なく、建設のリードタイムがより短いという点で蓄
電池(NAS電池など)に優位
性がある。たとえば、揚水発電の建設リードタイムは約15~20
年に対
し、蓄電池は約1年で稼働可能である。



これに加えて、停電時バックアップ対策としては、現在は、ガスタービン、ディーゼルエンジン等

といった手段に頼っているが、燃料価格に依存しない。化石燃料を焚く必要がない、ランニングコ
ストで赤字にならない、インフラ整備の制約を受けないという点で蓄電池(リチウムイオン電池な
ど)に優位性がある。このため、電力会社、再生可能エネルギー発電事業者、蓄電池メーカー等の参
画により、蓄電池のこれらの点の実証に取組み、市場創造を加速する。



以上が、蓄電池パリティの世界動向を俯瞰してみた。しかしながら、日本の動きは鈍い。それはな
ぜか? このことはまた改めて考察するとして、欧米の本気度がよく伝わってきた。





● 折々の読書 『職業としての小説家』6

   結婚していましたし、仕事も始めていたし、今さら大学の卒業証書をもらっても役にも立ち
 ま
せん。でも当時の早稲田大学はとった講義の単位分だけ授業料を払えばいいという制度で、
 残し
た単位もそれほど多くなかったので、仕事をしながら暇を見つけて講義に出て、七年かけ
 てなん
とか卒業しました。最後の年、安堂信也先生のラシーヌの講義をとっていたんですが、
 出席日数
が足りず、また単位を落としそうになったので、先生のオフィスまで行って「実はこ
 ういう事情で、もう結婚して、毎日仕事をしておりまして、なかなか大学に行くことができず
 ……」と説明したら、わざわざ僕の経営していた国分寺の店まで足を運んでくださって、「君
 もいろいろ大変ねえ」と言って帰って行かれました。おかげで単位もちゃんともらえました。

  親切な方だったですね。当時の大学には(今は知りませんが)そういう柄の大きな先生がけ
 っこうおられたみたいです。講義の内容はほとんど覚えていませんが(すみません)。
  国分寺南口にあるビルの地下で、三年ばかり営業しました。それなりにお客もついて、借金
 もいちおう順調に返していけたんですが、ビルの持ち主が急に「建物を増築したいから出て行
 ってくれ」と言い出して、しょうがないので(というような簡単なことでもなく、いろいろと
 大変だったのですが、これも話し出すと実にキリがないので……)国分寺を離れ、都内の千駄
 ヶ谷に移ることになりました。店も前より広くなり、明るくなり、ライブのためのグランド・
 ピアノも置けるようになって、それはよかったのですが、そのぶんまた新たに借金を抱え込ん
 でしまいました。なかなかゆっくりと落ち着けません(こうして来し方を振り返ってみると、
 「なかなかゆっくりと落ち着けない」というのが、どうやら僕の人生のライトモチーフになっ
 ているみたいです)。

  僕にはとくに経営の才能があるとも思えないし、もともと愛想がない非社交的な性格なので、
 客商売をするのには明らかに向いていないんですが、でも「好きなことならとにかく、文句も
 言わずに一生懸命やる」というのが取り柄です。だからこそ店の経営もそこそこうまくいった
 んだと思います。なにしろ音楽が好きなもので、音楽に関わる仕事をしていれば基本的に幸福
 でした。
  でも気がつくと僕はそろそろ三十歳に近づいていました。僕にとっての青年時代ともいうべ
 き時期はもう終わろうとしています。それでいくらか不思議な気がしたことを覚えています。
 「そうか、人生ってこんな風にするすると過ぎていくんだな」と。



  一九七八年四月のよく晴れた日の午後に、僕は神宮球場に野球を見に行きました。その年の
 セントラル・リーグの開幕戦で、ヤクルト・スワローズ対広島カープの対戦でした。午後一時
 から始まるデー・ゲームです。僕は当時からヤクルト・ファンで、神宮球場から近いところに
 住んでいたので(千駄ケ谷の鳩森八幡神社のそばです)、よく散歩がてらふらりと試合を見に
 行っていました。

  その頃のヤクルトはなにしろ弱いチームで、万年Bクラス、球団も貧乏、派手なスター選手
 もいない。当然ながら人気もあまりありません。開幕戦とはいえ、外野席はがらがらです。一
 人で外野席に寝転んで、ビールを飲みながら試合を見ていました。当時の神宮の外野は椅子席
 ではなく、芝生のスロープがあるだけでした。とても良い気分だったことを覚えています。空
 はきれいに晴れ渡り、生ビールはあくまで冷たく、久しぶりに目にする緑の芝生に、白いボー
 ルがくっきりと映えています。野球というのはやっぱり球場に行って見るべきものですよね。
 つくづくそう思います。

  ヤクルトの先頭打者はアメリカからやってきたデイブ・ヒルトソという、ほっそりとした無
 名の選手でした。彼が打順の一番に入っていました。四番はチヤーリー・マニエルです。後に
 フィリーズの監督として有名になりましたが、その当時の彼は実にパワフルな、精悍なバッタ
 ーで、日本の野球ファンには「赤鬼」と呼ばれていました。
  広島の先発ピッチャーはたぶん高橋(里)だったと思います。ヤクルトの先発は安田でした。
 一回の裏、高橋(里)が第一球を投げると、ヒルトンはそれをレフトにきれいにはじき返し、
 二塁打にしました。バットがボールに当たる小気味の良い音が、神宮球場に響き渡りました。
 ぱらぱらというまばらな拍手がまわりから起こりました。僕はそのときに、何の脈絡もなく何
 の根拠もなく、ふとこう思ったのです。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と。


 


  そのときの感覚を、僕はまだはっきり覚えています。それは空から何かがひらひらとゆっく
 り落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした。どうしてそれがたまた
 ま僕の手のひらに落ちてきたのか、そのわけはよくわかりません。そのときもわからなかった
 し、今でもわかりません。しかし理由はともあれ、とにかくそれが起こったのです。それは、
 なんといえばいいのか、ひとつの啓示のような出来事でした。英語にエピファニー(epiphany
  という言葉があります。日本語に訳せば「本質の突然の顕現」「直感的な真実把握」というよ
 うなむずかしいことになります。平たく言えば、「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、
 それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じです。それがまさに、その日の午
 後に、僕の身に起こったことでした。それを境に僕の人生の様相はがらりと変わってしまった
 のです。ディブ・ヒルトンがトップ・バッターとして、神宮球場で美しく鋭い二塁打を打った
 その瞬間に。

                                                「第二回 小説家になった頃」
                                 村上春樹 『職業としての小説家』

                                    この項つづく



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時代は太陽道を渡る 12

2015年09月25日 | デジタル革命渦論

 

 

   英語に streetwise という言葉があります。「都会を生き抜くための実際的な
                        知恵を持った」というような意味ですが、僕には結局のところ、学術的なもの
                        よりも、そういう地べたっぽいものの方が性に合っていたようです。

                                                                   村上春樹 『職業としての小説家』 

 

【マイホビー奮戦記:3Dプリンタではじめるデジタルモノづくり】

デアゴスティーニの「週刊 マイ3Dプリンター」37号に入り、いよいよ心臓部のマイコン取付
けの段階――組立てペースは遅過ぎることはないが――に入ったのはいいが、上図のなべネジ(L
=16ミリ)が黒ネジじゃなく白ネジでそれも1本足らないことに気付き、メールでクレームを入
れる。梱包での様子がイメージできそうな出来事が起きた――急げば、コスト削減を優先すればか
ならずこのようなミスは起きるものだと思った。「
この度は37号パーツ不足及び不良にて、お客様
には多大なご迷惑をお掛け致しました事、深くお詫び申し上げます。
つきましては急ぎ代替品を手
配致します」と返事が戻ってきた。

小さな商品でも、消費者から不信を抱かれ、そっぽを向かれれば、ことの経緯や背景を抜きにして
企業生命が絶たれる。近くでは、フォルクスワーゲンのディーゼルエンジン車違法ソフトウエア搭
載、エアバック世界シェアは2位を誇るシートベルトのタカタ製インフレーター事故、東芝の不正
経理などの事例がそれだろう。ディーゼルエンジンの事件は、自動車の研究開発と産業界の再編に
まで波及しそうだ。クリーンディーゼルの落ち込みは、ポスト・ハイブリッドから電気自動車と燃
料電池車の熾烈な競争を導出しそうだ。いまのところ電気自動車が太陽光発電と蓄電池技術進展で
後者より有利ではないかと思える。話はそれたが、3Dプリンタの将来は? その答えは明確だ。

  

 





【再エネ百パーセント時代: 時代は太陽道を渡る 12 】

● 小指サイズの素子で水素製造 高効率14%達成

というわけで今夜も、「時代は太陽道を渡る」シリーズに移ってしまいましたが、まず、最初は、
イルメナウ工
科大学らの研究グループは、太陽光により直接水を電気分解する技術で、化合物半導
体を使ったタンデム型太陽電池。超小型で太陽光から水素を製造し、エネルギー変換効率14%を
達成(2つの上図クリック)。太陽光発電から水素を生成する技術は現在、数多くの研究機関で開
発が進められ、15年8月にはオーストラリアのモナシュ大学が22.4%達成(『再エネ ステー
ジアップ
』2015.08.30)、同年9月18日には東京大学と宮崎大学が集光型太陽電池で24.4%を
(『アイム・ベンチャーズ。』2015.09.21)相次いで達成するなど加熱している。

でも考えてみれば、超小型で光さえあれば水素が発生するなら、水素水製造デバイスを健康商品と
販売する事業を先行させても好いはず。免疫性を高める効果があるなら、リサイクルをセットにし
た事業を世界展開できるはずである。これはチョッとでかい山になる。きみならこのヤマを見逃さ
ないだろう!?

 

● ミサワと京セラ、「太陽光だけの生活」を実験

ミサワホームと京セラは、奈良県内に建設したモデル住宅を活用し、自家発電した再生可能エネル
ギーを優先的に使用する「エネルギー自家消費型住宅」の実証実験を10月から共同実施する。

セラ製の太陽光発電システム(6.6キロワット)とLiイオン蓄電池システム(7.2キロワット)
を搭載し、相互連係することでエネルギーを最適に利用。蓄電システムは、太陽電池で発電した直
流電流で直接、充電する「マルチDCリンクタイプ」を採用(上図クリック)。直流から交流への
変換を不要にすることで電力ロスを抑え、充電効率を従来品に比べて約6%――この差は大きい!
――高めている。

停電時には自動で自立出力に切り替わり、太陽光発電システムから蓄電システムに最大3kWの充電を
行い、自立出力を最大3kW使用できる。なお、モデル住宅は、ミサワホームが標準化している高性能
断熱材仕様に樹脂サッシを採用することで建物の断熱性を高め、地窓・高窓の開閉やシーリングフ
ァン・エアコンのオンオフを自動制御して排熱と涼風を取り込む涼風制御システムや、室内の風通
しを良くする南北通風設計、西日を遮る日よけスクリーンなどの省エネ設備を導入。今回の実証デ
ータを基に、自家発電したエネルギーを使用して災害時にも自宅生活を継続できる住まい方や仕様
を提案していくと語る。また、太陽光では、発電コストが既存の系統電力の電力価格と同等になる
「グリッドパリティ」の達成が間近なことから、来年以降、平常時にも極力、エネルギーを買わな
い住まい方について、実証実験を進めていく。

 



● 折々の読書 『職業としての小説家』5

  僕が文芸誌「群像」の新入賞を取り、作家としてデビューしたのは三十歳のときですが、そ
 の頃にはいちおう、もちろん十分とは言えないまでも、それなりの人生経験を積んでいました。
 それは普通の人、平均的な人とはいささか趣を異にする種類の人生経験でした。普通の人はま
 ず学校を卒業し、それから職に就き、そのあと少し問を置いて、一段落してから結婚するよう
 です。そ
ういうわけで、とにかく最初に結婚したんですが(どうして結婚なんかしたのか、説
 明するとずいぶん長
くなるので省きます)、会社に就職するのがいやだったので(どうして就
 職するのがいやだったのか、こ
れも説明するとずいぶん長くなるので省きます)、自分の店を
 始めることにしました。ジャズのレコードを
かけて、コーヒーやお酒や料理を出す店です。

  僕は当時ジャズにどっぷりのめり込んでいたので(今でもよく聴いていますが)、とにかく
 朝から晩ま
で好きな音楽を聴いていられればいいや、というとても単純な、ある意味気楽な発
 想でした。でも学生結
婚している身だから、もちろん資本金なんてありません。だから奥さん
 と二人で、三年ばかり仕
事をいくつかかけもちでやって、なにしろ懸命にお金を貯めました。
 そしてあらゆるところから
お金を借りまくった。そうやってかき集めたお金で、国分寺の駅の
 南口に店を開きました。それ
が一九七四年のことです。

  ありかたいことに、その頃は若い人が一軒の店を開くのに、今みたいに大層なお金はかかり
 
せんでした。だから僕と同じように「会社に就職したくない」「システムに尻尾を振りたく
 ない」
みたいな考え方をする人たちが、あちこちに小さな店を開いていました。喫茶店やレス
 トランや
雑貨店、書店。うちの店のまわりにも、僕らと同じくらいの世代の人がやっている店
 がいくつも
ありました。学生運動崩れ風の血の気の多い連中も、そこらへんにうろうろしてい
 ました。世の
中全体にまだ「隙間」みたいなものがけっこう残っていたんだと思います。そし
 て自分に合った
隙間をうまく見つければ、それでなんとか生き延びていくことができた。なに
 かと荒っぽくはあったけれど、それなりに面白い時代でした。



  僕が昔うちで使っていたアップライト・ピアノを持ってきて、週末にはライブをやりました。
 武蔵野近辺にはジャズ・ミュージシャンがたくさん住んでいたから、安いギャラでもみんな(
 たぶん)快く演奏してくれた。向井滋春さんとか、高瀬アキさんとか、杉本喜代志さんとか、
 大友義雄さんとか、植松孝夫さんとか、古潭良治郎さんとか、渡辺文男さんとか、これは楽し
 かったですね。彼らの方も僕の方も、みんな若くてやる気まんまんだったし。まあお互い、残
 念ながらほとんどお金にはなりませんでしたが。
 
  好きなことをしているとはいえ、ずいぶん借金を抱えていたので、モれを返済していくのが
 大変でした。銀行からも借りていたし、友だちからも借りていた。でも友だちから借りたぶん
 はすべて、数年できちんと利子を付けて返済しました。毎日朝から晩まで働き、食べるものも
 ろくに食べないでちゃんと返した。当たり前のことですけど。当時は僕らは、僕らというのは
 僕と奥さんのことですが ずいぶんつつましい、スバルタンな生活を送っていました。家には
 テレビもラジオもなく、目覚まし時計すらなかった。暖房器具もほとんどなく、寒い夜には飼
 っていた何匹かの猫をしっかり抱いて寝るしかありませんでした。猫の方もけっこう必死にし
 がみついていました。



  銀行に月々返済するお金がどうしても工面できなくて、夫婦でうつむきながら深夜の道を歩

 いていて、くちゃくちゃになったむき出しのお金を拾ったことがあります。シンクロニシティ
 ーと言えばい
いのか、何かの導きと言えばいいのか、不思議なことにきっちり必要としている
 額のお
金でした。その翌日までに入金しないと不渡りを出すことになっていたので、まったく
 命拾いを
したようなものです(僕の人生にはなぜかときどきこういう不可思議なことが起こり
 ます)。本
当は警察に届けなくてはいけなかったんだけど、そのときはきれいごとを言ってい
 るような余裕
はとてもありませんでした。すみません……と今から謝ってもしょうがないんで
 すが。まあ、別
のかたちで、できるだけ社会に還元したいと思っています。

  苦労話をするつもりはないんですが、要するに二十代を通して、僕はかなり厳しい生活を送
 っ
ていたんだということです。もちろん僕なんかよりもっときつい目にあっていた方は、世の
 中に
いっぱいおられると思うんです。そういう人からすれば、僕の置かれた境遇なんて「ふん
 そん
なの厳しいうちに入らないよ」ということになるだろうし、また間違いなくそのとおりだ
 と思い
ます。しかしそれはそれとして、僕としては僕なりに十分きつかった。そういうことで
 す。

  でも楽しかった。それもまた確かなことです。若かったし、いたって健康だったし、なんと
 い
っても一日好きな音楽を聴いていられたし、小さいとはいえ一国一城の主だった。満員電車
 に乗
って通勤する必要もないし、退屈な会議に出る必要もないし、気にくわないボスに頭を下
 げる必
要もない。そしてまたいろんな面白い人、興味深い人に巡り合うこともできました。

    もうひとつ大事なことは、僕がそのあいだに社会勉強をしたということです。「社会勉強」
 と
いうと、ストレートすぎてなんだか馬鹿みたいですが、要するに大人になったということで
 す。
度も固い壁に頭をぶっつけ、危ういところをやっとの思いで切り抜けました。ひどいこと
 を言
われたり、ひどいことをされたりしたし、悔しい思いをしたこともありました。当時は「
 水商売」
というだけでけっこう社会的に差別されたものです。身体を酷使しなくてはならなか
 ったし、た
いていのことは黙って耐えるしかなかった。たちの悪い酔っ払いを、店から蹴り出
 さなくてはな
らないようなこともあったし、強い風が吹いたらじっと首をすくめているしかあ
 りませんでした。

  とにかく店を維持し、借金を返していくということのほかには、ほとんど何も考えられなか
 った。


  でもそういう苦しい歳月を無我夢中でくぐり抜け、大怪我することもなくなんとか無事に生
 き
延び、少しばかり開けた平らな場所に出ることができました。一息ついてあたりをぐるりと
 見回
してみると、そこには以前には目にしたことのなかった新しい風景が広がり、その風景の
 中に新
しい自分が立っていた――ごく簡単に言えばそういうことになります。気がつくと、僕
 は前より
はいくぶんタフになり、前よりはいくぶん(ほんの少しだけですが)知恵がついてい
 るようでし
た。

  何も「人生でできるだけ苦労をしろ」と言うようなつもりはありません。正直言って、もし
 苦
労しないで済むのなら、そりゃ苦労しない方がずっといいだろうと思います。当たり前のこ
 とですが、苦労なんてぜんぜん楽しいことではないし、人によってはそれですっかり挫けてし
 まって、そのまま立ち直れないケースだってあるかもしれません。でも、もし今あなたが何ら
 かの苦境の中にあって、そのことですいぶんきつい思いをなさっているのだとしたら、僕とし
 ては「今はまあ大変でしょうが、先になってそれが実を結ぶことになるかもしれませんよ」と
 言いたいです。

  慰めになるかどうかはわかりませんが、そう思ってがんばって前に進んでいってください。
  今から思えば、仕事を始めるまでの僕は、ただの「普通の男の子」でした。阪神間の静かな
 郊外住宅地に育って、とくに何か問題を抱えるでもなく、問題を起こすでもなく、あまり勉強
 をしなかったわりには、学業成績もまずまずというあたりでした。ただ本を読むのは昔から好
 きで、ずいぶん熱心に本を手に取っていました。中学・高校を通じて僕くらい大量の本を読む
 人間はまわりにいなかったと思います。それから音楽も好きで、浴びるようにいろんな音楽を
 聴いていました。当然のことながら、なかなか学校の勉強をする時間まではとれなかった。一
 人っ子で、基本的にぱ大事にされて(要するに甘やかされて)育ち、痛い目にあったことはほ
 とんどありませんでした。早い話、救いがたいまでに世間知らずであったわけです。

  僕が早稲田大学に入学し、東京に出てきたのは一九六〇年代の末期、ちょうど学園紛争の嵐
 が吹きまくっていた頃で、大学は長期にわたって封鎖されていました。最初は学生ストライキ
 のせいで、あとの方は大学側によるロックアウトのせいで。そのあいだ授業はほとんどおこな
 われずおかけで(というか)僕はかなり出鱈目な学生生活を送ることになりました。
  僕はもともとグループに入って、みんなと一緒に何かをするのが不得意で、そのせいでセク
 トには加わりませんでしたが、基本的には学生運動を支持していたし、個人的な範囲でできる
 限りの行動はとりました。でも反体制セクト間の対立が深まり、いわゆる「内ゲバ」で人の命
 があっさりと奪われるようになってからは(僕らがいつも使っていた文学部の教室でも、ノン
 ポリの学生が一人殺害されました)、多くの学生と同じように、モの運動のあり方に幻滅を感
 じるようになりました。

  そこには何か間違ったもの、正しくないものが含まれている。健全な想像力が失われてしま
 っている。そういう気がしました。そして結局のところ、その激しい嵐が吹き去ったあと、僕
 らの心に残されたのは、後味の悪い失望感だけでした。どれだけそこに正しいスローガンがあ
 り、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけ の魂の力が、モラル
 の力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない。僕がそのときに身をもって学んだの
 は、そして今でも確信し続けているのは、そういうことです。言葉には確かな力がある。しか
 しその力は正しいものでなくてはならない。少なくとも公正なものでなくてはならない。言葉
 が一人歩きをしてしまってはならない。

  それで僕はもう一度、より個人的な領域に歩を進め、そこに身を置くことになりました。本
 や音楽や映画や、そういう領域にです。当時、新宿の歌舞伎町で長いあいだ終夜営業のアルバ
 イトをしていて、そこでいろんな人と巡り合いました。今はどうか知りませんが、当時の深夜
 の歌舞伎町近辺には興味深い、正体のわからない人々がずいぶんうろうろしていたものです。
 面白いこともあり、楽しいこともあり、けっこう危ないこと、きついこともありました。

  いずれにせよ僕は、大学の教室よりも、あるいは同質の人々が集まるサークルのような場所
 よりも、むしろそのような生き生きとした雑多な、あるときにはいかがわしい、荒っぽい場所
 で、人生に関わる様々な現象を学び、それなりに知恵を身につけていったような気がします。
 英語に streetwiseという言葉があります。「都会を生き抜くための実際的な知恵を持った」と
 いうような意味ですが、僕には結局のところ、学術的なものよりも、そういう地べたっぽいも
 のの方が性に合っていたようです。正直言って、大学の勉強にはほとんど興味が持てませんで
 した。

                                                「第二回 小説家になった頃」

                                 村上春樹 『職業としての小説家』

                                    この項つづく

 

  ● 今夜の一曲

 

 


  

 

 

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最終観戦記 アルツハイマー病

2015年09月24日 | 時事書評

 

 

  

 

   「そういうのってなんや? なんか俺、変な奴みたいにな
           ってんのかな?」と神谷さんは不安そうな目で僕を見た。

                                                          又吉直樹  /『火花』 



 

 ● 折々の読書 『火花』6 又吉直樹 著


  姿の見えない金木犀を探しながら近所の中通り商店街を歩いていた。昨夜、確か
に、この辺
 りで金木犀の香りがして、起きたら探しに行こうと楽しみにしていたの
だ。いつもピンサロの
 前になっている呼び込みのお兄さんが、自転車で僕の横を通り
過ぎて行った,こんな駅前では
 なかったはずだ。もう一度、アパートまで戻りながら
探さなくてはと引き返そうとした時、神
 谷さんから、「吉祥寺に住む。どこおる?
 夥しい数の桃」というメールが入った。僕は、「
 高円寺です。今から吉祥寺向かいま
す。泣き喚く金木犀」と返信し、駅まで急ぎ、ホームヘの
 階段を駆け上がり、総武
線に飛び乗ると、ようやく気持ちが落ち着いた,車窓から色づきはじ
 めた街の景色を
見下ろしながら、吉祥寺まで揺られた。

  土曜日の吉祥寺駅北口は学生や家族連れで酷く混雑していた。それぞれが目的を持
ち軽やか
 に流れて行く人々の中で、周辺の重力を一人で請け負ったかのように、重た
い空気を身に纏っ
 た男が真顔で突っ立っていた。日常の風景の中で目にする神谷さん
は違和感の塊だった。
  僕に気づくと神谷さんは嬉しそうに微笑み、「前から変な妖怪歩いてきたと思ったら徳永や
 ないか」と言った。

 「こっちの台詞ですよ。今すぐ大阪帰ってください。早く早く早く帰って下さいよ」と僕は言
 った。 

  神谷さんと一緒に吉祥寺の街を歩くのは、不思議な感覚だった。神谷さんは、なぜ秋は憂鬱
 な気配を孕んでいるのかということについて己の見解を熱心に聞かせてくれた。昔は人間も動
 物と同様に冬を越えるのは命懸けだった。多くの生物が冬の問に死んだ,その名残りで冬の入
 口に対する恐怖があるのだということだった,その説明は理に適うのかもしれないが、一年を
 通して慢性的に憂僻な状態にある僕は話の導入部分から上手く入って行くことが出来なかった。

 「凄いですね。とかないんかい」と言う神谷さんの声を聞いて我に返った。
 「すみません」
 「謝んなや。大阪で高速バスが走り始めた時から、お前にこの話して尊敬されようと楽しみに
 してたのに」

 臆面もなく自分の欲望を晒せるのは神谷さんの美点だと思う。

 「いや僕はね、一年通して憂僻な状態なんですよ。先祖が慢性的に危機的な状況に置かれてた
 んですかね?」
 「せやな。もしかしたら一切危険のない環境やったから、自分達で別種の緊張状態を生み出し
 てもうたんかもな」と神谷さんは早口で捲し立てた。
 「だとしたら、結構阿呆ですね」
 「どうやろな」

  適当に歩いていたはずが、いつの間にか、井の頭公園に向かう人達の列に並んでいた。公園
 に続く階段を降りて行くと、色づいた草木の間を通り抜けた風が頬を撫で、後方へと流れて行
 った。公園は駅前よりも時間が緩やかに進んでいて、目的を持たない様々な種類の人達がいた
 ので、神谷さんも馴染んだ,僕は、この公園のタ景に惚れていて、神谷さんを連れてこられた
 ことを嬉しく思った。

  池のほとりに腰を降ろし、太鼓のような長細い楽器を叩いている若者が平凡な無表情を浮か
 べていて、僕も確かに気にはなったのだが、神谷さんは周りを憚ることなく、男の前で露骨に
 立ちどまると、首を傾げて不思議そうに男の顔と楽器を交互に見比べた。なぜ数多くある楽器
 の中から、この男はそれを選んだのか。しかし、神谷さんにしても、更に複雑な形状の、いか
 なる音が出るのか想像もつかないような楽器を選びかねない人種であることは間違いなかった。
  楽器の男は注目されるのが不快だったのか眉間に皺を寄せて、気怠そうに演奏をとめた。
 
 「ちゃんと、やれや!」

  突然、神谷さんが叫んだ,僕は驚きのあまり動けなかった,神谷さんは、両眼を見開き男を
 睨みつけていた,男は一瞬とまった後、自分の披る赤い帽子のつばに触れ、怒嗚られたことを
 恥じるようにうつむいた。その所作が、怒鳴られたのは自分ではなかったと信じたいように見
 えた。
 
 「お前に言うとんねん!」

  神谷さんは男を逃がさなかった。やはり、この人は頭がおかしいのかもしれない。とめるべ
 きだろうか。でも僕は、なぜ神谷さんが感情を露わにするのか理由が知りたかった。
 「お前がやってんのは、表現やろ。家で誰にも見られへんようにやってるんやったら、それで
 いいねん。でも、外でやろうと思ったんやろ?俺は、そんな楽器初めて見た。めっちや格好良
 いと思った。だから、どんな音すんのか聴きたかったんや。せやのに、なんで、そんな愈地悪
 すんねん。聴かせろや!」

  男は神谷さんを見上げて、「いや、そういうんじやないから」と鬱陶しそうに答えた。

 「そういうのってなんや? なんか俺、変な奴みたいになってんのかな?」と神谷さんは不安
 そうな目で僕を見た。
  僕は、「完全に変な奴ですよ]と神谷さんに教えて差し上げたが、神谷さんは、なぜ僕が笑
 っているのかわからないようだった。
  僕は男に謝った上で、すぐに立ち去るので少しだけ楽器の音を聴かせて欲しいと頼んだ,男
 は渋々、太鼓らしきものを叩きはじめた,神谷さんは眼を瞑り、腕組みしながら右足でリズム
 を取っている。男も神谷さんの様子を見て安心したのか、テンポを上げだした。夕暮れの公園
 を歩く人達が珍しそうに僕達を見ていた。男が楽器を激しく叩く。益々テンポが上がり連打に
 入った。すると神谷さんは右足でリズムを刻んだまま、右手を前に出して、空気を押すように
 二度ほど手の平を動かした。それに気づいた男が少しずつテンポを落とし、適度なところで神
 谷さんは右手を戻した。男はテンポをそこで固定して再び演奏に没頭しだした。いつの問にか、
 僕達の周りに若い女性が何人か集まっていた。ますます乗ってきた男が、今までになかったよ
 うな斬新な打ち方を始めると、神谷さんは右足でリズムを刻んだまま、再び右手を出してそれ
 を制した。男は斬新な打ち方をやめて、元の打ち方に戻した。ほとんど仲谷さんは指揮者だっ
 た。男の額からは汗が流れ、更に足をとめる人が増えた。僕も無意識のうちに、音にに合わせ
 て首を動かしていた。音と音の余韻が連鎖して旋律になった。そして、神谷さんもその一部だ
 った。男は赤い帽子から出た長い手を振り乱して楽器を烈しく叩いた。

  その時、唐突に神谷さんが「太鼓の太鼓のお兄さん!太鼓の太鼓のお兄さん!真っ赤な帽子
 のお兄さん!龍よ目覚めよ!太鼓の音で!」と幼稚な詩を大声で唄い出した。僕がとめても、
 しばらく神谷さんは唄うことをやめなかった。

  辺りが紫色に暮れ出すと雨粒が僕の肩を濡らし、次第にシャツを濡らした。それを合図に人
 垣は散り散りとなったが、男はそれでも楽器を叩き続けていた。混沌の様相を呈す場を、主謀
 者の神谷さんと共に後にした。「武蔵野珈琲店」という看板が眼に人った時には、雨粒は激し
 く路面に弾かれていたので、僕達は迷わず階段を昇り店の扉をひいた。

 
                                又吉直樹 著『火花』 

師匠と呼ばれる神谷のひととひとなりが劇的な発露として一瞬読み手を緊張に導出すると同時に、
作者のエネルギーを感じ取ることができるシーンとなっている。

                                     この項つづく

 

 

【環境配慮型太陽電池研究 Ⅰ】

韓国の大学の研究グループが、薄膜ハイブリッド型の太陽電池の試作に成功したと発表し話題とな
っている。上/下図のように、太陽光をすべてエネルギーに変えてしまうアイデアの延長にあるも
の。まず、(1)紫外光域は、光吸収の優れた色素増感型変換層で電気エネルギーに変換、(2)
可視光域はは有機型変換層で電気エネルギーに変換、(3)さらに、近赤外域は熱電変換層で電気
エネルギーに変換する構造(尚、PT/PEは電極とフィルム樹脂、PVDF-TrFEはフィル
ム樹脂)。

太陽電池は進化加速している。降り注ぐ太陽光を百パーセント電気変換できるまでは至っていない
が、このハイブリッド・ソーラー電池は、従来のソーラー電池より20%変換効率を向上させた。
構造自体は目新しいものではないが、電圧が従来のものより、5倍というのが最大の特徴で、可撓
性も保て、新しい構造によるコストアップ分は変換及び集電効率の性能でアップ十分カバーできる。
これは面白い。

 



【釣り革命: ドローンで釣りも五月蠅くなるが】

これから、海や川、池の釣り場でドローンのフィッシャーマンが接見するかもしれない。勿論、現
時点では
魚影を探知、追跡し鶴というものまでには至っていないが、かなりの大物を釣れている。
また、釣り糸を通電
できるように、LEDの集魚灯を浮きに付け釣ることも試されている。これは
「釣り革命」に違いないが、これまでの自然にとけ込んで釣りを楽しむ伝統的な釣り人は、はた迷
惑なもの。このようにドローンが市民権を得るには「静粛性」「安全性」「非兵器性」「人権保護
性」などのをクリアが大前提となる。

 

 

【最終観戦記  アルツハイマー病Ⅰ】


●その1:カマンベールチーズで予防できるか

高齢者の増加に伴い、認知症は大きな社会問題。残念ながら認知症の本質的な治療方法は、未だ明
らかでない。そこで、日常生活の中で認知症を予防できる方法の開発が注目を集めている。これま
で、チーズ等の発酵乳製品を摂取することで認知機能の低下が予防されるという疫学的な報告があ
ったものの、詳細な機序やその有効成分は不明のまま。東京大学の中山裕之教授らの研究グループ
は、カマンベールチーズに含まれる成分が、認知症の一種であるアルツハイマー病の症状を再現し
たマウスで、その原因物質であるアミロイドβの沈着を抑える効果があることを見出したことを発
表。アルツハイマー病の症状を再現したマウス(5xFAD)に市販のカマンベールチーズから調製した
飼料を摂取させると、この成分を含まない飼料を摂取させたマウス群に比べ、(1)アミロイドβ
の脳
内沈着が減少し、脳内の炎症が緩和されること見出す。(2)また、脳内で異物の排除を担う
ミクログリアがアミロイドβを除去する機能(貪食活性)と(3)抗炎症活性を促進するはたらき
のある物質を、(4)カマンベールチーズの製造時に用いられる白カビで発酵させた乳から探索。
その結果、(5)オレイン酸アミドとデヒドロエルゴステロールを同定する。これらの成分は白カ
ビによる発酵工程で生成された可能性がある。この
成果により、発酵乳製品の認知症予防について、
カマンベールチーズによるアルツハイマー病への予防効果が有効である可能性が高まり、特定され
た有効成分の検証など、今後のさらなる研究が期待されている。

 

 

 

● アルツハイマー病の進行抑制に成功するするか

京都工芸繊維大学の和久友則助教らの研究グループは、アルツハイマー病発症の原因である脳内の
蛋白
質異常凝集を抑制するナノファイバー型ペプチド医薬を新たに開発したことを発表。アルツハ
イマー病疾患
モデルマウスに、このペプチド医薬を投与すると、アルツハイマー病の進行を抑制。
このペプチドは人体内
に含まれるタンパク質由来の無害なアミノ酸配列を利用、今後新たなアルツ
ハイマー病治療薬として応用で
きる見込み。

アルツハイマー病は、細胞外におけるアミロイドβの異常凝集と、細胎内においてリン酸化を受け電
荷が変化したタウ蛋白質の異常凝集が誘導する神経細胞死により起こ
る。現在アルツハイマー病の
薬剤として、抗アミロイドβ薬である(1)酵素阻害剤
や(2)免疫療法、さらに抗タウタンパク
質凝集薬としてダウの(3)リン酸化阻害剤などの研究が行
われている。

しかし、アルツハイマー病をより効率的に制御するためには、アミロイドβとタ
ウタンパク質の異
常凝集を同時に抑制する薬剤の開発が望まれている。これもでの熱
ショック蛋白質αクリスタリン
由来のペプチドをアルツハイマー病治療薬として利用する
研究が同グループで行ってきた。αクリ
スタリンは水晶体内でタンパク質凝集を防ぐことで、白内障を
抑制する機能を有し、その基質結合
部位 αAC(71-88):FVIFLDVKHFSPEDLTVKは、
アミロイドβの異常凝集を抑制することが報告され
ていた。我々はこの αAC(71-88)が自己
会合しナノファイバー化することで、蛋白質凝集抑制機能を
増幅することを明らかできた。
 
さらに、ナノファイバーは(1)疎水性相互作用により、蛋白質凝集体を表面に吸着することっ
アミロイドβの凝集が抑制されることを見出す一方、(2)この機能が、ナノファイバーの表
面電
荷に強く影響を受け、標的タンパク質と静電的に結合すると、表面電荷を喪失して蛋
白質凝集を逆
に促進することを見つける。これにより酸性のアミロイドβと塩基性のタ
ウタンパク質の双方の凝
集を抑制には、塩基性配列を導入したペプチド用いて表
面電荷が中和したナノファイバーの設計が
必要となる。

そこで、塩基性細胞膜透過性配列アンテナペディア:RQIKIWFQNRRMKWKKαAC(71-88)の末端
に結合させたペプチドを利用し、表面電荷がゼロの中性ナノファイバーを調製。このナノファイバ
ーをマウスの静脈に投与し、細胞膜透過機能により脳内へ移行することが蛍光顕微鏡により確認。
さらにアルツハイマー病疾患モデルマウスにナノファイバーを投与すると、アルツハイマー病の症
状の進行が抑制されることがY字迷路試験で確認。また、投与の際の患者への負担が少ない鼻粘膜
投与した疾患モデルマウスでも、Y字迷路試験により効果確認され、現在脳内移行性の確認実験を
行っている。

癌・アレルギーとこの認知症はこのブログでも重要なテーマでもあり、アルツハイマー型認知症も 
この他の2つの病症と同様に、原因を突き止め、罹患率を抑制できるのも間近だと確信している。
尚、このシリーズで取り上げていく。

   

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メタセコイヤと彼岸花

2015年09月23日 | 時事書評

 

 

 

   月の裏側に一人残されていたような恐怖を自分のことのよ
               うに想像しながら、その状況の意味を何年も考え続けた。
 
                                                                                                
                                                                               村上 春樹 

  

朝、いつものように作業をしていると、朝刊の一面をみせ、「高島の桂浜園地」の彼岸花が見事に咲
いている
とみせるので、二言、三言を話し、それじゃこれがおわったら見に行こうと約束し、八時半
過ぎに家をでて、昼
前に帰ってくる。国道335号から湖岸道路の54号にはいるとメタセコイヤと
百日紅の並木道を疾走すると、
めざす今津町桂の一万本もの彼岸花が群生する地に到着。天候もよく
群生地には沢山の人がめいめい写真を撮ったり
し花を鑑賞している。もう少しするとそばの花が咲き
紅白のコントラストが楽しめる。帰りに「あぢかまの里」に立ち寄り栗御飯と古漬け、そして、清酒
「深坂地蔵」を
買い、お昼御飯に頂く。



         塩津山うち越え行けば我が乗れる 馬そ爪づく家恋ふらしも

         ますらをの弓末ふり起し射つる矢を後見む人は語り継ぐがね  


                               笠朝臣金村


この「深坂地蔵」のラベルにかかれている一首は、金村が近江の塩津山で作った歌のひとつされ、塩
津山が
どこを指すかさだかでないが、近江塩津から角鹿(敦賀)へ向かう道の途中であることはほぼ
確かだとされるが、この短歌も現代では符号化した「商品」の価値形態の援用として消費されている。
また、北陸新幹線の岐点となるであろう敦賀から大阪と名古屋の太平洋側の二都市を結ぶことになれ
ば、これほどの誉れはないと、美し国の蒼氓の"げんざいのかさのあそんかなむら"は塩津山(しおつ
やま)――現在の滋賀県長浜市西浅井町塩津浜と福井県敦賀市追分との間の山。琵琶湖北岸から敦賀
へ出る険路――を望みそう思っているのではないかと韻を惹く。

 

深坂峠は、深坂古道は古来、「深坂越え」と言われ標高370メートル深坂峠を越える交通の難所。
しかし「深
坂越え」は、越前の国(敦賀)と近江国(塩津)を結ぶ最短経路であり、難所であるにも
かかわらず利用される。
千年の昔、紫式部が父(藤原為時)に連れられ通った道で、平清盛が息子、
重盛に、琵琶湖-敦賀間の運
河の開削を命じる。近世には、秀吉により高低差の少ない「新道野越え」
が東に開かれると「深坂越え」の道は衰退する。
現在では東の「新道野越え」は国道8号に西の「西
近江路」は国道161号に姿を変える。


       
       知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 世にふる道は からきものぞと     

                                   紫式部


深坂古道は古来、「深坂越え」と言われ標高370mの深坂峠を越える交通の難所。「深坂越え」は、

越前の国(敦賀)と近江国(塩津)を結ぶ最短経路であり、難所であるにもかかわらず利用されてい
く。千年の昔、紫式部が父(藤原為時)に連れられて通った道であり、平清盛が息子、重盛に、琵琶
湖-敦賀間の運河の開削を命じたところ。また、秀吉により高低差の少ない「新道野越え」が東に開か
れると難所とされてきた「深坂越え」の道は衰退する。現在では東の「新道野越え」は国道8号に、
西の「西近江路」は国道161号線に姿を変る。峠の手前に、深坂地蔵堂――堀止(ほりどめ)地蔵
とも――があるが、近江・塩津から越
前・敦賀を結ぶ運河を平重盛が塩津側から掘削を開始するが峠
付近にさしかかった時、大きな岩に突き当た
り頓挫する。石工が岩を割ろうとクサビを打ち込むと、
突然石工は腹痛を訴えて倒れこみ、別の石工が試みて
も同じように腹痛がおこり工事は中断。不思議
に思いこの岩を掘り起こすと、立派なお地蔵のお姿を見つけ、
運河計画を中止するが、その場にその
お地蔵様を安置したと言い伝えられていくが、現在は子供の守り神と
して信仰される。

また、運河の起点となる塩津港があった「塩津港遺跡」で8年前、誓約書のルーツである起請文が書
かれた大きな木簡が多数出土するが、ほとんど12世紀後半のも。まさに平清盛が活躍した時代と一
致するが、このことが「清盛の知られざる野望 琵琶湖運河計画が眠る峠」、つまり、日宋貿易が平
清盛の父・忠盛が越前守だった時代に敦賀で行われ、瀬戸内海の海賊と戦い海運航路を確保し、博多
に日本初の人工港をつくり瀬戸内海ルートを使い日宋貿易を活性化、
航路が狭く難所とされた広島県の
音戸(おんど)の瀬戸を開削伝説を生み、この貿易で財を築いた平清盛が、当然のごとく、日本海~琵琶
湖ルートの重要性を教えらたと推測される所以である。


※塩津~敦賀間運河計画年表 http://www.koti.jp/marco/unga_hyou.htm

 
 



【中古太陽発電市場が本格化】

固定価格買取制度も4年目に入り、建設工事が終わって売電を開始した太陽光発電所が増えてきた。
資源エネルギー庁の発表によると14年1月現在で13.6ギガワット超の太陽光発電所が運転を開
始――9月22日現在の全国の太陽光発電所一覧地図:2418箇所で5,736メガワット――し
ている。原発13基分に相当する出力となる。1メガワットあたりの建設費用を3億円と
すると、3
億円×13ギガワット=3.9兆円分の運転開始した太陽光発電所が存在することになる。
短期間に
これだけの投資を誘発した投資促進制度は非常に稀で、固定価格買取制度の威力を見せ付けるものと
なっている。従来は開発途上の太陽光発電所の3点セット(①設備認定、②電力会社への接続申込の
地位、③土地利用権)をメガワットあたり数千万円で取引するいわゆる「権利売買」取引が行われてい
たが、これからはそれに加えて完成しえている太陽光発電所を売買するセカンダリー取引が活発にな
る予想されている(「中古太陽発電市場が本格化」江口直明 環境ビジネス 2015年秋季号)。

太陽光発電所を買い取る海外ファンドも日本に上陸し、太陽光発電所を買い始めている。また、東京
証券取引所の太陽光発電所等の再生可能エネルギー向けインフラリート(インフラ施設を対象とした
不動産投資信託(リート))制度も始まり、今後
設立されるインフラリート投資法人も有力な買い手
となりうる。さらに完成した太陽光発電所に投資
するファンドも日本で立ち上げる動きがあり、買主
の顔ぶれが出そろいつつある。15年3月31日で終了した太陽
光発電設備の即時償却メリットを享
した税効果目的投資家は、継続保有するインセンティブはなく、今後維持管理費がかかる太陽光発
電所を売却に動
くかもしれない。また、海外投資家は開発型投資家が多く、完成後は売却することを
前提に開発を進めている。これらの海外投資家の太陽光発電所の資金調達のためのファイナンスが今
佳境を迎えているので、海外投資家が完成した太陽光発電所を売りに出すケースも間もなくやってこ
よう。まさに機は熟しつつあると言える。 

発電所情報の開示

太陽光発電所の売買をスムーズに進めるためには、売主側でも十分な準備が必要となる。買主が売買
の可否を判断するのに必要な情報は売主側から積極的に開示し、買主のデューディリジェンス(法務
査、技術監査――不動産取引等において対象不動産の適正な市場価値やリスクを明確にするために
実施する詳細かつ多面的な調査
――を容易にする努力が必要となる。不動産売買の際に行われている
重要事項説明書の
ような書面を作成し情報を開示するのが望ましい。売主の開示情報が整っていれば
買主の法務デュ
ーディリジェンスの期間は短くなり、その費用も安くなるので、迅速に売買契約書の
交渉へ手続きを進める
ことができる。売主側として、法務監査に時間がかかり売却の機会を逸すると
いう不都合を避けるこ
とができる。開示資料不足と時間不足で法務監査が十分にできなければ、積み
残した事項については
リスク原因として買主は発電所の購入値段に織り込まざるを得ず、価格の低下
要因になる。



売主が太陽光発電所を購入又は開発する際に弁護士やその他の専門家にデューディリジェンスレポー
トを作成させていた場合には、通常下記のような事項について予め調査がされていることが多い.そ
の場合には、このデューディリジェンスレポートを買主に開示すれ
ば、買主の
デューディリジェンスを容易にすることができる。売主の担当弁護士等は、依頼人以外の者が担当弁
護士等の作成したデュディリジェンスレポ-トに依拠することを望まない場合もある。その場合には
「ノン・リライアンスベース/非依拠ベース」で開示を許諾してもらうように当担当弁護士等に依頼
するこ
とになる。開示資料では例えば次のような記載が必要になろう。合同会社の持分を売却するこ
とを前
提とする。

1.基本情報

①太陽光発電所設備名称、完工した発電所の実際の発電出力MW数、買取価格(40/36円)
②設備所在地、発電事業者名、設備ID番号、設備認定通知言上の発電出力、設備認定日(設備認定通知
 書/変更届の写しを添付)
③売主名(合同会社の持分保有者)(会社や一般社団法人の場合は商業登記簿謄本を添付)
④発電事業を行う合同会社名(商業登記簿謄本及び定款を添付)

【発電事業を行う合同会社名と設備認定通知の発電車業者名が異なる場合は、設備認定通知の発電事
業者から現在の発電事業を行う合同会社に設備認定の名義変更が行われたことを示す軽微変更届出写
し及び権利譲渡に関する契約書の写しを添付】

⑤実質売主名(売主がSPC)の場合(商業登記簿謄本を添付)
⑥売電先会社名
⑦土地所有方式/土地賃貸方式
⑧プロジェフトストラクチャー図(当事指名を含む参考例有)

2.設備認定・接続契約

①設備認定について報告書徴収があった場合の報告書、回答書
②速系接続検討結束
③系低速系承諾通知書年月日
④速系工事期間と工事負担金支払領収 書
⑤特定契約・接続契約(売電契約書)/電力受給に関する契約要綱の写し

3.土地情報

3.1 発電所用地

①発電所建設時のデューディリジェンスの有無、DDレポート開示の可否
②発電所用地の詳細図
発電用地の筆数と地積合計面積
発電用地の不動産物件目録(参考例 有)
⑤発電用地の公図をつなぎ合わせて一つの地図としたもの
⑥不動産登記簿騰本の写し
⑦発電用地利用権の種類(所有/地上権/登記付賃借権)
⑧土地利用契約書名、当事者名、調印 年月日、年間地代合計額(賃貸方式の場合)/固定資産税合計
 額(所有方
式の場合)、利用権の期間
⑨測量図、筆界確認
許認可取得の有無と許可書の写し(農地転用許可、林地開発許可、条例による環境影響評価等)
用途地域
⑫都市計画道路の有無

3.2送電線用地


上記3.1の①から⑩と同様 但し③は
地積合計面積は不要、⑦は送電線用地の利用権として、空中地
上権、地役
権、道路占用許可等

4.契約書

①エ事請負契約書出力保証の有無と内容
②発電所の試運転情報/エンジニアリンブレポート/TUV等の認証の有無
③運転維持管理契約書出力保証の有 無と内容
④パネル供給契約書出力保証の有無と内容
⑤保険検証証券保険の概要、パネルメーカ―倒産保険の有無
⑥融資契約売買時全額返済の可否、担保の有無
⑦その他(開発契約、仲介契約等もしあれば)

5.その他報

6.技術情報

これらは法務監査のための資料開示ではなく、技術監査のための資料開示となる。発電所の設計図書、
地盤デー
タ、配線図、発電実績、発電効率、試運転の記録、系統の出力抑制事由の有無、瑕疵修補の
記録、スペアーパーツ
状況等技術監査に必要な情報は技術監査専門家から開示要求されることになる。
開示要求に迅速に対応できるよ
うに、予め開示資料を整えておくことが望まれる。




太陽光発電所のデューディリジェンス

買主の法務デューディリジェンスは、関示された発電所情報を基にして、不明点をさらに調べる追加
的審査となる。法務監査は書面の確認、売主のインタビュー関係行政機関や契約相手方へのヒヤリング
の手順を踏み、関係行政機関に買主の弁護士がいきなり連絡を取ると、関連行政機関の担当者には寝耳
に水となり、十分な協力が得られないこともある。売主から予め関連行政機関に買主側法律事務所の
名前を告げて、ヒヤリングの要請があることを伝えて、協力のお願いをしておくことが望ましい。デ
ューディリジェンスは、数週間を要し、最終的にデューディリジェンスレポートを作成。このデュー
ディリジェンス
レポートは買主が将来この当該太陽光発電所を売却する際にも開示資料の役割を果た
す。

太陽光発電所合同会社の持分売買契約

買主がデューディリジェンス結果に満足すると、次に太陽光発電所合同会社の持分売買契約の交渉と
調印へ進む。発電所事業の売買には、(1)会社譲渡方式と(2)資産譲渡方式の2種類があるが、
通常は発電所施設、関連契約、許認可を有している発電所合同会社の持分を譲渡することにより、個
々の資産譲渡、契約上の地位の移転、許認可の移転を避けて、一括して会社ごと発電所事業を譲渡する。
但し持分譲渡方式では買手側で営業権の認識ができず、税務上の理由から資産譲渡方式を買主が求め
る場合もあり、譲渡のストラクチャリングにあたっては税理士への相談が不可欠となる。譲渡を実行
してから、税務上の理由から一旦譲渡を解除は空振りとなる。契約の相手方は資産を有する当事者と
するか、契約の相手方は特別目的会社でやむを得ないとしても、資産を有する親会社、または関連会
社から契約の履行について保証を得ておく。 

売買契約の記載事項としては、契約日から売買実行日までの間に売主が行うべき事項及び売買を妨げ
てはいけない事項を列挙する。また、売主及び買主がそれぞれ売買実行日までに充足しなければならな
い売買実行前ジェンスの結果、発電所に不具合が見つかった場合には、売買実行日までにその部分を修
補することが条件になったりする。

売買契約の重要な項目として売主の表明保証がある。売主自身に関する事項、発電所に関する事項、

許認可に関する事項等について売主は表明保証を行い、万が一表明保証が誤っていた場合には損害賠
償義務を負うことを約束する。デューディリジェンスで十分調査ができなかった事項については、売
に表明保証してもらうことにより、調査に代替する場合もある。売買契約上の履行義務の重大な違
反や重大な表明保証違反があった場合、売買契約は解除され、損害賠償を請求することになる。売買
契約には損害
賠償の免責額及び損害賠償の上限額を記載することがある。 

以上のように、固定価格買取制のプレミアム期間終了を控え、中古(セカンダリー)太陽光発電所の
売買にかかわる法務デューディリジェンスについて、ベーカー&マッケンジー法律事務所の江口直明
弁護士の日本市場の動向について学ぶ。                                         

  

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電力疾走!全力疾走!

2015年09月22日 | 時事書評

 

 

 

 

 

   小説家にとって「落ち着くべき場所にすんなり落ち着く」というのは、
        率直に言わせていただければ、「創造力が減退する」のとほとんど同
        義なのです。小説家はある種の魚と同じです。水中で常に前に向かっ
       
て移動していなければ、死んでしまいます。

                                                                                   村上 春樹

 



 ● 折々の読書 『職業としての小説家』4

  子供の頃何かの本で、富士山を見物に出かけた二人の男についての話を注んだことがあります。
 二人ともそれまで富士山というものを目にしたこともありません。順の良い方の男は富士山を置
 のいくつかの角度から見ただけで、「ああ、富士山というのはこういうものなんだ。なるほど、
 こういうところが素晴らしいんだ」と納得してそのまま帰って行きます。とても効率かいい。話
 が早い、ところかあまり頭の良くない方の男は、そんなに簡単には富士山を理解できませんから、
 一人であとに残って、実際に自分の足で頂上まで登ってみます。そうするには時間もかかるし、
 手間もかかります。体力を消耗して、へとへとになります。そしてモの末にようやく「モうか、
 これが富士山というものなのか」と思います。理解するというか、いちおう暗に落ちます。

  小説家という種族は(少なくともその大半は)どちらかといえば後者の、つまり、こう言って
 はなんですが、頭のあまり良くない男の側に属しています。実際に自分の足を使って頂上まで登
 ってみなければ、富士山がどんなものか理解できないタイプです。というか、それどころか、何
 度登ってみてもまだよくわからない、あるいは登れぼ登るほどますますわからなくなっていく、
 というのが小説家のネイチャーなのかもしれません。モうなるとこれはもう「効率以前』の問題
 ですね。どう転んでも、頭の切れる人にはできモうにないことです。
 
  だから小説家は、異業種の才人かある日ふらりとやってきて小説を吉き、それが評論家や世間
 の人々の注目を浴び、ベストセラーになったとしても、さして驚きはしません。脅威を感じたり
 することもまずありません。ましてや腹を立てたりもしません(と思います)。なぜならそのよ
 うな人々か、小説を長期問におたって書き続けるのは稀なケースであることを、小説家は承知し
 ているからです。才人には才人のペースがあり、知識人には知識人のペースがあり、学者には学
 者のベースがあります。そしてそういう人たちのペースはおおかたの場合、長いスパソをとって
 みれば、小説の執筆には向いていないみたいです。

  もちろん職業的小説家の中にだって才人と呼ぱれる人はいます。頭の切れる人もいます。ただ
 世間的に頭が切れるというだけではなく、小説的にも頭の切れる人です。しかし伎の見たところ、
 そのような頭の切れだけでやっていける年月は――わかりやすく「小説家としての賞味期限」と
 言っていいかもしれませんが――せいぜい十年くらいのものではないでしょうか。それを過ぎれ
 ば、頭の切れに代わる、より大ぷりで永続的な資質か必要とされてきます。言い換えるなら、あ
 る時点で「剃刀の切れ味」を「鉈の切れ味」に転換することか求められるのです。

  そして更には「鉈の切れ味」を「斧の切れ味」へと転換していくことが求められています。そ
 のようないくつかの転換ボイントをうまく乗り越えられた人は、作家として一段階大柄になり、
 おそらく時代を超えて生ぎ残っていきます。乗り越えられなかった人は多かれ少なかれ、途中で
 姿を消して――あるいは存在感を薄めて――いくことになります。あるいは頭の切れる人か落ち
 着くべき場所にすんなりと落ち着いていきます。

  そして小説家にとって「落ち着くべき場所にすんなり落ち着く」というのは、率直に言わせて
 いただければ、「想像力が減退する」のとほとんど同義なのです。小説家はある種の魚と同じで
 す。水中で常に前に向かって移動していなければ、死んでしまいます。 

  というわけで僕は、長い年月飽きもせずに(というか)小説を書き続けている作家たちに対し
 て――つまり僕の同僚たちに対して、ということになりますが――  一様に敬意を抱いています。
 当然のことなから、彼らの両く作品のひとつひとつについては個人的な好き嫌いはあります。で
 もそれはそれとして、二十年、三十年にもわたって職業的小説 家として活躍し続け、あるいは生
 き延び、それぞれに一定数の読者を獲得している人たちには、小説家としての、何かしら優れた
 強い核のようなものが備わっているはずだと考えるからです。小説を書かずにはいられない内的
 なドライブ。長期間にわたる孤独な作業を支える強靭な忍耐力。それは小説家という職業人とし
 ての資質、資格、と言ってしまっていいかもしれません。

  小説をひとつ書くのはそれほどむすかしくない。優れた小説をひとつ書くのも、人によっては
 それほどむずかしくない。簡単だとまでは言いませんか、できないことではありません。しかし
 小説をずっと書き続けるというのはずいぶんむずかしい。誰にもでぎることではない。そうする
 には、さっきも中し上げましたように、特別な資格のようなものか必要になってくるからです。
 これはおそらく「才能」とはちょっと別のところにあるものでしょう。

  じゃあ、その資格があるかどうか、それを見分けるにはどうすればいいか? 答えはただひと
 り、実際に水に放り込んでみて、浮かぶか沈むかで見定めるしかありません。乱暴な言い方です
 か、まあ人生というのは本来そういう風にでぎているみたいです。それにだいたい小説なんか害
 かなくても(あるいはむしろ書かないでいる方か)、人生は聡明に有効に生きられます。それで
 も鳶きたい、書かずにはいられない、という人が小説を書きます。そしてまた、小説を書き続け
 ます。そういう人を僕はもちろん一人の作家として、心を開いて歓迎します。

  リングにようこそ。 

                         『第一回 小説家は寛容な人種なのか』

                                                        この項つづく

● リヨンに太陽光発電量リッチなポジティブ・エナジー「ヒカリビル」が完成

新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)は、フランスのリヨンで太陽光発電の発電量がエ
ネルギー消
費量を上回るポジティブ・エナジー・ビルディング「ヒカリビル=写真」を完成した。蓄
電池や蓄熱材、LED照明、
ビルエネルギー管理システムを導入して省エネを徹底した。ビルを実証
運転し、スマートコミュニティー実証事
業の成果として海外に訴求する。東芝などに委託し、日本の
エネルギー関連技術を搭載して建設した。同国で
は公共施設をポジティブ・エナジー・ビルディング
にすることを目標に掲げており、実証成果は実際のビジネス
に展開できる。

今回のスマートコミュニティ実証はリヨン都市共同体(グランリヨン)が進めている都市再開発事業
とタイアップしたもので、20年までに20%の省エネ、20%の再生可能エネルギーの導入をEU
の政策目標に配慮。TASK1
に続くTASK2ではPVを活用したEV管理システムとカーシェア
リングシステムの導入。TASK3はHEMSによる住民の省エネ行動の促進、TASK4では地域
全体のエネルギーを最適化するCEMSを構築する計画だ。NEDOのTASK1~4までの総事業費は
約50億円。日本からは東芝、東芝ソリューションが参加している。ヒカリビルのオープンは15年
初旬、プロジェクトの終了は16年秋ごろの予定。

 


● 水害の予測に応用可能 76GHz帯のミリ波発振器

日本電波工業は、「センサエキスポジャパン2015」(東京ビッグサイト)で76GHz帯のミリ波発
振器を展示。このミリ波発振器は、ガンダイオードとバラクタダイオードを同一平面に収納したプレ
ーナー構造。寸法は13×14×3ミリメートルと小型だが、20ミリワット(10デシベル以上)の高
出力を実現。位相雑音も百デシベル搬送波(1MHz時)と低くなっている。雨や雪など天候が悪か
ったとしても、検知できるのがミリ波の特長。

なお、同社は、モノリシックマイクロ波集積回路(MMIC:Monolithic Microwave Integrated Circuits)と
比べ、半導体素子の開発費用が少なく、発振器としても、部品構成の簡素化が可能ろなり、高い周波
数を選択しているのでアンテナが小型化でき、センサ全体をコンパクト設計可能といった利点がある。


自然災害発生予測に応用が可能

76GHz帯ミリ波発振器を用いたセンサとして、検波器やドップラーセンサFMCW(Frequency Modulated
Continuous Wave
センサが紹介されている。FMCWセンサは、物体の距離と速度を検知できるため、河
川や海などの水位が検知可能。このため、河川の氾濫や津波などの自然災害発生の予測に応用でき、現行
の可視レーザ距離計では、水を透過してしまい距離を誤認識する場合があるが、ミリ波は水を透過しないため
誤認識をすることがない。ミリ波発振器は既にサンプル出荷を開始。1個からの少量受注対応も考え
ているとか。同社は、警備や見守りなどに応用ができ、多種多様な展開が可能だと意気込んでいる。

 特許4772255
【符号の説明】

1  MSL共振回路、2  ガンダイオード、3  基板、4  接地導体、5  整合線、6  出力線、7  SL、8  内側導
体、9  外側導体、10  SLスタッブ、11  ワイヤ、12  キャパシタ、13  バラクタダイオード、14  CPW、15
 MSLスタッブ、16  バンプ.

● ルームランニング記 Ⅲ: ローイングマシーンで疾走 

 

 


時間を惜しんで、いまは、ローイングマシーンに切り替えがんばっている家内ビジネスマンです。

 

 

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アイム・ベンチャーズ。

2015年09月21日 | 時事書評

 

 

 

 

   人々は闇の中から出てくる何かを見つける
        ことで、闇の中から救われることができる。 


                                                      村上 春樹

 

  

  

【1965年 学園祭の2つのBGM】

ここ2、3日は気圧配置も安定した秋日和がつづいている。無理から筋の法案騒動に
自民党と永遠さよならした折しもその日、ラグビーW杯 で「ジャーパン」の大
合唱が世界を席巻すると、言葉と裏腹に申し訳なさそうに(それはないっか?!)ケ
リー米国務長官が、欧州の危機緩和に難民受入れ枠を10万人に拡大したいと表明す
る。異常気象も、国際紛争もその原因を元から絶たなきゃと再確認し、1965年の
あの秋日和をたどる。学園祭は部活動の晴れの日、不純な動機?で女子校などを訪問
し取材(新聞部に所属)すると、ほとんどといって「十番街の殺人」「ヘルプ」が校
内が流れいたように記憶している。リズムギター担当の唯一旧メンバーのドン・ウィ
ルソンは今年で引退する(現在日本ツアー中)。ビートルズはポールとリンゴの二人
は存命で活動を続けている。もっともリングは活動らしきことは行っていないが、

ンチャーズのその名前の冒険者達・投機者達との意味をあらため考えることになる。
ドンは82才、ポールは73才、リンゴは75才。このわたしは?「あなたはいくつ
?」と昭和天皇と平成天皇の諱(いなみ)も混乱している彼女が問うので、「46才
!」と言い放つと、すかさず「あなたは若いね~ぇ」と彼女が突っ込みを入れ二人で
大笑いする。


さて、話はつづく "アイム・ベンチャーズ" の話だ。複数形はわたしのアドリブ造語。
ポールは活動を続けていくからというわけでないが、今抱えている仕事量は減ること
だけはないだろう。そこで残件を処理する。

 

 

【世界最高効率の水素製造に成功 変換効率24.4%】


東京大学の杉山正和准教授らの研究グループは、高効率太陽電池の電力で水電気分解
するシステムを構築し、太陽光エネルギーの24.4%を水素に蓄えることに成功する。
水素は自動車などのクリーンな燃料として今後の需要増大が見込まれるが、現在は化
石燃料から製造され、
低コストで水素を生成する技術が求められている。光触媒を用
いた太陽光からの水素製造方法は、太陽光から水素へのエネルギー変換効率は15.3
%(『大阪都構想にエールを。』2015.05.02)。同教授らは、レーザーやLEDなどに用
いられる高品質な半導体を、レンズで集めた強い光のもとに置いて発電する集光型太
陽電池(発電効率31%)を用い、水の電気分解装置との電気的接続法を改良すること
でエネルギー損失を低減、水素へのエネルギー変換効率24%以上を実際の太陽光の
もとで実現。このシステムに用いられる太陽電池と電気分解装置はすでに市販されて
おり、設置条件に合わせたシステム設計により太陽光由来の水素を高効率に製造する
ことが現在の技術で実現可能。集光型太陽電池は通常の太陽電池に比べ高価だが、海
外の高照度地域では発電効率が高い分発電コストを低減でき、米国エネルギー省が目
標とする水素コスト1キログラムあたり4ドル以下へのコスト低減が見込まれている
――と述べている。しかし、少し付け加えておくと、わたしの事業構想「オールソー
ラーシステム」では、海洋筏方式での発電-水素製造-貯蔵搬送、マイクロ波電送、
洋上風力発電を含め日本近海での生産が有利だと考えている。

 

 
※ A 24.4% solar to hydrogen energy conversion efficiency by combining concentrator photo-
  
v-oltaic modules and electrochemical cells, The Japan Society of Applied Physics •Applied
      Physics Express,  Volume 8,


【リチウムイオンの輸送性能7倍 有機系固体電解質材料開発】

北陸先端科学技術大学の松見紀佳教授らは、リチウムイオンの輸送性能に優れる有機
系固
体電解質材料を開発。これは、有機ホウ素結晶とリチウム塩の固体を混合した材
料で、溶解後に混合する従来法に比べ、イオン輸送性能が最大で7倍に広がることを
突とめた。自動車用リチウムイオン二次電池や高容量定置電源の性能向上につながる
可能性がある。


松見教授らは、材料の安定性を高めるため、針状結晶物が環状に連なったホウ素化合
を合成。さらにホウ素化合物とリチウム塩を固体のまま粉砕して混合、ペレット状に
した。このペレットは溶解後に混合した材料に比べ、ホウ素と陰イオンの相互作用に
よるリチウムイオン伝導性向上率が高まったと考えられる。

説明のように、イオン伝導性を高める→イオンが電極に接触しやすくなり→蓄電能力
の向上する。このため、(1)固体材料を用いれば電池の安全性が高くなり、(2)
高分子ポリマー(高分子固体電解質――フィルム形成能や電極との接触面積が大きい)
と(3)セラミックス(無機系固体電解質――有機系固体電解質より大幅に優れたイ
オン伝導特性を示す)の長所を融合させた新型固体電解質(全固体型リチウムイオン
電池)を作製するに至る。具体的にはイオン伝導特性(イオンや電荷の流れが高速化)
が増し、イオンが電極に接触しやすくなり蓄電能力の向上し、安全性が高まる電解質
を作製する。

ここでは、有機ホウ素系結晶を足場としてホウ素―アニオン相互作用により、イオン
伝導パスに秩序を与えることを試みる。その結果、系へのリチウムイオンの導入方法
により、イオン伝導度が大きく異なるという特異的な挙動を観測。評価は、(手法1)
有機ホウ素結晶とリチウム塩とを固体のまま粉砕、混合しペレット状に処理。サンプ
ルは、(手法2)有機ホウ素結晶とリチウム塩とを共溶媒に溶解させ混合した後、溶
媒を減圧留去、乾燥し、サンプルと比較――大幅に高いイオン伝導度を示す。

これは、前者の系における結晶構造がホウ素―アニオン相互作用を通し、イオン伝導
パスに秩序を与えた結果と考えられ、実際に前者の系では後者と比較し、VFT(Vogel-
Fulcher-Tammann
)式から算出されたイオン輸送の活性化エネルギーの顕著な低下が明
らかされた。

※  A crystalline low molecular weight cyclic organoboron compound for efficient solid state
   lithium ion transport((結晶性低分子環状有機ホウ素化合物による効果的な固体状態
   におけるリチウムイオン輸送),  Chem. Commun., 2015, Advance Article DOI:  10.1039
   /C5CC04753F

※ 
もう少し時間をかける必要あり、残件とする。

やれ、やれ、処理すれど、また新たな仕事が発生する。たまらないね。

                                                  
 

 

 

 

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本日好日なり。

2015年09月20日 | 時事書評

 

 

 

 

   『グレート・ギャツビイ』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな。 

                                                                              村上 春樹

 

 

【超高齢社会論 18: 下流老人とはなにか】  
  

  はじめに
  第1章 下流老人とは何か
  第2章 下流老人の現実
  第3章 誰もがなり得る下流老人―「普通」から「下流」への典型パターン
  第4章 「努力論」「自己責任論」があなたを殺す日
  第5章  制度疲労と無策が生む下流老人―個人に依存する政府
  第6章 自分でできる自己防衛策―どうすれば安らかな老後を迎えられるのか
  第7章 一億総老後崩壊を防ぐために
  おわりに   

秋葉原通り魔事件が "ワーキングプアー" に 象徴される、過剰競争と自己責任の原理が
もたらす格差拡大社会の歪みとして発生したように、まもなく、日本の高齢者の9割が下
流化する。本書でいう下流老人とは、「生活保護基準相当で暮らす高齢者、およびその恐
れがある高齢者」である。そして今、日本に「下流老人」が大量に生まれている。この存
在が、日本に与えるインパクトは計り知れないと指摘したように、神奈川県小田原市を走
行中の東海道新幹線で焼身自殺した事件――71歳の林崎春生容疑者による「下流老人の
反デフレテロ」ではないかとブログ掲載(極東極楽2015.07.02 )。『下流老人』の著者
である藤田孝典は、「東京都杉並区の生活保護基準は、144,430円(生活扶助費7
4,630円+住宅扶助費69,800円 【特別基準における家賃上限】)である。資産の
状況やその他の要素も検討しなければならないが、報道が事実だとすれば、年金支給額だ
けでは暮らしが成り立たないことが明白だといえる。要するに、生活保護を福祉課で申請
すれば、支給決定がされて、足りない生活保護費と各種減免が受けられた可能性がある。
月額2万円程度、生活費が足りない(家賃や医療費などの支出の内訳にもよる)。生活に
不安を抱えどうしたらいいか途方に暮れる男性の姿が思い浮かぶ」と語っている(YAHO
O!
ニュース「新幹線火災事件と高齢者の貧困問題ー再発防止策は 「貧困対策」ではないか
!?」2015.07.02)を受け、藤田 孝典著『下流老人』の感想を
掲載してきたが、今回で
最後となる。読み終えた結論はきわめてシンプルで、スケールの大きいものになった。そ
れでは・・・・・・
   

   第7章 一億総老後崩壊を防ぐために 

             未来の下流老人をなくす-若者の貧困に介入せよ

   高
齢者は若者の延長線上の姿だ。したがってこの本でも、
両者が抱える問題をリン
 クさせながら述べてきた。

  すでにご承知のとおり、若者の雇用や生活環境は急速に劣化した,ワーキングブア、
 非正規雇用が蔓延し、一向に減る
気配がない。厚生年金に加入できず、国民年金の未
 納率も約
4割と高い。もはや年金すらかけていない若者も珍しくなくなった。

  国民皆年金制度は、雇用の不安定化によって、緩やかに終焉を告げている。これに
 代わる社会保障を構築しなければ、
若者の老後が「時限爆弾」のように、社会ヘコス
 ト増を求め
てくることだろう。これが1人や2人であれば、特異な事例として本人に
 責任を問えばいいかもしれないが、その数たる
や全国で凄まじいものがある。ブラッ
 ク企業がはびこり、普
通に商ける職場が減っているのだから、老後の不安定化は必
 と言ええる。


  だから、現役時代の報酬に関係なく、最低限の老後の生活
資金を保障するシステム
 が必要だ。今ここで手を打っておか
なければ、若者が老後を迎えるときに大きな代償
 を払わされ
ることになる。最低保障年金の議論は今も続いているが、税を投入して老
 後を保障する議論がより広がっていくことを願う。

   これまでにも説明してきたが、国民年金の場合40年間保険料を支払っても、ひと
 月あたりの支給額は現在の水準で6万
6000円弱である。生活保護の生活扶助費よ
 り低いか同水
準であることは、明らかな事実だ。さらにこの水準は、今後下げられる
 可能性が大きい。もはや現状の制度設計では、超
高齢化社会に対応できないだろう,
  それならばいっそ国民年金制度を廃止し、生活保護制度の生活扶助に一元化するこ
 とも今後の議論としてあり得るので
はないか。

  今も国民年金が最低生活費に満たない高齢者は、「年金+
生活保護」で暮らしてい
 る,それを考えると、国民年金保険
料を真面目に支払ったとしても、それに見合うイ
 ンセンティ
ブは何ら感じられない。
  だから、現在の低年金の高齢者と同じように、生活保護制度で補完するというので
 あれば、給与が低くて苦しい生活を
している若者から、国民年金保険料を奪わないで
 ほしい。


  このままいけば、明らかに将来生活保護で救済することに
なるであろう若者から、
 "掛金"を取る意味は薄い。とくに
非正規雇用やワーキングプア状態にある若者には、
 早い段階
で「もう年金保険料など払わなくてよい」と伝えることが重要だろう。
  もちろん、払えるなら払ったほうがいいのは当たり前だが、その年金保険料を自身
 の奨学金の返済や現在の生活費
結婚資金や子育て支援に費やし普通の生活を実現して
 ほしい。


  国民年金には減免措置がある。保険料を支払えない場合は減免申請しておくことで、
 障害を受けた際に、障害年金(1
級は月額8万円程度、2級は月額6万円程度)の受
 給権を得
られる,さらに減免期間は、その期間すべてが年金加入期間に算入されるメ
 リットもある,そのため現段階では、単に支
払いをやめるのではなく、この減免申請
 を活用してほしい。

  しかし、この情報も十分に告知されていないため、無理しはないか。
  今も国民年金が最低生活費に満たない高齢者は、「年金+生活保護」で暮らしてい
 る。それを考えると、国民年金保険
料を真面目に支払ったとしても、それに見合うイ
 ンセンティ
ブは何ら感じられない。

  だから、現在の低年金の高齢者と同じように、生活保護制
度で補完するというので
 あれば、給与が低くて苦しい生活を
している若者から、国民年金保険料を奪わないで
 ほしい。

  このままいけば、明らかに将来生活保護で救済することになるであろう若者から"
 掛け金" を取る意味は薄い。とくに
非正規雇用やワーキングプア状態にある若者には、
 早い段階
で「もう年金保険料など払わなくてよい」と伝えることが直要だろう。
  もちろん、払えるなら払ったほうがいいのは当たり前だが、その年金保険料を自身
 の奨学金の返済や現在の生活費結婚資金や子育て支援に費やし普通の生活を実現して
 ほしい。

  国民年金には減免措置がある。保険料を支払えない場合は、減免申請しておくこと
 で、障害を受けた際に、障害年金(1級は月額8万円程度、2級は月額6万円程度)
 の受給権を得られる,さらに減免期問は、その期間すべてが年金加人期間に算入され
 るメリットもある。そのため現段階では、単に支払いをやめるのではなく、この減免
 申請を活用してほしい。

  しかし、この情報も十分に告知されていないため、無理して国民年金保険料を支払
 う若者は多い。生活を切り詰めてまで保険料を支払うのは、(なかば妄信的な)年金
 制度に対する信頼と、老後に対する大きな不安感が背景にあることは疑いようがない。
 そのためこのような若者からも国民年金保険料を搾り取るのであれば、せめて老後の
 生活は最低限の保障を約束できる年金制度を構築すべきであろう。
 

      下流老人の問題に希望はある――貧困・格差と不平等の是正

 
  ここまで読んでいただいた多くの読者は気づいていると思うが、現在の若者の多く
 は下流老人と化す,非常に残念ではあるが、これは現状避けようがない。非正規雇用
 がこんなに増えると誰も思わなかったし、婚姻率も下がり、老後を助けてくれる子ど
 もも生まない、生めない人々が増えてきた。家族の支えあいがこんなになくなるなん
 て、誰も予測していなかった,まさに国家単位での「想定外」だ。
 
  若者は老後に対する不安から、貯蓄を優先し、消費を控える傾向が顕著に表れてい
 る。収入に頼りすぎず、支出を減らしていく方法で、生活を見直している。
  若者のこれらの行動が、すでに実体経済に大きな影響を与え始めているのは周知の
 事実だ。もう大量生産・大量消費の時代は終わりを迎えたのだと思う。まさに成熟社
 会の到来であり、これまで獲得してきた資産や資源をどのように分配利用するか、ま
 た少ない雇用や収入源をどのように分けあい、再分配していくかが問われるようにな
 った。これは昨年(2014年)からの格差論争における、いわゆる「ピケティブー
 ム」が物語っていることでもある。

  持つ者と持たざる者が常にいるのは仕方がない。しかし、それがあまりにも不均衡
 で、容認しがたい格差なのであれば、不平等として是正すべきだろう。税をどこから
 とり、どこに再分配するかを決めるのは政治であり、政治の意思決定を促しているの
 は主権者たるわれわれ国民である。わたしたちがどのような社会をこれから築いてい
 くのかは自由だが、はたして今の社会が大多数の人が望んだ結果になっていると言え
 るだろうか。

  下流老人とその膨大な数の予備軍を放置するのか、それともここで政府に対して対
 策を求めていくのか、今まさに岐路にをたされている。現在の社会保障や社会福祉は、
 先人たちが「それは無理だろう」と言われながらも粘り強く合意形成し、議論を積み
 上げながら、少しずつ獲得してきた権利なのだ,そしてこの権利を再構築して求めて
 いく時代が、今だ。

  生存権が保障する、健康で文化的な最低限度の暮らしができない人々が増えている
 現在の社会状況は、予断を許さない。
  わたしは、この問題に多くの人が気づき、行動してくれることを願っている。


        人間が暮らす社会システムをつくるのはわたしたちである

  わたしたちがあきらめず に声をあげることで、「暮らしにくさ」を変えられる可
 能性があることは、過去の例が証明してくれる。
  たとえばこれまでも、障害者が自分たちに対する支援や法律が専門家だけで決めら
 れようとしたことに対し、「わたしたち抜きにわたしたちのことを決めないで」とい
 う強いメッセージを出しながら、一歩一歩、普通の暮らしを嫂得してきた歴史がある。
 近年の社会保障費削減の流れにも、批判を恐れずに声を上げている。

  また女性は、1960年代以降、「個人的なことは政治的なこと」というスローガ
 ンを掲げ、家事労働や育児全般、家父長制、男性からの支配に対して、社会参加や多
 様な生き方を着実に勝ち取ってきた。戦前は女性に選挙権すら与えられていなかった
 ことからすれば、現在の女性の躍進は、まさに抑ぼの歴史を少しずつ克服してきた結
 果と言えよう。

  生活保護受給者であった朝日茂氏が起こした朝日訴訟については前述したとおりだ。
 彼は「権利は闘う者の手のなかにある」と語り、人間裁判と呼ばれる大きなインパク
 トを社会に残した。これはいまだに多くの生活保護受給者らを励まし続けている。
  非正規雇用者についても黙ってはいない。近年では、リーマンショック後の200
 8年末から、日比谷公園でいわゆる「年越し派遣村」が開設された。「派遣切り」と
 称するリストラにより不安定労働者が大量にホームレス化するなかで、彼らはその改
 善策を政府に要請してきた。これにより世論は大きく動き、若年層や稼働年齢層の貧
 困問題が可視化されることになった。

  また、ブラック企業、ブラックバイトなども、現在進行形で闘っている問題だろう。
 人種差別撤廃に尽力したマルティン・ルーサー・キング牧師は、「I Have a Dream(わ
  たしには夢がある)という有名な言葉を残した。最後には凶弾に倒れたが、彼が命が
 けで追い求めた人種差別のない、すべての国民が手を取りあって暮らすという社会構
 想は、実現に向けて今もその歩みを止めていない。当初、同人種の人々や仲間からも
 「そんなことは不可能である一と反対意見があったが、力強いリーダーシッブをもと
 に、多くの人々の理解を得ていった。

  それぞれの領域、それぞれの社会における「住みにくさ」に対する改善要求は、歴
 史的にどの地域でも繰り返されてきている。これらの社会運動は、「ソーシャルアク
 ション」と呼ばれ、政府に社会変革を求める活動だ。昔から理論的にもその必要性が
 指摘され、実践されてきた。すべてに共通することは、ただひとつ。「住みにくい社
 会をつくるのは、彼らを抑圧する社会システムである]ということだ。

  どのような社会的弱者であっても、個人的な問題のみに終始しない。そこには偏っ
 た社会構造の生み出す歪みが必ずあり、先人たちはこれを理解したうえで改善活動に
 取り組んできている,「住みにくいな」と思ったら、自分と同じような境遇の人もそ
 う思っているはずだ。その共通意識でつながりながら、すべての人にとって住みやす
 い社会を目指して活動を続けてきた。

  下流老人の問題も同様に、声を上げるか否かは、当事者や市民次第である。相当数
 の高齢者が声なき声で助けを求めているし、これからも下流老人は増えていくだろう。
  これらの歴史を踏まえて、真に住みやすい社会を構築するために、わたしたちは何
 を選択し、何を訴えていくべきか共に考え、想像し、行動していくことを、わたしは
 願いたい。



  おわりに

  
日本では高齢者に限らず、貧困が広がり続けている。下流老人の問題は、その一
 分を表しているに過ぎない。予どもの貧困や若者の貧困、女性やシングルマザーの貧
 困も看過できるようなレベルにもはやない。
  それにもかかわらず、貧困は必ず、本人の問題として理解されたり、処理されてし
 まい、社会問題として議題に上がりにくい。「努力が足りなかったから」「計画性が
 なかったから」など、貧困に至った人々を一面的に見て理解した気になってしまう人
 々があまりに多い。そして、そうなった以上は本人の責任だから、自業自得だと言わ
 んばかりだし、実際に救済が十分にされるような制度上のシステムも整備されていな
 い。

  わたしが本書で執拗に強調したのは、「下流老人を生んでいるのは社会である]と
 いうことだ。下流老人になるのは、その高齢者本人や家族だけが悪いわけではない。
 そろそろ貧困に苦しむ当頃者やわたしたちは、この自虐的な貧困咬から脱却し、社会
 的解決策を模索するべき時代に入っているのではないか。その道筋は困難ではあるが、
 多くの人々が議論し
てな案していくことで、改善は決して不可能ではないと信じてい
 る,

  わたしたちは、必ず年老いていく。そのときに年老いた人々を社会がどのような眼
 差しで見ていくのか、これからも
問われていくだろう。また、年老いた人々がどのよ
 うな考え
や意識で余生を過ごしていくのかは、若い世代にとっても将来の人生のモデ
 ルとして、検証されていくことになる。残念
ながら、今の下流老人をめぐる状況と問
 題意識の低さを見る
限り、老後に明るい希望は少ないように思う。

  このような老人になり、こんな余生を過ごしたいと、老後
に希望をもてるような人
 々を増やしていかなければならない
と思っている。
  そのためにわたしができることは、問題提起を行い、高齢者の貧困を解消するため
 の議論を巻き起こしていくことだ。

  本書は下流老人や高齢者の貧困を示す一部分でしかない。これに続き、さまざまな
 視点から貧困改善に向けた多様な動き
が派生していくことを期待している。
  最後に、朝日新聞出版書籍編集部の高橋和記氏、フリー編集者の深田憲氏には企画
 立案から網かい修正に至るまで、手
とり足とり大変お世話になった。お二方を含めた
 3人の協働
による「三位一体」の取り組みがなければ、本書は発刊に至らなかっただ
 ろう。改めてお二方との出会いと献身的な態度
に感謝中し上げたい,

  そして、早稲田大学大学院生の小坂陽くんには、資料集めや統計データの読み込み
 を協力いただいた,彼のサポートに
は大いに助けられた。またわたしが所属するNP
 O法人ほっ
とプラスの仲間や家族による献身的なサポート、事務作業の協力抜きにも
 仕上がらなかったことだろう。また、ここには
載せきれない多くの人々の協力によっ
 て本書が完成したこと
を、忘れずに記しておきたいと思う。
  本書が深刻な日本の貧困問題を少しでも好転させるきっかけとなり、政策や制度が
 変わっていくことを願っている。そ
して、何よりも生活困窮の真っ只中で苦しまれて
 いる方々の
希望に、本書が少しでもなれれば幸いである。

                         藤田 孝典 著『下流老人』


「貧困・格差と不平等の是正」という集約につきるので、この章は読み飛ばしても好いだ
ろう。結論から言えば、現政権の経済政策も霞ヶ関の抵抗や株式偏重(=欧米流金融資本
主義追随)に毒され、前政権よりましなものの期待を裏切る。ここで、敢えて屋上屋を架
すが、(1)インフレーターゲット設定、(2)雇用率ターゲット設定、(3)税制の抜
本的是正=①消費税に地方自治体に完全移譲+②所得・法人・不労所得の社会福祉税化の
3点である。蛇足だが、(3)-①は「大阪都構想」実現の基礎的制度であり、地方のキ
ャッシュ・フローが改善すれば、地方独自の起債の自由度も増す。これが真の構造改革で、
その他は”地方創生の空騒ぎ"。宜しくご再考を! ^^;。


                                   この項了

 

【世界最強の耐熱性磁石】

現在、最高の性能をもつ磁石材料であるNd-Fe-B 系磁石は、ジスプロシウム:Dy を添加す
ることとで、保磁力を高めている。このDyは重希土類元素であり、地殻埋蔵量が少ない上
に、採掘できる地域が限られているため、輸入価格が高騰。国内で生産されるNd-Fe-B
磁石に含まれるDy はすべて輸入されているため、価格高騰による影響が少なくない。そこ
Dyを使用しない高性能磁石の開発が求められていた。2009年から 新エネルギー・産業
技術総合開発機構 (NEDO) が代替する新規永久磁石を開発していたが、サマリウム-鉄-
窒素(Sm-Fe-N)系磁石粉末の磁石性能の低下を防ぐため、4百 ℃程度の低温焼結で、高
い相対密度の焼結磁石を作製するパルス電流による焼結するパルス通電焼結法(下図左/
下)――粉末の入った金型に電流パルスを流して焼結を行い短時間昇温で結晶の構造変化
を防ぎ、粉体の温度を上げず粉末の界面結合が促進し、粉末特性の低下を防ぎ焼結できる
ようになった(2011年7月6日産総研プレス発表)。

 

しかし、異方性磁石粉末の焼結に対し、保磁力が低下してしまうため、保磁力を低下させ
ない焼結磁石作製技術の開発に取り
組んでいたが、このほど、通常、サマリウム-鉄-窒素
Sm-Fe-N)系磁石粉末を焼結すると保磁力が激減するが、今回その原因が粉末表面の酸
素にあることを実証し、粉末作製から焼結までの一連のプロセスを低酸素化した焼結磁石
のプロセスを新たに開発(下図クリック)。これにより、保磁力を保ったまま、異方性焼
結磁石を作製。この焼結磁石は耐熱性に優れることから、これまでのハイブリッド自動車
用駆動モータなどの高温環境下ではネオジム-鉄-ホウ素(Nd-Fe-B) 焼結磁石を超える磁
石性能を発揮できると期待されている
 

  

しかし課題もある。現在、(1)焼結磁石の配向度が低いことや(2)焼結密度が十分で
ないといった原因により、磁石特性の指標の一つである最大エネルギー積(BH(max))が
190 J/m3(16 MGOe)程度にとどまり、今後(3)粉末の粒度分布制御や(4)焼結プロセ
スの最適化により焼結密度や配向度を高め、最大エネルギー積の向上。(5)さらには、
焼結界面の制御などによりSm-Fe-N  磁石本来の潜在的な高保磁力を発揮させ、Nd-Fe-B
結磁石を超える高性能・高耐熱性焼結磁石の開発を目指す。

 



、今回もこの開発成果に食いついた理由は『小型水力発電』の事業構想のため。

 



昨日に引きつづき、朝から、長浜市の神照寺の萩は見頃を終えハズレだったが、天気良し、
景色も好し、運転手も同乗者もすべて佳しの好日なり。
 

 

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最新非石英系レンズ工学

2015年09月19日 | ネオコンバーテック


 

 

 

   目に見えるものが、ほんとうのものとは限らない。 

                                                               村上 春樹

 

 

 

【最新非石英系レンズ工学: 新素材積層成形レンズ】 

徒労とはこう言うことなのかという経験をする。おおよそ10時間費やしても整理でき
ずにいる。ことの発端は、ニコンが石英ガラスと同等の光学特性を持ちつつ、削り出し
をせずに一度で好きな形を作れる、新素材のレンズを開発した。ガラス原料を常温で液
状化し積層によって成形する。従来はガラスの塊から切削や研磨をして形を整える必要
があった。加工コストを削減でき、石英ガラスを機械加工した場合に比べて価格を10
分の1にできる。16年4月からレンズの販売をはじめるという記事にある(ニコン、
積層方式で成形する形状自在の新素材レンズ開発-石英ガラスと同等の光学特性 日刊
工業新聞 2015.09.18)。

つまり、この新素材レンズは成形後の後加工なしで、切削・研磨によって加工した石英
ガラス
レンズと同等の透過性を持つ。製造装置も自社で開発した。レーザーの透過性に
優れ、UV-
LED(紫外線発光ダイオード)や自動車向けLEDといった、透過性と
耐熱性の両立が必要な用
途への展開を見込んでいる。積層方式で成形するため、これま
で削り出しではできなかった複
雑な形状の部品にも対応できる。従来の樹脂製レンズか
らの置き換えも狙う。

成形できるレンズの大きさは直径数ミリ―50ミリメートル程度で、加工精度はプラス
マイナス0・1ミリメートル。大きさや形状によって異なるが、価格は数百―数千円に
なる見通しだ。現状の生産能力は直径約10ミリメートルで年産1万個。受注状況によ
り順次、生産能力を引き上げるといものだが、このニュースに食いついた理由は、その
インパクトともさることながら、「時代は太陽道を渡る:日本の切り紙で 高効率太陽
電池」(『アドホックなキルケゴール』2015.09.17)で、スタスティクな高集光ソーラ
ーパネル開発の残件があったから。例えば、非ガラス系透明・半透明・半反射粒子の孔
径の2百ナノメートルの単層膜を、あるいは最適パターン膜を所要の部位に配置するこ
とで日照時間をオールラウンドで効率的に集光するというアイデアが動機として働いた。



早速、ネット上で下調べしたもののそれらしき特許をヒットするも、その素材をつかっ
た応用事例、例えば、非石英ガラス系レンズの成形法や量産方法に関する事例が極端に
少なく(これはある程度想像できるものの)、触媒工学の領域に属すものだか、もうこ
れは大変。上下図の「許5322438 光学材料用組成物、光学材料および眼鏡レンズ」を例
示すると、こうだ。


 表2に示される光学材料用組成物を60℃で混合、溶解させて触媒を添加した後に
 20℃まで冷却しても成分(B)が再結晶により析出しなくなるまで予備反応を行
 った。この溶液を所定のレンズ成形用ガラスモールド中に常温環境下(20℃)で
 注入し、20℃から35時間かけて100℃まで昇温、100℃で5時間硬化させ
 た後、ガラスモールドから硬化レンズを離型して120℃で30分間アニーリング
 を行い、レンズ基材を得た(レンズ基材)。


 上で得られたレンズ基材の上に、以下のようにして、プライマー組成物を塗布硬化
 して、プライマー層を形成した。ポリイソシアネートとして、ヘキサメチレンジイ
 ソシアネート(和光純薬工業株式会社製)120.6gをシクロヘキサノン718
 gに溶解させ、40℃で攪拌しながらジブチル錫ジラウレートを少量添加した。次
 にブタノンオキシムをIR検査でイソシアネート基の吸収ピークが無くなるまで少
 量ずつ添加した。さらに1,10-デカンジチオール(和光純薬工業株式会社製)
 148gおよびシリコーン系界面活性剤(日本ユニカー(株)製L7604)0.
 5gを添加し、充分に攪拌を行いプライマー組成物とした。このプライマー組成物
 を、レンズ基材上に浸漬法にて引き上げ速度20cm/minで塗布し、120℃
 で60分間加熱硬化処理し、膜厚約2.5μmのプライマー層を形成させた(プラ
 イマー層)。

                  -中略-

 表2に示される光学材料用組成物を20℃で混合、溶解させて触媒を添加した後に
 この溶液を所定のレンズ成形用ガラスモールド中に常温環境下(20℃)で注入し、
 20℃から35時間かけて100℃まで昇温、100℃で5時間硬化させた後、ガ
 ラスモールドから硬化レンズを離型して120℃で30分間アニーリングを行い、
 レンズ基材を得た。得られたレンズについて各評価を行い、結果を表2に示した(
 比較例2)。 

 表2より明らかなように、本発明の光学材料用組成物を用いた光学材料は、高屈折
 率、高アッベ数のレンズであり、靭性に優れる。一方、靭性改良剤(D)を添加し
 ない組成物を用いると靭性は劣る(比較例1および2)。


ここで、原料の成分(A)(エピスルフィド系化合物)は上図の構造式をもつ。また、
成分(B)(無
機化合物)は硫黄単体であり、成分(C)は、ポリチオール系化合物、、
成分(D)(靭性改良剤)はポリチオカーボネートジチオールで、(5)紫外線吸収剤
は、ベンゾトリアゾール系紫外線吸収剤:Seesorb 709(シプロ化成社製)
だと開示
し、光学材料用組成物を60℃で混合、溶解させて触媒を添加した後に20℃まで冷却
しても成分(B)が再結晶により析出しなくなるまで予備反応を行い、この溶液を所定
のレンズ成形用ガラスモールド中に常温環境下(20℃)で注入し、20℃から35
時間かけて100℃まで昇温、100℃で5時間硬化させた後、ガラスモールドから硬
化レンズを離型して120℃で30分間アニーリングを行い得ると説明されている。

以上を一例としてあれやこれや考察をすすめていくが、この事案を整理するに至らず脳
疲労は頂点に達しまったということになる。しかし、考えてみてもわかるように、25
%の変換効率をもつソーラーパネルの集光性能が仮に30%向上したとしたら 32.5
%となる。これは魅力的な数字である。

ということで、昼からシャーレまでレイクサイド・ロードを疾走する。滋賀県は東西南
北どこを切っても絵になる。実に楽しい。
 

 

 ● 折々の読書 『火花』 5 又吉直樹 著

  神谷さんは大阪の大手事務所に所属していたので、東京で活動している僕はなか
 なか会う機会がなかった。それで
も、神谷さんは頻繁に連絡をくれた。誰とも話し
 ていない
一日の終り、携帯電話が振動し、液晶に神谷才蔵という文字が表示される
 と妙に心が躍った。神谷さんは、いつも最
酌は声帯が裏返ったような不審な声で「
 どこにいてん
の?」と所在を確認する。僕が東京にいることを伝えると、ひとしき
 り残念そうにして、少しずつ自分の近況を報告した。神谷さんの声が弾みだしテン
 ポが上がりきった所で、唐突に電話は切れる。そして、数分後に「充電切れてもう
 た。またな」というメールが届く一連の流れが恒例となった。

  神谷さんの淀みなく流れるような喋りを聞いていると、自分が早く話せないこと
 に苛立つ時があった。頭の中には膨大なイメージが渦巻いているのに、それを取り
 出そうとすると言葉は液体のように崩れ落ちて捉まえることが出来ない。複数人で
 の会話になると更に症状は顕著だった。人の数が増えると言葉の数も増える。一つ
 言葉が耳に入ると、そこから派生した別個の流れが生まれ、頭の中でいくつものイ
 メージが交錯して、どこから手をつければいいのかわからなくなるのだ。

  神谷さんは、そんな僕を面白がってくれた。「早いテンポで話した方が情報を沢
 山伝えることが出来んねん。多く打席に立てた方がいいに決まってるやん。だから、
 絶対に早く話した方がいいのは確かやねん。でも、お前はそれが出来へんねやろ? 
 そんなお前やからこそ、人と違う表現が出来るんやんけ。ええな。俺の実家な全然
 貧乏じゃなかってん。子供の頃な、ゲームとか玩具とか普通にあったからな、それ
 で遊んでてんけど、よく中年が、俺等の頃は遊び道具なんてなかった、とか言うや
 ん。あれ聞くたびにな、俺、わくわくすんねん。こんなん言うたらあかんねやろう
 けどほんまに羨ましいねん。だって、ないなら自分で作ったり、考えたり出来るや
 ん。そんなん、めっちゃ楽しいやん。作らなあかん状況が強制的にあんねんで。お
 前やったらわかるやろ? お前の家めっちゃ貧乏そうやな」と神谷さんは淡々と失
 礼な発言をするが、そこに悪意は感じられなかった。


  実際に僕の家は裕福ではなかった。玩具の類はI切なかった。一日中、紙に絵を
 描いて過ごす日もあった。父親の将棋盤を拡げ、独自の駒の動かし方を考案して全
 ての駒を使い、誰に攻め込まれても崩れない布陣で王将を守り、誰も攻めてこない
 ことに気づくまで待ち続けたこともあった。神谷さんは僕がそういう話をすると酷
 く羨ましがった。姉が紙のピアノで「ねこふんじやった]の練習をしていた話を何
 度も繰り返し僕に話させた。

  姉は、家にピアノやエレクトーンがある友達に遅れを取らないように必死だった。
 しかし、ある目、「頑張ってるお姉ちやん、昆に行こう」と、僕を保育所まで迎え
 にきた母に連れられ、姉の通うヤマハの教室を覗きに行くと、他の生徒達は演奏し
 ているのに、姉だけエレクトーンの前の椅子に座った状態で、落ち着きなく周りを
 うかがい、エレクトーンの裏を手で触ったりしていた。なぜ弾かないのだろう?母
 も不安そうに姉を見ていた,ようやく異変に気づいた先生が姉の側に寄って行くと、
 姉は「音が出ない」と言った。すると先生が当たり前のように、エレクトーンの電
 源を入れて、姉も途中から演奏に加わった。姉は緊張で身体が強張り、異常に両肩
 が上がっていて無様だった。

  いつもは優しくて頼りがいのある姉のこんな姿を見ていると、なぜか僕は胸が苦
 しくなり、眼から涙が溢れた。「なんで、あんたが泣いてるの? お姉ちやん頑張
 ってるで」と言った母の眼も赤かった,その夜、家に帰ってからも姉は無言で紙の
 ピアノを懸命に弾き続けていた。僕は姉の隣に座り、全力で姉が演奏する曲を唄っ
 た,酒に酔った父が「やかましいんじや」と怒声を上げても僕達はやめなかった。
 数日後、狭い文化住宅に小さいけれど立派なピアノが届いた。父は母を激しく罵っ
 た。母が姉のために独断で買ったのだ。この話をすると、神谷さんは鼻を啜りなが
 ら、「ええな。そんなお前にしか作られへん笑いが絶対あるんやで」と優しい声で
 言うのだった。 

  神谷さんも僕も、大きくは仕彰の内容に変化がないまま、熱海の花火大会から.
 年が過ぎた。テレピでは同世代の芸人達の一部が活躍しはじめていた。彼等はとて
 も華やかで達者に昆えた,僕は自分の不遇を時代のせいに出来るほど鈍感ではなか
 った。僕と彼等の問には歴然とした能力の差があった。僕達の主戦場は依然小さな
 劇場で、そこに出演するためには、月に一度のネタ見せと呼ばれるオーディション
 を受ける必要があった。

  夜中に大勢の若手芸人が集められる,狭い待合室に詰めこまれ、汚ない服を身に
 纏った若者達は皆一様に腹を減らし、眼だけを鈍く光らせていた,その光景は華や
 かさとは無縁の有象無象が、泥滓に頭まで浸かる奇怪な絵図のようだった。一組ず
 つ部屋に呼ばれ、ライブを担当する構成作家の前で漫才やコントを見せる。長時間
 にわたり、審査する方は更に疲弊していて不惘だったが、彼等が正確にネタの善し
 悪しを判断出来ていたかには些か不安もあった。

  肉体はぶっ倒れれば、そこが限界だとわかるが、審査する方の思考が正常に機能
 しているかどうかは、側で見ていてもわからなかった。それでも不平を訴えるもの
 は皆無だった,自分達が人前で何かを表現する権利を得るためのオーディションな
 のだから、そこで自分の価値を証明出来ないうちは自らの考えを述べることは許さ
 れないという気分が全体に横たわっていたのだ。それは錯覚に過ぎないし、思考の
 強制もなかったのにもかかわらず。僕達は表現の場を得るために、発一.昌の権利
 を得るために、あるいは貧困から脱するために、それぞれのやり方で格闘していた
 のだ,
  スパークスは、ネタ見せを経て、劇場の出番が増えていくに伴い、他事務所のラ
 イブにも呼ばれ、お笑い雑誌の新人紹介コーナーで小さく取り上げられたりもした,
 劇場に足を運んでくれる人達にも徐々にではあるが、名前を覚えて吋ほえるように
 なった。

  その頃、仲谷さんから拠点を東京に移すことになったと連絡がきた。大阪での活
 動に限界を感じたようだった。芸歴六年目を迎えた神谷さんの同期達は、頻度に差
 はあれど、少なからずテレビに出演する機会を得ていた。それ以外の人達は芸人を
 辞めてしまったらしい。神谷さんは後輩だらけの劇場で気を使われるのが嫌になっ
 たと言った。芸人の世界では、まず大阪で売れてから東京に出てくるのが理想的で
 はあったが、劇場のシステムから零れ落ちた人達は新たな環境を目指して東京に出
 てくることも珍しくなかった。東京も若手芸人にとっては過酷な状況ではあったが、
 それでも、新天地で頭角を現したコンビも少なくない。ただ、どこでも結果が出せ
 てしまう一部の選ばれた人間が存在することも、事実だった。


  どの事務所でも、芸歴を重ね手垢のついた芸人よりも、言うことを聞く若者の方
 が好まれるようだった,神谷さんの芸人的なセンスは、師弟関係にある自分でさえ
 も晶眉目なしで不安になるほど突出していた。その反面、人間関係の不器用さも際
 たっていた。それは、あほんだらの両人に言えることだった。あほんだらは、世間
 的には全くの無名だったが、芸人の問では悪名が高く、東京の楽屋でも素行の悪さ
 が度々話題に上がった。神谷さんの相方の大林さんは、隣町に住んでいた僕が名前
 を知っているほど、地元では有名な不良だった。だが喧嘩が強い多くの男がそうで
 あるように、大林さんは情け深い男でもあった。ただ、陰険な悪意に対抗する術を
 眼力しか持っていない人でもあったので、誤解されるのは仕方がなかった。

  一方の神谷さんも周囲と上手く関係を築くのが不得意のようだった。聞こえてく
 る神谷さんと、僕の知っている神谷さんの間には大きな隔たりがあったが、熱海で
 の一件を思い出すと、それらの噂も想像がつかないことはなかった。社会規範で論
 ずるのであれば、両人共に果てしなくあほんだらであった,神谷さんが東京に来る
 と知ってからこの胸を占める感情が希望的なものなのか、不安から押し寄せるもの
 なのか自分でも判然としなかった。

                           又吉直樹 著『火花』 


吉本興業の隆盛は、上方漫才・落語あるいはそれを品質展開した話法を担う芸人の集客
力あるいは視聴者延べ人数に依存し、芸人と聴衆とでやりとりされる付加価値の創出に、
それは、瞬間的に偶発的に爆発的に、あるいは地味ではあるが長時間をかけ芸人の"アジ"
として醸成されてきた。「その光景は華やかさとは無縁の有象無象が、泥滓に頭まで浸
かる奇
怪な絵図のようだった」と、ここでは、その生産現場がリアルに、パーソナルに
描かれている。そこではよりハードな商品の生産現場でも、よりソフトな生産現場でも
基本的に変わらぬ、ボードリヤール風の「記号」の生産現場のリアリティーとして、こ
の作品の上質さが顕れているように思える。

  


                               この項つづく

 

 

 

● ペロブスカイト系シリコン太陽電池の実力

17日付、EU PVSECが開催されているが、IMTがペロブスカイト系シリコン
薄膜太陽電池で変換効率22.8%(0.25平方センチメートル
セル)を達成したこと
が報告されているが、25年間の耐久性などに疑問視する専門家の意見などもある。
EU PVSEC: Stable efficiency remains major hurdle for perovskite cells, PVTECH 2015.09.18
日本では、瀬川研で、鉛ペロブスカイトの熱膨張率は酸化チタンよりも5.6倍大きいこ
とが明らかにされているから、これらの意見を裏付けるような形になる。安いことにこ
したことはないが、実用性に耐えるためにはハードルはまだ高い。ここ1、2年で勝負
は決するようにみえるが、どううだろう?

 ● 秋風に闇酒も好し

そういえば40年前?花見のころ、数人の仲間と城登り、火を囲みながら日本酒を楽しく呑んで
騒いだころを思い出す。たしか、警備の人に咎められ急いで下城したことも思いだした。みんな
命知らずな若者だったんだねぇ~っと。 

 

 

 

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最新黄身返し卵工学

2015年09月18日 | デジタル革命渦論

 

 

 

   強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。

                                                                     村上 春樹 / 『風の歌を聴け』




 



【再エネ百パーセント達成:人口10万人地区の米国で】

 9月11日、米国の再生可能エネルギー開発会社であるSunEdison社が。米メリーランド州
コロンビア地区の電力網で、再生可能エネルギーの使用比率百%相当を実現したと発表。
コロンビア地区は、複数の「自己完結型ビレッジ」(このブログで「スマートキャンティ
構想」として掲載しとものに似ている?)により構成された特別区域。約10万人が住ん
でおり(彦根市の人口とほぼ同じ)、非営利法人のコロンビア協会(Columbia Association
が管理。同地区の電源の75%は、風力発電によって生じる「再生可能エネルギークレジ
ット(renewable energy credits:RECs)」の対象となり、残りの25%は、新たに導入した
2メガワットのメガソーラー(大規模太陽光発電所)「Nixon Farm solar project」。

 

メリーランド州のウエスト・フレンドシップ(West Friendship)に位置する。SunEdison
と、米国の太陽光発電開発会社であるBithenergy 社が共同で導入し、
O&M(運用・保守)
も、SunEdison 社が担当。同
社は、コロンビア協会に、20年間の電力購入契約に基づき
太陽光発電電力を売電する。
メガソーラーは、コロンビア地区の外に立地しているため、
仮想的な「ネットメータリングクレジット」(virtual net metering credit)で、地区内に設
置しなくても、太陽光発電電力の利用に相当する仕組みを適用した。

 

 

 

電力会社が住宅用太陽光の増加に警戒、ネットグメータリン廃止へ
2015.04.20 日経テクノロジー

既成勢力(既得権益階層)は、つねに変革に反対するようだが、それでも、ソーラーで再
エネ百パ
ーセントを実現するなどは、流石、米国。『デジタル革命渦論』は、もはや誰も
とめることは
できない。ここは「無知が栄えたためしなし」と観念し次に進もうではない
か。^^;!


 

 

【黄身返し卵工学『万宝料理秘密箱』を紐解く】

ハードなベジタリヤン?でなれば、いまや、わたしたち日本人とって鶏卵は欠かせない、
価格も安定した優良食品のひとつだろう。ところが、ハードボイルドにしてもソフトボイ
ドにしても、卵黄のゴワゴワとしたざらつき感が嫌やだ、口にべっとりへばりつくのは
うも好きになれないという子供や大人が洋の東西を問わず多いという。そこでそれを解
決しようとする動きが日本をはじめ欧米でもでてきている。それが1785年の『万宝料
理秘密箱』にある料理の一つである「黄身返し卵」という手法。

通常のゆで卵と異なり、白身が内側で、黄身が外側になったゆで卵のことをさすのだが、
作り方は、産み落とされて3日ほど経過した有精卵の気室側に穴を開け、3日間孵化温度
(38℃)で置いておく――書物は糠味噌に漬けておくが、その後洗い、茹でるというも
の。長らく再現できずにいたが、八田京都女子大学教授が、卵に穴を開けずに3日間孵卵
器で温めたのち、手で激しく振ってから茹でることで成功する。この方法では、通常販売
されている無精卵だと白身が多すぎて逆転しないため、有精卵を使う必要があるが、高速
回転――卵を伸縮性の高い袋状の布に入れ回転させ、卵黄膜が破れ、卵黄と水様性卵白が
混じり合うが、高粘度の卵白は混ざらが。偏らないように転がしながら茹でると、周囲の
卵黄・水様性卵白混合液が先に固まり、重い卵白が中心に残り達成できるという。

※ 卵黄の比重は約1.029/卵白の比重は約1.040/全卵の比重は約1.036。

ところが、昨年タカラトミーアーツ「おかしなたまご まわしてまわしてまるごとプリン」
が発売(上図クリック)。ホイルをハンドルで高速回転させ、卵白と卵黄を混合し加熱し
カラメルシロップをかけプリンができあがるというものだが、すでに、全国に普及しタカ
ラトミー以外でも作られ食されている。欧米でも同様な試みがなさ、イスラエル国のエグ
ノロギー社(Eggnology Ltd.) から「エグザー:eggxer 
卵を割らずに黄身と白身をかき
ぜるツール/金の卵ゴールデンエッグを作ろう!茹でても割れにくい」という、うたい文句で、販
売(製造国が中国。口にするものだから品質に不安が残る?)、日本の通販会社を通し売
られている。プリン、ハードボイルド、ソフトボイルドだけではない、新しい食品素材と
して加工応用に広がりがあるのが楽しみだが、課題もある。茹でる後工程の改良。できる
なら、高価になるが一体形が好いのだが、これも考えようだ(下図クリック)。

 



手動式生卵スクランブラー概説

図1は(下図2をクリックし表示)卵の保持部分が、調整可能な複数のチャックを含む
スクランブラの断面図。スクランブラは、制御装置と、卵の最端部近くの位置する光源
とセンサで構成。
この図示では、卵保持要素(46)は、任意のサイズの卵(10)または
その内部を挟むように調整することができるいくつかの調整可能な顎部(50A)を有する
チャックを含み。また、回転部(38)を制御する制御装置(55)を有す。コントローラ
(55)が方向、速度、および/または持続時間に応じ保持部(46)を回転するようにプ
ログラムでき、及び/またはセンサ(57)が認識すると、保持部(46)を停止させる。セ
ンサー(57)は卵(10)を介し送信された光源(56)の光に応じてスクランブル状態を
認識。その透過度の変化合わせ透過光の色も変化する。

手動でスクランブラー(下図)を回転引く紐を繰り返しり引き、発生させた高トルクで、
2方向に回転させる。メインシャフト(116)は、加速ホイール(109)に挿入し、上部
ブッシング(107)と下部ブッシング(108)により、支持ホイール(110)がメインシャ
フト(106)に締結され組合わされる。引き紐(113)は、加速ホイール(109)に接続さ
れ、ストリングリーダー(114)を介し本体の外で、引っ張りリング(115)に接続。電
池室(119)が電線により配線されている。



An improved in-shell-egg scrambler
WO 2015071896 A1

さて、生卵をスクランブルする卵保持部は、スクランブルを卵の長軸に沿い垂直に設置。
繰り返し同じ方向に、所定時間回転させたあと停止させるが、所定速度で静かに回転加
速させることで、生卵を破壊せずにスクランブルする。回転パルス立上がり時間を百ミ
リ秒未満で、低トルク時のパルス系列の合計時間は3秒未満とし、全体のプロセスは2
分未満。卵殻の近くの照明光源と光センサ構成され、透過度の変化を感知。次に、所定
ルーチンに従い回転ユニット作動し、センサが卵がスクランブルされていることを認識
し、あらかじめティーチングした条件に従いコントローラが回転ユニットを停止。尚、
回転速度は、1500~4500 rpmである。

尚、卵の気室の空気が卵殻から放出されたこを認識するエアセルセンサを含むとも記載
されているが意味不詳。それにしてもキッチン用品も機能が高度化していることに驚く、
まさに『デジタル革命渦論』である。

  

【超高齢社会論 17: 下流老人とはなにか】   

    【目次】

  はじめに
  第1章 下流老人とは何か
  第2章 下流老人の現実
  第3章 誰もがなり得る下流老人―「普通」から「下流」への典型パターン
  第4章 「努力論」「自己責任論」があなたを殺す日
  第5章  制度疲労と無策が生む下流老人―個人に依存する政府
  第6章 自分でできる自己防衛策―どうすれば安らかな老後を迎えられるのか
  第7章 一億総老後崩壊を防ぐために
  おわりに   


   第6章 自分でできる自己防衛策―どうすれば安らかな
                    老後を迎えられるのか


                        生活の一部をまかなうものとしての生活保護

  そして、多くの生活相談を受けていて感じるのは、本書で
もたびたび述べたが、今
 よりももっと生活保護制度を使いや
すくできないかということだ。
  じつは、生活保護制度は、①生活扶助、②住宅扶助、③住宅扶助、④教育扶助、⑤
 介護扶助、⑥葬祭扶助
、⑦生業扶助助、⑧出産扶助の、8つの扶助をセットで提供す
 る救貧制度である。原則として、家賃だけ補助してほしい、医療費だけ、補助してほ
 しいという性質の制度ではない。

  実際の給付方法としては、先ほど第6章で説明したとおり、毎月9万円を自分で稼
 ぎ、足りない4万円分だけをもらうというケースももちろんあるが、問題なのは生活
 保護が「救貧措置」であり、「防貧]的観点が欠落しているという点だ。つまり現在
 生活費の一部を貯蓄からまかなっていて、あと数年で資産が"確実に"失われるとわか
 っている状態であっても、「資産がまだある」という理由で生活保護を受給できない。
 だから究極的には、資産がすべてなくなるまで我慢して、最終的にすっからかんにな
 った状態で生活保護申請窓口に現れることになる。

  下流老人をきめた多くの相談者は、生活保護のうち、一部でも別枠で補助してくれ
 たら生活がかなり改善すると話す。生活保護を利用することもなく、生活を営むこと
 ができるという。
  たとえば、国民年金6万円程度の収入であっても、家賃や医療費がかからなければ
 どうだろうか。あるいは光熱費や水道代、米代がかからなければどうだろうか。携帯
 代やパソコン代、交通費がかからなければどうだろうか。これら一部だけでも補助を
 受けられるだけで、資産のすべてを失うといった高リスクの状態は避けられるはずだ,

  わたしは、賃金や年金などの収入を上げていくことも大事だが、それだけでは限界
 があると思っている。支出を最低限仰えても暮らせるようなモデルをつくらなければ
 ならない。
  そして収入を上げる政策だけではなく、支出を減らす政策を実行していくほうが現
 実的だろうとも考えている。
  そのひとつが生活保護制度の分解であり、より受給しやすいように「社会手当化」
 していくことだ。なかでも生活保護の住宅扶助は、利用しやすくしていきたい。国家
 公務員用の宿舎や大企業が提供する社宅などが明らかに生計を助けるように、家賃の
 全部か.部でも公的に負担してくれたら、生活が安定していくことだろう。日本の家
 賃負担は、他の先進諸国と比べても、重たいことで有名なのだから。


                        住まいの貧困をなくすこと

  実際、下流老人にとって、住宅費は想像以上に負担が大きい。住宅ローンを払い終
 えた後、補修することなく、ボロボロの家屋に住んでいる人もいる。また、家賃が高
 いために、年金のほとんどが住宅費に消える人もいる。
  総務省統計局の「平成25年度住宅・土地統計調査結果の概要」によると、高齢単身
 世帯の33・9%が借家に住んでいるとされる。家賃は固定費であるため、高齢にな
 るほど負担が重くのしかかってくる。

  たとえばフランスなどでは、「家賃補助制度」によって民間賃貸住宅に住んでいる
 低所得の人々の家賃負担を軽くする政策が実施されている。一方、日本では、公営住
 宅などの社会住宅が極めて少なく、安くて安心して住める住宅インフラが整備されて
 こなかった。
  日本の住宅政策は、社会生活を営むうえで必要な最低限の社会権として見られるこ
 となく、無計画に、あるいは大手建築会社や不動産業者、いわゆるゼネコンの意向や
 ニーズのままに開発されてきた。多くの人々に住宅ローンを組ませ、住宅を消費財の
 対象とすることで、経済成長率を高めてきた歴史的な背景もある。

  そのためわたしたちも、住宅を消費財として見る傾向が強く、民間賃貸住宅を整備
 するよりも、「どう家を購入しやすくするか」という政策を重視しがちだ。実際、持
 ち家取得のための優遇政策(住宅ローン減税など)は充実してきた一方で、低所得者
 が民間賃貸住宅を借りるための支援や軽減措置がとられることはなかった。

  下流老人が増える社会を見据えて、そろそろ住宅政策の転換を図る必要があるだろ
 う。具体的には、低額でも構わないから、まずは日本でも家賃補助制度を導入してい
 きたい。住宅政策を研究する神戸大学の平山洋介氏も「民間借家の入居者に対する家
 賃補助は、住宅保障の不公平さを緩和する有効な選択肢である。公営住宅に入居でき
 る/できない世帯の双方に政府援助が届くからである」と、その必要性を述べている
 (平山洋介「住宅政策のどこが問題か」光文社、2009)。

  すでにヨーロッパ各国では、少子化や人口減少対策として、民間借家への家賃補助
 制度の導入をはじめとする住宅政策の転換に成功した。大きな経済成長が望めない成
 熟社会では、雇用の流動化や不安定化が進み、若者が住宅ローンを組んで高額な住宅
 を購入できない。そのため家賃補助を進めることで、若者が家庭を持ちやすい環境を
 つくったわけだ。実際にフランスでは少子化対策に効果があり、合計特殊出生率に大
 きなプラスの変化があることが示されている。

  一方日本では、住宅ローンが組みにくい若者や単身者、非正規雇用の人々に対して
 も、いまだに持ち家取得の優遇政策を優先させる。
というよりも、民間賃貸住宅に住
 んでいる人々への支援策はほぼ皆無である。ヨーロッパ各国で住宅政策が転換したの
 は1970年代ごろだが、日本は40年経った今も舵を切れないでいる。

  家賃補助制度によって、年金の支給水準の低さを捕えれば、下流老人や路上生活者
 にならなくて済む人も増えるだろう。今後は、低所得でも誰もが住まいを失うことが
 ないような、新しい住宅政策を打ち出す必要もあるだろう。

                                           藤田 孝典 著『下流老人』


前節の「生活保護を保険化してしまう!?」(【超高齢社会論 16:下流老人とはなに
か】 )で「生活保護制度のごく一部保険
」というのは奇策と述べているように、社会
保障は勤労国民の―― いわゆる、法人所得や不労所得も含めた所得から汲み揚げた応能
税での担保
する基本からはずれる。従って、年金が「生活するための限界」に漸近してい
るなら、生活保護支援の「最低所得額」を引き上げ、不足分を保証すればよい。老人の住
宅環境の改善というなら、地方自治体ベースの「公営住宅」(民間からの買取り、借上げ
-住民の土地住宅所有放棄手続き・跡地の運用移譲――も含め)住み替え制度の促進を行
えばよい。蛇足だが、若年層がローンが組めないの「デフレ社会」のためでこれからの脱
却政策(参照:成長戦略『双頭の狗鷲』)
を実行すればよいと考える。さて、次節は、若
年者の下流老人化を防ぐ方法が説かれる。


                                                   この項つづく

 

 

 

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アドホックなキルケゴール

2015年09月17日 | 環境工学システム論

 

 

 

  自分に同情するな。自分に同情するのは、下劣な人間のやることだ。

                                                              村上 春樹 / 『ノルウェイの森』

 

 

 


【バイオマス発電事業の正否】

2千キロボルト未満のバイオマス発電は、FIT価格単価=40円の値がついている。
また、雇用も割出し地方創生とも親和性が高い。しかし、時間がない中で明確な戦
略性を持たなければ大きな成功をつかむことは難しいと岸波宗洋事業構想大教授は
危機感をあらわにする(「地方剤生には、時間がない」環境ビジネス 2015年秋季号)。
現自公政権の掲げた「地方創生論」は、"財源移譲なき地方分権主義"への
援用と早
々と見抜いたわたし(たち)の予想と著者の見識とどのようにクロスオーバーする
のかみてみよう。

 ● 戦略と優先順位、そして「構想」を

 地方創生は、観光、6次化産業等多様な切り□で語られているものの、真のベ
 ンチマークはなかなか現れない。市町村単位での経常収支比率が高まり、既に
 危険水域を越えた自治体では、未だにローカルキャラクターやアンテナショッ
 プ等、およそギャンブルに近い取り組みで一攫千金を狙い、イノベーションに
 必須の「継続性」や地域の「DNA」に対時することがない。これでは、いくら時
 間を費やしたところで本来的な成功はおろか、マーケティング事象としての売
 上の山を築くことすら叶わない。あえて否定から始めたのは、それだけ地方創
 生には時間がない、ということである。

 コンサルティング的に言うなら、本質的課題を見極め、それに基づいた戦略と
 優先順位、ひいては構想を定義づけることを早急に行わなければならず、それ
 が石破地方創生大臣の発する「総合戦略」であるべきだと考える。以下は、バイ
 オマスを前提としたエネルギー政策について、自治体が取るべき戦略と優先順
 位を列挙したものである。なお、ここでは紙面の関係上、そのDNAを「地域資
 源」と定義した。

 
 ①キャッシュフローを確保する戦略

 2千キロワット未満の設備において1キロワット時単価=40円の値がついて
 おり、再生可能エネルギーとしては最高値で取引されていることに注目する。
 さらに20年の買取期間が設定され、同価格でのインカムを保証されることに
 なる。

  ②雇用の継続性を確保する戦略

 地方創生=雇用であることは論を待たないが、「継続性を確保した雇用」をど
 れほどいるのだろうか。企業誘致と域ブランチ、特に小売等を多く誘致すれば
 労働生産性の低い人をいたずらに増やしてしまい、いずれは賃金の高い都市型
 企業への羨望と移行を促進してしまうことになりかねない。バイオマスは、 資
 源調達に組合や関係諸団体、物流、ペレット化加工、 発電プラントの保守等様
 に雇用を生み出し、しかもFITにおいて20年の継続性が担保されている。

  ③地産地消による永続性を確保する戦略

 20年を前提とした場合、そのうち10年程度はBEP(損益分岐点)を超えない
 ため、本来的な収益期間はおよそ半分程度である(プラント規模等により異な
 る)。だった10年を前提にリスクを負うことは本意ではなく、あくまで永続
 性を求めるべきだ。だとすると、電カシステム改革に基づく小売自由化を前提
 として、小売参入も当然見据えなければならない。ただし、巷を賑わせている
 ソフトバンク等大手企業の小売参入によってその参入戦略を明確にしなければ
 リスクが増えるばかりである。

 要は、地方でつくった電力は地方で消費する=明確な地域需要家便益如何に
 保証するか、という課題を解決することで、真の地方創生にリーチするのだ。
 地域振興券やふるさと納税での電力購入も想定可能だし、既に地域でエネルギ
 ー市場を持っているLPガス事業者等は、新規参入の障壁=「信頼財としての
 エネルギー供給」を担保できている既存顧客の囲い込みからスタートすべきで
 ある。さらには17年からのガス自由化に際して、電力・ガスの併売事業を地
 域において実践することで、地域小売企業の収益性も併せて検討することが望
 ましい。ここまでの時系列的な戦略性をもつことが、すなわち「構想」であり、
 近視眼的・画一的思考では成し得ない効果を期待するものである。 


以上から要約すると(1)小売等を誘致すると、労働生産性の低い人を増える→賃
金の高い都市型
企業へ移行促進する、(2)20年の買取期間と"安定価格"設定で
インカムを保証すること、(3)地方でつくった電力は地方で消費する→明確な地
域需要家便益を保証することの3つを踏まえた「構想」が重要だと指摘する。ここ
で、「①キャッシュフローを確保する戦略」に関連して、潤沢なキャッシュフロー
を担保するのは、中央政府の援用金(補助金)への期待依存だけでは駄目で、応益
税である消費税を地方自治体に完全移譲のための法整備が先決であることを指摘し
ておきたい。

現在の最大の危機は、人為的地球温暖化による大規模気象変動――例えば、世界の
平均気温が1℃上昇で、大気中の水蒸気成分は4%増加し、乾燥地帯ではより大き
な干魃が、湿潤地帯では大規模洪水が多発する(ノーベル平和賞受賞者・元米副大
統領のアル・ゴア)――時代であり、そのための持続可能な社会への移行政策のそ
の一部の、再生可能エネルギーの「バイオマス発電の普及」であることを踏まえ、
「地方再生には、時間がない」と、とらえ直す必要がある。
 
  

 
※ ルテニウム-カルボキシラートを触媒の原型とするカルボン酸の自己誘導型水素化)

【世界最強のカルボン酸のアルコール変換触媒】

カルボン酸をアルコールに変換する反応は難しく、副生成物が多いという問題を抱
えていたが、斎藤進名古屋大学教授らの研究グループが開発した、カルボン酸を副
生成物が少なく、多くの種類のカルボン酸をアルコールに変換する水素化触媒(ル
テニウム錯体)――水素化反応をしやすくする触媒構造を発見――で、(1)水素
化できるカルボン酸の種類が大幅に増えた。(2)カルボン酸と類似構造を持つエ
ステルやアミドが共存しても、カルボン酸のみ反応する特徴を利用することで(3)
バイオマス資源に含まれるカルボン酸をアルコール変換でき、(4)さらに、二酸
化炭素から合成したカルボン酸をアルコール変換でき、資源利用に貢献できるもの
と期待される。

 

 

 

特開2015-124156 
カルボン酸化合物及びエステル化合物の水素化によるアルコールの製造方法

【発明の効果】 

カルボン酸化合物に対し、高温高圧を必要とせず、緩和な条件ても、効率的に水素
化を進行させ、アルコールを得られ実用性及び利便性が高い。
また、基質、錯体及
びアルカリ金属塩の選択により、非常に高収率にアルコールを得られる。この場合、
アルコールの選択性も高いので、省エネ法になる可能性が高い。
さらに、室温及び
空気中での取り扱いが容易で、合成が容易な触媒を使用しているので経済的・実用
的で利便性が高い。

 

【時代は太陽道を渡る 11】

● 日本の切り紙で 高効率太陽電池

米国のミシガン大学の研究グループは、日本の切り紙細工で七夕飾りの「網」をヒ
ントに、ガリウム・砒素(GaAs)半導体化合物系薄膜太陽電池を開発。従来の太
陽追尾型とはことなり、太陽の動きに合わせこの太陽電池を引っ張り、太陽光を効
率よく集光する。前者
の追跡システムは、複雑な機構を要し、このため馬鹿でかく
重く、従って高コストとなるが、後者は屋根に設置しておくだけで、切り
紙の網状
の薄膜太陽電池の片側をわずかの力で伸縮させるだけで受光角度を変化させること
で、太陽の動きを約120度にわたって追跡できる(下図クリック)。
 



上図(a)は平面太陽電池パネルの仰角(φ)に対する結合効率(ηC)。パネル
投影面積はcosφに伴って減少する。(b)は、延伸時、同時にシート仰角を変化
させる切り紙追尾構造。この構造に薄膜太陽電池を組み込み、従来の単軸パネルの
追尾機構の代替に使用できる。(c)は、傾斜方向(時計回りまたは反時計回り)
ひずみ処理前から、シートの一端を持ち上げるか(ステップ1)、下げるか(ステ
ップ2)で制御する。

具体的には、切り紙形状(カットパターン)は、傾斜面を±1度以内に制御する。
従来の太陽電池モジュールは、太陽仰角の余弦に比例し、投影面積の減少により光
変換をロスする(上図a)。これらのロスを軽減し、最大電力出力を得るため、平
坦な太陽電池パネルは、日・月・年にわたり太陽追跡できるよう傾斜でき、従来の
太陽光パネルより30%多くエネルギーを集めることができるが、その反面、設置
面積は伸縮可動のため約2倍広くなる。

上図(a)は、カプトン(ポリイミドテープ)切り紙構造軸方向の延伸(εA
応じたサンプル幅の減少εTと特徴角度θ変化を伴うまた無次元パラ
メータ、
R1及びR2で表す切り紙構造横方向Xおよび軸Y方向の切り込み
間の
カット長さLC)の間隔規定する幾何学的パラメータを示す
(b)は、4つの切り紙構造の概略図。ここで、R1= R2=3510、20 に対応す
単位セルは同一
(c)は、(b)の種々の切り紙構造の R1= R2=3510、20に対応する軸方向
延伸量εA、特徴角度θ、サンプル幅εTの関係図
あたりの理論的予測値1
と(2)の実線で図示。塗り潰し記号は、厚さ50μmのポリイミド(カプトン)試料
形状の実験データを図示。R1とR2が大きくなると、より大きな横方向歪みを増加す
るが、特徴角の変化は、切り紙形状とは無関係である。

上図(a)は、試験用のポリイミド(カプトン)基板上に冷間接着の実装集積型薄
膜Gガリウムヒ素結晶太陽電池。ここでは、LC=15 mm、X = 5mm、Y== 5 mm(R1=
R2= 3)。 
(b)は、二つのサンプルの正規化された太陽電池の短絡電流密度JSC(φ)/ JSC
(φ= 0)(塗り潰し記号)。ただし、R1= R2= 3、R1= R2 = 5の場合。また、
図示の式(4)(実線、白抜きの記号)から得られる結合効率(ηC)がシミュレー
トされたデータ。
(c)は、アリゾナ州フェニックス(33.45°N、112.07°W)の夏至の一日の平面
パネル、種々の切り紙構造固定パネルと、単軸追尾システムパネルのそれぞれの

陽電池の電力密度変動図。なお、挿入図は、各パネルの曲線積分値。切り紙型追尾
システムは、従来の単軸追尾型のエネルギー密度の実積に漸近している。



Max Shtein

University of Michigan
chemical engineering, materials science, lighting, solar cells, OLEDs

ここまで、”アドホックなキルケーゴール” な研究に敬意を禁じ得ないが、25
年間に渡る材料など耐久性、極端な高温や低温への耐候性、システムの堅牢性とい
った問題はクリアできるだろうかというクエスチョンは残る。研究担当したマック
ス・シュタイン自身(上写真)、太陽電池パネルを引っ張るのに必要なエネルギー
は非常に小さいが、実用化にはさらなる研究が必要だと認めた上で、紙幣の半分ほ
どの大きさだった今回の実験から、もっと大きい装置での検証を考えている。また
切り紙式太陽電池のアイデアは、長期的には屋根の上の太陽電池の効率を大きく向
上させる可能性があるが、航空宇宙向け小型太陽電池を優先させたいという。

このようなダイナミックなソーラパネルの研究に対し、日本では下図のようなスタ
スティクな高効率な集光技術(東芝のW採光両面受光セル方式)の改良が主流であ
る。ミシガン大学の「切り紙式セル」あるいは「傾斜リボン式セル」をパネルにサ
ンドウィチする非追尾式太陽電池パネルも考えられないこともない。ここは思案の
しどころかもしれない。これは残件扱いとして、今夜はこの辺で切り上げよう。

 

  

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次世代電力のフロンティア

2015年09月16日 | 政策論

 

 

     人は原理主義に取り込まれると、魂の柔らかい部分を失っていき
                        ます。  そして自分の力で感じ取り、考えることを放棄してしまう。

                                                                                    村上 春樹

 

 

 

【ネクストディケイド:縮小する電力市場】

● 今後、電力市場は縮小傾向に

日本のエネルギー分野では半世紀に一度と言われる大きな制度改革が進み、30兆
円と言われる巨大な市場の変革に関心を寄せているが、ビジネスチャンスには、市
場動向を冷静に見極める必要がある。

まず、市場規模について考えると、日本の電力市場は縮小傾向にある。これまで民
生分野のエネルギー消費は増加傾向にあったが、住宅やオフィスの規模、電力消費
機器の数、世帯数等の増大はピークを越え、今後は省エネルギーや人口減少の影響
が徐々に顕在化し産業分野では、円高の是正で国内回帰の動きがあるとはいえ、製遺
業が収益の中心を海外に据え地産地消の生産体制を整備していく方向性は変わらな
い。産業分野でも省エネルギ-は着実に成果を上げる。日本国内で電力消費が増え
る要素は見当たらないという(「電力市場のフロンティアを目指せ」井熊 均 環境
ビジネス 2015年秋季号)。
 
つまり、電力市場への新規参入者は、市場規模が減退する中で、電力会社に挑むこ
とになる。現状では、PPS が電力会社より安い単価を示すことで顧客を獲得できる
が、いくつかの理由で、電力会社のコスト競争力を回復する。(1)一つは、原子
力発電所の復帰である。九州電力の川内原子力発電所が再稼働を果たしたことで、
原子力規制委員会が示した基準をクリアした原子力発電所は順次復帰することにな
る。国が行ったコスト検証によれば、東京電力福島第一原子力発電所の事故を受け
て、原子力発電所のコストは大幅に上昇したが、中には損益に直接反映されないコ
トも含まれているため、原子力発電の復帰によるコスト効果は見た目以上に大き
ことを挙げている。(2)2つめは、火力発電でも電力会社のコスト改善が効果
上げる。電力自由化を控えてコスト競争力の高い石炭火力が次々と建設されてい
が、多くは電力会社に電力を供給することになる。LNG火力については 東京電
と中部電力の提携等によりLNGの調達力が向上し、発電単価を押し下げる。さ
に、原子力発電の停止と安定供給に関する責任意識で稼働させてきた老朽火力が
次停止され、発電効率の低い発電所ヘリプレース(置き換え)される。

● 新規参入者が目指すべきもの 

こうした観点から、10年後の電力会社のコスト競争力は今よりも格段に高くなる
と考えるべきだ。再生可能エネルギーを除くと、新規参入者の電源の殆どはLNG火
力になるから、対抗するのは容易ではない。電力取引等監視委員会が設立され、公正
な電力市場が作られている。くが、公正で中立的であるほど、電力市場の勢力は集約
されていく。電力に限らず力のある者が勢力を拡大し、少数の強力な事業者が影
力を持つのが市場の姿だ。そこで不自然に事業者を増やすことは、必ずしも国民

点に敵った政策にはならない。電力市場における新規参入者の政策的な存在意
義は、
少数の電力会社による過度の寡占を防ぐことに尽きる。一方で、強力なエネル
ギー
関連企業が誕生することは、エネルギー資源の調達力の向上、新興国等におけ
るエ
ネルギーインフラ市場での競争力の向上などにより、日本経済に貢献できる。
産業
政策の観点に立てば、国際市場で競争力のある強力な事業者の輩出を目指すこ
とは
妥当なのだ。


● 三つのフロンティア

このように既存の電力市場での競争は新規参入者にとって厳しいものになる。その
中で、新規参入者が目指すべきなのは電力市場ヘフロンティアであるべきだ。電力分
野では3つのフロンティアを挙げている。(1)第一に、当然のことながら、再生
可能エネルギーである。しかし、今後の再生可能エネルギーの投資は限られたもの
にならざるを得ない。当面重要なのは、過大な買取価格によって認定さた7千万キ
ロワットもの太陽光発電をいかに有効に活用するかだからだ固定価格買取制度
歪んだ形で運営されたことは、持続性のある再生可能エネルギービジネスの芽を摘
むことになったのだ。その他の電源については、技術開発と地道な導入に焦点が当
てられるだろうからバイオエネルギー、地熱などを中心に地域密着型で持続性のある
モデルの立ち上げに力を入れるべきだ。

(2)第二に、需要制御だ。ITの飛躍的
な進歩によりあらゆる場所で安価に電力
需要の管理・制御ができるようになった。エ
ネルギー業界から目を広げれば、lndus-
try 4.0, 1ndustriaU lnternet、loT 
などの言葉で指摘されるように施設、設備のデジタ
ル制御は最も注目される事業分野である。社会基盤におけるエネルギーの重要性を
考えると、エネルギー分野で事業モデルを築いた事業者はこうした成長分野でビジネ
スを拡大できる可能性がある。エネルギーを次世代ビジネスの起点にするという考
え方だ。

(3)第三に、分散型エネルギーだ。10年代になって、家庭用燃料電源勁く、大
幅な性能アップと価格低減を実現しつつある。自動車分野ではトヨタの燃料電池自
動車ミライが画期的な価格で市場投入された。燃料電池のブレークの背景には大き
な技術革新のトレンドがあるから分散型エネルギーシステムは今後も価値を高める。
東日本大震災以降、自立的なエネルギーシステムヘの関心を高めた需要家の意識が
合わさって分散型エネルギーーがエネルギーー供給のでのシェアを拡大するのは間違
いない。エネルギー自由化の議論では、既存の電力市場の分け前にあやかりたいと
いう意識が垣間見えた。しかし、本来、新規参入者はイノベーションによってフロ
ンティア市場を切り拓くことで存在感をアピールして欲しい。上述したように、市
場動向を整理すれば、目指すべき市場が見えてくるはずだ。以上が日本総研の井熊
均氏の論点である。 

 

読み進めているうちに、『環境ビジネス』の記事なのかと疑ってしまった。つまり、
「総括原価方式」「ベースロード」の至上主義の「原発再
稼働先にありき」という
露骨な経理上のご都合で、「再生可能エネルギーが入りこむ余地をなるべく限定さ
せておきたい,可能なかぎり閉め出したい電力会社の経営姿勢」の代弁者ごとき発
言のように受けとれる。九州電力の川内原発とその黒字化発言の「証拠・根拠;evi-
dence
」等の資料を持ち合わせていないので、明確に反論できないの残件扱いとして
おく。
参考までに下表(出典:「東京電力の料金原価に基づく原子力発電の費用」
竹濱朝美)と関連部分の抜粋を参考に掲載しておく。


  原発は再生可能エネルギーより大きな負担 電力会社と原子力を推進する人
 々は、2012年7月から開始した再生可能エネルギー電気の固定価格買取制
 (以下,買取制と略す)が電力料金を高くすると批判している。しかし実際に
 は,原子力発電にかかる原価は,太陽光発電余剰電力買取制(以下,太陽光余
 剰買取制と略す)や再生可能エネルギー買取制の賦課金よりも、大きな負担に
 なっている。これについて説明しよう。

  前述のとおり、東京電力の原子力発電にかかる費用は新料金原価の11.7
 %であったから(表4、6),電力消費1 kWhあたり2.96円、1月で88
 8円になる(電力消費が300kWh/ 月のモデル家庭)。他方、太陽光余剰買
 取制の付加金は1 kWhあたり0.06円,再生可能エネルギー買取制の賦課金
 は、0.22円である(表7)。再生可能エネルギー賦課金は、原子力発電に
 かかるし、残りの半分は50年間の貯蔵後,再処理を行う場合でも、使用済み
 核燃料の処理費用は、1.3~2.2円/kWh必要とされている。原子力発電に
 は、現在の料金原価に加えて,使用済み核燃料処理の追加負担が1.3~2.2
 円/kWh発生する。これらを考慮すると,原子力発電に経済的優位性があると
 いう原発推進派の説明には重大な欺瞞があるだろう。

                 「5‐4 原発と再エネのコスト比較」
           (『東京電力の料金原価に基づく原子力発電の費用』)

※ http://e-shift.org/wp/wp-content/uploads/2013/04/130416_oshima.pdf
                                  

 
 

原則をここで述べてみても有効でないが上下図に考え方の原則を掲載。著者の「ベ
ース電源の推移」を参考に書き換えてみた。蛇足だが、脱原発派の旗手でもある広
瀬隆氏が、石炭火力発電――高性能で二酸化炭素除去付属――システムにご執心な
のでおや?メカ屋さんなのかと思ってしまったほどで、かといってクリーンエネル
ギーの伸長には期待しているようだが、個人的には、高性能小形水力発電に興味が
あるが、これは、超伝導や高性能磁石などのマテリアルイノベーションに加え、温
暖化を背景とし治水政策に組み込んだシステムを考えている(最近)。そう、「次
世代電力は俺にまかせろ!」と。
                                 

 

 

● 折々の読書 『職業としての小説家』3

 「これは村上さんが、どうやって小説を書いてきたかを語った本であり それはほ
とんど、どうやって生きてきたかを語っているに等しい。だから、小説を
書こうと
している人に具体的なヒントと励ましを与えてくれることは言うに及
ばず、生き方
を模索している人に(つまり、ほとんどすべての人に)総合的な
ヒントと励ましを
与えてくれるだろう――何よりもまず、べつにこのとおりに
やらなくていいんだよ、
君は君のやりたいようにやるのが一番いいんだよ、と
暗に示してくれることによっ
て。」と翻訳家で東京大学教授(昨年退任)の柴田元幸が本書の帯でこのように述
べている――紀伊国屋書店から村上春樹の新著『
職業としての小説家』が届いた。
早速、読み始めた。
  


    だからこそ小説家は、異なった専門領域の人かやってきて、ロープをくぐり、小説家
   としてデビューすることに対して、基本的に寛容で鷹揚であるのではないでしょ
  うか。「さあ、来るんな
らいらっしゃい」という態度を多くの作家はとってい
 ます。あるいは誰か新たにやってきたとし
ても、とくに気には留めません。も
 し新参者がそのうちにリングから振るい落とされれば、ある
いは自分から降り
 ていけば(そのどちらかか大半のケースなのですか)、「お気の毒に」とか「
 お元気で」とかいうことになりますし、もし彼なり彼女なりかかんぱってリン
 グにしっかり残ったとすれば、それはもちろん敬意に値することです。

  そして敬意はおおむね公正に、正当に払われることでしょう(というか、払
 われることを願っています)。
  小説家が寛容であることには、文学業界かゼロサム社会ではないということ
 も、いくぶん関係しているかもしれません。つまり新人作家が一人登場したか
 らといって、その代わりに前からいた作家が一人職を失うということは(まず)
 ないということです。少なくともあからさまなかたちでは起こりません。プロ・
 スポーツの世界とは、そうしうところか決定的に違います。新人選手か一人チ
 ームに入ったからオールドタイマーや、なかなか目のでない新人が一人自由契
 約になる、枠外に去る、というようなことは文学の世界にはまず見受けられま
 せん。またある小説か十万部売れたから、ほかの小説の売り上げか十万ち
 てしまった、というようなこともありません。むしろ新しい作家の本か売れる
 ことによって小説全体が活況を呈し、業界全体が潤うという場合だってあるの
 です。

  しかし、にもかかわらす、長い時間軸をとってみれば、ある極の自然淘汰は
 適宜おこなわれているようです。いくら広々としているとはいえ、そのリング
 にはおそらく適正人数というものかあるのでしょう。あたりをぐるりと見渡し
 て、そういう印象を持ちます。僕はもうこれでなんのかんの、三十五年以上に
 わたって小説を書き続け、専業作家として生計を立てています。つまり「文芸
 世界」というリングの上になんとか三十数年留まっている、昔風に表現すれば
 「筆一本で食べている」ということになります。まあ狭い意味あいにおいては
 ひとつの達成と言っていいかもしれません。

  その三十数年のあいだに、ずいぶん多くの人々か新人作家としてデビューす
 るのを目にしてきました。少なからざる数の人々は、あるいはその作品は、そ
 の時点でかなり高い評価を受けました。評論家の賞賛を受け、様々な文学賞を
 とり、世間の話題にもなり、本も売れました。将来を嘱望されもしました。つ
 まり脚光を浴び、壮麗なテーマ・ミュージックつきで、リングに上ってきたの
 です。

  しかし二十年前、三十年前にデビューした中で、いうたいどれくらいの人が
 現在もアクチュアルな現役小説家として活動しているかといえば、その数は正
 直言ってあまり多くありません。というか、実際にはかなり少数です。多くの
 「新進作家」たちか知らない問に静かにどこかに消えていきました。あるいは
 ――むしろこちらの方かケースとしては多いのかもしれませんか――小説を書
 くことに飽きて、あるいは小説を書き続けることが面倒になって、よその分野
 に移っていきました。そして彼らの書いた作品の多くは-当時はそれなりに話
 題になり、脚光を浴びたものですが――今ではおそらく一般書店で入手するこ
 とかむずかしいかもしれません,小説家の定員数は限られていませんが、書店
 のスペースは限られているからです。

  僕は思うのですか、小説を書くというのは、あまり頭の切れる人に向いた作
 業ではないようです。もちろんある程度の知性や教養や知識は、小説を書く上
 で必要とされます。この僕にだって最低限の知性や知識は備わっていると思い
 ます。おそらくというか、たぶん。本当に間違いなくそうなのかと正面切って
 尋ねられると、もうひとつ自信はありませんか。

  しかしあまりに頭の回転の素速い人は、あるいは人並み外れて豊富な知識を
 有している人は、小説を書くことには向かないのではないかと、僕は常々考え
 ています。小説を書く――あるいは物語を語る――という行為はかなりの低速
 ロー・ギアでおこなわれる作業だからです。実感的に言えば、歩くよりはいく
 らか速いかもしれないけど、自転車で行くよりは遅い、というくらいのスピー
 ドです。意識の基本的な動きがそのような速度に適している人もいるし、適し
 ていない人もいます。

  小説家は多くの場合、自分の意識の中にあるものを「物語」というかたちに
 置き換えて、これを表現しようとします。もともとあったかたちと、そこから
 生じた新しいかたちの間の「落差」を通して、その落差のダイナミズムの梃子
 のように利用して、何かを語ろうとするわけです。これはかなりまわりくどい、
 手間のかかる作業です。

  自分の頭の中にある程度、鮮明な輪郭を有するメッセージを持っている人な
 ら、それをいちいち物語に置き換える必要なんてありません。その輪郭をその
 ままストレートに言語化した方か話は遥かに早いし、また一般の人にも理解し
 やすいはずです。小説というかたちに転換するには半年くらいかかるかもしれ
 ないメッセージや概念も、そのままのかたちで直接表現すれば、たった三日で
 言語化できてしまうかもしれません。あるいはマイクに向かって思いつくかま
 まにしゃべれば、十分足らずで済んじゃうかもしれません。頭の回転の速い人
 にはもちろんそういうことかでぎます。聞いている人も「なるほどそういうこ
 とか」と膝を打つことかできる。要するに、それか頭かいいということなので
 すから。

  また知識の豊富な人なら、わざわざ物語というようなファジーな、あるいは
 よく得体の知れない「容れ物」を持ち出す必要もありません。あるいはゼロか
 ら架空の設定を立ち上げる必要もありません。手持ちの知識を5まく論理的に
 組み合わせ言語化すれば、人々はすんなり納得し、感心することでしょう。

  少なくない数の文芸評論家か、ある種の小説なり物語なりを理解できない―
 あるいは理解できたとしても、その理解を有効に言語化・論理化できない――
 理由はおそらくそのへんにあるのかもLれません。彼らは一般的に言って、小
 説家に比べて頭か良すぎるし、頭の回転が速すぎるのです。往々にして物語と
 いうスローペースなヴィークル(乗り物)に、うまく身体性を合わせていくこ
 とができないのです。だから往々にして、テキストの物語のペースを自分のペ
 ースにいったん翻訳し、その翻訳されたテキストに沿って論を興していくこと
 になります。そういう作業か適切である場合もあれば、あまり適切ではない場
 合もあります。うまくいく場合もあれば、あまりうまくいかない場合もありま
 す。とくにそのテキストのペースかただのろいだけではなく、のろい上に重層
 的・複合的である場合には、その翻訳作業はますます困難なものになり、翻訳
 されたテキストは歪んだものになってしまいます。

  それはともかく、頭の回転の連い人々、聡明な人々か――その多くは異業種
 の人々ですが――小説をひとつかふたつ書き、そのままどこかに移動していっ
 てしまった様子を僕は何度となく、この目で目撃してきました。彼らの書いた
 作品は多くの場合「よく書けた」才気のある小説でした。いくつかの作品には
 新鮮な驚きもありました。しかし彼らか小説家としてリングに長く留まること
 は、ごく少数の例外を別にして、ほとんどありませんでした。「ちょっと見学
 してそのまま出ていった」というような印象すら受けました。

  あるいは小説というのは、多少文才のある人なら、一生に一冊くらいはわり
 にすらっと書けちゃうものなのかもしれません。またそれと同時に聡明な人た
 ちはおそらく小説を書くという作業に、期待したほどメリットを発見できなか
 ったのでしょう。ひとつかふたつ小説を書いて、「ああ、なるほど、こういう
 ものなのか」と納得して、そのままよそに移っていったのだと推測します。

  これならほかのことをやった方か効率かいいじゃないか、と思って。

  僕にもその気持ちは理解できます。小説を書くというのは、とにかく実に
 率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。ひとつの個
 人的なテーマがここにあります。小説家はそれを別の文脈に置き換えます。

 「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話をします。ところか
 その置き換えの中に不明瞭なところ、ファジーな部分かあれば、またそれにつ
 いて「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話が始まります。
 その「モれはたとえばこういうことなんですよ」というのがどこまでも延々と
 続いていくわけです。限りのないパーフフレーズの連鎖です。開けても開けて
 も、中からより小さな人形か出てくるロシアの人形みたいなものです。これほ
 ど効率の悪い、回りくどい作業はほかにあまりないんじゃないかという気さえ
 します。最初のテーマかそのまますんなりと、明確に知的に言語化できてしま
 えれば、「たとえば」というような置き換え作業はまったく不必要になってし
 まうわけですから。極端な言い方をするなら、「小説家とは、不必要なことを
 あえて必要とする人種である」と定義できるかもしれません。

  しかし小説家に言わせれば、そういう不必要なところ、回りくどいところに
 こそ真実・真理かしっかり潜んでいるのだということになります。なんだか強
 弁しているみたいですが、小説家はおおむねそう感じて自分の仕事をしている
 ものです。だから「世の中にとって小説なんてなくたてかまわない」という意
 見かあっても当然ですし、それと同時に「世の中にはどうしても小説か必要な
 のだ」という意見もあって当然なのです。それは念頭に置く時間のスパンの取
 り方にもよりますし、世界を見る視野の枠の取り方にもよります。より正確に
 表現するなら、効率の良くない回りくどいものと、効率の良い機敏なものとか
 裏表になって、我々の住むこの世界が重層的に成り立っているわけです。どち
 らが欠けても(あるいは圧倒的劣勢になっても)、世界はおそらくいびつなも
 のになってしまいます。

  あくまで僕の個人的な意見ではありますが、小説を書くというのは、基本的
 にはずいぶん「鈍臭い」作業です。そこにはスマートな要素はほとんど見当た
 りません。一人きりで部屋にこもって「ああでもない、こうでもない」とひた
 すら文章をいじっています。机の前で懸命に頭をひねり、丸一日かけて、ある
 一行の文章的精度を少しばかり上げたからといって、それに対して誰か拍手を
 してくれるわけでもありません。誰か[よくやぅた」と肩を叩いてくれるわけ
 でもありません。自分一人で納得し、「うんうん」と黙って頷くだけです。本
 になったとき、その一行の文章的精度に注目してくれる人なんて、世間にはた
 だの一人もいないかもしれません。小説を書くというのはまさにそういう作業
 なのです。やたら手間がかかって、どこまでも辛気くさい仕事なのです。

  世の中には一年くらいかけて、長いビンセットを使って、瓶の中で細密な船
 の模型を作る人がいますが、小説を書くのは作業としてはそれに似ているかも
 しれません。僕は手先が不器用だしとてもそんなややこしいことはできません
 か、それでも本質の部分では共通するところがあるかもしれないと思います。
 長編小説ともなれば、そういう細かい密室での仕事か来る日も来る日も続きま
 す。ほとんど果てしなく続きます。そういう作業かもともと性にあった人でな
 いと、あるいはそれほど苦にしない人でないと、とても長く続けられるもので
 はありません。




「小説家とは、不必要なことを
あえて必要とする人種である」と定義できるかもし
れません――の件で、こんなことは、わたしも感じながら仕事していたことがある
ぞと思いったが、反復仕事、やっつけ仕事、ルーチンワークの繰り返しの仕事以外
だけではないかと。つまり、「不必要なことをあえて必要とする」とは"高級"な行
為を行う人たちのことだと考えたわけだが、さて今夜はこの辺で切り上げよう。



                             この項つづく
 

 

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