● "Can You Prove You're Self Aware? ”
雨降る中、予定通り、消費税値上げの影響でかいつもより10円値上げされていたが、映画『トラ
ンセンデンス』のナイトショーを鑑賞した。モーガン・フリーマン扮するキャスター夫婦の恩師
ジョセフ・ターガーがウィル・キャスター(ジョニー・デッブ)の頭脳(精神)を量子コンヒュ
ーター型人工知能PINN(ピン)にアップロードし、軍事機密から金融、経済、果ては個人情
報にいたるまで、ありとあらゆる情報を取り込み驚異の進化を遂げ蘇り、荒廃した街をキャスタ
ー夫婦が再興させ、やがて小さな奇跡が起こり、人が次々と巡礼に訪れる聖地秘密基地の中の大
画面ディスプレイのウィルと再会し話終えよとしたとき、ターガーが“Can You Prove You're Self
Aware ? (きみは、自我を証明できるのか)”と、二度目の反質に、"それは難しい質問だ"と答
え、あなたならどう証明するかと切り返す。レベッカ・ホール扮する妻エヴリンが、"これは、い
つものジョークよ"とスモール・トークするシーンが印象深く残った。というのも、中学に入学し
た折り、クラス違いの同学級委員のオガタ君が、「僕たちの命は神様が夢から覚めると消えてな
くなるのだよ」と微笑み話していた顔が――なぜ突然に、その当時どのような脈絡で、このよう
な会話になったのか思い出せないのに――思い出された。つまり、仏教思想には"自我"というも
のは存在しない、妄想の類とされることを思い出したのだ。
●自我とは
ウィキペディアによると、哲学におけるdas Ich(自我:ego)とは、自己意識ともいい、批判哲学
や超越論哲学では、自己を対象とする認識作用のことで、超越論哲学における原理でもあるとあ
る初期フィヒテの知識学においては、自我は知的直観の自己定立作用 (独: Selbstsetzung) であり、
哲学の原理であるとともに唯一の対象。自然はこれに反定立される非我 (独: das Nicht-Ich) であ
って本来的な哲学の対象でなく、フィヒテにおいては自然哲学の可能性は否定される。これに対
し、他我 (独: das Anders-Ich) と呼ばれる個別的人格の可能性は、非我と異なり道徳性において
承認・保証され、この構想はシェリングやヘーゲルから批判された一方、フィヒテ自身もこの自
我概念にあきたらず、後期フィヒテにおいて、自我は我々(独: das Wir)および絶対者(独: das
Absoloute) の概念へ展開され、後期ドイツ観念論においては、もはや自我は体系全体の中軸概念
としては扱われなくなるという。
また、シェリングはフィヒテの自我概念を摂取し『自我について』(“Vom Ich”) で自我の自己
定立性を、無制約性と結びつけた。自我論文においては、物(独: das Ding)である非我一般に対し、
無制約者 (独: das Unbedingte) としての自我は「物(独: Ding)にされないもの」として対置さ
せられる。そのような自我の特質としての無制約性が自由である。ここにおいて思惟の遂行とし
ての哲学――無制約な自我の自己知は、自由な行為 (独: Handlung) となり、カント以来の課題
であった知と行為の一致は、ただ自我の自由においてのみ一致する。また、シェリングはフィヒ
テが否定した自然哲学を主題的にとりあげ、『超越論的哲学の体系』において自我の前史・自我
の超越論的過去としての自然という構想を得て、『我が哲学体系の叙述』では、自我=主観的精
神と客観的自然はその原理で同一であり、無限な精神と有限な自然とは、即自において(それ自
体としては)無差別な絶対者であるといわれ、これによってシェリングの同一哲学の原理である
無差別(独: Indifferenz)が獲得される。 このような思想において、主観的なものとして取り上げ
られるのはもはや自我ではなく、むしろ精神であり、また精神における主観的なものとしての知
また哲学となる。後にヘーゲルは『精神の現象学』でこの絶対者概念を取り上げ、このような同
一性からは有限と無限の対立そのものを導出することができないと批判したという。このように
ヘーゲルの体系では、自己意識は精神の発展・教養形成の初期の段階に位置づけられ、初期知識
学のような哲学全体の原理としての地位から退いたとされる一方、マックス・シュティルナーは
フィヒテの自我の原理をさらに唯物論的に発展させ、自我に価値を伴わない一切の概念をすべて
空虚なものとした極端な個人主義を主張。国家や社会も自我に阻害するものであれば、排除する
べきであると主張する。
●精神分析学の自我
フロイトの定義では意識を中心にした自己の意味で使われていた。彼が意識と無意識の区別によ
って精神を把握していたためであり、心的構造論を語るようになってから、自我(エゴ)という
概念は「意識と前意識、それに無意識的防衛を含む心の構造」を指す言葉として明確化された(
同上ウィキペディアより)。つまり、自我(エゴ)はエスからの要求と超自我(スーパーエゴ)
からの要求を受け取り、外界からの刺激を調整する機能を持つ。無意識的防衛を行い、エスから
の欲動を防衛・昇華したり、超自我(スーパーエゴ)の禁止や理想と葛藤したり従ったりする、
調整的な存在とされる。全般的に言えば、自我(ego)はエス(id)・超自我(super-ego)・外界に悩
まされる存在として描かれることも多いとか。
自我(エゴ)は意識とは異なるもので、飽くまでも心の機能や構造から定義された概念。有名な
フロイトの格言としては「自我はそれ自体、意識されない」という発言がある。自我の大部分は
機能や構造によって把握されており、自我が最も頻繁に行う活動の一つとして防衛が挙げられる
が、この防衛は人間にとってほとんどが無意識的である。因みに「意識する私」という概念は、
精神分析学では「自己もしくは自己イメージ」として明確に区別され、日本語での自我という言
葉は一般的には「私」と同意に受け取られやすいが、それは日常語の範囲使用する場合にのみ当
てはまる。
次に、エス (Es) は無意識に相当する。正確に言えば、無意識的防衛を除いた感情、欲求、衝動
過去における経験が詰まっている部分である。エスはとにかく本能エネルギーが詰まっていて、
人間の動因となる性欲動(リビドー)と攻撃性(死の欲動)が発生していると考えられている部
分である。これをフロイトは精神分析の臨床と生物学から導いたとされる。性欲動はヒステリー
などで見られる根本的なエネルギーとして、攻撃性は陰性治療反応という現象を通じて想定され
たもの。またエスは幼少期における抑圧された欲動が詰まっている部分、と説明される事もある。
このエスからは自我を通してあらゆる欲動が表現される。それを自我が防衛したり昇華したりし
て操るとされる。エスは視床下部の機能と関係があるとされた。なおこのEsという言葉はフリー
ドリヒ・ニーチェが使用し、ゲオルグ・グロデック(ドイツ語版)の“Das Buch vom Es”(『エ
スの本』)などで使われた。
さらに、超自我は、自我とエスをまたいだ構造で、ルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想
などを自我とエスに伝える機能を持つ。厳密には意識と無意識の両方に現れていて、意識される
時も意識されない時もある。ただ基本的にはあまり意識されていないものなので、一般的には無
意識的であると説明され、親の理想的なイメージや倫理的な態度を内在化して形成されるので、
それ故に「幼少期における親の置き土産」と表現される。精神分析学においてはエディプス・コ
ンプレックスという心理状態を通過して形成されると考えられている。超自我は自我の防衛を起
こす原因とされ、自我が単独で防衛を行ったり抑圧をしたりするのは稀であると考えられている。
また超自我はエスの要求を伝える役目も持ち、無意識的な欲求を知らず知らずのうちに超自我の
要求を通して発散しているような場合である。他にも超自我は自我理想なども含んでいると考
えられ、自我の進むべき方向(理想)を持っていると考えられている。夢を加工し検閲する機能
を持っているので、フロイトは時に超自我を、自我を統制する裁判官や検閲官と例えたりしてい
る。超自我は前頭葉の機能と関係あるとされるが脳科学的実証はされていないという。
以上、「自我」(あるいは「自己認識」)という言葉の背景を踏まえて、「優秀な撮影監督であ
るウォーリー・フィスターの監督デビュー作となった本作には独特のビジュアルがある。しかし
本作が提示する奥深いテーマは、本作の物語では十分に捉えることができなかった」(Rotten T-
omatoes)と酷評され興行的にも失敗だとされるこの映画を、別の観点から現在的な鑑賞の意義を
素描してみる。
●技術的特異点 シンギュラリティ
この映画テーマは、果たして心までインストールできるのか、肉体のない永遠の命とは何かということ。人
間とコンピューターとの関わりについて考えさせるものであり、これまで不老不死、人工知能、ロボット、ク
ローンをテーマとした映画は、生命への冒涜、創造者が恐れを抱きながらも研究や開発を進める矛盾、あ
るいは命や知能を与えられた者の悲哀などを描いてきたが、それはあくまでもまだ先の話であり、一種の
寓話や警鐘の類として捉えることができたが、ところが、コンピューターや科学の急速な発達(=デジタル
革命渦論)で、これらはより現実味を帯び、『2045年問題』や『技術的特異点』として語られ議論さ
れている。
つまり、技術的特異点(Technological Singularity)とは、「強い人工知能」や人間の知能増幅が可
能となったとき出現するもので、未来学者らによれば、特異点の後では科学技術の進歩を支配す
るは人類ではなく強い人工知能やポストヒューマンであり、これまでの人類の傾向に基づいた人
類技術の進歩予測は通用しなくなると認識されるようになった。この概念は、数学者ヴァーナー
・ヴィンジと発明者でフューチャリストのレイ・カーツワイル(上写真人物、クリック)により
初めて提示された。彼らは、意識を解放することで人類の科学技術の進展が生物学的限界を超え
て加速すると予言。意識の解放を実現する方法は、人間の脳を直接コンピュータネットワークに
接続し計算能力を高めることだけに限らない。それ以前に、ポストヒューマンやAI(人工知能
)の形成する文化が現生人類には理解できないものへと加速度的に変貌していくとする。カーツ
ワイルはこの加速度的変貌がムーアの法則に代表される技術革新の指数関数的傾向に従うと考え
収穫加速の法則(Law of Accelerating Returns)と呼んだ。
特異点を肯定的に捉えその実現のために活動する人々がいる一方、特異点は危険で好ましくなく
あってはならないと考える人々もいる。実際に特異点を発生させる方法や、特異点の影響、人類
を危険な方向へ導くような特異点をどう避けるかなどが議論されている。技術的特異点のアイデ
ィアは少なくとも19世紀半ばまで遡る。 1847年、Primitive Expounder の編集者である R. Thornton
は、当時、四則演算可能な機械式計算機が発明されたことに因んで、冗談半分に次のように書い
ている。「… そのような機械を使えば、学者は精神を酷使することなくただクランクを回すだけ
で問題の答を捻り出せてしまう訳で、これが学校にでも持ち込まれたなら、それこそ計算不能な
ほどの弊害を齎すでしょう。いわんや、そのような機械がおおいに発展し、自らの欠陥を正す方
策を思いつくこともないまま、人智の理解を超えた概念を捻り出すようになったとしたら」と。
また、ジェラルド・S・ホーキンズは、著書『宇宙へのマインドステップ』で「マインドステップ」
の観念を明確にし、方法論または世界観に起きた劇的で不可逆な変化であるとした。彼は、人類
史の5つのマインドステップと発生した「新しい世界観」に伴う技術を示した(彫像、筆記、数
学、印刷、望遠鏡、ロケット、コンピュータ、ラジオ、テレビ)。「個々の発明は集合精神を現
実に近づけ、段階をひとつ上ると人類と宇宙の関係の理解が深まる。マインドステップの間隔は
短くなってきている。人はその加速に気づかないではいられない」。ホーキンズは経験に基づい
てマインドステップの方程式を定量化し、今後のマインドステップの発生時期を明らかにし、次
のマインドステップは2021年で、その後2つのマインドステップが2053年までに来るとしている。
そして技術的観点を超越し次のように推測した。
さて、特異点の概念は数学者であり作家でもあるヴァーナー・ヴィンジによって大いに普及した。
ヴィンジは1980年代に特異点について語りはじめ、オムニ誌の1983年1月号で発表。その後1993
年のエッセイ "The Coming Technological Singularity" の中でその概念をまとめ「30(2026)年以内
に私達は超人間的な知能を作成する技術的な方法を持ち、直後に人の時代は終わるだろう」と述
べているという。彼は、超人間的な知能が、人間よりも速く自らの精神を強化することができる
と予測、「人より偉大な知能が進歩を先導する時その進行はもっとずっと急速になるだろう」と。
人類を超える知性を創造する方法は、人間の脳の知能増幅と人工知能の2つに分類される。人間
の知能増進の方法として考えられる手法は様々で、バイオテクノロジー、向知性薬、AIアシス
タント、脳とコンピュータを直結するインターフェイス、精神転送など。劇的に寿命を延ばす技
術、人体冷凍保存、分子レベルのナノテクノロジーなどがあれば、より進歩した未来の知能増進
医療を受けることができる。さらに増進した知能から得られる技術として不死や人体改造を受け
られる可能性も出てくる。
特異点到達に積極的な組織は、その方法として人工知能を選ぶことが最も一般的である。例えば、
Singularity Institute(特異点研究所)は、2005年に出版した "Why Artificial Intelligence ?" の中で、
その選択理由を明らかにしている。ジョージ・ダイソンは、自著 Darwin Among the Machines の中
で、十分に複雑なコンピューターネットワークが群知能を作り出すかもしれず、将来の改良され
た計算資源によってAI研究者が知性を持つのに十分な大きさのニューラルネットワークを作成
することを可能にするかもしれないという考えを示し、精神転送は人工知能を作る別の手段とし
て提案され、新たな知性をプログラミングによって創造するのではなく、既存の人間の知性をデ
ジタル化してコピーすることを意味すると解釈した。
レイ・カーッワイルは、歴史研究の結果、技術的進歩が指数関数的成長パターンにしたがってい
ると結論し、特異点が迫る根拠とした。これを「収穫加速の法則」(The Law of Accelerating Returns)
と呼び、集積回路が指数関数的に細密化してきているというムーアの法則を一般化し、集積回路
が生まれる遥か以前の技術も同じ法則にしたがうとした。これはある技術が限界に近づくと、新
たな技術が代替するように生まれ、パラダイムシフトがますます一般化し「技術革新が加速され
て重大なものとなり、人類の歴史に断裂を引き起こす」と予測したことは周知の通り。彼は特異
点が21世紀末までに起きると確信しており、その時期を2045年とした(2005年)。特異点に向
けた緩やかな変化であり、ヴィンジらが想定する自己改造する超知性による急激な変化とは異な
る。この違いを「ソフトな離陸」(soft takeoff)と「ハードな離陸」(hard takeoff)で表わさられるこ
ともあるという。
この法則を提案する以前、多くの社会学者と人類学者は、社会文化の発展を論じる社会理論を構
築してきた。ルイス・H・モーガン、レスリー・ホワイト、ケルハルト・レンスキーらは文明の
発展の原動力は技術の進歩であるとする。モーガンのいう社会的発展の三段階は技術的なマイル
ストーンによって分けられている。。ホワイトは特定の発明ではなく、エネルギー制御方法(ホ
ワイトが文化の最重要機能と呼ぶもの)によって文化の度合いを測った。彼のモデルは「カルダ
シェフの文明階梯」の考え方を生むこととなる。レンスキはもっと現代的な手法を採用し、社会
の保有する情報量を進歩の度合いとしている。
1970年代末以降、アルビン・トフラー、ダニエル・ベルやジョン・ネイスピッツは、脱工業社会
に関する理論からアプローチしているが、その考え方は特異点近傍や特異点以後の社会の考え方
に類似し、工業化社会の時代が終わりつつありサービスと情報が工業と製品に取って代わると考
えた。逆に、Theodore Modis と Jonathan Huebnerは技術革新の加速が止まっただけではなく、現
在減速していると主張。John Smart は彼らの結論を批判し、カーツワイルが理論構築のために過
去の出来事を恣意的選別だという批判もある。
考えられうる超人間的知性の中には、人類の生存や繁栄と共存できない――知性の発達とともに
人間にはない感覚、感情、感性が生まれる可能性がある。AI研究者フーゴ・デ・ガリスはAI
が人類を排除しようとし、人類はそれを止めるだけの力を持たないかもしれない主張。他の危険
性は、分子ナノテクノロジーや遺伝子工学にに関するもので、これらの脅威は特異点支持者と批判者
の両方にとって重要な問題である。ビル・ジョはその問題をテーマとして Why the future does't
need us(何故未来は我々を必要としないのか)を公表。また、哲学者ニック・ボストロムは人類
の生存に対する特異点の脅威についての論文「Existential Risks(存在のリスク)」をまとめた。
多くの特異点論者は、ナノテクノロジーが人間性に対する最も大きな危険なものだと考えているが
彼らは人工知能をナノテクノロジーよりも先行させるべきだと主張する。Foresight Instituteなどは
分子ナノテクノロジーを擁護し、ナノテクノロジーは特異点以前に安全で制御可能となるし、有
益な特異点をもたらすのに役立つと主張している。さらに、友好的人工知能の支持者は、特異点
が潜在的に極めて危険であることを認め、人間に対して好意的なAIの設計を行うことでリスクを排除しよ
うとも考えている。アイザック・アシモフの「ロボット工学三原則」は、人工知能搭載ロボットが人間を傷つ
けることを抑止するものであるという。
一部の人々は先端技術の開発を許すことは危険すぎると主張し、そのような発明をやめさせよう
と主張、ユナボマーと呼ばれた米国の連続爆弾魔セオドルド・カシンスキーは、技術によって上
流階級が簡単に人類の多くを抹殺できるとうになると主張する一方、AIを作られなければ十分
な技術革新の後で人類の大部分は家畜同然の状態になるだろうろも主張する。カジンスキーは特
異点に反対するだけでなくネオ・ラッダイト運動をサポートしている。多くの人々は特異点には
反対するが、ライダット運動のように現在の技術を排除しない。カジンスキーだけでなく、ジョ
ン・ザーザンやデリック・ジェンセンといった反文明理論家の多くはエコアナーキズム主義を唱
える。それは、技術的特異点を機械制御の野放は、工業化された文明以外の野性的で妥協の無い自
由な生活の損失であり、地球解放戦線(ELF)やEarth First!といったグループも基本的には特異点を
阻止すべきと考える。共産主義者は史的唯物論に立ち、特異点を容認し、意識の共有に肯定的で
AIロボットの反乱を階級の認識と考えている 一方、特異点によって未来の雇用機会が奪われる
ことを心配に対し、ラッダイト運動者の恐れは現実とはならず、産業革命以後には職種の成長が
あった。経済的には特異点後の社会はそれ以前の社会よりも豊かとなる。特異点後の未来では、
一人当たりの労働量は減少するが、一人当たりの富は増加するという立場にある。
●SF作品について
さて、特異点アイデアを開拓したヴァーナ・ヴィンジの物語に加え、何人かの他のSF作家は主
題が特異点に関係する話を書いているが、ウィリアム・ギブスン、グレッグ・イーガン、グレッ
ク・ベア、ブルース・スターリングなどが挙げられるが、特異点はサイバーバック小説のテーマ
のひとつである。再帰的な自己改良を行うAIにはウイリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』
に登場する同名のAIが有名。アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』、アイザック・ア
シモフの『最後の質問』(短編)、ジョン・W・キャンベルの『最終進化』(短編)なども古典
的作品ながら技術的特異点を扱っている。ディストピア色が強い、ハーラン・エリスンの『おれに
は口がない、それでもおれは叫ぶ』もある。日本作品では、『攻撃機動隊』が、ウェットウェア
が遍在し人工意識が発生しはじめた世界を描いている。山本弘の『サイバーナイト』は、人類が
作った人工知能MICAが、バーサーカーと呼ばれる機械生命体を取り込み特異点を越える件があ
る。山口優の『シンギュラリティ・コンクェスト 女神の誓約』は、技術的特異点の克服をテー
マとしている。芥川賞作家である円城塔の「Self-Reference ENGINE」はAIが再帰的に進歩を続
けた結果大きく変質した後の特異点後の世界を描く。技術的特異点を扱った初めての短編は、フ
レドリック・ブラウンの『回答』(1954年)だ。また近年の潮流としては、ケン・マクラウドら
英国の新世代作家たちが「ニュース・スペースオペラ」と呼ばれる「特異点に到着した人類社会」
を舞作品群を執筆しているとか。
このように、ジョニー・デップ主演の『トランセンデンス』は“超越”を意味する。テロリスト
に撃たれ、死すべき運命だった科学者(デップ)の意識を、妻(レベッカ・ホール)がコンピュ
ーターにインストール。意識だけの存在となった彼がオンラインとつながって世界中のあらゆる
情報や技術を手に入れ、人類を超越した“神”のような存在になっていくさまを描いた映画は、
まさに「技術的特異点」という意味の英語表現であった。この映画では技術的特異点から先に技
術の発展を進めさせないために――ウィル・キャスターが一旦は、妻のエヴリンを疑い拒絶する
かの感情の起伏が表現されるものの、やがての妻のウイルスを受け入れ自死する――人類は全世
界の電気エネルギーをシャットダウンし結末を向かえるが、この作品の大きな伏線である『無防
備に人工知能に支配されていいのか?』『生命とは何であるか?』を問いかけるものであった。
そして興行的にも、作品としても成功をおさめたと言い切れないまでも、「シンギュラリティ」
=「トランセンデンス」を考え、議論共有する機会提供になったという意味で高く評価したい。