【緊急避難策としてのCCS】
二酸化炭素隔離(carbon dioxide capture and storage,CCS)とは化石燃料を燃やしたときに
発生する二酸化炭素を大気中に放出せず、海水中に溶解したり(海洋貯留)、地中や海底に閉じ
込めること(地中貯留)をさし、二酸化炭素固定化ともいう。この技術は空になりかけた油田やガ
ス田に、二酸化炭素ガスを高圧力で送り込み石油を回収する二酸化炭素注入技術としても知られ
ている。二酸化炭素を大量に分離しやすい場合にのみ有効で、火力発電所や工場などで煙突から
出る排ガス中の二酸化炭素を取り出して隔離することが検討されている。日本では国内と近海の
帯水層に現状の二酸化炭素排出量の70〜80年分(約900億t)を隔離できるとされている。新潟県長
岡市郊外のガス田で実験が行われている。長期にわたり安全に隔離することが必要で、化石燃料
を使わない社会へ移行するための中継ぎ的な技術と見られている。
回収技術には、化学吸収法、固定化学吸収法、物理吸収法の吸収法と物理吸着法、膜分離法、深
冷分離法、酸素燃焼法があり、貯留技術としては、炭層固定、耐水層貯留、油層・ガス層貯留、
鉱物固定、海底下ハイドレート貯留、ゲスト分子置換法、メタン変換法などの地中隔離法と溶解・
希釈、海底貯留の海洋隔離法、さらには、プラズマ分解法、金属と反応させる方法、メタンを利
用する方法、化石燃料の分離などの分離法がある。
ところで、米航空宇宙局(NASA)は24日、グリーンランド(Greenland)の氷床表面が今月、30
年以上にわたる衛星の観測で確認されたことがない規模で融解したと発表。3機の人工衛星から
得られた観測データをNASAと大学研究者らが分析したところ、7月中旬のある時点で氷床表面の
97%が解けたとみられることが分かったという。NASA関係者によれば、インド宇宙研究機関(In-
dian Space Research Organisation、ISRO)の人工衛星「Oceansat-2」の観測データを分析中に
7月12日にグリーンランドで大規模な氷床表面の融解が起きたらしいことを発見。ほかの衛星か
らのデータもこれと合致するものだった。NASAが発表した融解域を示す地図によれば、7月8日
には氷床表面の40%が融解し、4日後の12日には97%に急拡大した。NASAによればグリーンラン
ドの氷床は例年、夏になると平均して表面の約半分が自然融解する。解けた水は通常、高所では
すぐに再凍結するが、沿岸地域では一部を除き海へ流れ出る。NASAは「今年は表面付近の解氷範
囲が劇的に拡大した」と述べている。この大規模融解はグリーンランド上空を暖かい空気を含む
強い高気圧が覆ったのと同時に起きた。今回の融解が海面上昇の要因となるかどうかはまだ分か
らないという。データ分析チームのメンバーで氷河学者のLora Koenigによれば、このような解
氷現象は平均して150年に1回起こるという。最後に起こったのは1889年で、今回の現象もこの周
期に沿ったもだが Koenigは「このような解氷現象が来年以降も続けば心配だ」と話したという。
地球温暖化に対するわたし(たち)の見方はこのブログでも再三記載してきている。人為説→二酸化炭素
などの温暖化ガスの削減の基本的な態度は、例外なく人類の人口ひとり当たりの排出量を算定し、削減
量設定→その上で国家単位で排出量を算定し目標値を国際的な上部機関(国連)で設定するものだ。こ
れを実行していくためには、米国と中国の排出負荷量二大国が率先垂範させるべきだ。これは覇権大国
が率先して、武器を放棄していくことが原則であるように、温暖化ガス削減も同様に基本原則だ。すなわ
ち、「武器よさらば」「温暖化ガスよさらば」という図式はこの二大国に当てはまることは自明のことだ。
さて、そのための緊急避難策として、国際的な二酸化炭素隔離(carbon dioxide capture and stor-
age,CCS)システム構築プロジェクトの始動が大前提だと考える。とはいえ、先行できる国が、前
駆体として世界を指導することも重要だ。
【続・たまには熟っくりと本を読もう】
茂木-現代は「何か」を忘れていないか
若いときはだれでも自分の判断にあまり疑いをもちません。でも、よくよく考えてみる
と、あのときのあの判断は間違っていたのではないかと思うことはあります。だからこ
そ、年齢とともに思想も変わるのだと思います。小林秀雄も「結局、思想が年齢ととも
に変わるのは当然のことであって、現代人はそれを忘れてしまっている」という意味の
ことを書いていますが、いま、お話をうかがっていて思ったのはそういうことでした。
たとえば妄想をいだいて何か行動を起してしまうと、そういう自分にうろたえたり慌て
たりします。その結果、自分の判断力、思考というものを疑うようになる。あるいは、
思考や判断の底が抜けていることを非常に強く実感する。しかし、そういうことを前提
に物事を考えるようになることは、ある意味では、自分の理性や判断を疑わない若者の
状態より一歩先に進んでいるともいえるのではないでしょうか。
言い換えれば、われわれ現代人は若さ、力強さ、効率といったものを最高・最上のもの
と考えがちですが、それによって取り残されているものがいっぱいあるように思うので
す。京都にある茶碗のミュージアムに行ったことがあります。茶碗というのは、銘にお
能の演目を記すことが多いのですが、「銕捨」と記されたものもありました。姥捨て山
伝説については深沢七郎さんが『檜山節考』(新潮文庫)で小説化していますが、ぼく
は能の「銕捨」のほうは見たことがなかったので、シノプシスを読んでみたら、これが
深沢七郎的な世界とは全然違いました。深沢七郎的世界は、口減らしのために老婆が山
のなかに捨てられに行くという、ある意味では悲惨な描き方がなされていますが、能の
「銕捨」はそうではありません。老婆が山のなかにひとりで入って行って月光の下で舞
を舞う。そのうちに魂が浄化されて天上に昇っていくという筋書きでした。
これは、同じ姥捨てを取り上げながらも、能が考案された室町時代あたりの世界観と現
代のわれわれの世界観が全然違っているためだと思います。深沢七郎的世界というのは、
ある意味ではわれわれが慣れ親しんでいる世界で、深沢七郎さんの文学性は素晴らしい
と思いますけど、能のシノプシスを読んだとき、ぼくはどうもわれわれ現代人が見落と
していることがずいぶんあるのではないかと感じました。
吉本さんのお話をうかがっていて、そんなことも思い出しました。
吉本-ホスピス、尊厳死への疑問
姥捨てでは、夫はもう亡くなっているということを前提にしているのでしょうが、女の
人が一定の年齢になると山中に捨てられる。深沢さんの小説と同じように、息子に背負
われて山に行き、置いてきぼりにされる。では、そのあとどうしたのかというと、姥捨
て山伝説が残っている土地の近くには「蓮台野」とか「デンデラ野」と呼ばれる場所が
あります。お婆さんたちはその「デンデラ野」や「蓮台野」でもう一度、自分と同じ境
遇の仲間たちと農耕をはじめたわけです。お婆さんたちが寄り集まって、まだ元気な人
は働いて、少し土地を耕して手っ取り早くつくれる野菜をつくったり木の実を拾ったり、
いわゆる自立的な営みをやっていました。相互扶助のようなものがあって、病気になっ
たら看護して、亡くなったら「神さま」として大切にしたといいます。
そこまでいくと、人間って、昔からなかなかやるじゃないかという思いがします。人間、
足腰立たなくなったって生きているかぎりはやるさ、という気概のようなものがちゃん
とあって、なにやら姥捨てが行われていた時代のほうがいい社会だったのではないかと
いう気もします。現代的な解釈だったら、姥捨てですべて終わり。お婆さんは、あとは
死ぬ以外にない、みたいになってしまうわけですが、それに比べたら「蓮台野」や「デ
ンデラ野」のほうがどれだけいいかと思わずにはいられません。
最近はよく「ホスピス」ということがいわれているようですが、ぼくは、あんなのはよ
くないよと思っています。思うだけでなく、そう書いたりいったりしています。何かよ
くないかといえば、だいたい「死」を前提とした看護とか医療は全然ダメだと思うから
です。もう初めから問題にならないよと思います。
だいたいホスピス医になるのは進歩的なお医者さんが多いようです。ふつうのお医者さ
んは病院に勤めて、ある時間からある時間まで義務的に診察して、薬は何々だとか、決
まりきったものを出す。そうしたルーティン・ワークに満足できないお医者さんがホス
ピス関係に行くケースが多いと間いたことがあります。したがって、わりあい進歩的な
考えの人が多いわけですが、そういう人はみな、自分では「いいことをしている」と思
っています。義務的に病院に勤めているお医者さんより、自分たちはいいことをしてい
るのだと考えています。
だからぼくにいわせれば、ホスピス医は二重に悪いことになります。第一に死を前提に
した医療なんて認めがたいし、そのうえ、自分たちは、いいことをしているんだと考え
ているとしたら、これはもうどうしようもないわけです。だからぼくは、ホスピスなん
ていうのはダメだといっているわけですが、当のご本人たちは、そこのところは絶対に
納得しませんね。ぼくがいままでわりあい親しくしていた医師の人と、どうもしっくり
いかない、気分がはぐれてしまった、と感じるのはホスピスの問題をめぐって話をした
のがきっかけです。ぼくが、「死を前提として医療をするのはよくないと思うよ。それ
も、悪いことをしているという自覚のうえでやるなら、それはそれでもいいかもしれな
いけど、逆にいいことをしていると思っているなら、そんなのはいちぱんよくないよ」
というと、向こうは「いや、そうじゃない。ホスピスだっていろいろあるんだ」と盛ん
に反論してきます。すると、ぼくはまた言い返したくなるわけです。「そりゃあ、いろ
いろあるかもしれないけど、老人はやがて死ぬんだから、それなら安楽にして過ごした
ほうがいいんじやないかという発想自体が問題なんだ。それがダメだと、おれはいって
いるんだよ」と。そういう言い方をしても、まるで納得してくれません。これは現在の
さまざまな問題と関わりがある問題で、ここを納得してくれたらたいしたものだと思う
わけですが、絶対に納得してくれないというのが現状です。
だいたい、ご老人は若い人より先に死ぬのだから、それなら苦痛のうちに死ぬよりも安
楽に死なせてやったらいいという考え方は、ナチスがユダヤ人をガス室に入れたのと同
じことなんです。優秀なアーリア人種の血統を守るためにユダヤ人は絶滅するんだとい
うナチスの優生思想とどう違うんだ、といいたくなります。もっとひどいと思うのは「
日本尊厳死協会」です。苦しんで死ぬような状態になったら延命しないでくれといって、
予め承認の署名をする。わたしの知っている人も日本尊厳死協会に入っているといって
いたので、本気かと問くと、「本気だ」と盛んにいっていました。ぼくなど、とんでも
ないことだと思いましたが、ご自分が死ぬか生きるかという問題だから、それ以上のこ
とはいわずに済ませました。
ついでにいっておけば、ぼくは「ボランティア」にも異和感を覚えます。仕事というの
はやはり正当な報酬を得る賃仕事でなければいけないのに、ボランティアの人たちは無
報酬の善意でやっているんだ、という顔をしている。ホスピスといっしょで、いつだっ
て[自分たちはいいことをしているんだ」と思っているわけです。でも、「いいこと」
というのは密かにさりげなくやるもので、そういう常識からいえば、わざわざ「いいこ
とをしている」と公言するような態度はよくないんです。このあたりのことが、ぼくが
当面している問題です。自分のことでいえば、精神的なものと身体的なもののズレ、そ
こからくる不自由さ、そういったことがいまいちばん考えている問題点です。
茂木-社会全体がホスピス化している
おそらく吉本さんの人間観が、ホスピスがいいものだと考えている人たちの人間観と違
うのだと思います。デズモンド・モリスは『人間動物園」(新潮選書)のなかでこうい
う意味のことをいっています。「人間というのは動物園にいる家畜化された動物に近い。
自分で自分自身を家畜化している。文明の進捗によって、暮らしはどんどん便利になっ
て苦痛を感じないようになってきたし、抵抗なしにスムーズに生活できる方向にどんど
ん進んでいる。しかしそれは非常にパラドクシカルなことで、それによって、本来は非
常に強力な存在だった人間が最も無力な存在になってきている」と。
これを敷街すれば、社会全体がホスピス化しているんだと思います。じっさい、駅でも
ビルでも階段が少なくなってエスカレーターになっています。次はエレベーターになる。
障害や階級や性差を超えて利用できるという「ユニバーサル・アクセス」や「ユニバー
サル・デザイン」ということもずいぶんいわれています。
もちろん、こうした社会のホスピス化はおかしいという人もいます。たとえば芸術家の
荒川修作さんなどは、「バリアフリーなんてとんでもない」といって、三鷹に「天命反
転」住宅というマンションを建てています。バリアフリーとは逆に、人間が本来もって
いた感覚を呼び起し、さらに新しい感覚を呼び起そうというのが荒川さんの発想ですか
ら家のなかにわざと段差をつくったり、床を平らでなくデコボコさせたり、突起をつく
ったりする。そういうところに住むと寿命が延びるというのが荒川さんのコンセプトで
す。なかぱは芸術家としての街いがあるのかもしれませんが、そこには非常に本質的な
問題がひそんでいるように思います。
ただしその一方で、ホスピス的なるものを推進する立場の人の議論には抗しがたいもの
を感じるのも事実です。「苦痛を取り払う方向に文明を発達させましょう」「不便さ、
厄介さを取り払う方向に社会を進めましょう」という議論に抵抗するというか、反論す
るのはかなりむずかしいですから。
吉本―人類は根拠のないタブーをつくらないと済まない
ぼくの考え方からいうと、君たちはちょっと思い違いしているんだよ、といいたいと
ころがあるわけですが、では、どうすれば思い違いではないといえるのかとなると、は
っきりした解答を見出すのはなかなかむずかしい。いまの段階ではちょっとむずかしい
なと思います。ただし、ホスピス医や進歩的な政治家が「いいことだ」と思っているこ
とは、じつはけっしてよくないことなんだということだけは自分なりに確信があります。
人間というか人類には、根拠のないタブーをつくらないと済まないようなところがあり
ます。そういうところだけは動物の習慣性と同じで、その点ではまず動物性を脱してい
ないといえます。
日本でいえば、被差別問題のようなものがありますが、差別に何か根拠がある
のかといえば、何もない。人種的にもないし種族的な理由もない。そこで理由とされて
いるのは職業です。あの人たちは牛とか馬とか、動物を殺すことを職業としていて不浄
だと決めつけるわけですが、ぽくが調べたところでは、の人は農業がいちばん多い
んです。だとすれば、動物殺しも根拠にならないし、それに動物を殺すのがいけないと
いうなら食うほうがなおさらいけないじやないか。食うときだけは食っておきながら、
動物を殺すのはいけないなんて、そんな馬鹿な話はない。では、差別に何の根拠が
あるのかといえば、人間にはタブーをつくらないと生きていけないという要素がまだ残
っている、ということ以外には何も根拠はない。
これがヨーロッパだと、ユダヤ人問題になります。もちろん、これにも何の根拠もあり
ません。ユダヤ人は金権主義でお金を貯めているというけど、それも嘘です。なかには
大金持ちもいるでしょうが、大学者や大芸術家も大勢いて、ユダヤ人がとくにお金のこ
とばかり考えているわけではない。ユダヤ人問題の本質は宗数的なタブーです。そこへ
優生思想などを持ち出して、短期間に片づけてしまおうとしたのがヒトラーですが、ま
ったく馬鹿なことをしたとしかいいようがありません。ここはマルクスなどもいちぱん
こだわった問題です。つまり、当時の進歩派の言い方によれば、「宗教なんていうのは
みんな迷妄なんだから、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も全部すっ飛ばして唯物論
的にすればいい」。これが当時の進歩派の考え方ですが、マルクスはひとりそれに反対
して、「そうじゃないんだ」といった。要するに、宗教をすっ飛ばすことと人間的な解
放はまったく別の問題だ、どいうのがマルクスの考え方でした。当時の進歩派と比べれ
ば、はるかに保守的な考え方ですが、ぼくは当時にあってもマルクスの考えのほうが妥
当だと思います。
茂木-現代は強迫神経症にかかっている
どうも現代における厄介な現象はみな通底しているような気がします。
たとえば最近は犯罪が多いから、子供の安全を図るために監視カメラを設けようとか、
警報ブザーをもたせようという動きがあります。しかし百パーセントのセキュリティな
ど、ありえません。子供を守るために警備員や監視員を雇ったら、そいつが変なやつだ
ったということもありうるわけです。基本的に完璧ということはありえないのに完璧を
求めるという、この現実世界では不可能な命題を立てているような気がします。死を前
にした人に不快な思いをさせてはならないというホスピスの命題もそうですが、現代は、
どうも細菌がついているのではないかといって始終手を洗う強迫神経症みたいな構造に
なっているのではないでしょうか。
吉本-散歩の途中で
ぼくは毎日、雨でないかぎりは家のまわりを散歩します。散歩といえば聞こえはいいけ
ど、じつはそんなゆとりはなく、リハビリのつもりで百メートル、二百メートル、杖を
つきながら歩いているわけです。そのとき、若いお母さんと子供がいるところを通ると、
お母さんが「家のなかに入ってなさい」と子供にいったりする。あるいは、子供のほう
がお母さんの後ろに隠れたりする。そういうのを見ると、こういう子供さんが青春期に
なったらどうなるのかなとか、大きくなったらどういう子になるのかな、ということは
やっぱり考えてしまいます。だれか得体の知れない人が歩いてきたら、まず「後ろに隠
れなさい」とか、「家のなかに入ってなさい」と正当に教えられているのでしょうが、
それは少しも悪いことではないと思います。それを怠ればいろいろな事件が起るわけだ
から、それはけっして悪い指示ではないはずですが、でもこの子たちが大人になったら
どういうことになるのかなということが少々気になります。
茂木-生きることはコントロ-ルできない
いまふと思ったことですが、苦痛や安全もふくめて、生きるということがコントロール
可能なものであると考えられているのではないでしょうか。そうだとすれば、それはな
にかひと昔前の社会主義国の計画経済に似ています。五か年計画で経済成長率は毎年何
パーセントと、旧ソ連でやって大失敗したわけですが、なんだかそれに近いような気が
します。苦痛を除くとか、完璧に近い利便性を求めるとか、そうしたやり方は結局はあ
まりうまくいかないんじやないかと思います。(後略)
第二章 老人は「超人間」か
『「すべてを引き受ける」という思想』
吉本隆明 茂木健一郎 著
London 2012 Olympics: day one – as it happened
老人は「超人間」かといわれれば、吉本のようにものごとを深く考えているひとではなので、そ
んな自信や確信はまったくない。ここのところで言われていることは、やはり、俺とは違うねと
いうことだけだ。ある意味、「ひとは死ぬために生きているんだと達観することはダメなんだよ」
と言われているような気もするが、「死ぬために医療がある」という言い方は本末転倒だとは言
い切れる。そんなことを考えていたわけだが、引用が長くなったのはそういう認識の、あるいは
脳の皺をクリアーにさせるために?掲載した。
昨夜も、オリンピック中継を観て興奮し、それを緩和するため酒とチーズを口にしてしまい体調
を悪い方にもっていってしまった。地球環境を考えるひとが何をしているのよとまた彼女から馬
鹿にされているのだが、それもごもっと思いつつも自己嫌悪することなくまた一日が過ぎようと
している。