極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

最新スリーディープリンタ事情

2015年03月31日 | 時事書評

 

 

 



● 最新スリーディープリンタ事情
 

3Dプリンターで造形される物の一つに、アクセサリーがある。アクセサリーだと、材質は金属の物を
イメージするが、現状の家庭用3Dプリンターでは金属の出力は困難で、ABSPLAのプラスチック素
材が主な物となっている。もし金属でアクセサリーなどを出力したいのなら、ShapewaysDMM等の出
力代行サービスを使うしかなかった。しかし、金属を材料にして造型できる家庭用の3Dプリンター0
Indie GoGoに登場。金属出力が可能で
価格は75,000円と衝撃的な値段。もう「装置産業のジェネコン」
(10数年前私が造後)は傍流になりそうな変化だ。また、下図/右の数センチ四方程度の大きさの物
を作る非常に小さな折り畳み式の3Dプリンターが登場。その3Dプリンターは「LumiFold」。大きさは90
×90×90ミリというち小ささで、UV感光樹脂をの造形方式により、かなりのクオリティのオブジェク
トを造形できる。このプロジェクトもIndieGoGoで出資をつのっており、1500ドル程度の資金を調達し
て、429ドルでプリンターを売ろうとしている。15万円の資金調達で、4万円の商品を売ろうとしてい
るが、安価な資金調達で実現可能なのだろうか?

   

「金属3Dプリンター、国内製造業で導入ブーム-量産適用へノウハウ育成」(日刊工業新聞 2015.
03.30)では、国内製造業で金属3Dプリンターの導入が進んでいることを解説。それによると 欧
主要メーカーの日本向け販売は過去を大きく上回る実績を記録。何度目かの金属プリンターブームと
もいえる状況で、過去のブームと違うのは(1)造形技術が格段に向上していること。(2)積層造
形に対する評価が高まり、(3)金型製造など量産への適用を検討する企業が増えてきた。(4)た
だ、量産で装置を使いこなすには高度なノウハウが必要。(5)国内メーカーによる参入も増え市場
拡大が期待される中、ユーザーの育成が求められているという。また、金属プリンターでトップシェ
アの独EOSが、NTTデータエンジニアリングシステムズを通じ、2014年度に日本で10
台近くを販
売。13年度にも同等数を販売したが、それ以前は累計でも計20台程度でここ数年の伸びは顕著だとい
う。


 

   

 

 

 



● マイクロバーバーポールでスマートグリッド

昨年7月11日(上カット図)に掲載した辻本浩章教授大阪市大らが2月に設立した大学発ベンチャー
のSIRC(サーク区)を通じ、1円玉程度の大きさの超小型薄膜センサを市場投入する計画――省
エネルギー化に役立つデバイスとして、幅広い用途を見込んでいる――が前述した日刊工業新聞が取
り挙げている。材料は、パーマロイ(鉄とニッケルの合金)。パーマロイ磁性体薄膜の持つ磁気抵抗
効果で、電流と電圧を計測し電力値を瞬時に算出できる。機器に組み込めば、消費電力の精密な管理
が可能になるという。東日本大震災による電力不足や2016年度に始まる電力の自由化など、電力
需給を取り巻く環境が変わりつつある。こうした状況を踏まえて、省エネ化や電力の有効利用を促進
するデバイスとして売り出す。価格は1個100―200円程度を想定している。従来の電力量計は、
電流センサーや電圧センサーなど多くのデバイスを必要で大型だったものだった。これは、スマート・
グリッドの必需品になるだろう。

 

● 居住者向けカーシュアリング検証開始

日産自動車は23日、横浜市郊外の大規模住宅団地に向けて、小型の電気自動車を利用したカーシェア
リングサービスを試行導入。同社が都市再生機構東日本賃貸住宅本部(UR)と共同で実施し、フル
タイムシステムがカーシェアリング事業者として2016年3月31日まで検証する。利用する車は「日産
ニューモビリティコンセプト」と公表。同車はリチウムイオン蓄電池を搭載した前後2人乗りの車。
航続距離は約百キロメートル、最高時速は80キロメートル。約4時間でフル充電が可能。車長は、
2340ミリメートル、車幅は1230ミリメートル、車高は1450ミリメートル。検証内容は、(1)最寄り
駅までのバス便を補完する新たな交通手段として導入可能の是非――山団地(横浜市旭区左近山は、
相鉄線二俣川駅からバスで13分、横須賀線東戸塚駅からバスで20分の位置し、専用団地。百以上の建
物(総戸数2104戸)の「街」。(2)地域の活性化に資するさまざまな団体・個人の活動への活用の
是非を調べる。NPO法人であるオールさこんやまの生活支援等ふれあい助け合い活動を助ける。同NPO
は高齢居住者に対する見守りや、学童に対する交通安全・連れ去り防止を目的とする。(3)団地居
住者の利便性の向上と入居希望者への訴求性の検証。

 「チョイモビ ヨコハマ」の使い方

カーシェアリングの特徴:カーシェアリング用の超小型モビリティは5台。左近山団地内に2か所の
貸し出し、返却拠点を設け、7時30分から19時30分まで利用できるようにした。利用料金は最初の20
分間は無料、以後、20分ごとに200円。
カーシェアリングでは、フルタイムシステムの24時間無人鍵貸
出機(F-rents)を利用する。同システムはマンションカーシェアリングシステムとして既に60棟に
導入された実績がある。24時間、問い合わせが可能。

●今夜の一品 噛合チェーン/株式会社椿本チエイン

2本のチェーンがジッパー(=チャック)のように噛み合って、1本の強固な柱状になる特殊なチェー
ンをさすジップチェーンはユニット内に渦巻状に収納されるため、機器のコンパクト化が可能。ジッ
プチェーンリフタの歴史は始まったばかり。エコという観点からみても画期的な製品。ジップチェー
ンには、長い歴史の中で椿本チエインが積み上げてきたノウハウが数多く活かされているという
。ジ
ップチェーンの原理は米国生まれだが、同社の1/1000ミリメートルの超加工技術により実用化され
る。また、2009年には四国化工機株式会社との共同で「高速垂直搬送機「SKY ZiP(スカイジッ
プ)」
を開発している。

個人的な関係では、25年前ごろ(正確なことは思い出せなくなっているが、京大卒の元自衛隊ジェ
ット機のパイロット経験の技術者と出会っている)、ネット搬送方法の開発調査で同社の工場で打ち
合わせを数回行っているが、この噛合チェーンモジュールの映像を見て大変驚いたわけで、早速、ネ
ット検索油圧・空圧でなくいわばデジタルで位置合わせ出来るというメリットが大きい("デジタルチ
ェーン"とこれから呼称しよう)。何が凄いか?独占生産しているところだ。



※平成21年度優秀省エネルギー機器「経済産業大臣賞」受賞・2009年超モノづくり部品大賞「機械部
品大賞」受賞)

 

 



 

 

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桐生祥秀 9.87秒で優勝

2015年03月30日 | 時事書評

 

 

WonderCube: 8 mobile essentials in One Cubic Inch

 

● アスリート立国ジャパン 2つの話題

 

陸上のテキサス・リレーが28日、米テキサス州オースティンで行われ、男子百メートル決勝で、桐生祥秀
が追い風3・3メートルの参考記録ながら、9秒87(速報タイム)の好記録をマークして優勝した。これ
には米国人も驚きつつ、"限定的だ"と付け加えることも忘れていなようだ。凄いぞ!桐生。

 Kiryu clocks wind-assisted 9.87 in 100m at Texas Relays 

 

日本代表は27日、キリンチャレンジ杯でチュニジア代表と対戦し、2-Oで勝利。前半をスコアレスで折り
返した日本だが、ベンチスタートとなっていたMF本田圭佑、MF香川真司、
FW岡崎慎司の欧州組を途中出場さ
せた後半に2得点を奪った。バヒド・ハリルホジッチ監督の初陣を白星で飾った。生憎、この日はプロ野球
のオープン戦とダブル。途中切り替えチラ見しながらのテレビ観戦。それでも、後半15分は通して観戦す
る。それにしても、バヒド・ハリルホジッチ監督の名前は、エセサッカーファンには憶えられないでいる。

それはさておき、
待望の宇佐見がサムライブルーデビューを果たした。ベンチスタートだったFW宇佐美貴史
が後半27分
FW武藤嘉紀と交代で入ると、本田や香川ら海外組と融合し、ゴールに迫った。本田のダメ押し
弾の起点となるプレーを見せた宇佐美だが、一番の見せ場は後半44分。
香川のスルーパスに反応。GKと1
対1になり、ゴール右隅へと蹴り込むが、敵チームのゴールキーパーの手に触れ
無情にもポストに嫌わる。 
これも時の運というものかと、強烈な印象となった。

 

● 三瀬村のソーラーシュアリング実証開始

スマートジャパンがスマートアグリシリーズとして、農業と太陽光発電を同時に実施するソーラーシェアリ
ングの全国
的な広がりを取り上げ、佐賀県の事例を取り上げている。それによると、佐賀県は水田の上部に
太陽光パネルを
並べる新しい施工方法の実証――架台の位置は最高3メートルで、上下移動でき、稲作時や
休耕期に高さを変えながら、収穫量と発電量の最適化を図るというもの。場所は、佐賀県と福岡県の県境に
ある山間部の三瀬村。5月上旬に始まる田植えを前に水田の上に設置した58枚の太陽光パネルが3月27
日に発電開始予定。その特徴は、水田の両端に立てた2本のタワーのあいだをワイヤーでつなぎ、その上に
架台を設けて太陽光パネルを並べる方法。架台の高さは3メートルまで可能で、ワイヤーを調節し、上下に
移動することができる。通常は強風を受けても支障が出ないように、太陽光パネルの位置を2メートル程度
まで下げた状態で発電する。

 

稲の高さは伸びても1メートル以下に収まるが、農作業に必要なトラクターや田植え機が架台の下を通れる
ように高さ調節可能にしてあるという(下ず2)。三瀬村では稲の刈取に高さが2.7メートルもある大型の
コンバインを使うため、その時には架台を3メートルまで引き上げる。こうして架台を上下に移動できる営
農型の太陽光発電は日本で初めての試み。基本設計は、(1)農地面積:約2千平方メートル、(2)区画:
3区画――2つの区画で太陽光発電を実施する一方、残る1つの区画では稲作だけを続けて収穫量や品質の
違いを比較。(3)太陽光パネル:3社×250ワットタイプ、(4)パネル間隔:1.8メートルの間隔
―水田の各部分にパネルの影が1日のうち3時間以上かからないようにするというもの。実証事業:NEDO
(新エネルギー・産業技術総合開発機構)、期間:3年間。目標:発電コストは電気料金と同等の1キロワ
ットアワーあたり22~24円、稲の生育は、太陽光パネルを設置しない区画と比べて収穫量を800%以
上に維持。

同紙(スマートジャパン)は、農地を所有する農家は通常どおり稲作に取り組みながらソーラーシェアリン
グに協力する。収穫量が減少する代わりに、農地の貸付料を受け取る契約を結んだ。三瀬村では農家の後継
ぎが減っていく問題を解消するために、太陽光発電で収益を拡大できる期待は大きい。各農家がソーラーシ
ェアリングを実施して「三瀬村発電所」を実現する将来構想もあると掲載している。


  

架台の設置状況(高さ3メートルに上げた状態)/出典:福永博建築研究所


● キッド向け新サービス「ドコッチサービス」の提供を開始 

株式会社NTTドコモは、ご家族の方が子供の日頃の活動を見守り、家族の安心と子供の自立や安全をサポー
トするサービス「ドコッチサービスTM」を来月4日から開始する。
また、「ドコッチサービス」の提供にあ
わせ、専用端末として、3G通信機能やGPS、Bluetooth®、各種センサーを搭載したお子さま向けの腕時計型
ウェアラブル端末「ドコッチ 01(ホワイト)」を同日に、「ドコッチ 01(ライトブルー)」を同月上旬に
発売するという。なお、
「ドコッチサービス」は、各種センサー及び通信機能を搭載した「ドコッチ 01」を
装着することで、元気に運動中、活動中、安静状態、非装着の4つの状態や周囲の温度・湿度を、最大6台の
スマートフォンやパソコンから、いつでも確認できるサービスだとか。
家族などあらかじめ設定された方と
はメール(SMS)の送受信ができ、簡単なコミュニケーションツールとしてもご利用いただけるほか、子供
と一緒にお出掛けの際には専用アプリ「ドコッチおでかけアプリ」を用いて、遠くはぐれてしまう前に通報
を受け取ることできるので、迷子予防にも役立ち、万が一のときは、SOSボタンを長押しするだけで家族に
メール通知が届き、安心だということだ。
また「イマドコサーチ®」との連携により、お子さまがワンボタン
で自分の位置情報をお知らせしたり、家族の方が居場所を検索したりすることも可能だという。
 

 

びっくりするとともに、首をかしげて「本当に、こんなもの必要?」と考え込んでしまった。「子は宝」だからこそ、複雑か
つ高度になった社会の必需品だと言われれば、息子達が大きくなった現在では、ピントこない。このシステムの販売
から社会実験が始まるり、その経過観察から、新しいアイデアや社会的ノウハウが生まれるかも知れない(たぶん、
そうだろうが)、その逆に、足枷、いや手枷になるかもしれない。

 

    ● 今夜の一品 鯖の一口へしこ

へしこが好物なわたしには是非とも試食していただきたい。なんだったら知人や親戚に、勝手に進呈しようかとも、マ
ジで考えているほどだが、母の初盆明けぐらいを目途に実行してみようと考える今夜である。

 

 

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旬を科学する時代

2015年03月29日 | 新弥生時代

 

● ブラックペッパー家庭内菜園記 Ⅰ

さて、簡易温室とヒーターの性能をチェック――野外置きの場合加熱保温が追いつかず、南側の書斎の掃き出し戸
側に置き変更――した後、ナチュラル・ハーベスト有限会社(下図)が販売する4粒の黒胡椒の種をポットに捲きし
終えた。尚、種まき条件は、3~6月捲きで、収獲は6~9月、日当たり、水はけが良い土に、約6~10ミリメ
ートルの深さに丁寧に種まきする。培養土は、ポットに軽石を底に敷き、腐葉土と木炭、市販の「ミカンの土」を
混ぜたものを使用し、キッチン用ラップフィルムでポットを覆蓋し輪ゴムで止める。ここからこれからの課題――
発芽までは土が乾燥しないようしっかりと水やり、梅雨の初め頃に定植する。定植条件は、半日陰の場所の方が比
較的よく育つ。
木が大きくなるため5メートルの間隔を空けて植える。水のやり過ぎは根ぐされをおこすが、湿度
の高い場
所を好む。肥料は特に気にする必要はなくまた、虫も付きにくい植物だと言われている。植え付けてから
実がなるまでに約3年かかる(室温は23から30℃の範囲で管理)。

さてさて、どうなるか?中期計画で行くわけだがこれから楽しみだ。


※ツル性の宿根草で熱帯植物で、夏期以外の栽培は温室や室内で行う。ハート型の葉で白い花を咲かせ、小さな実
がぎっしりと4~14センチメートルの長さの房状に付く。実は
若いうちはグリーンで熱すと赤くなるが、まだ熱
さな
い緑色の実を収穫し、乾燥させ、挽いたものがブラックペッパー。熱帯雨林のような環境を好み湿気もある程
度必
要。                        :

※生産地イタリア、内容量 0.5グラム、約3~55粒、有効期限2017年12月、発芽率75%、
種子の薬品消毒はし
ていない。
ナチュラル・ハーベスト有限会社――〒160-0023東京都新宿区西新宿4-14-7-1305/03-6912-6330 http:
//natura
l-harvest.ocnk.net/



 

 

● 窮地のシャープの救世主? ヘルシオお茶プレッソ

シャープのお茶メーカー「ヘルシオ お茶プレッソ」は、茶葉を粉末状に砕き、栄養豊富なお茶を家庭で手軽に楽
しめる家電製品。「茶葉をひく」「湯を沸かす」「お茶をたてる」の3つの工程を1台でこなす便利さが注目され
昨年、4月の発売時から人気が殺到。9月末までの販売目標を当初予定の5倍以上の11万台に引き上げて達成し
た。10月に入っても好調な売れ行きをみせ、「ヘルシオ お茶プレッソ」は、茶葉を粉末にして使うため、「面
倒な茶殻が出ない」のが利点で、エコで経済的で機能食品としてお茶の力を百パーセント生かせる。これが消費者
に受け入れられこれまでにない商品でユニークで、目新しさが受けているとのこと。

さて、この装置の特徴は、小型の臼で茶葉を直径20ミクロンの粉末にし、本体背面のタンクで沸騰させたお湯を
むらなく混ぜてお茶を作る機器。臼は毎分100回転でゆっくり動いて茶葉をすりつぶし、栄養分が壊れるのを防
ぐ。お茶プレッソを使うと、抗酸化作用のあるカテキンの含有量は急須の1.9倍となる。本体のカラーは白系、
黒系、赤系の3色。大きさは幅22センチ、奥行き20.7センチ、高さ27.7センチ。重さは2.6キロ。店
頭想定価格は2万6000円前後。

それじゃ、どのようなものができるか、緑茶ラテの作り方を追ってみよう。あたためた牛乳と粉末緑茶を準備し、
お茶容器に沸
騰しない程度にあたためた牛乳、粉末茶の順に入れ、フタをしてこの装置にセットし、給茶レバーを
下げて、カップにラテを注げば完成するという説明だ(上図)。新規考案的側面かみると、殆ど見あたらない。あ
るとすれば、下図特許の63のこね羽根の位置関係で、改訂速度の制御は条件をマイクロプロセッサに書き込んで
おけばよい話だから、それを開示すれば良いわけだが、諸刃の刃というか、後発メーカに模倣されてしまう(ブラ
ック・ボックスにしておけばよいわけだが、それも解読される可能性も高い)。わたしが注目するのは、小型の臼
で茶葉を直径20ミクロンの粉末の根拠である。10ミクロンならどのようになるのか?平均粒径は?そのレンジ
とバラツキは?ということである。もう1つの疑問は、粉末と暖かい牛乳があれば茶筅のような器具で手で攪拌す
れば簡単につくれるのじゃないかということだ。それでも2万数千円をだしても埋めることのできない魅力がある
のだろうかと。

 

 

   

 Flavor of halfbeak enhanced by power of kelp

● 春を告げる魚 針魚賛歌  

春を告げる魚、サヨリ(針魚)のにぎりを初めて食したのは、故田中豊一の旧友が経営、ジェイアール彦根駅前の
寿司割烹「銀水」で彼にさそわれ食事した時、旬のものを握ってくださいと言うと、針魚が出されて以来ヒカリも
のと呼ばれる針魚が好物となった。その時の客はわたしたちの二人だけだったとぼんやり記憶している。ただし、
江戸前寿司の小鰭(コノシロ:ニシン目)は好物というほどではない。さて、サヨリはダツ目・サヨリ科の海産魚。
日本全国の沿岸部、内湾、河口の汽水域などに分布し、主に動物性のプランクトンを食べ約2年で成魚となる。堤
防や磯周りを回遊する1~3月がサヨリ釣りのシーズン。早春の産卵前と晩秋が旬の魚で、脂がのって美味しい。
サヨリは鮮度落ちが速いので、手早く三枚におろしたほうがよいといわれ、淡泊な白身で、「結びサヨリ」は椀だ
ねに最高のものとされる、大型は糸造りにしてもうまいし、にぎり寿しのネタにも使われ、そのほか酢の物、昆布
締め、天ぷらなどの食べ方がある。

 

● 針魚は雨を釣れ

ところが、サヨリやキスに腹の内側が薄い黒膜で覆われているところから、腹黒い人を指す代名詞に使われ。「さ
より野郎」
「さより女」と呼ばれ、見掛けは美しくても、腹黒い人として使われるから面白い。またサヨリは大き
な群れを作り磯(岸)近くを回遊するが、警戒心が強く臆病な魚。人・船影を見るとサッと逃げてしまう。晴れた
凪の日よりも曇天か雨の日で、潮の濁っているときが釣り時。そこで、「針魚は一人で釣れ」「針魚はコマセて釣
れ」ともいわれ、釣り人が大勢いるとサヨリは警戒して寄って来ない。またコマセて釣る魚ではあるが、大勢では
コマセが効き過ぎてサヨリはコマセで腹一杯。釣り人の餌は食べなくなる。
 

● 旬を科学する時代  

野菜、魚介類、あるいは家畜、狩猟肉でも「旬」があるわけで、脂がのっている(時期)などと喩えられるわけだが。よく耳目さ
れるのは「脂」、魚では腹腔内脂肪組織が最大になるころということになる(下図参照)。

  

このように、魚の肉質は一年を通じて変化する。それぞれの魚種の肉質が最適なときに、かまぼこのようにすりみ
を作る工夫を凝らし品質を維持し付加価値を高める方法として、下図のような急速冷凍製法を採用――生の魚肉か
らすぐにかまぼこに仕上げるという作り方のほかに、一度生の魚からすりみという状態にして冷凍保管する場合も
あり、
魚のすりみの弾力がきちんと残るように冷凍――している。

 

さて、このように旬の条件を明らかにすることで、旬な時期でなくても旬な食用品を適用できる科学技術力を手に
先進国を中
心として持つこととになったことを意味する。大好物の針魚料理も、魚工場で再現され、季節の移ろい
を、モーダル・リスクも気
にせず、安心して堪能できる時代の幕開けを、この針魚話は告げているというわけで、
お後は宜しいようで、^^;。

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キャプテン!何をするのですか。

2015年03月28日 | 時事書評

 

  


 

● 2つの世界の医療トップランナーの記録 

エボラ出血熱に有効な新たなワクチンの開発に、東京大医科学研究所や米ウィスコンシン大などの
研究チームが成功した。米国内で実施したサルを使った実験で有効性が確認され、現在臨床試験が
進められているワクチンよりも安全性が高いという。論文は26日、米科学誌サイエンス電子版に掲
載された。東大医科研の河岡義裕教授らの研究チームは、エボラウイルスが増殖するのに必要なた
んぱく質を欠損させた変異ウイルスを作成。このウイルスはエボラウイルスが持つほぼ全てのたん
ぱく質を含むため、従来のワクチンより高い効果が期待できる一方、特殊な人工細胞を使わないと
増殖できないため、安全性も高いという。

この研究チームは、人への接種を想定し、ワクチンから毒性を取り除く「不活化」※の手法を検討。
過酸化水素水で不活化したワクチンをサルに接種後にエボラウイルスに感染させる実験を行ったと
ころ、すべてのサルが生き残り、エボラ出血熱の症状も示さなかったという。

※エボラウイルスの遺伝子の一部を欠損した変異エボラウイルスを作製した。この変異ウイルスは、
特定の細胞においては増殖できるが、普通の細胞では増えることはできない。開発したエボラウイ
ルスワクチンの安全性をさらに高めるため、この変異エボラウイルスを過酸化水素水で不活しワ
クチンをサルに接種してその効果を評価した結果、このエボラウイルスワクチンを接種したサルは、
その後、致死量のエボラウイルスを接種されても、エボラウイルスに感染しないことが明らかとな
った
(詳細は上写真上をクリック)。

 

東京大学医科学研究所らのグループが、4種類の蛍光たんぱく質を発現するインフルエンザウイル
ス「Color-flu(カラフル)」の作製に成功。Color-fluは、蛍光たんぱく質を
利用して感染細胞を光らせるので、インフルエンザウイルスの感染に
よって起こる炎症など、生
体内でウイルス感染が広がる様子をさまざまな手法で画像分
析することが可能になる。この研究で
は、ウイルス本来の病原性を保ち、挿入した蛍光たんぱく質の発現をほ
ぼ完全に維持できるウイル
ス株を樹立することに成功し、「Color-flu」と名付る
。インフルエンザウイルスの存在
を示すレポーターとして、蛍光波長の異なる
4種類の蛍光たんぱく質eCFP(青緑)、eGFP
(緑)、Venus(黄)、mChe
rry(深赤)注1)を用いていた。Color-fluが
さまざまな画像解析手法に応用できることを実証
。深部の組織が観察できる2光子レーザー顕微鏡
を用いて、マウスの肺組織の
ウイルス感染細胞とマクロファージのタイムラプス撮影に初めて成功、
インフルエンザウイルスの感染により炎症が生じる様子を詳細に確認できたという。さらに、Ve
nusを発現する高病原性鳥インフルエンザウイルスを作製し、肺での感染の
広がり方を高病原性
ウイルスとインフルエンザウイルス(PR8株とで比較
できた。作製した病原性を維持したまま蛍
光たんぱく質を発現するイ
ンフルエンザウイルスは、ウイルスに対する生体防御や気道炎症のメカ
ニズム解明ができ、
新薬開発に役立つ。なお、この研究は、東京大学、米国ウィスコンシン大学、
鹿児島大学との共同研究による。

● iPS細胞などを用いた臓器再生に関する基本特許が日本で成立

 

 

 

 

● キャプテン!何をするのですか。

ドイツのジャーマンウイングス機が24日墜落し乗客と乗員合わせて150人が犠牲となった事故では、
副操縦士が機長を操縦室から締め出し、同機を意図的に山中に墜落させたとの見方が強まっている。
航空史ではこれまでにも、パイロットが航空機の急降下や目的地以外への運航を選択したとみられ
る事例がまれながらある(Bloomberg 2015.03.27)
。同社の報道によると、過去記事と航空事故に関
する情報を集めたウェブサイト「航空安全ネットワーク」のデータに基づいて集計した、パイロッ
トの自殺または不正行為との関連が指摘される事故のリストをまとめている。

◎マレーシア航空370便、2014年3月:370便は予定されていた航路を外れてレーダーから消
え、消息を絶った。乗客・乗員239人が死亡したとされる。捜索活動が続けられたが、残骸は見つか
っていない。パイロットの意図的な行動が一つの仮説として挙がっているものの、原因究明には至
っていない。

◎LAMモザンビーク航空、2013年:AFP通信がフライトレコーダーのデータに基づく予備調査
の結果として報じたところによれば、パイロットが旅客機エンブラエル190を「意図的に墜落さ
せ乗客27人、乗員6人が死亡した。

◎エジプト航空990便、1999年:副操縦士が、同機を米ニューイングランド沖に墜落させ217人が
死亡した。事故調査で関係者の証言から副操縦士が以前に性的不品行を非難されていたことが判明。
それに対する「腹いせ」が動機とされている。


ボツワナ航空、1999年:健康上の理由でフライトを禁止されていたパイロットが旅客機ATR4
2を離陸させ無線でさまざまな要求をした後、別の2機に衝突し、1人が死亡した。


◎シルクエアー185便、1997年:パイロットが、ジャカルタからシンガポールに向かっていた同
便を意図的に墜落させたとみられている。104人が死亡。事故原因は公式には確認されていない。

◎日本航空350便墜落事故 1982年:日本航空、福岡発東京行350便、DC-8-61型機(機体番号JA8061)
が羽田空港沖に墜落した事故羽田沖事故、日航逆噴射事故と呼ばれる。機長は業務上過失致死罪に
より逮捕となったが、精神鑑定により妄想性精神分裂病と診断され、心神喪失の状態にあったとし
て検察により不起訴処分(「キャプテン、何をするのですか!」は当時の流行語となっている)


  副操縦士は鬱病だった?!
  


情報は、ドイツの調査報告を待つばかり恰好になっているが、毎日新聞(2015.03.27)は、150人
の犠牲者を出した独ジャーマンウイングス機の墜落は、副操縦士が意図的に行った可能性が高いこ
とが捜査当局の調べで明らかになった。仏独当局はテロの可能性を否定。焦点は副操縦士の動機に
絞られた。副操縦士は27歳の若者。長年夢見たパイロットになり、2年前から操縦かんを握り始
めたばかり。控えめな性格で、周囲は衝撃を受けている。一方、副操縦士が独りで閉じこもった操
縦室の扉は、外から開けることができなかった。2001年の米同時多発テロを教訓に導入された
安全対策が裏目に出たと報じている。AFP(同上)は、
ドイツ格安航空会社ジャーマンウイング
ス(Germanwings)4U9525便は機長を操縦室から閉め出した副操縦士によって「意図的に」墜落さ
せられた疑いがあるとした仏当局の発表は、世界を震撼させ、航空各社は相次いで操縦室規則の見
直しを表明したと報じている。また、産経新聞(同上)は、ドイツ格安航空会社「ジャーマンウイ
ングス」のエアバスA320機墜落を受け、欧米の航空業界が26日、安全性向上に向けた対応に
動き始めた。墜落は操縦室内に1人残った副操縦士が故意に引き起こした可能性が強まっているこ
とから、同様の事態を防ぐため、操縦室内に常に2人の人員がいる体制を義務づける方向に是正さ
れると報じている、因みに日本では「操縦室2名常駐ルール」なし。朝日新聞デジタル(同上)は、
見出しで"コックピットで何があった 操縦士が閉め出し「想定外」"と伝え、図解絵を掲載してい
る。

こんかいの事故で、操縦士の健康管理など就労ルールが是正されそうだ。格安航空社の登場でコス
ト・カット競争に晒され安全が疎かにされないようにとの警鐘かもしれない。日本では、福知山線
脱線事故(自動列車停止装置)、福島第一原発事故(非常用電源)はその事例である。

 

 

● 有田に負けていられぬ信楽?

有田といえば、ネットコンベヤー搬送式超音波洗浄装置の開発でお世話になった経験があるが、その佐賀
の有田焼きをスリーディープリンタで陶磁器を造ることに成功したという。これは同じ滋賀は信楽
焼きも負けていられないぞ!というわけで掲載。陶磁器業界は、従来、職人の持つ伝統的な技術や
経験に依るところが大きい産業。今日、コンピュータや3DプリンタといったICT(情報通信技術→
「デジタル革命渦論」と呼んで欲しいところだが)による生産方式の導入が急ピッチで進んでおり、
「型を用いない製造」で直接造形を可能にする「C3DPO技術」は、これからの陶磁器の製造と流通に
変革を及ぼす可能性を秘めていると開発者の佐賀県窯業技術センタと報じている。その製法は、粉
末状の陶磁器原料と有機系バインダーを交互に塗布、3Dデータを基に3Dプリンタで、細かい等高線
状に固めて造形したものを焼成することで陶磁器にする。


C3DPO(Ceramic 3D-Direct Print-Out)

ただ今回の「C3DPO技術」を使った直接造形生地は、完全に磁器化しておらず、強度不足で、技術開
発には実用段階でなく、寸法精度や密度・強度の向上、造形の自由度を高めるため周辺技術等の残
件をクリアする必要があるという。出来てしまえば「コロンブス卵」。挑戦と細心をもって砕身と
いうことになる。頑張ろう!佐賀。


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最新デジタルグリッド技術

2015年03月27日 | デジタル革命渦論

 

 

 

 

 

                                                    神々は詩人と同じに商人を愛した
                                     地の幸を均等に配り、遠くと近くを一つにした彼を。
 


                                           へルダーリン『
エーゲ海』川村二郎訳

 

  

●『吉本隆明の経済学』論 34 

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!       

   吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
  

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき    

 

                                                         第1部 吉本隆明の経済学     

 第6章 農業問題

     農業人口と戸数

  それから、徐々に、あるいは一挙に変えられるのは、政治とか制度とか、ぼくの言葉でいえば、
 共同幻想に属するものだけは、やり方によっては一挙に変えることもできる。しかし、自然史の
 延長としての経済史、経済の進展は、一挙に変えることはできない。これは自然に変わる以外に
 ないのです。そして自然に変わる必然に対して、人間がもっといいことをもっと早くさせようと
 するなら、それを促進したり、遅くしたりということは、もちろん人為的に可能ですけど、自然
 史全体の流れとしての経済史を動かすことはできないのです。ぼくだったら、そのことを根抵に
 踏まえたうえで論議を進めるとおもいます。

  だから、貯蓄額だけを拡大してとってきて、都市より農村が富んでいる、それにもかかわらず
 都市の一般大衆、一般労働者は、こういうふうに苦しんでいる、住宅で苦しんでいるし、税金は
 取られるだけだ。竹村さんが丹念に挙げるこういう論議は、一見するといいようだけど、ぼくは
 古いタイプの論議の気がします。もし時間があったら、後でそういう問題にもちょっと触れたい
 とおもいます,こういう問題が、農家の経済問題の中でかんがえなければならない問題だとぼく
 はおもっています、

 (後略)


※ ここでも、「後略」されている箇所を読みたいと思うが無理だ。これで、「あとがき」を残しこ
  の項は終了する。




 あとがき

  この仕事に着手したのは、いまから六年前のことであり、そのときにはまだ吉本隆明さんはご
 存命だった。そのため収録する論文や講演やインタビューの選択にあたっても、吉本さんご本人
 と相談しながら作業を進めることができた。その作業の進行途中で吉本さんが突然に、経済学に
 ついての仕事は自分にとってとても大切なものだからその本は自分で書きたいと言い出されたり
 東日本大震災と福島第一原発の事故が発生して私の身辺があわただしくなったりと、とかくして
 いるうちに、吉本さんはしだいに弱られて、ついに不帰の人となってしまった。いまこうして
 『吉本隆明の経済学』を書き上げたとき、私の心にはさまざまな思いが去来する。

  ご本人の言葉どおり、経済学は吉本さんの思考にとってきわめて重要な領域をかたちづくって
 いた、日本の敗戦によって自分の思想のよって立つ場所が完全に崩壊してしまったことを深く自
 覚した吉本さんは、戦後の混乱の中で、日本人に決定的に欠如していた「世界認識の方法一を獲
 得するための思想的格闘を孤独に進めた、そのときに吉本さんにもっとも確実な足場を与えてく
 れたのが、経済学の研究であった。
 
  マルクスが打ち立てた雄大な世界認識の方法に圧倒された吉本さんは、その方法の基礎となっ

 
ている経済学を、体系的に勉強しなくてはならないと考えた。そのためにマルクスにいたるまで
 の古典派経済学の思想的展開を、数年間かけて徹底的に勉強することを自分に課した。その勉強
 をとおして吉本さんは、自分の考えうるところもっとも確実な世界認識の方法と思えるものを、
 独自のやり方で取り出してくることができた。それからのちに吉本さんが文学論、詩論、政治論、
 国家論などの形をとおして展開する思想の礎は、このときの経済学の研究によって打ち固められ
 た、と言っても過言ではない。

  吉本さんの思想の中では、詩の科学と経済の科学は最初から密接に結びついていた。初期詩集
 にはじまり『言語にとって美とはなにか』で一つの頂点を迎える吉本さんの思考の本質は、ハイ
 デッガーの言う「詩人性」の本質の解明にあったが、その詩人性の本質を維持したまま、吉本さ
 んは経済の領域での探求をおこなった。言語と経済を通底する深層の「原―交換」にまで降り立
 つことによって、言語芸術と資本主義の本質を同時に究めていこうという戦略と言える。そこか
 ら資本主義の現在形の理解とその未来についての見通しを得るために、吉本さんは「詩人性の経
 済学」の能力を最大限に生かした、ユニークな思考を展開した。

  しかし吉本さんは、それを一つの体系にまとめあげることには、あまり関心を持たなかった。
 そのため、吉本隆明の思想の世界に統一性のある経済学思考が存在するという事実に、いままで
 あまり注目がなされなかったのも事実である。私が本書の第二部「経済の詩的構造」という論文
 を書かなければならないと考えたのは、そのためであった。

  私はこの論文において、「詩人性」なるものを一つの明確な構造として思考の土台に据えたと
 きに、ごく自然な形で生まれてくることになる未知の経済学を素推してみようとした ケネーか
 らスラッフアにいたる経済学思考の系譜を吉本さんはあまり重視していなかったが、私の考えで
 は、『言語にとって美とはなにか』の思考を徹底すると、自然とそこにはこの系譜の経済学思想
 が浮上してこなければならないのである。そしてそこまでくれば、吉本さんの超資本主義をめぐ
 る予言的思考が、さらなる一貫性と確実性を獲得するようになる、というのが私の考えである。

  私は言語と経済の領域における吉本隆明の思考を受け継ぎ、拡張することによって、それを新
 しい可能性のなかに間いていこうと思う。スペースの関係で本書に収録することのできなかった
 論考や講演は、まだまだたくさんあって、そのなかには私のまだ気がついていない可能性を秘め
 た着想が隠されているにちがいない。その意味では、本書はけっして到達を示しているのではな
 く、むしろ始まりを示しているにすぎない。それほどに、吉本隆明の残していった思想の世界は、
 豊饒なのである。

  本書のプロジェクトははじめ、筑摩書房の四緑詠子さんを協力者として始められた。吉本さん
 との打ち合わせのほとんどは、彼女を介しておこなわれた。四緑さんが出産と育児のための長期
 休暇に入ってからは、同じ編集部の小船井健一郎さんにバトンタッチされて作業が進められた。
  とくに吉本さんが已くなられた後は、ご長女のハルノ宵子さんとの連絡などは、小船井さんが
 担当してくれた。ご両人とも長い間ほんとうにお世話になりました。また私たちの作業が暗礁に
 乗り上げそうになったとき、陰からそおっと力強い助けをあたえてくれた間宮幹彦さんにも、こ
 の場を借りてお礼申し上げます。
 
  本書を吉本隆明さんの御霊に捧げたいと思う。吉本さんはいまも、人類が「霊」などと言って
 きたちの が、ほんとうのところは何であるのかを探求されていることてあろう。その探求の精
 神は、私を含めて多くの人に確実に受け継がれている。だからそれは死なないのだ その死ぬこ
 とのかいものをかりに御霊と呼んで、本書をそれに向かって棒けようと思う。

  2014年7月5日 奈良にて
                                       中沢新一

 引用文献一覧

 (底本は以下のものを使用しました)

 第一章 1 幻想論の根柢――言葉という思想
       『言葉という思想』(弓立礼、1981年/中公文庫、1995年)所収
     2 言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移
       『吉本隆明の文化学――プレ・アジア的ということ』(三交社、1996年)所収
 第二章 1 三木成夫の方法と前古代言語論
       『新・死の位相学』(春秋礼、1997年)所収
 第三章 1 経済の記述と立場――スミス・リカード・マルクス
       『超西欧的まで』(弓立礼、1987年)所収
 第四章 1 エコノミー論
     2 消費論
       共に『ハイ・イメージ論Ⅲ』(福武書店、1994年/ちくま学芸文庫、2003
       年)所収
 第五章 1 像としての都市――4四つの都市イメージをめぐって
       1992年1月21日、日本鋼管主催の講演。『吉本隆明全講演ライブ集』第11巻
       (発行=吉本隆明全講演CD化計画、編集=弓立社、2005年)所収
 第六章 1 農村の終焉――〈高度〉資本主義の課題
       1989年7月9日、「修羅」同人主催、長岡市で行われた講演。『吉本隆明全講
       演ライブ集』第5巻(発行=吉本隆明全講演CD化計画、編集=弓立社、2002
       年)所収
 第七章 1 贈与論
       『母型論』(学習研究社、1995年/思潮社、2004年)所収
     2 消費資本主義の終焉から贈与価値論へ
       『マルクス――読みかえの方法』(深夜叢書社、1995年)所収
 第八章 1 超資本主義の行方
       『超資本主義』(徳間書店、1995年/徳間文庫、1998年)所収
     2 世界認識の臨界へ
       『世界認識の臨界へ』(深夜叢書社、1993年)所収

 
今夜で読了となる。経済学ということで特異な経済思想に触れ大変な驚きをもってここまで読み進め
てきたが、大きな枠組みの考え方に異論がないが、具体的な政策論としてはその原理的な考えに違和
感も抱いたが、そんなものだろうと自然体で受け止めてきた。具体的には原子力発電政策であり、産
業政策である。それは、地下化石燃料本位制→先端技術本位制→環境リスク本位制という世界的な政
治経済の潮流を40年前に想定していたわたし(たち)にはむしろ、こちらがぶれることなくここま
できている。大きく変わったのは、第5次産業革命のデジタル革命(これを後に、わたしは「デジタ
ル革命渦論」と呼称する)がもたらす激しい時代変化であった。産業交易で例えば、産業システムを
機械工学的な「金型」とすれば、この「金型」が移転され、それを用いた生産環境が整備されていれ
ば即座に、後進国であろうともコ
ピーされ大量生産できてしまう――もっとも "仏彫って魂入れずに
喩えられるような「マクドのチキンナゲット問題」も後をたたないが――そして、大きく異なるのは
労務費だけということになる。この「金型」やこの「金型」を用いた生産システム(あるいは消費シ
ステム)のデジタル技術の依存度が高ければ高いほどその効果は絶大なものとなる。その6つの基本
特性の1つであるデフレーション(第4則)の典型例として、例えば、下図のごとくわずか12年間
で、遺伝子解析費用は2万分の1にまで逓減している、と。いうふうにだ。

※ 最近は「金型」でなく、多品種少量生産用に「スリーディープリンタ」が流行している。


  

しかし、そのような、金融をはじめとする産業構造の大変動に対応できずに、失敗を重ねてきたので
ある。その意味では、マルクス経済学やケインズ経済学あるいはそこから派生した新自由主義を全否
定してみても、そこからはなにも得られないとうのがわたし(たち)の立場であり、『ケインズをデ
ジタル蘇生』(2013.03.23)として展開させてきた。また、トマ・ピケティの『21世紀の資本』の
出版に先立ち、消費税の見直し、所得税の累進性強化などの政策変更においては、マルクス経済学的
政策(併行してポスト・ケインズ主義政策も)などをこのブログで掲載している。




それはさておき、さて中沢新一はこの項で、「吉本さんの思考の本質は、ハイデッガーの言う「詩人
性」の本質の解明
にあったが、その詩人性の本質を維持したまま、吉本さんは経済の領域での探求を
おこなった。言語と経済を通底する深層の「原―交換」にまで降り立つことによって、言語芸術と資
本主義の本質を同時に究めていこうという戦略といえる。」とあとがきしているが、ハイデッガーの
言う「詩人性」の本質の解明――
という件にとまどってしまった。そして、ネット検索で下記の一節

に目が留まった。まずは、ハイデッカーと仲正昌樹を理解しなければと考えるに至る。これを実行す
るのは桜の盛り過ぎる頃となるだろう。


 「しかし、一つの詩(ein Gedicht)を知るということは、たとえそれが最も背後の細部に至るま
  でなされようと、それはまだ詩作の威力圏..... Machtbereich)の中に立つ.....こと
 を意味しない。つまり、我々は単に手前にある読み物としての詩を克服しなければならない。詩
 は変容し、詩作として開示されねばねらない」(GA39, 19)。詩作の威力圏に参入するというこ
 とは、日常性に絡め取られている我々の「現存在」からいったん離れるということでもある。ハ
 イデガーは、日常性を離れて、ヘルダリンが(存在を)「詩作」した根源的瞬間に立ち会うよう
 に呼びかける。「詩人自身が闘い..を通して詩作の主かつ僕になるように、もっぱらそのよう
 にすることによってのみ我々も手前にある詩を超えて詩作の空間に到達することができるのであ
 る。詩の中での詩作をめぐる闘いは、我々自身に対する闘いである。我々が現存在の日常性の中
 にあって、詩作から放逐されている〔…〕限りでは」(GA39, 22)。こうしたハイデガーの呼び
 かけは、見方によっては、超越的な体験のためのイニシエーションの呼びかけのようにも見える。


                 (仲正昌樹「哲学にとっての母語の問題――ハイデガーの
                        ヘルダリン解釈をめぐる政治哲学的考察」)

                                                        この項了  



● デクサマニーとアンシラリー

 

英語でアンシラリー(Ancillary)とは、「補助的な」「付属の」という意味である。電力用語のアン
シラリーサービスは、電力品質(周波数や電圧)を維持するために電力系統運用者が日々行っている、
周波数制御などの系統運用サービスのことであり、電力ビジネスにとって非常に重要なサービスのこ
と。アンシラリーサービスをおろそかにすると、周波数や電圧が変動し、家庭の照明が明滅したり、
モーターを使う工場では製品の品質にムラが発生するなど、様々な悪影響が発生する。極端なケース
では大停電になることもある。かつては、電気エネルギーの供給機能とアンシラリーサービス機能は
一体不可分のものとされ、垂直統合型の電力会社がアンシラリーサービスを独占的に担うのが一般的
だったが、発送電分離を進めてきた海外では、アンシラリーサービス機能を細かく分類し、取引市場
を通じて売買する仕組みが発達した。これがアンシラリーサービス市場である。


 

しかし、すべてのアンシラリーサービスが市場取引に適している訳ではないし、すべての発電所がア
ンシラリーサービス市場に参加できる訳でもない。例えば、周波数制御市場に参加できるのは、系統
運用者からの制御信号に応じて自動的に出力増減できる機能(AFC:Auto Frequency Control)などの特
別な能力を持つ発電所だけである。瞬動予備力市場に参加できるのは、短時間で出力を増減できる発
電所だけである。加えて、米国では最近、デマンドレスポンス(ネガワット)のアグリゲーターが、
負荷削減の応答性が良い需要家を集めてアンシラリーサービス市場に参入するようになっている。ほ
かに、バッテリーをアンシラリー市場に参加させる動きもある。ちなみに、米国東部のISOであるPJM
が公表したアンシラリーサービスの取引価格(2010年の平均価格)は、周波数制御市場が約1.8セント
/kWh、瞬動予備力市場が約111セント/kWh程度。日本では現在のところアンシラリーサービス市場と呼
べるものは存在しない。一般電気事業者のみがアンシラリーサービスを提供し、そのコストは電気料
金や託送料金の形で広く需要家から回収されている。

ところで、アンシラリーサービス市場がないということは、一般電気事業者以外の市場参加者にとっ
て、発電設備にアンシラリー機能を装備させようというインセンティブが存在しないことを意味する。
(1)例えば、迅速に出力を変動できる発電所は、そうではない発電所に比べて価値が高いが、電力
スポット市場では、kWh単位で計測される電力量だけが取引されるため、価格にはまったく差がつかな
い。これでは、市場で販売する発電者にとっては、わざわざ高価なアンシラリー機能を付ける気にな
らない。(2)また、高速な負荷制御ができる需要家が存在したとしても、その能力を発揮する舞台
がないことを意味する。

 


 
● デジタルグリッド技術時代

アンシラリーサービス市場が脚光を浴びるポイントは、(1)地球温暖化や資源枯渇を背景とした、
再生エネ(再
生可能エネルギー)と、(2)スマートグリッド、(3)電力の自由化の拡大普及の時
代背景があり、それを担保す
る、多端子型電力変換装置、自励式双方向電力変換器、デジタルグリッ
ドルータをはじめとしたデジタルグリッド技術の進化がある。くどいが、ここでデジタルグリッドと
は、電力系統内において情報により指定された複数のインバータ等を同時に動作させて電力を非同期
に制御することによで、制御した電力を識別可能とし、情報と電力の融合したインターネットライク
な電力インフラストラクチャーを意味し、その効用は、(1)デジタルグリッドルーター(DGR)で
区分された、分散形電源・貯蔵装置・負荷を持つ自立運転可能な最小グリッド単位(家庭・商業施設・
ビル・ゲートタウン・村・町・市・県・地方等)を意味するセルの自然エネルギー変動を内部でとど
め、停電連鎖を起きにくくする。(2)セルは基幹配電・変電・送電系統にピークカット・周波数垂
下特性・電圧維持などのアンシラリーサービスが提供される。(3)セル内部に無停電とハイパワー
が供給できる。(4)系統側から見ると、自前でユニバーサルサービス設備を調達してくれ、必要な
時にはグリッドサポートしてくれる需要家として機能するなどが挙げられる。



● 今夜のイチ押し情報

最新の 03/17日版で量子ドット系PbS太陽電池がη=9.9%で記録更新。




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デクサマニー降臨 Ⅲ

2015年03月26日 | EMF安全保障

 


● 大型二次電池の世界市場動向

総合マーケティングビジネスの株式会社富士経済が、次世代環境自動車分野、電力貯蔵分野、動力分
野を対象とし大型二次電池搭載製品と大型二次電池市場、その構成部材について調査。併せて家電分
野の二次電池搭載製品や二次電池の市場動向をまとめた。それによると「大型二次電池市場 8兆5,2
69億円(6.2倍) 次世代環境自動車分野がけん引 電力貯蔵システム向け二次電池 8,192億円(13.8
倍) リチウムイオン電池を中心に伸長 次世代環境自動車向け二次電池 6兆6,141億円(10.8倍) P
H
V、EV向けが大幅拡大」すると予測する。ただし、伸長比は、2013年に対するものである。下表は
調査対象概要表。

 

さて、この調査結果(1)上表(下)の「大型二次電池の世界市場」では、次世代環境自動車分野、
電力貯蔵分野、動力分野の製品に搭載される大型二次電池の市場は、今後各分野で大幅な伸びが予想
されている。2013年時点では鉛電池やリチウムイオン電池の市場が大きい。2025年には次世代環境自
動車分野や電力貯蔵分野で採用されるリチウムイオン電池が大幅に伸びるとみる。次世代環境自動車
分野向けでは、2013年時点では市場の45%を占めるが、2025年には2013年比10倍以上の伸びが予
想、78%を占めるとみる。

(2)また、正極活物質が全体の36%を占める(2014年見込)。需要増加が期待される次世代環境
自動車向けでは、三元系(コバルト、マンガン、ニッケル)と、マンガン酸リチウムにその他材料を
混合するタイプが中心になるとみる。他の部材では、負極活物質やセパレータの市場が大きい。部材
市場でも、次世代環境自動車に搭載されるリチウムイオン電池向けがけん引し、2025年には2013年比
10倍以上の市場に拡大するとみる。部材別シェアには今後も大きな変化がみられず、各部材で低コ
スト化(原料買い付けや製品製造プロセスを解析しなければ詳細は分からないだろう)が進むと予想
する。

● 住宅用蓄
電システム

次に、下表(上)の電力貯蔵システム向け二次電池の市場動向に注目し、(3)住宅用蓄電システム
は、非常用電源用途、ピークシフト用途(系統電力・太陽光発電電力)の導入を中心とし、非常用電
源用途は、鉛電池が米国の一部の州やアジアなどを中心に多く採用されているが、今後はリチウムイオン電
池採用が増え、逆にに鉛電池の需要が縮小するとみる。ピークシフト用途や独立電源用途でも、リチ
ウムイオン
電池の採用増加するが、系統電力や太陽光発電電力のピークシフト用途の需要増加に伴い
今後伸びと期待している。2020年以降は電池パックの価格低下、またHEMSやスマートメーターの普
及、家庭向け電気料金型DR(デマンド・レスポンス)の導入拡大する。拡大量×単価原価額により予
想を下回ることもあるが、それよりも、再生エネの占める割合の数値により大きく依存する。寧ろ、
ドイツのような脱原発を掲げ積極的な投資を持続し、先進で安定的した国家建設の成功事例により、
この市場は、同社の予測を大きく上回ることもあり得ると考えている。つまり、"デクサマニー降臨"
(『デクサマニー降臨 Ⅱ』2014.10.20)が実現しているだろう。

 

● 需要家用電力貯蔵

同様に、(4)商業施設・産業施設・公共施設などに併設される定置型の需要家用電力貯蔵は、現時
点では、a)グリーンニューディール基金を背景に導入が進んだ日本の公共施設の非常用電源用途、
b)ドイツでのピークシフト/ピークカット用途が中心、c)鉛電池とリチウムイオン電池が多く、日
本ではリチウムイオン電池が主流。d)今後はピークシフト/ピークカット用途でリチウムイオン電池
電力貯蔵システムの導入が進むと予想。e)米国では補助金制度や可変ピーク帯・リアルタイム料金
制度、EMS(エネルギーマネジメントサービス)ベンチャーなどの参入により、2016年以降に大幅な
需要増加が見込める。f)日本でも、電力事業改革の進展や、可変ピーク帯・リアルタイム料金制度
の導入拡大が進む2020年以降、大幅な市場拡大を見込む。なお、ンシラリーサービスやネガワット
取引、メガワット級の大規模需要家のピークシフト/ピークカット用途は、大型化に適したNAS電池
NaNiCl2電池が採用されるとみている。また、ここには記載されていないが、
電気自動車用走行型
非接触給電システムが道路管理施設分野(『電気自動車再考論Ⅰ』2015.03.24)で拡大していけばその要
所要所に再エネとのコンビネーションの電力貯蔵システムによる市場増も見込まれるだろう。

 

 ● 大規模貯蔵(系統設置)

(5)電力貯蔵システム(系統設置)、太陽光発電システム、風力発電システムを対象とする再生可
能エネルギーの系統接続増加に伴う系統安定化用に、大型の電力貯蔵システムの導入が進んでいるが、
電力貯蔵システム(系統設置)用は、開発が先行している鉛電池、NAS電池の導入実績が多いが、近
年はa)高出力・短時間放電であればリチウムイオン電池、b)長時間放電が必要であればレドック
スフロー電池が採用される。c)太陽光発電システムでは、出力される電力を安定させ、系統設備へ
の影響を軽減させる出力安定化用途(出力平滑化、余剰電力対策、タイムシフト、計画的運転)で採
用。短時間の 出力平滑化用途では、入出力特性に優れるリチウムイオン電池の採用が多く、ニッケル
水素電池の採用も予想される一方、比較的長時間の出力平滑化が求められる場合、鉛電池、NaNiCl2
電池が採用されやすい。長時間の放電が求められる余剰電力対策、タイムシフト、太陽光発電システ
ムの計画的運転用途には鉛電池、NAS電池、レドックスフロー電池、NaNiCl2電池が選定されやすい。
d)風力発電システムでは、 出力安定化用途(出力平滑化、下げ代不足対策、タイムシフト)、ブレ
ードの向きを調整するピッチ制御システムの非常電源用途で採用。 出力平滑化用途では、導入実績が
豊富で信頼性が高い鉛電池、入出力特性に優れたリチウムイオン電池、ニッケル水素電池が採用され
る傾向にある。長時間の出力平滑化が求められる場合、NaNiCl2電池の採用も想定される。電力の需
要と供給のバランスを調整する下げ代不足対策、風力発電システムの計画的運転用途では大容量が必
要で、鉛電池、NAS電池、レドックスフロー電池、NaNiCl2電池が採用されやすく、ピッチ制御システ
ムの非常用電源用途では、鉛電池が主流であるが、メンテナンス性が重視されるシステムを中心に電
気二重層キャパシタの採用が増えているという。 

● 次世代環境自動車向け二次電池 

2013年時点では、a)大容量のリチウムイオン電池を搭載するEV向けの比率が高い。2025年には、市
場拡大が予想されるPHV向けも大幅に伸び、EVPHV向けのリチウムイオン電池が市場をけん引する
とみる。b)また、鉛電池は、アイドリングストップ自動車/マイクロHV向けが中心である。c)エ
リア別ではアメリカ、日本、欧州が需要の中心である。d)アメリカはEV向けのリチウムイオン電池
の市場が大きく、e)日本ではHV向けのニッケル水素電池が中心である。欧州はアイドリングストッ
プ自動車/マイクロHV向けの鉛電池の市場も大きい。 f)今後は中国において次世代環境自動車の生
産が拡大するとみられ、日本を抜いて欧州、アメリカに次ぐ規模へ拡大すると予想するが参考になっ
た。
 

 

 

 

●『吉本隆明の経済学』論 33 

 吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!     
  

  吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
 

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき   

                                                         第1部 吉本隆明の経済学    

 第6章 農業問題

   農家の経済

   労働生産性は、どうして追いつくようになったのでしょうか。ふたつ理由があります。ひとつ
 は農業就業人口、農業人口が滅ってきたということです。それから一方では、固定資本の増加と
 いいますか、機械とか農機具とかの増加と、質の上昇でもって労働生産性が上がっています。就
 業人口が少なければ、割る率が少なくなるから、労働生産性はLがるわけです。だから一概には、
 いいぞ、いいぞといえないのです。農業の就業人口がものすごく減ったからそうなったという面
 があるのです。そのことはよくかんがえないといけない気がします。

  資本生産性は、逆に低下していて、製造業との格差も大きくなっている。つまりある単位資本

 でできる生産物の生産量は、低下しています。また労働生産性は高くなっている。それは農業人
 目が少なくなっていることが加味されているから、そういえるのです。だから、喜ぶわけにはい
 かないので、単位資本・投下資本に対しての生産性はそんなに七がっていません。
  逆に見ますと、農業以外の製造業とかエ業とかとの格差は、資本生産的にも非常に大きくなり
 つつあるといえるのが特徽です。

  円高ということが今さかんにいわれて、円高による効果があります。円高によって輸入する農

 機具とか機械類が安くなりますから、生産費が低くなります。そうすると、農産物の価格の引き
 下げが超こります。それは一面では有利なことですけど、農産物の価格引き下げは、同時に農産
 物による収益の低下を意味しますから、そういう面から見たら、あまりよくないのです。
  ここはまた竹村さんがI生懸命拡大して問題にしているところです。内外の価格差が、生産者
 段階で国際流通価格と比較して5.6倍ぐらい、消費者価格だと2.0倍ぐらい、日本と国際的な
 農産物価格の違いがある。それはデータとしてあります。この点は、農業の生産構造が社会全体
 の高度化につれて、どう変化したかの主な眼目になります。

  とくに日本の農業生産構造でどこが問題かといいますと、今の農業就業人口は労働生産性を高
 めるというデータ、労働生産性は先進国並みになりましたし、製造業の労働者と同じくらいな労
 働生産性を持つようになってきてますが、資本生産性は低い。
  それから、現在起こっている円高効果が、生産性の向上には役立っている面もありますが、生
 産費が低く、農産物農家の所得の額が減ることを意味しています。同時に、労働生産性ばかり高
 くなって、労働者並みになったということは、別な見方からすると、要するに一生懸命働かされ
 ているけど、その割にはあまり収益がない。そういう実感になってはね返ってくるところもあり
 ます。そういうことを特徴として踏まえておくことが、とても重要だという気がします。


  農業とエコロジー

  次に、機械化といいますか、農業の仕方の多少モダンなやり方ですけど、労働時間の短縮がど
 のくらいできるようになったか、データで申しあげてみます。これも一農業白書』に明晰にある
 のを、ぼくが適当にピックアップしてきたのです。
 まず農地を耕すとか、整備する時間です。これは10アール単位でとっています、昭和40年
 ごろには一六時間ぐらいかかっていたのが、現在では八時聞か9時間ぐらいになっています.こ
 れは乗用トラクターの普及と大型化によります。平均でいって、それだけ労働時間も短縮化して
 います。
 
  それから、田植えについては田植え機の使用体系が整ってきたので、昭和40年では10アー
 ル耕すのに25時間くらいかかっていたのが、現在では9時問ぐらいで田植えができます。使用
 体系が整ったところではそうなっています。
  除草も除草剤使用体系ができて、昭和40年には30時間かかっていたのが、現在では6時問
 ぐらいでできるようになっています。

  ここは、エコロジストが大規模に拡大して問題にしているところです。つまり、農作物の農薬・
 薬品公害の問題です。ここで起こる可能性は、いつでもあるのです。ここを拡大すれば、エコロ
 ジストの主張になります。これを労働時間だけでいえば、30時間のものが大体6時間か7時間
 ぐらいになっています。除草剤・処理剤といっても、なかなか難しいので、いつでも公害になり
 得る可能性があります。

  ぼくは失業中に特許事務所に動めたことがあり、除草剤の特許関係を扱ったことがあります。
 化学的にいいますと、除草剤というのは、使用闇値、使用の限界値があるのです。ある限界内
 で除草剤を使用していれば、このデータのとおり、30
時間のものが6時間ぐらいで除草できる。
 ぼくは、戦争中に農村動員で、除草をやったことがあります。これはものすごくくたびれるんで
 す。くたびれて、しかも目に見えた成果がない。つまり、おれがこうやったからこれだけ何かが
 できたということはない仕事で、ものすごくいやなんです。これが、30時間が6時間に減ると
 いうのは、大変いいことです。

  しかし、除草剤は使い方が難しいのです。純化学的にいっても、限界値があって、限界値内だ
 ったら有効性があるけど、限界値をこえると、システマティックという言葉を使いますけど、組
 織内にあまった薬品が入ることが、除草剤の種類によってはあり得るのです。つまり組織内に除
 草剤が入ってなかなか出てこないことがあります。実験室か実験田んぼでやる同値は、そのまま
 本当の田んぼとかに通用しないのです。ちょっと違っちゃうんです。

  ぼくがなぜそんなことを知っているかというと、そういう特許を扱ったときに、特許の範囲が
 問題になって、争いになったのです。片一方の主張は、ここまでの範囲はおれたちの特許範囲だ
 というし、片一方は、いやおまえのは実験田んぼでやったからそういう結果になったけど、実際
 にやったら公害になっちゃうとか、遂に雨がざっと降ってきたら全部流れ出して無効になるとか
 いうことがあるから、おまえが決めたこの範囲は無効だといいます。そういうことを扱ったこと
 があるので、よく知っているのです。

  除草剤とか成長促進剤というのも同じです。ある闇値の中で使うと成長促進に役立つんですけ
 ど、その闇値を決めるのが大変難しいし、本当の田んぼでやったのと実験田んぼでやったのでは
 まるで遂っちゃうし、野原でやるといつ雨が降るかわからないのです。そうしたら、無効になっ
 たり、逆に多過ぎて植物の成長どころか、枯らしちゃったり、余計な分か植物の中に入ってきた
 りして、限界がものすごく難しい問題なのです。

  だから、エコロジストがいうのももっともなんです。この除草剤をどれだけ使うかという範囲
 を決めるのはものすごく難しいのです。ただ労働時間短縮という観点から見たら、30時間だっ
 たものが6、7時間でできるというふうに短縮されます。
  それから、収穫の問題です。バインダーが普及して、収穫が50時問かかっていたのが現在で
 は10時間ぐらいに短縮されている。それ以外の作業でも、30何時間のものが20何時間かに
 減っています。合計でいいますと、昭和40年では141時間くらいかかっていたのが、現在で
 は55時間でできるというくらい、労働時間が機械化で短縮されています。労働時間短縮という
 ことは、いいかえれば労働の生産性の上昇を意味します。だけど、除草剤を使った場合の公害問 
 題もあります。また、柄に合わないトラクターとかコンバインを質ったら、もてあましちゃうと
 いうこともありえます。

  それから、皆さんのほうが切実にご存じで、ぼくはあまり切実には知らないのですが、適正閾
 値は個々の地域とか、個々の農家のやり方で違うはずです。それは皆さんのほうで、具体的なイ
 メージで考えるべき問題だとおもいます。そこはぼくらの力の及ばないところです。
  次に、農業の新技術はどういうふうに現になされているかということです。ぼくは外側からし
 かわかりません。『白書』が記載していますので、ピックアップして申しあげてみます。

  第一は、「代かき」ということですが、ぼくには何だかぜんぜんわかりません。代かき浚、水                  
 田の土中に直接種まきをする。それを「水稲湛水L壌直まき」というんだそうですけど、これが
 地域によってどのくらい行われているかというデータがあります。たぶん有効だからやられてい
 るのでしょう。                                 
  第二に、田植え作業と同時に肥料を土中に施すという、「水稲鴻巣施肥一というのがあるそう
 
です。これも地域によってどのくらいやられているかというデータがあります。これは新農法で、
 農業の総合生産性を高めるという意味合いを持つのが大部分だとおもいます,要するに、少ない
 時間で安くていい作物をとるという問題です。
  第三に、組織培養技術によるウイルスフリー苗を増殖する技術です,これもどの地域でどのく
 らい使っているかというデータが出ています。ぼくは外側からしかわかりませんから、さきに降
 参しておきます。

  また、優良な雌牛から移植する、受精卵移植技術の発達によって、いい牛がたくさんとれるよ

 うになっている。これもやられているところはとこか、どこでどのくらいやられているかという
 データがあります。
  あとは機械の問題です。高性能な汎用コンバインみたいなものが出てきて、高性能・高速な田 
 植機が実用化してきたと『白書』でいわれています。
  これらはいずれもぼくらのいちばんだめなところです。つまり外側からいっているだけで、外
 側からしかいえないんだったら、農業問題をやるべきじゃない、いうべきじゃないとおもうので
 す。だけど、今日は研究会とか、読書会とか、読書報告会という、ぼくが『白書』を読んで報告
 しているようなものだと考えられて、そこは勘弁していただきたいのです、これは皆さんのほう
 がよくご存じの問題だとおもいます。

 

  農業人口と戸数

  次に取りあげるのは、農業の人口と戸数の変化です。61年1月現在を申しあげますと、全農

 家を単位2000戸戸数で4331だとして、それは全農家ですから、構成比を100とします
 と、一種兼業は660で15.2%です。それから二種兼業、つまりサラリーマンとして働いても
 いるし、うちで農業もやっているという農家が69.9%。専業農家は14.5%だというデータ
 が
出ております。

  そして51年から61年の減少年率です。年にどれだけ減少していったかというと、だいたい

 1%から順繰りで1.6%ぐらいずつ減少していっています。それは最初に申しあげましたから、
 それでだいたいよろしいんじやないかとおもいます。
  今度は逆に、第二種兼業が半分以上を占めていて、専業農家が14.5%ぐらいしかないという
 のに、助成金を与えるのはけしからんというのが竹村さんの主張の大きな柱になっています。竹
 村さんは、たとえばドイツは専業農家が大部分を占めるように、農家の育成をやりながら農業の
 新しい時代に対応させようとしているといっています。日本の農政は兼業農家、しかも二種兼業
 農家のほうが大部分を占めているのに、まだ助成金がどうだ、農産物価格がどうだとかやってい
 るし、食管法がまだ通用している。これは農政の失敗なんだというのが竹村さんの論議の大きな
 柱です。

  それから、農家の就業人口です。これは57年度483万、それがずっと減ってきて、61年
 度は平均して計算しますと、136万くらいになり、これは60年度に比べて少し減っています。
 だから、年々減りつつあるのが現状だということがわかります。これもまた竹村さんが非常に対
 立型の論議がどうしてだめかというと、歴史の必然がだんだん対立型の限界を示しつつあるとい
 うこと。歴史の必然、文明の必然が示しつつあります。ぽくの理解の仕方では、ほっとけば竹村
 さん型の論議が勝利するとおもいます。これは自民党の政府だから勝利して、共産党の政府にな
 ったら勝利しないということではないのです。文明史の必然によって、竹村さん型の論議はほう
 っておけばだんだんそうなってくるとぼくは思っています。それは、文明史の推移的必然をひと
 つ勘定に入れなければいけないという問題です。

  現在の一見軽薄な素人論議の対立みたいなものの中、あるいはへんてこりんな政治運動家の入
 りまじった論議の根抵のどこかには、文明史の必然というものがちゃんと入っているということ。
 そのことを加味しなければ論議にならないということ。それから、都市が栄えるためには農村を
 ぶち壊せとか、農村を保持するためには都市の横暴をぶち壊せという、この種の論議は、たぶん
 終焉に向かいつつあるとぼくは思っています。
  それは現にそういうふうに起こりつつあります。なりつつあるとはいいませんけど、そういう
 兆候が見えているとおもいますし、またいちばん先端的なところで想像力を働かせば、そうなっ
 ていく必然をだれも止めることができないとおもいます。

  ぼくはマルクスの徒です。マルクスは経済史は自然史の廷長なんだ、だから経済史は、人為的
 には動かせないんだといっています。動かせるのは、たかだかそれを遅くするか早くするか、そ
 れだけのことだ。それだけが人為的にできることで、自然史の流れとしての経済史は、必然的に
 しか推移しない。これを遅くするか早くするかという問題だけが人為的な問題、つまり政策の問
 題だったり、やり方作問題がっかりというのが、マルクスの基本的な観占です。ぼくらは概算し
 ておおよそその考え方は正しいと思っています。

  都市と農村の対立がぎりぎりで都市が発生し、そして農村の対立がぎりぎりになり、都市が農
 村の人口を吸収して、産業革命で産業を拡大していって、あらゆる弊害があらわれたという時期
 がありました。その現状がマルクスの理論的な基礎になったのです。マルクスは、経済史が自然
 史の延長だということ、そして人為的に勤かせるのはせいぜいそれを遅くするか早くするかとい
 う問題だけだ、つまりそれが革命の問題なんだといっています。そして、マルクスは構造改革論
 者ではなく、政治革命優先論者ですから、政治革命としては、支配的な階級を一挙に打倒して、
 労働者が権力を握って、さまざまな施策をやらなきやだめなんだといっています。革命だったら、
 政治を一挙に変えるということでしょう。


                                 第一部 吉本隆明の経済学 

わたし(たち)は、植物工場のように環境を制御し、無農薬で栽培するこは可能だと考えているから
除草剤の使用範囲の規定の難しさは承知しているが、その解決方法も提案できるだろう考えている。
さて、先を読み進めよう。

                                                          (この項続く)  
  

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黒田で好景気!

2015年03月25日 | 時事書評

 

 

 

 

●『吉本隆明の経済学』論 32

 吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!     
 

  吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
 

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき   

                                                      第1部 吉本隆明の経済学    

 第6章 農業問題

    解説

   吉本隆明のファンには農業者もたくさんいた。彼らは米価問題やオレンジ輸入自由化問
  題などが起きて、日本の農業が危機の時代に突入していった頃、農業の問題についての吉
  本隆明の考えをどうしても聞きたいと思って、熱心に講演を依頼した。そういう申し出が
  くると、彼は遠いところにでも喜んで出かけて自分の考えをしやべった。

   食い入るように吉本の話に耳を傾ける農業者を前にして、しかし彼はけっして耳に心地

  よい話をしなかった。先進資本主義国において、農業人口は否応なく滅少していくことに
  なる,農村そのものがいずれ消滅に向かっていくだろう。これは資本主義の原理からする
  とどうしても避けることのできない、必然的な過程に属するのである。その理由は農業が
  天然自然を直接相手にする産業だからであり、交換価値を価値増殖の原則とする資本主義
  では、農業が貧困化していくのを、いかなる政策をもってしても押し留めることはできな
  い。

   こういう話を聞かされた農業者はさぞかしがっかりしたことと思われるが、たとえ相手
  の耳に痛いことでも、それが真実のことならば相手に語らなければならないという信念に
  もとづいて、吉本隆明は農業者に熱心に語り続けた。その語りの真摯さに、私たちはいま
  あらためて感動をおぽえる。

   エコロジストや有機農法家の考えにたいしても、吉本隆明は一貫して批判的だった。彼
  は「自然史過程」を一つの重要な判断基準としていた。大きな目で見たときそちらの方向
  に進んでいくことが、まるで自然史の過程のように必然的であるものにたいしては、それ
  を受け入れたヒで、出てきた問題についての対処を考えなければならないはずなのに、た
  とえ自然史過程に逆行していても「オルタナティブ」なものがすぐさま可能であるかのよ
  うに言う主張には、古本はいつでも突っかかっていった。たとえ緑のイデオロギーでもし
  ょせんは幻想領域に属するもので、自然史過程の中でいずれ消えていくものだからである。

   私は吉本隆明がこれは自然史過程であると見なしたもののすべてが、ほんとうにそうで
  あるのかということについては、いくつかの疑問を抱いている。しかし彼が農業について
  語ったことのほとんどが、今では明白な現実となっていることは確かである。そこからの
  脱出を探ろうとするとき、吉本隆明がこの問題について得た認識はすべての出発点となる。


  1 農村の終焉――〈高度〉資本主義の課題

   農業の構造と変化

  吉本です。ここへ来るのは四回目です。前三回は良寛の話をしにやってきました。
 今回は農業問題ということで、もちろん私は農業経済の専門家でも何でもなく、素人ですけれ
 ども、「修羅」の同人の方は勉強家の集まりで、おれたちも勉強したんだからおまえも勉強しろ
 ということだろうと考えまして、ぼくなりに本を漁ったり、さまざまな人たちの論議を読んだり
 してきました、

  まず本屋さんに行ってみますと、農業問題の専門書ははなはだ少ないことがわかります、ほと
 んどコーナーすらない。お医者さんでいえば結核専門医になる人がもういなくなったのと同じよ
 うに、農業経済専門の領域は、たぶんもうすたれた領域になっているんたろうと思います。本来
 ならば、現在みたいになぜか農業問題が素人の問で口角泡を飛ばしたり、あるいは殺しかねない
 勢いで論議されているときに、農業経済問題の専門家が、まず専門的な基礎から、農業問題はこ
 うなっているんだということをはっきりと発言され、意見を述べられて、そういう専門家の論議
 と実証との上で現在の素人論議――私も今日やるのですが――がなされるといいと思うんです。

 階の違う、産業でいえば第一次、第二次、第三次というように、つまり第一段階、第二段階、あ
 るいは第一層、第二層、第三層というふうに、レイヤーの違うものの境界面にぶつからざるをえ
 なくなっているから、その種の設計とかプランができてしまうということがあります。つまり、
 高度だと思っていて、たしかにある面は高度なんですが、別な面から見ると、一種の稚拙化か起
 こっているといっていい。

  ですから一人の人はシュルレアリスムの方法が有効だと思うみたいなことをいっていますが、
 シュルレアリスムみたいに無意識を解放すれば稚拙化かそういう面から起こるのは当然だともい
 えます。しかしシュルレアリスムの問題ではなくて、イメージの問題としていえば、超シュルレ
 アリスム、ハイパーリアリズムという問題になっていく。つまり、現在およびこれからの無意識
 をつくるということの問題がイメージの先端的な問題なんだと僕には思えます。

  この先端的な問題と理想的な問題とは必ずしも一致しませんが、理想というのは先端的であれ
 ばいいか、新しければいいか、全部間違っているから間違っていないやつを選べばいいかといっ
 たらそんなことはないので、いつでも一般人的なもの、平均人的なもの、あるいはそのときの平
 均都市的なものを絶えず他者としてこっちに持っていなければ、どんな先端的な試みも危ういで
 しょうね、と僕自身は考えています。

  僕が自分なりの考え方で都市論をやってきて、いま自分なりにはわかってきたと思えていると
 ころはそこらへんまでで尽きてしまいます・だいたいお話しできたと思っていますから、一応こ
 れで終わらせていただきます。しかし、現在やかましく論議されている農業問題とか、農業問題
 に円高がどういう影響を与えるかとか、米の自由化の問題とかについて、専門家で発言されてい
 るのは、ほとんど皆無だと思います。皆、専門家ではないのです。

  日本は現在、高度資本主義社会ですけど、そのなかで農業あるいは農村がどうなっていくのか
 という歴史的な推移の問題があります。それからもうひとつ、農業問題はまた都市問題とからま
 っています。
  農業に問題が生じたのはなぜかといいますと、一般に農家は農業耕作と兼業で織物を織るとか
 養蚕をするとか、あるいは手工業的に細工物をつくるとかいう兼業でやっていました。その規模
 と需要がだんだん多くなってきて、一家あるいは農村だけでは賄いきれなくなって分業が起こり、
 農業を専門にやるものと織物や紡績を専門にやるものとが分化してきました。その分化した人た
 ちが、便利な立地条件のところにかたまりで移っていきます。そして手工業からだんだん機械工
 業へ発達していって、それが都市になったのです。

  つまり手工業と農業を同一の人が同一場面でやれたときには、農業問題はなかったのです。問
 題が起きたのは、分業が起きて、農村と都市とが利害相反するようになったからです。専門が分
 化されてしまって、農業をやる人が機械工業に従事することはできないし、機械工業に従事して
 いる人は農業に今さら従事することはできない。そのくらい、専門が分化してしまったことが、
 農村問題を歴史的に発生させたもとです。

  つまり、農村と都市との対立、それから工業と農業との対立が農業問題を発生せしめたもので
 すから、農業問題は都市問題と切り離すことができないのです。遂にいいますと、都市問題の論
 議をやるんなら、農業問題を切り離すことができないという歴史的な関係にあります。
  これも専門家が専門上のことをはっきりさせ、そして現在の段階がどういうところにあるか、
 全体の歴史的な段階がどういうところにあるかということを基礎に据えて論議がされるべきです。
 つまり切実な現在の問題とか、そのときどきの円高ドル安が起こってから急にクローズアップさ
 れてきた問題とか、歴史的な推移、文明の推移、あるいは人類の歴史の推移とかの大きな流れの
 中で、現状に起こる切実な問題を論議されるべきです。それで対立が起こるなら起こるというあ
 り方ならば、とても論議がしやすいし、通じやすいのです。

  しかし、現在日本でなされている論議は、ぼくが読んだかぎりでは、専門家の発言はほとんど
 ゼロです。とくに専門の研究者の発言はゼロに近いとおもいます。発言しているのはたいてい素
 人です。素人は宙に浮いた論議になるか、専門的な基礎がないところでの論議になるか、そうじ
 ゃなければ、あまりに切実過ぎている問題を全体の問題に広げてしまう、両方がそういう論議で
 対立してしまいます。その対立の中には、冷静で学問的に文明の推移、歴史的な推移を考える姿
 勢はありません。都市との対立の問題や、つぶれるかつぶれないかという切実な利害の問題とか
 を、ぜんぶいっしょくたに論議するのが素人の論議――ぼくもそうですけど――の特徴です。

  ある面では、殺しかねないくらいきわどい言葉で論議が飛び交わされるんですけど、本当は両
 方とも全体のことは何も見てないとか、具体的な現地のことも見てないのが現状だとぽくは考え
 ます。 
  ぼくも素人としての反省があるものですから、本当なら、専門家の論議しないことを素人が口
 をだすのはよくないことなんで、しないほうがいいのですけど、素人であるにもかかわらず、割
 合に切実に考えています。「修羅」同人の方が非常に切実にそういうことに関心をもって、自分
 たちが勉強しておられる。そしておまえだって都市論みたいなことをやってるんだから、まんざ
 ら農村の問題も関係なくはないだろう。本来ならば一緒に論ぜられるべき農村の問題についても、
 勉強不足では話にならないから、おまえも勉強しろ、勉強した成果をしゃべろということで、素
 人だけどしゃべることになったのです。

  ただぼくは、割に内省する素人ですから、多少ほかの素人の方の論議と違うだろうと考えてい
 ます。それ以上のことは、ぼくは専門家に及ぶはずがないのです。それから、個々の切実な現場
 におられる方にこちらが学ばなければならないほどの素人ですから、切実さがそこに触れること
 は、あまりできかねるかもしれません。しかし、唯一のとりえは割合に広い視野をもっていると
 いうことでしょう。それから割に内省的ですから、もしかすると皆さんがいかに切実であり、い
 かに現場におられようと、あるいは専門家の方がおられるかもしれないけど、何か少しくらいは
 得るところがあることを、お話できるかもしれないと考えてやってきました。もしかするとでき
 ないかもしれませんが、それは了解を願うということをあらかじめお断りしておきます。

  まず、ぼくなりにできるだけ冷静に、現在起こっている農業問題をみてみます。口角泡を飛ば
 して論議がされ、対立がある場所に、あらゆる進歩的勢力が入るかとおもうと、保守的な勢力が
 そこに流れ込み、それからエコロジストがなだれ込んで、余計なことをいうものですから、もう
 むちゃくちゃで、てんやわんやになって、あんちくしょう殺しちゃえというくらいの論議になっ
 ている局面もあります。それから、さきほどぼくの前に話された方のように、現場におられて切
 実なところでやっておられても、きわめて冷静に抑制的にお話になられる方もいます。

  ぽくも本を読んでびっくりしたんですけど、もう殺しかねまじき発言をする人がいます、それ
 がみんな素人とか、ほかからなだれ込んだ政治運動家くずれとか、市民運動くずれとか、エコロ
 シストくずれとか、全部がそこに入ってきて、本当の農家の人とか、本当の都市サラリーマンは
 どこにいるんだというふうに、どちらもどうしようもない感じです。しかし、対立だけは鮮やか
 に浮かび上がってきて、その論議たるやちょっとあほじゃないかという論議しかない、そういう
 現状です。

  そこでぼくなりに、現代の農村、あるいは農業の問題はどうなっているか、勉強した範囲で入
 っていきたいとおもいます。都市論から入ってもいいんですけど、遠回りになりますから、農業
 の具体的な問題をできるだけ冷静に話して、もし時間が許すならば、最後に、現在、目角泡を飛
 ばしてやられている農村対都市、農村チャンピオン対都市チャンピオンの対立の仕方に触れて、
 その問題点をぼくなりの観点から批判してごらんにいれようとおもいます、


  農家の経済

  まず、ぼくが依ったデータは、『農業白書』の昭和六一年度胆です。そこから、適当に重要だ
 とおもうところだけ、ぼくなりにピックアッブして、アレンジしてもってきました。ぼくが一生
 懸命現場をあたって調査して出したデータでも何でもありません。書店に行かれれば、どこでも
 売ってますから、それをご覧になれば、冷静なデータが出ています。そのなかで、ご自分の切実
 だとおもうデータをよくご覧になれば、問題の所在はわかるんじやないかと思います。ぼくは専
 門家ではないし、また別にそういうことを隠す立場ではないので、何に依ったかというのをはっ
 きり申しあげます。いろんなものを読みましたけど、結局、『農業白書』のデータが割合に高度
 で妥当性があるとぼくには思われました。そこから入っていこうとおもいます。

  皆さんのほうで、そんなことはおめえがいうまでもなく、切実な問題だというのはみんな知っ
 ているんだという場合は、ここでもう一回復習するという感じで、そうじゃなければ、あいつは
 間違ったことをいってるとか、そういう感じで聞いてくがさればよろしいとおもいます。
 
  どこから入ってもよろしいんですけど、まずはじめに、現在の農業の構造と農家の経済はどう
 いうふうになっているかという問題から申しあげてみましょう。
 『白書』のデータはどういうふうにとってあるかというと、前の年の同期に比べて増犬している
 か減っているかという率を、昭和58年度から六一年度までピックアップしています。どういう
 ことをいっているかといいますと、まず①の「農業就業入口」(図15参照)です。昭和58年度
 の農業就業人口はマイナス4%です。これは、57年度に比べて就業人口が4%減ったという意
 味です。



 その次は、「農家の戸数」です。58年度の農家の戸数は前の年より約1%減っています。「排
 地面積」は前の年よりO・何%か減っています。それから「農業所得」――これは総所得だとお
  もいます―総所得は前の年に比べて4%増えました。それから「農外所得」――農家で農業以外
 のことで得られた収入――は前の年に比べて3%ぐらい増え、いちばん増えたのは、出稼ぎとか
 年金とか年金扶助とかその他の雑収入で、それは一戸当たり前の年に比べて8%ぐらい増えてい
 ます。

  これを金部ひっくるめた一戸当たりの総所得は、だいたい4%ちょっと増えています。59年
 度は、「就業人口」は前年度から2%滅って、合わせるとどんどん減っているという意味になり
 ます。
  みんなマイナス点になっていますから、現在に近づくほど減っていることを意味します。「農
 家の総所得」もだんだん減りつつあります。前の年に比べて増えているんですけど、率としては
 減りつつあるというのがこのグラフからわかります。
  つまり、農家の所得は概して前の年に比べて年々増えていっ・ています、しかし、よくよく考
 てみると、これをそのまま延長すれば、来年はまたもっと減るかもしれません。再来年はもっと
 減るかもしれませんよ、ということを意味しているかもしれません。何か特別な異変が起これば
 別ですけど。それでも前の年に比べてマイナスにはなっていない。増えていることは確実に増え
 ている。増える率も減りつつありますけど、現在、依然として農家の総所得は増えつつあります。
 しかし年々、現在に近づくほど、あるいは未来に近づくほどかもしれませんけど、減りつつあり
 ますよというデータになっています。

  これはとても切実なんじゃないかという気がします。つまり、一面では農家の所得は増えてい
 ます。対立する都市のサラリーマンから、農家の所得は増えているじゃないかといわれている理
 由だと思いますけど、農家の人から見れば、いや、増えてる増えてるというけど、だんだん心細
 くなっているんだ、増え方が少なくなっているんだぞという問題だとおもいます。このことは、
 現在のさまざまな論議の中で、感情論を抜きにしてみれば、相当切実な問題なんじゃないかとお
 もいます。

  これは『白書』に書いてあることで、目新しいことじゃないんですけど、よくよくグラフを読
 んでご覧になると、切実なことがいろいろわかります。感情論ではごちゃまぜにしていることが、
 本当は分けて考えなきやいけないのです。
  農業人口は減りつつあるし、農業就業人口も減りつつあります。それから農家の戸数も減りつ
 つあります。年々増えた兆候はないですから、とても重要なことを暗示しています。もっと未来
 になったら、なおさら減っていくんじゃないかということが、このグラフの自然の推移からいえ
 るのです。

  これは論議の問題でもなく、こうなるのが理想だという問題でもなく、現状および過去とこれ
 からの問題として、自然の推移をとれば、農家の戸数はだんだん減っていくだろうし、人目も減
 っていくだろうということです。収入は依然として増えつつあるけど、収入の増え率は減りつつ
 ある、といえます。これは具体的な推移の事実の問題です。ここには、どんな感情論も入る余地
 がないのです。このデータが正確であるかぎり、感情論は入る余地がなく、そういう趨勢は、ち
 ゃんと頭に入れておかないといけないのです。そのうえで、所得をもっと増やさなければいけな
 いとか、農家の人目を増やさなきやいけないという論議とか、農家の所得は多過ぎるから減らせ
 という論議とか(竹村健一さんの論議にはそういうとこがあります)、こうあったらいいという
 目標とか見解が起こるのです。起こり方はさまざまでもいいけど、まず一般的な推移から推察で
 きることは、はっきりさせておいたほうがいいので、そのうえで論議がなされるといいとおもい
 ます。


  その意味で、これは重要なものだと考えます。
  その次に取りあげたのは、労働者と比較した「農家の家計費」はどうなっているかということ
 です。農業以外の一般労働者、工場労働者とか製造業の労働者とかの家計費を100として、農
 家の家計費を45年度から60年度まで掲げてあります(図16参照)。45年度を除いて、農家
 の家計費のほうが都市労働者の家計費より多いということがわかります。個々の方々が、いやお
 れのとこは少ないとか、おれのところはもっと多いという人もおられるでしょうけど、これは総
 所得の平均ですから、平均では農家の総家計費のほうが多くなっているのが現状です。だけど、
  内訳をいいますと、専業農家の家計費は、本当は工場労働者とか製造業の労働者より少ないので
  す。100に対して、90
くらいです。

  それから、第一種兼業農家というのがあるでしょう。第一種兼業農家というのは、皆さんのほ
 うがよく知っているわけで、いうのが恥ずかしい気がしてしようがないけど、ときどき内職に近
 所の工場に働きに行くとか、事務所に働きに行っているのが第一種です。第一種兼業農家の家計
 費も工場労働者の家計費の平均より少なくなっています。第二種兼業農家というのは、うちは農
 家で農業もやるけど、定期的にちやんとした全日制の勤めに行っている農家です。第一種兼業農
 家の家計費は、都市労働者の家計費より多くなっています。

  ここのところが竹村健一さんの論議を見ると、非常に癇にさわっているところ、感情論になっ
 ているところだという気がします。
  しかし、よくよく内訳を見てみれば、本当に専業に農業をやっている人の家計費は少なくなっ
 ています。これも論議の事実的な基礎をはっきりさせる場合に、非常に鮮やかなイメージを与え
 るものだとぼくには思われます。これはおもしろいのです。反竹村健一とか、反大前研一という
 人たちの中で、家計費が多いということと生活が豊かであるということは別じゃないかという論
 議をする人もいます。いろいろですけど、現在みたいな素人論議と感情論と、変な政治運動家崩
 れみたいなのが入ってきて、やたらに都市と農村の対立をあおっているのがありますけど、そう
 いうとてつもないやつの論議を聞く前に、まずちゃんと事実としてこういうことがいえますよと
 いうことをはっきり押さえておいたうえで論議されたほうがよろしいんじゃないでしょうか。

  それから、そういう問題に付随して、現在、食生活はどういうふうに変わりつつあるかという
 ことをちょっと申しあげたいとおもいます(図16参照)。これはぼくがいわなくても、皆さんが
 実感でおわかりですし、『白書』にもとってもよく書いてあります。現在の食生活は、まず年齢
 によって多様化しています。もし食生活の消費に対応するように農業をするほうが経済的に有利
 だとしたら、とくに都市なんかそうですけど、年齢層によってずいぶん主食と副食の食生活は多
 様化しているといえます。

  ここらへんは、ぼく自身、実感でとてもよくわかるのです。自分のうちでも、子供は一食ぐら
 いはどうしてもパンあるいは洋食の主食じゃないとだめだみたいになっています。そこらへんは
 妥協できるのです。子供のほうも妥協して、こちらの年代用の主食とおかずに合わせることもで
 きるから、まず争いは起こらない。しかし別々にします。時間も別だし、食べるのも一食ぐらい
 は別だ、みたいなことは起こっています。

  それから、ぼくのところでも切実になるだろうなと思えるのは、ソースの好みがまるで違うの
 です。ぼくらはソースというと黒い色をしててダボダボという、おしょうゆみたいな色をしてい
 るものしか思い浮かばないけど、子供たちが作ったり食ったりしているのは、洋食からくるソー
 スで、実に多様なソースです。ぼくらはちょっと嫌だなというか、こいつはどうも口に合わない
 なという、何となく全部お酢が入っているみたいな感じと外観が気持ち悪くてしょうがねえなと
 か、あまり妥協できないところがあって、違うものをかけて食べたりします。だけど、こっちが
 年とって足腰立たなくなって、子供が食事を作る場合、ソースというのは、もう決裂だなという
 感じです。将来を考えると、暗流としてくるので、ソースの多様性ということでは、もう若い世
 代とわれわれとは全然違っている。年齢・階級によって食品の多様性と、それから格差が連うと
 いうことが、現在起こりつつあります。

  それから、みんな関連しているのですけど、さまざまな食料・加工品が出回っています。これ
 は農業の問題でいえば、農産物加工の問題と対応する気がします。
  また、家計費と関係しますけど、加工食品を買っておかずにする、あるいはもとから作ること 
 はしないということが、都市では多くなりつつあります。これらの変化を消費の変化に対応させ
 て農業の構造を考えるなら、こういう点が都市サラリーマン、都市の一般大衆の消費の形と対応
 がつくといえそうな気がします。そんなことはいうまでもなく、日本の農業がやりつつあること
 には違いないんですけど、このへんまでいわれてしまえば、非常に明瞭に農業のやり方とか構造
 は、どう変わったら対応できるかという問題が出てきそうな気がします。
 
  それから、消費者の要求の変化や消費の仕方が多様化している、つまり食べ方がいろいろにな
 っているし、加工の仕方、あるいは加工製品の要求の仕方がいろいろになっているということ。
  もうひとつは、有機農法と関連するんでしょうけど、食品による健康に注意するようになった
 ということが、都市の生活者でもいえます。これは栄養のバランスの面からも添加薬品について
 も注意するようになったということです。これも農業の問題と関連します。健康・保健に気をつ
 けた農産物、あるいは農産物加工品の製造は、一種のモダンな問題です。

  つまり、昔の農業はよかったという観点、エコロジカルな観点からだけではなくて、現代的な
 要求として健康・保健に注意するということに対応する健康食品といいますか、原始農業の問題
 じゃなくて、現代的な問題としてあるとおもいます。だから、一種の食品加工業と同じ意味で、
 健康食品、あるいは健康農産物の生産とか製造とかが問題になると思います。エコロジストがい
 うような意味あいだけではなくて、非常にモダンな農業問題としてあるといえそうです。

  もうひとつあります。それは、ふるさと食品とか世界中のグルメ食品とかに対する要求とか嗜
 好が増加しつつあるということです。これも感情論でいうと、ふるさと食品は郷土の産物であり、
 エコロジストが強調するように、濯日ながらの」ということにウエイトがあることになります。
 しかしそれだけじゃなくて、非常に現代的でモダンな問題として、都市の一般大衆の消費の中で
 要求が出てきつつあるという問題です。これも両面から考えることが必要です。
 
  世界グルメ食品みたいなのを好んで輸入して食べるということは、食品輸入が国内の農業経済
 
を撹乱するだけではないのです。世界のグルメ食品に対する嗜好が、都市の一般大衆の消費の中
 で起こりつつあるというモダンな問題として、切実な問題として起こりつつあるということです,
 これもそういう両方の基礎から考える余地があります。
 これらの食生活の変貌は、都市ほど著しいでしょうし、都市の中でも、大都市ほど著しいでしょ
 しう。

  
これらの消費に見あうように農業構造を変えることが、農業問題として切実であるならば、こ
 ういう問題に対して、充分に対応する方向を探る余地があり得るんじゃないかと思われます。そ
 の場合、ふるさと食品が対立の▽万に属し、世界グルメ食品は対応の一方の側に属するというよ
 うな対立の仕方は、あほの対応の仕方だとぼくはおもいます。そうじゃないのです。これらは両
 義性があるのです。非常にモダンな問題であるとともに、非常に昔からの問題です。

  食品輸入ということでは、国内の経済に影響を与えるでしょう。しかし、その食品を日本の国

 内の農業および付随産業がそれとおなじかそれよりいいものを作れるようになったらいいので、
 これもやはり切実な問題としてかんがえる余地があると理解します。




  農業の生産構造の変化


  農業の生産構造の変化はどうなっているかという問題を申しあげます。要するに『白書』が指

 摘するところそのままなので、皆さんの実感にも合うのじゃないかとおもいますし、ぼくらの理
 論的な推定にも合います。 
 
  ひとつは、農業生産が、家畜の飼育みたいな施設型の部門と、稲作のような土地利用部門の農
 業とふたつに分化することが非常に著しくなった。
  これが現在の大きな趨向だといえます。そしてこれは特に日本が西欧並みの高度成長を遂げて、
 西欧並みの社会に突入したといわれかけたころから、施設型の農業と土地利用型の農業の分化、
 分業の傾向が著しくなったのです。これらもよくよく考えれば、別段だれがいおうとそうなって
 いるという常識的なことで、ちっとも目新しい問題じやないといえそうです。

  それからもうひとつは、稲作みたいな土地利用型の部門で、大多数の零細兼業農家と大規模農
 家との分化が非常に進んできました。これは『白書』が指摘していますし、ぼくらも常識的にそ
 うかんがえます。これは非常に切実で重要な問題でしょうけど、ある意味では資本主義社会で農
 業が資本主義経済、あるいは資本主義経営の型に大なり小なり影響を受けていかざるを得なくな
  ったとき、製造業の労働生産性と農業の労働生産性を枯抗させようとすると、大規模化と機械化
 とを、だれでも考えていくわけです。そうすると、大規模化・機械化が可能な地域と、それが可
 能でない地域、農家との分化が著しくなってきます。

 これらは農業政策、つまり政府とか国家の問題として、とても重要な問題なんだとおもいます。
 ただはくらからいわせれば、これはある意味で資本主義経済をとっているかぎり、どうしてもこ
 ういうふうになるよなという問題だとおもいます。これをどこまで公正化するかという問題は、
 政治家とか政府とか、つまり国家の問題だとおもいます。国家はよくよくこういうことをかんが
 えなきやいけないという問題に当面しているんだとおもわれます。



  今申しあげたことを、地域差的に申しあげてみます。こういうブロックの分け方がいいかどう
 かわかりませんが、北海道では畜産と野菜の割合が多く、比較的上地が広いから、大規模な農家・
 農業という趨向になりつつあるといえます。東北地区では、米作・稲作を主軸にして、畜産・野
 菜・果物の割合が多い、そういう趨向に向かいつつあるし、またそうするのが有利だろうといえ
 ます。北陸地区、新潟県とか石川県では、稲作が主体で、この規模を拡大するという課題と趨向
 とをもちつつあるんじゃないかといえます。中国・四国地区では、稲作を少なくして、野菜とか
 果物の割合を多くするという課題を控えているといえそうです。中国・四国地方の農家は一戸当
 たりの耕地が割合に零細なところが多いので、地域的な特徴を生かしてどうやっていくかという
 問題があります。

  高度経済成長でどうなったかという大ざっぱな特徴はつかめますけど、それぞれの地域で抱え
  込んでいる課題は、それぞれ異なっているということが、まずいえそうです。地域、ブロックで
  異なっているといえます。これは昔からの、弥生時代からの伝統的な地域差、天候差もあります
  から、ひとりでにできてしまった規模とやり方があるのです。それでも、こういう地域ブロック
  でそれぞれの課題は違っているといえますし、もっと微細に、詳細にいえば、それぞれの中の小
  地域でまた違う。もちろん個々の農家によって、抱えている課題はそれぞれ微妙に違っている、
 そういうこともいえそうです。


  本当は、そういう問題も全部人ってこなければ論議にならないのでしょうけど、残念ですが、
 ぼくらみたいな素人では、想像力でしか、農家のここら辺につっかえている本音とか、どうした
 いとおもっているかということを把まえることができないのです。これは外からの視線、上から
 の視線というか、世界視線というか、そういう見方からすると、地域差もあり、地域の中でも抱
 えている課題には微恙があり、個々の農家ではまた微差がある。そのことは想像力の中でちゃん
 と論議に入っていなければいけない気がします。

  そうしますと、農業生産構造の変化ということから、特別な点を挙げられるのかということを
 改めていってみます。まず一点は、農業の労働生産性という問題です。農業の生産性は、都市の
 労働者とか製造業の労働者の労働生産性とか、先進資本主義国の労働生産性とほぼ匹敵するよう
 になってきています。まだ及ばないのですけど、おおよそ匹敵する。つまり国内の農業の労働生
 産性が、先進国の農業の労働生産性に追いつきつつあり、だんだん同じような伸びになってきて
 いるといえます。

 
                                 第一部 吉本隆明の経済学 

全産業に農業生産高の占める割合が相対的に逓減するのは自然過程であり、それを「貧困化」と規定
するかどうかわたし(たち)にとってどうでもよいことだし(=従属価値)、農業生産高の分配をめ
ぐる内紛あるいはその外化(転化)――所得補償など税金による補填制度や輸入関税問題など――は
極めて政治的課題にすぎない。また、農業従事者人口の逓減などは極めて社会的課題であり、さらに
は、限界集落の増加による農地の荒廃面積の逓増などは、極めて国土保全や環境問題に影響するもの
だと考えているし、その対策および費用捻出問題も高度な政治問題と考えているが、しかし、農産業
が魅力のないものかと聞かれれば「わたし(たち)が考える営農法に変えれば?魅了的な富かな産業
に変貌するだろう」と。これは歳がえのない過信のような話ではあるがそのように答える。


                                          (この項続く)  

 

 

● 黒田で好景気!

Boom in Hiroki Kuroda of the Hiroshima Carp!

  

大阪場所の相撲は後味悪かったけれど、広島カープは黒田フィーバーだ。


  

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電気自動車再考論Ⅰ

2015年03月24日 | 環境工学システム論

 

 

● 最先端人工衛星災害監視工学 「だいち2号」登場

東日本大震災の発生後、津波による浸水被害範囲や地震による地殻変動の確認に利用された宇宙航空研究開発
機構(JAXA)の陸域観測技術衛星「だいち」。後継機「だいち2号」はレーダーを使って同じ場所を2回
以上観測し、取得したデータの変化をみることで地形の動きをとらえる宇宙から地球の災害を監視する人工衛
星のパワーが発揮される。2014年5月に打ち上げから、機器の健全性を確認する初期チェックアウト、観測デ
ータの精度を確認の初期校正運用を行ってきました。観測画像は既にWeb上で発表(CIRCの初画像,CIRCによる
御嶽山の観測結果など) しているが、初期校正運用期間で、データが所定の精度確認を達成。

この観測衛星システムは夜間のほか、曇りや雨でも地表を詳しく観測可能。観測後約1時間で白黒画像を、同
2時間でカラー画像も提供できる体制を敷く。災害にはGPSも使われるが、「点」でしか測定できない。衛
星なら「面」でとらえられ、より正確に地殻変動の様子を把握できる。ただ緊急を要する災害時の利用では、
衛星の観測頻度の向上と画像データ提供の迅速化が残件する。そこで、雨雲を立体的に観測する「GPM主衛
星」、降水量、積雪量などを観測する「しずく」といった複数の衛星を連携させることで、災害リスクの軽減
にも挑んでいる。

すでに、このシステムは、東南アジアなどの衛星とも連携しているほか、欧米が中心となって世界規模でも活
用され、大規模災害を400回以上にわたって緊急観測し、データ提供の実績を残している。これは凄いこと
だ。

   

 



● 電気自動車再考論Ⅰ

水素ステーションや純水素燃料電池車が急速にクローズアップしているが、電気自動車の再評価した方が良いのじゃ
ないかという思いに憑かれる。その切っ掛けになったのが3つの情報。その1つが、水素自動車や、PHVなど、
新エネルギーを活用したクリーンな自動車に注目が集まる中、電気自動車のパイオニアである日産自動車のリ
ア充な電気自動車「スマ
ートバーベキューカー」――スイッチ1つですぐにBBQを始められる電気グリル、冷
蔵庫、シンク付きキッチン、調理道具、生ゴミ処理機といったアイテムを搭載。さらに、遊び道具、ミュージ
ックプレイヤー等も収納され、いつでもどこでもすぐにゴミゼロ・手間ゼロのスマートBBQが実現できる機能
を始め、(1)超音波とアロマの効果で野外でも蚊をよせつけないための装置「Mosquito Barrier System (蚊
バリア)」や、(2)ドローンでセルフィーを空撮するFlying Selphie Camera (フライングセルフィー)など、
計5つのBBQを最上級に楽しむための"夢の機能"が備えたの提案――2500万円出資した人には、オリジナルで
開発、贈呈までしてくれるというもの。これは機能性(指示性)よりポジティブな表出性を全面に押し出した
アプローチで面白いこころみである。
 

2つめは、発電・蓄電と断熱・換気、家電制御の3つの要素を備える。平均的な能力の太陽光発電システムを
入するだけで、ゼロエネルギー化できるよう家全体の仕様を組み合わせた光熱費が負担にならない独自の
住宅
仕様「ゼロエコ」を適用した戸建住宅の販売。メーカパナホームが、国が進める住宅のゼロエネルギー
ZEH)化がある。2015年4月から同社の戸建住宅「カサート」や「エコ・コルディス2」にゼロエコを適用
し、販売数量の50%をゼロエコ仕様にする目標を打ち出している。

例えば2階建のカサート(延床面積120.04平方メートル)にゼロエコを適用した場合、価格は2930万円(税込)。
カサートの場合、一次エネルギー自給率は101%(ゼロエネルギーより1%多い)。太陽光発電の売電額は年
間約13.3万円、年間光熱費は約6.3万円のプラスとなる計算。エコ・コルディス2の場合は発電性能を強
化、一次エネルギー自給率は約300%。太陽光発電の売電額は年間約41.7万円、年間光熱費は約35.5
万円のプラス。尚、ゼロエコ仕様は大きく3つある。「発電・蓄電」と「断熱・換気」「家電制御」だ。発電・
蓄電ではHIT太陽電池(4.61kW)とリチウムイオン蓄電池(5kWh)を標準とした。太陽光発電で得た電力を売
電する他、蓄電池に蓄え、夜間電力や非常電源として生かす。

 

 

3つめは、ニチコン株式会社の世界初V2H(Vehicle to Home)――電気自動車の大容量バッテリーから電力
をとりだし分電盤を通して改訂の電力として使用できるシステム。割安な夜間料金電力やホーム太陽光発電の
電力を電気自動車に備えた電力を家庭へ給電することで家計の節電に繋げる。つまり、太陽光発電+充電装置
+電気自動車をつなげることで、無尽蔵の太陽光エネルギーを安定的に蓄電させながら、既存の送電網(グリ
ッド)への負荷あるいは依存を逓減させながら、環境負荷ゼロを実現できるシステムを世界に先駆け実現でき
る。しかしながら、電気自動車は走行距離が短いという技術的隘路がある。その解決の3方法の1つが、蓄電
装置の高性能化(軽量化×大容量化=低価格化)であり、2つめが道路の走行型給電システムの敷設で、これ
は情報・上下水道・電力・ガスなどのライフラインの地下埋設化と併行する公共事業への積極的な投資の決断
になり、3つめは分散化充電ステーションの急速充電化である。水素ステーションか充電ステーションあるい
はワイヤレス給電ラインの整備優先の二者択一になるが、結構、後者の方が現実的ではないか考えたわけであ
る。今後は、後者の新規事業の起業(=オールソーラーシステムの実践論)として考察を続けて行くことに。
 

 

● 2つの生物工学の最先端研究

カリフォルニア大学バークレー校)の生物工学のグループは、人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使い、"鼓動を
打つ心臓”を半導体チップ上に作成することに成功を公表。同グループはチップ上で人間のあらゆる臓器を作
成し、それぞれをマイクロ流体で接続することによって、ウエハー上で完全な人間のシステムを実現すること
を目指す。山中伸弥教授が発見した手法と同じく、皮膚の幹細胞からあらゆる種類のヒト組織を取り出すため
の方法を開発に成功。まずは薬剤スクリーニングに適用することで、(マウスなどの)動物を使わず済ませる
ことが出来れば、患者の幹細胞を使い、チップ上に臓器を形成させ、遺伝的疾患の治療の道を拓くことができ
るし、
マイクロ流路を使い各臓器を接続し、血液や生体液を運ぶことから、ウエハー上に人間のシステムを構築し、さ
まざまな臓器間における薬物の相互機能についても研究できる。例えば、心臓疾患を治療するための薬剤が、肝臓で
は毒素となる可能性もある。このようなことは、実際に患者に投与の事前評価システムに使える。さらに、生体あるいは
生物ロボットの作製にも繋がるが、これは倫理領域にも抵触するだろう。さらに、センサやアクチュエータの
基礎的な開発が――センサーについては容易に対応できるだろう――アクチュエータは、米マサチューセッツ
工科大学が現在、人工筋肉の開発に取り組んでいるという。

同チームは本物の心筋細胞を含む長さ約1インチ(2.5cm)の“人工心臓用ケース”をウエハー上に作成してい
るが、このケースに心臓の細胞を入れてから約24時間で、1分間に55~80回の速さで自発的に鼓動を打ち始め、
マイクロ流路で血液を送れる。また、鼓動の回数を増減することが実証されている薬剤に対しても、正常に反
応する。また、
マイクロ流路は養素を運んでいるだけだが、いずれは老廃物も運ぶことが出来るかもしれない、
心臓の細胞は現在まで、数週間生き続けているから生存期間を外延できる。
さまざまな種類の“チップ上の臓
器”をマイクロ流路で相互接続し、血液と生体液を流すこともできると期待されている。






さて、もう1つのセンタ生物工学。米国とシンガポールの研究チームは、昆虫のハナムグリ(ガよりも大きい)
の飛行の無
線遠隔制御研究を行っているが、小さなバックパックのようなモジュールをハナムグリに背負わせ、
ハナムグリの飛翔筋
をコントロールすることで、飛行を自在に操るというもの。なんとも惨たらしいとも思え
るほどだが、自然災害後の生存者を捜索することだが、ロボットと遠隔操作の昆虫には軍事用を含め、他にも
多くの用途が見込まれている。

ハナムグリの体重は約8グラム。モジュールの重さは1.5グラムだ。モジュールはマイコンと無線通信チッ
プ、3.9ボルトのリチウム電池の他、6個の電極を搭載している。これらの電極は、視葉(視覚情報を処理
する脳の一部)や飛翔筋に接続されている。モジュールとの無線通信は、千ヘルツの周波数で行われる。もと
もとは災害救援に小さな昆虫の群れを用いるというアイデア――昆虫にシンプルな温度センサーを搭載させて、
がれきの中を巡回・飛行させるといった方法だった。無線チップやプロセッサ、センサー、アクチュエータな
どを超小型/軽量のモジュールに集積できるようになった今、昆虫の飛行をコントロールする技術は、大きく
進歩。現在は、動物/昆虫をコントロールする目的は(監視ではなく)「人命救助」とされているが、資金は
相変わらず政府から拠出されているのが現状。

 

ハナムグリの飛行を遠隔からコントロールする際、鍵となったのは、細かい旋回を制御する筋肉を確認するこ
とだった。同チームは、ハナムグリの自然な飛行パターンと、旋回に使われる筋肉への電気刺激をモニタリン
グすべく、超小型モジュールを開発した。その過程で、筋肉は、飛翔した後に羽を折り畳むために使われると
いう、1800年代以降変わらなかった昆虫学の“常識”を覆すこととなった。研究チームは、ハナムグリの飛行
をモニタリングすることで、筋肉が羽の折り畳みだけでなく旋回もコントロールすることを突き止めている。
この研究も、倫理問題領域に抵触するものだろう。先端技術の開発とその応用には人類の倫理と環境問題が、
高速に"イタチごっこ"の問題
になる領域でもある。

 


● 今夜の楽しい悩み事 

マツダのロードスターの先行商談を行うための予約受付を、同日正午から新型ロードスターのプレWebサイトで
開始した。この新型ロードスターについてはブログ掲載している(『ロードスターと大阪都構想』)。因みに
搭載を宣言していた運転支援システム「i-ACTIVSENCE」については、車載カメラを使う「車線逸脱警報システ
ム(LDWS)」と「ハイ・ビーム・コントロールシステム(HBC)」、ステアリング動作と連動する「アダプティ
ブ・フロント・ライティング・システム(AFS)」、車両後方に搭載する準ミリ波レーダーを使う「ブラインド・
スポット・モニタリング(BSM)」と「リア・クロス・トラフィック・アラート(RCTA)」を採用。ただし
、ミリ波レーダーを用いる、先行車両との衝突を防ぐ自動ブレーキ機能「前方衝突警報システム(FOW)」や
「スマートブレーキサポート(SBS)」自動追従走行機能の「マツダ レーダー クルーズコントロール(MRC
C
)」については採用を見送る。また、スマートフォンとの連携機能を特徴とした車載情報機器「Mazda Connect
(マツダコネクト)」は、S Special PackageとS Leather Packageに搭載されているが、Sグレードは非搭載となって
いる。Sグレードの場合、オプションにCDプレーヤーはあるもののカーナビゲーションシステムを用意していな
い。市販品を組み込む1DIN/2DINポートもなく、カーナビゲーションを使いたい場合には、ポータブルタイプ
の製品をダッシュボード上に設置するなどして対応するとのことだ。

それはそうとして、現在乗っている車のダッシュボード中央部にある、カーオーディオの表示ディスプレイと操作パネルが
故障中だ。そろそろ直さなければならない。

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JR石巻線が全線開通

2015年03月23日 | 時事書評

 

 

 

 

●『吉本隆明の経済学』論 31 

 吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!     
 

  吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
 

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき   

                                                          第1部 吉本隆明の経済学    

 
 第5章 現代都市論

 1 像としての都市――四つの都市イメージをめぐって 

  第三系列と第四系列

  そうすると、都市の中であと二つ問題になる重要な系列があります。その第三番目の系列を
 「異化領域」と考えました。これは何かというと、具体的にいえば簡単なことで、ビルの中に日
 本庭園や茶室、プールをつくったり、ビルの屋上に教会やゴルフの練習場をつくったりというと
 ころが皆さんご承知のようにあります。それが異化領域です。これは第三の系列をなします。

  これはどういうことを意味するかというと、先ほどの都市論の問題でいくと、ビルの中に第一   
 次産業と第二次産業と第三次産業を包括してしまう、あるいはビルの中の第三次産業的なものが
 第二次産業的なものを包括しているとか、ビルの中に組立工業やハイテクエ業、あるいは本来地
 べたにあるべきはずの天然自然のものを包括していると考えると、第一次産業層と第二次産業層
 と第三次産業層が雑居していると考えたら一番考えやすいわけです。

  この種の領域は一見するとばかばかしいのです。つまり大げさなことをいわなくても、ビルの
 中で飲み屋さんに行くと噴水があったり金魚が泳いでいたりというところがよくあって、ばかば
 かしいといえばばかばかしいわけですが、このイメージを普遍化していくとかなり重大なことに
 なってきて、流通とかサービス業といった第三次産業的なものの中に第二次産業的なものを包括
 しているというイメージになります。あるいは組立工業とかハイテク工業を小規模で包括してい
 る、規模を大きくすれば、都市の中で第一次産業、第二次産業、第三次産業の割合がどうなって
 いるかという問題とまったくパラレル、あるいは対応するものになります。 

  たとえば東京の第一次産業、農業なら廃業を考えると、東京の農業というのはO.2%、人口
 にしても生産高にしてもその程度のものだと思います。それはどういうモデルになるかというと、
 ビルディング、建物の問題とすれば、ビルの中にちょっとした植え込みを入れてあるというイメ
 ージになります。

  その問題をもっと重要なことでいえば、国家、社会はやがてどうなっていくのか、特に先進的
 な国家、社会はどういう方向にどうなっていくだろうかと考えると、第一次産業がO.2%であ
 るというところまでは行くと考えたらよろしいと思います。つまり行く可能性はあるんだよ、東
 京という都市はそのモデルだよとお考えになったら、かなり重要な国家、社会の問題になってき
 ます。

  そして、農業あるいは第一次産業がO・2%になるということは国家、社会の理想かどうかを
 問うことになります。理想であろうがなかろうが、必然的にそうなっていく、それは防ぎようが
 ないよとお考えになるか、あるいはエコロジストみたいに、緑を犬切にすれば変わると思う人も
 いる。しかし本当はどうなのかということもありますし、どれが理想なんだという問題は直ちに
 問われてしまいます。

  どれが理想の国家、社会なんだと問われるように、どれが理想の都市なんだということは同じ
 ように問われてきます。東京は理想の都市なのか。農業、第一次産業がO・2%、それで都市と
 いうのはいいのかということになります。しかし、これが一種の究極都市のイメージに近いとい
 うのは間違いないことで、理論上、原理上は東京の農業はゼロになってしまうかもしれません。 

  そうしたら第二次産業と第三次産業の問題になって、緑はどうしてくれるんだということが問
 題になります。緑というのはその場合には、つくる以外にないんだということになってくると僕
 は思います。そんな都市は嫌らしい、とんでもない都市だからぶっ壊してしまえというエコロジ
 ストたちの主張もあります。しかし、これは直ちに重要な問題で、近未来のうちに問われるだろ
 うと僕は想定します。

  たとえば僕の暗記しているデータが間違いでないとすれば、イギリスは農業が2%ぐらい、ア
 メリカは7%ぐらい、日本は9%ぐらいです。これが減っていくということはもうどうしようも
 ない。モデルがすでにあるわけです。それはいったい国家、社会の理想なのか。農業が2%とい
 うイギリスは理想の社会なのか。皆さんがいやこれは理想じゃないと思われるなら、何を理想と
 考えるのか、どうすれば理想になるのかという問題にすぐにぶつかります。

  この第三系列の異化領域は一見すると、ビルの中に日本料理屋があって、一杯お燗をつけて飲
 んできたよとか、そこに茶室があって、お茶会のまねごとをしてきたよといえば、僕らのちょっ
 とした仕事が終わってからの飲み代になるわけですが、この問題はそんなに簡単ではなくて、い
 かようにも重要な問題に数行することができるように僕は都市論をつくってきました。それは重
 要な問題です。だからいつでもどういうのが理想なんだということを問われています。ビルディ
 ングも、都市も、国家、社会もそれを問われているというのが現状だと僕には思えます。

  差し当たって東京という都市がモデルであるように、第一次産業、つまり農業みたいなものが
 O・2%ぐらいになってしまうのは避けがたいことだとお考えになるのが、怖いことだけれども、
 常識的だと考えたらよろしいと思います。国家、社会の問題としてもそうじやないでしょうか。
 先進国からどんどん第一次産業がゼロに近いところに行くだろう。あるいはそれをやらないなら
 第一次産業を天然、自然を相手にする産業からハイテク産業に変えるというやり方をするか、ど
 ちらかだと思います。

  そうしたら不衡はどのように生じるかといったら、東京と地方との不均衡から類推すればわ
 かるように、第三世界、アフリカとかアジアのある部分が農産物あるいは第一次産業担当地域に
 なって、先進国からだんだん第一次産業がなくなっていくというタイプの社会が、黙っておけば
 近未来のうちにできあがります。そのとき、その不均衡をどうするか。

  何か不均衡なのかというと、所得が第一に不均衡です。天然、自然を相手にする産業に従事し
 ている限り貧困から逃れられないということは、経済学上というと、僕は経済学者ではないのに
 生意気だといわれるからそういわないで経済工学と称していますが、経済工学上の定理ないし公
 理です、だから農業、農産物担当地域と漁業担当地域が世界中で貧困を背負うことになり、先進
 国から高次な社会が出現することになり、この不均衡はどうするかということになります。

  そうすると、贈与ということが経済工学上問題になってきます。つまり、交換価値ないし価値
 を主体とする経済学というのはそこでアウトになるだろう。贈与価値を主体とする経済工学上の
 考え方をしていかないと、不均衡は世界的な規模で是正できない。それは割合に近い時期になっ
 てくるでしょうと僕自身は考えています。

  そこのところで国家、社会というのはどうなったら理想なんだという問題に対する解答をいつ
 でも問われていると考えられたらいいと思います。この問題を小なる領域、小なる地域、あるい
 はビルディング内部でもいいんですが、そういうところで提起しているのが第三の系列に属する
 異化領域という場所だと僕には思われます。

  もう一つの系列の領域があります。これは皆さんがこのビルの窓から外を眺めればすぐに見ら
 れる風景がそうなんですが、隣のビルの人影を見ると事務をやっている。ここはそうでもありま
 せんが、そのビルの窓越しにJR線の電車か新幹線の列車が走っていたら、その中にまた乗客が
 立っているのが見えたというふうに、かつては一視野の中ではとうてい収まりがつかないような
 風景、何視野もなければそれだけの風景は見られないという風景が一視野の中に重なって見えて
 しまいます。もっと簡単なことをいえば、ビルの密集地域みたいなものがあります。これを第四
 の系列と考えると、これもとても重要な問題をはらんでいるんじゃないかと僕は考えました。

  およそ僕の分け方では、この四つの系列をつくると、イメージとしての都市というものを尽く
 せる。そのうち、異化領域と、視野が重なり合って過密しているイメージ、つまり過密したイメ
 ージがいつでもつくれる、いくつもの視野を想定しないとこれだけのものは見られない、そうい
 う二つの領域が、いまも重要でしょうが、これからも重要な領域になる。そしてそれだけを考え
 ればだいたい現在の都市の持っているイメージというのは尽くせると僕自身は考えて、四つの系
 列を選びました。




  異化領域と過密領域

  いま申し上げた重要だと思われる二つの系列について僕が考えたところ、もう少しぐらいは考
 えることができたので、そこのもう少しというところを申し上げてみます。第一に、どういう都
 市が平均的な都市かを想定するとします。そうすると日本の場合、都市も農村も含めて平均する
 とどうなっているか、第一次産業、つまり農業・漁業・林業のパーセンテージが人口でいくと8
 %ぐらいです。

  農業についていってみると、その8%ぐらいのうちの14%が専業の農家です。ですからかなり
 少ない農業人口になってしまいます。あとは兼業の農家です。兼業農家というのは二つあって、
 主たる働き手が正規の会社勤めをしている農家が第一種です。第二種は主たる働き手でも従たる
 働き手でもいいんですがパート、アルバイトで働いている農家です。現在の日本の農業の大部分
 は兼業農家で、専業農家は8%X14%、つまり8%のうちの14%に過ぎない人口が農業をやって
 います。

  よくよく考えると大変心細いということになりますから、論理としてだけいえば、農業の自給
 自足とか農業の自由化を阻止するといういい方はまったくナンセンス、成り立たないわけです。
 だいたい専業農家は8%の14%だけしかいないわけで、それで日本国なら日本国の食料を自給し
 ようというのは夢のまた夢、架空の論議であるということがわかります。これはだんだん減って
 いく一方であり、その種の論議というのは原理的にいえば問題にも何にもならない論議になって
 きます。僕の基準はちっとも保守党的ではないんですが、その手の論議をやっているのはうんざ
 りなんだと僕には思えます。つまり原理的にはもうそうなっているのです。

  第二次産業、つまり製造業とか建設業などが人口でいって33%ぐらいです。第三次産業、つま
 りサービス業とか流通業・娯楽業・教育などの産業が人口でいって57%、生産額でいえば60%ち
 ょっととなっています。
  だからいってみると、異化領域という場合、もし一つのビルの中に自然的な地べたに元来ある
 べきものと製造業・組立業的なものとサービス業・流通業的なものが、8%、33%、57%という
 割合で含まれているとすれば、それが日本の平均的なビルのあり方だということになります。ま
 たそれと対応するように、都市においてもそういう割合であったならば、それは日本における平
 均的な都市のあり方だということになると思います。

  その平均的ということは中性点、中立な点であり、よくもないし悪くもない点だということに
 なります。しかし別な意味から言えば、平均的な点というのが一番正常な判断力が存在できる点
 だということもできます。一つのビルの中の構成割合が平均的なパーセンテージから偏っている
 とすれば、そのビルはいいビルかもしれないし悪いビルかもしれません。それを判断するのは違
 う分析をしなければいけませんが、それが平均的から偏っているのは間違いないことだといえる
 と思います。ですから平均というのはよくも悪くもないということですが、逆にいうと、これが
 基準ですよ、常識ですよということになります。

  そして大なり小なり現実の都市というのは平均からずれるようにできあがっているし、マイナ
 スのずれが平均のほうに近づきつつあるか、そのどちらかのかたちが現在の日本の全体の社会で
 占めている感じ方、状態ではないかと思われます。それが現在の都市の領域だと思います。 
  ですから異化領域を考える場合、ビル=都市という一つの外枠、モダンな言い方をすればパラ
 ダイムをつくって考えれば、都市における異化領域の問題というのは考えやすくなります。都市 
 の枠組みもまったく同じように存在すると思います。それが現在の平均的な都市からのずれの問
 題です。

  ビルの将来がどうなるかについて極端にいえば、第三次産業層、第三次段階が100%近くを
 占めてしまうビルになっていくかもしれませんし、そうではなくて第一次産業だけがなくなって
 しまうビル、現在の構成が割にそれに近いと思いますが、そうなってしまうかもしれませんし、
 さまざまな形態が考えられます。

  現在、第三次産業あるいは第三次段階が100%を占めているビルというのは少しはあります
 たとえば東京タワーはそうだと思います。もう少しましな一つのビルが一つの観光会社であると
 か、同時に一つの都市の作用で、そこに二四時間ではないけれども人口が5万とか10万いるとい
 う都市ができあがっていって、近い将来その数は増えていくだろう。それをとどめる力はまず存
 在しないのです。

  たとえばナチス・ドイツならナチス・ドイツで、ヒトラーが国家権力を握ったとき、一般法律
 のほかに、総統合みたいな臨時法令をつくって、この都市はこうでなければどうとか、こうすべ
 しという人工的なことをやって、都市のあり方とかビルディングのつくり方に対して統制を加え
 た事実があります。あまり望ましくない政府ができて、そうやれば強制はできるでしょうが、そ
 れとてそんなに長続きするものではありません。文明の一種の自然の方向性というものを変える
 ことはできないので、多少遅くするか早くするかという違いがあるくらいで、僕はそういう勢い
 は止められないと思っています。

  第三次段階あるいは第三次層だけでできあがったビルそのものが一個の都市をなします。たと
 えばプランだけなら現在でも二つか三つ出ていると思いますが、超超高層ビルみたいなものをぶ
 っ建てて、そこで一つのビルが二、三〇万の人口を持った都市としてつくってしまう。上から下
 へ、下から上へ行くにはリニア装置がついたエレベーターで行くとか、プランだけはあると思い
 ますが、その手のワンビル・ワン都市、そういうビルがつくられ、そういうふうになっていく可
 能性も割合に近い将来に多くなると僕には思われます。[一部欠]それは追々増えていくだろう
 しいかようなこともできるだろうと思っています。

  もう一つはビルだけではなくて、都市自体を人工都市としてつくってしまうというかたちもで
 きあかつていくだろう。そこでもどういうのが理想的な人工都市なのかということが直ちにいろ
 んなところから問われると思いますが、一番わかりやすいのは第一次段階の産業と第二次段階の
 産業と第三次段階の産業を人工都市の中でどう案配し、どういう割合でつくるかです。

  現在でも人工都市に類似したものが存在しないわけではありません。その場合には、現在ある
 のは全部が消費都市だと考えたほうがいいようなものです。たとえば東京ディズニーランドであ
 ったり、大阪の西武がやっているつかしんであったり、全部が消費都市というかたちで、人工都
 市のモデルをつくっています。しかし、もしも郊外とか山を切り開いて、そこで理想的な人工都
 市をつくれということになったとした場合、どういう割合でどうつくればいいかということは直
 ちに問われると僕には思われます。

  そういうふうに考えて人工都市が設計されつくられたということは現在までのところ、日本で
 は存在しません。日本ではせいぜい建築家というのがいて、建築家の良心に訴えて、緑が大切だ
 と思う建築家はこういう設計をしてというかたちでつくられている都市とかいわゆるニュータウ
 ンといったものはありますが、それは必ずしも理想的につくられているわけではなくて、設計者
 とか施工者の良心でもってつくられています。

  たとえば現在みたいに縁が大切と社会的に言われていると、建築設計家もそういうことを考え
 たり、建築家としての理論的な問題というのももちろんあるわけで、その理論的な問題に照らし
 て自分の理念にかなう建物を設計してつくるとか、それに伴って街区や都市をつくるというもの
 はありますが、本当に理想的な人工都市とはどういう都市を指していうのかという問題について
 きちっと考えられてつくられた都市というのは存在しません。存在しないから理想的なものとは
 何なんだということは決めるのがなかなか難しいけれども、これは専門家の衆知を選りすぐって
 というふうに持っていけば、割合に簡単に弾き出すことはできるでしょう。つまり弾き出した設
 計をして、かつそれを実行するということがなされていないというだけで、弾き出すことは容易
 にできると僕には思われます。

  どんな国家社会が理想的な社会かというのも弾き出すことだけならば、専門家が寄り集まれば
 できると思います。理想的な国家、社会はこうだとわかっているつもりのやつが寄り集まって変
 な国家をつくって失敗したりしていますから、主観的に、知識人的に、あるいは知的にこれが理
 想なんだと言っても、そんなことはちっとも当てにならないので、理想の設計という場合、他者 
 というのがいるわけです。


  理想の設計には他者=一般大衆が必要

  どこに他者を想定するか。僕の場合には非常に単純です。つまり平均人、川崎徽さんの言葉を
 使えば、一般大衆です。理想の国家、社会をどうつくるかという場合の他者としては、一般大衆、
 それが唯一、他者になりうると僕は考えています。その他者を絶えずにらまえて知的な理想を弾
 き出さないと、要するにソ連とか東欧みたいに失敗します。あれは主観的な善意とかインテリの
 うぬぼれだけでやってしまったから、一般的な他者あるいはいうことを聞く大衆だけを目当てに
 してつくるからああいうことになるので、そうじゃない、いうことを聞くか聞かないかわからな
 い一般大衆、つまり平均人、そういう人を他者として照らし出さなければ、仮に弾き出しても失
 敗すると僕には思われます。国家、社会はどういうのが理想なのかという場合、一酢難しいのは
 そういうことのような気がします。

  それから現実的な条件としては、かつては一般大衆というのを想定しても、もしかすると明日
 お米を食べられないかもしれないぜという意昧合いの貧困が想定できたわけですが、現在の日本
 もアメリカも欧州も一般大衆というのは、お前の生活程度はどのくらいだと思うかというアンケ
 ートをすると、80~90%近くの人が自分は中流だと主観的にいうわけです。具体的にいえば、僕
 もビーピーしていますし、ピーピーしている人は多いと思うんだけど、僕がピーピーしているか
 ら俺は下層だといったら怒られてしまうと思うんです(笑)。ですからそういうこととは少し違
 います。

  しかし、自分は中層で中流だといっている人が日本国民の80~90%いるというのは恐るべき社
 会であって、これで平均人といってはかにすると、相当大変な人たちの固まりだということにな
 って、これを他者として想定しない限り、理想の国家、社会というのはどうなんだというその理
 想というイメージがつくれないし、理想の都市とは何だというのをもし人工的につくってみせろ
 といわれた場合でも、よくよくそのことを考えなければつくれない。つまり本当の難しさはそこ
 にあると思いますが、一通りの理論でいえば、平均人、平均都市というものを他者として理想の
 都市の設計を考えれば、それはだいたいにおいて大過ないというデータが出てくると僕には思わ
 れます。それはつくられていませんが、つくろうと思えばつくれるんじゃないでしょうか。

  つくれる場所は日本だって二つあります。一つは日本では都市、街というのはだいたい後ろが
 山で、前が海で、平地の真ん中に川が流れて海に注いでいて、山間というか山と河岸壁のところ
 に平地が広がっている所です。そうでなければ、かなりの標高のある低い山に囲まれた一種の盆
 地、海抜の割に高い盆地ですが、日本の街ができる地勢というのは犬ざっぱにいえばその二つし
 かありません。

  森林を伐採するのはけしからんというけど、日本の場合、山岳地帯というのはべらぽうに多い
 んです、だから森林を伐採して平地にしてということは、僕はそれ自体が悪だとちっとも思って
 いません。日本というのは山と海とに囲まれた狭い地域とか山の中の盆地というところに街がつ
 くられていて、その面積は、皆さんがデータをお調べになればすぐにわかりますが、非常に少な
 い領域です。

  ですから人工の都市をつくる可能性はたくさんあります。もちろん海のほうに広げるというの
 は安直ですから、東京でもやられているし、一番見事にやられているのは福岡だと思います。そ
 ういう意味合いで都市として発展すると思えるのは千葉ですが、そういうところは現にやられて
 います。しかし、そうではなくて、人工的な都市をつくれという場合には、内陸部で山を削ると
 いうことになっていくのではないでしょうか。

  それくらい日本の街というのは全体領域としていえば挟いし、森林が伐採されているといいま
 すが、森林の伐採されている度合いはきわめて少ないことが皆さんがデータを広げてご覧になれ
 ばすぐにわかります。それほどイメージが違ってしまうんです。社会的通念としていわれている
 イメージと、皆さんが本当に目をさらしてデータを調べてというふうにされたら、まるでイメー
 ジは違ってしまうと思います。異化領域の問題としてそれをもっと広げていくと、その問題とい
 うのは存在すると僕には思われます。


  過密領域

  それから視野が重なっていく過密領域、重畳領域ということになりますが、これには過密重畳
 現象のあまり、イメージのいくつかの特色が表れます。それをいくつか挙げておきましたが、一
 つは重畳現象があまりにひどくて極端で、視野を行使すれば十人分の視野ぐらいはすぐに集まっ
 て重なって見えてしまうというかたちになってくると、イメージと現実とが同一化して、溶け合
 ってしまうという現象が起こります。錯覚としてなら皆さんも体験されたことがあるでしょうし、
 僕も体験したことがあります。おやっと思って、これは現実のビルの窓から見ている光景とは思
 えないよとあるときある瞬間に感じたということは誰にでもあるでしょうが、現実とイメージと
 の溶け合いが起こってしまうというのが一つ重要なことです。

  僕が唯一こういうのを具体的な視野で見だのは、後楽園の遊園地で観覧車に乗って、ジェット
 コースターが走っているそっちのほうを見たときの視野が典型的にそうです。後楽園内部の建物
 とか、ジェットコースターのレールもそうですが、そういう設備と、その周りを取り巻いている
 三、四階の低いビル、その向こうの後景に見える割合に高いビル、そういうものとの区別がまっ
 たくつかなくなることがとてもよくわかります。

  つまり、人工的な一種のキンダーランド、子ども子どもした稚拙な場所が町中にあるとすると、
 それはある視覚から見ると、町中のほうが遊園地の続きなのか、それとも遊園地のほうが町中の
 続きなのかは区別がつかないというふうに、景観を体験することができます。僕は少なくとも観
 覧単に乗ったその視覚から見た後楽園の遊園地というのはそういうふうに見えて、大変興味深い
 場所だと思っています。

  その手のことはある瞬間あるとき誰も体験するということはもちろんそうなんですが、重畳領
 域における作用、あるいはそれに視覚あるいは視覚的イメージが慣れていく作用というのは、イ
 メージと現実のものとの区別がだんだん溶け合ってしまう体験だと思われます。これは現在では
 技術的にもっと高次な体験を機械的にすることができる装置ができていると思いますが、機械的
 な装置ではなくて、具体的に現実の都市の中の場面として重畳した領域というのは、イメージと
 具体的あるいは現実的な街との境界が溶け合ってしまう、わからなくなって同一化するというこ
 とが起こります。

  もう一つ起こることがあります。この都心でもある場所からある視覚であれば必ず、境界が溶
 け合ってしまって、映画でも見ているようだなという感じを体験することはできるのではないか
 と思います。




  感心した長島温泉

  僕が境界の溶出ということでもう一つ体験しだのは、名古屋から三十分ぐらい行ったところに、
 長島温泉という俗悪無類のといわれている温泉場があるんですが、そこはびっくりしたところで
 す。たとえば旅館がビルになっていて、もちろん温泉が中に引いてありますし、共同浴場もあり
 ますというふうにできている。そして共同浴場から手ぬぐいを引っかけて部屋まで帰る途中の両
 側にスタンドやバー、飲み屋があったりして、そこでお湯に入った帰りがけに一杯ビールを飲ん
 でということが通路からすぐにできる。また朝は朝市がビルの中に立って、海産物とか干物とか
 第一次産業の産物をそこのビルの中で買うこともできるし、もちろん見ることもできるというふ
 うになっていました。

  それからド駄を突っ掛けたら怒られてしまうから靴を履いて庭からドりると、庭の続きが後楽
 園遊園地みたいなキンダーランド、遊園地になっていて、ジェットコースターもあれば観覧車も
 あり、子どもと大人が遊ぶ何でもあります。おまけにヘリコプターの基地まであって、一人二千
 百白円か三千円を出せばヘリコプターでそこから飛び立って、あたりを三、四分見せて戻ってく
 る。それがちゃんと庭続きにそういうふうになっているということで、そこでも境界が溶けてな
 くなっているわけです。

  僕はそれに大変感心しました。温泉場といえば深山幽谷の山の中の湯、お風呂場で人里離れて
 たまにはゆっくりしたいなとも思いますが、長島温泉的にあそこまでやれば、これはどうしよう
 もないよというくらい、すごいものだなと思いました。金は取られるわけですが(笑)、うまく
 できていて、サービスから何から、不愉快とか不便に思うことは何一つない。深山幽谷の温泉場
 もいいけれども、その場合には多少何とかが不便だなとか、ここで一杯飲めたらな、でもそれは
 ちょっとできないなとか、ここで何々を食べたいんだけど、それは無理だなとか、いろいろ制約
 がある。つまり第二次産業、第三次産業を犠牲にして深山幽谷で休むわけですが、こっちのほう
 はそういう意味合いでは至れり尽くせりです。とにかく文句をつけさせるところは、金だけです
 ね(笑)。全が高すぎるよと文句をつければ別ですが、それ以外には何もない。

  これは一つの極限の見事さで、ここまでやるなら感心する以外ないよ、一種の未来都市、未来
 像だよという感じです。そういうことばかりいってよくこのごろは怒られるわけですが、歌詠み
 の会があって、おしゃべりするので名古屋に行ったんです。今日はこれからどうされるんですか
 と言うから、ほかは一杯でそこしかなかったんだとか言いながら、長島温泉に行くんだといった
 てくれば似ている言葉を突き出すこともできますし、似ているといえばいえそうなところもある
 でしょうということだと思います。

  かくのごとくクレオール化か起こると、どちらにも似ていない第三の言葉ができるわけです。
 その第三の言葉ができた場合には、言語学者にいわせれば、一種の稚拙化か起こるそうです。こ
 れは日常体験することができます。たとえば韓国人でも中国人でも日本語を使うと、「私、中国
 人」とか「私、韓国人」というでしょう。また日本人が韓国人や中国人に日本語を説明するとき、
 ちゃんと日本語でいえばいいんだけど、ときどき「私、日本人」というふうに、助詞とか助動詞、
 動詞を抜かしていいたくなるということがある。それは稚拙化の一種で、二つの違った言語が境
 界面でぶつかってきたところに起こる一つの現象です。


  
稚拙化の表れ

  僕の理解の仕方では、これらの先鋭的、前衛的な建築設計家たちが設計して実現しているもの、
 それから部分的にいえば入王都心、人工地域みたいなもので現在やられているモダンあるいは超
 モダンなプランというのは、一般的に概していえば稚拙化の表れだ。段階の違う境路面にぶつか
 らざるをえなくなって、ぶつかったあげく稚拙化か起こっていると理解するのが一番いいと思い
 ます。

  現在の建築というのは、名だたる建築家たちが設計したと称せられているもの、稚拙化といっ
 てしまえばいいきれてしまうみたいなものが多いんです。それは問題意識を煮詰めていくと、段
 階の違う、産業でいえば第一次、第二次、第三次というように、つまり第一段階、第二段階、あ
 るいは第一層、第二層、第三層というふうに、レイヤーの違うものの境界面にぶつからざるをえ
 なくなっているから、その種の設計とかプランができてしまうということがあります。つまり、
 高度だと思っていて、たしかにある面は高度なんですが、別な面から見ると、一種の稚拙化か起
 こっているといっていい。

  ですから一人の人はシュルレアリスムの方法が有効だと思うみたいなことをいっていますが、
 シュルレアリスムみたいに無意識を解放すれば稚拙化かそういう面から起こるのは当然だともい
 えます。しかしシュルレアリスムの問題ではなくて、イメージの問題としていえば、超シュルレ
 アリスム、ハイパーリアリズムという問題になっていく。つまり、現在およびこれからの無意識
 をつくるということの問題がイメージの先端的な問題なんだと僕には思えます。

  この先端的な問題と理想的な問題とは必ずしも一致しませんが、理想というのは先端的であれ
 ばいいか、新しければいいか、全部間違っているから間違っていないやつを選べばいいかといっ
 たらそんなことはないので、いつでも一般人的なもの、平均人的なもの、あるいはそのときの平
 均都市的なものを絶えず他者としてこっちに持っていなければ、どんな先端的な試みも危ういで
 しょうね、と僕自身は考えています。

  僕が自分なりの考え方で都市論をやってきて、いま自分なりにはわかってきたと思えていると
 ころはそこらへんまでで尽きてしまいます。だいたいお話しできたと思っていますから、一応こ
 れで終わらせていただきます。

                                 第一部 吉本隆明の経済学 
 

この項で吉本は重要なことを言っている。科学技術力あるいは産業の高度化により、第一次産業の相
対的な生産高の退潮により、所得格差拡大を指摘し――
そうすると、贈与ということが経済工学上問
になってきます。つまり、交換価値ないし価値を主体とする経済学というのはそこでアウトになる

だろう。贈与価値を主体とする経済工学上の 考え方をしていかないと、不均衡は世界的な規模で是
正できない。それは割合に近い時期になってくる――と。ところが農業をコアとした第一次産業の高
次化が加算的に起こるだけでなく、相互浸潤的に多乗的に進行するゆえ、農業生産高の退潮は一定水
準で下げ止まり、従って、市場経済性が機能維持し交換価値機能が簡単にはなくならないとわたし(
たち)は考える。もうひとつ、「日本の場合、山岳地帯というのはべらぽうに多いんです、だから森
林を伐採して平地にしてということは、僕はそれ自体が悪だとちっとも思っていません」との彼のエ
コロジスト感を述べているが、人間の環境に与える影響力評価あるいは生態学的な見識には不満であ
った。
   
                  
     
                                              
                                                       
                                      
  
  (この項続く) 
 



● JR石巻線が全線開通


東日本大震災で被害を受けた宮城県のJR石巻線が、2015年3月21日に4年ぶりに全線開通した。不通
だった宮城県女川町の女川‐浦宿がつながり、朝6時12分に女川駅から一番列車が出発。津波で被害
を受けた女川駅も再建されたという朗報だ。

   

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3つの最新表面科学技術

2015年03月22日 | ネオコンバーテック

 

 







● 3つの最新表面科学技術

1.2マイクロメートル水素貯蔵合金粒からの水素放出を可視化

水素は、燃焼しても二酸化炭素を発生しないことから、重要なエネルギー源として。また、電力エネ
ルギーの貯
蔵媒体としても注目されているが、例えば、水素燃料電池自動車の普及のため、安全で安
価に水素を供給する水素ステーション設置が急務の課題で、水素貯蔵には高圧ガスとしてボンベに貯
蔵する方法や金属に水素を吸蔵させる(水素吸蔵合金)方法などがある。その中でも水素吸蔵合金を
使用する方法は、水素を固体の水素化物として貯蔵するため比較的低い圧力での貯蔵が可能であるこ
となど安全面での長所があります。そのなかで水素貯蔵合金は、吸収した水素を内部に貯蔵し必要に
応じ放出することが可能な材料で、水素ガスの体積を千分の1まで小さくして貯蔵でき
実用的には、
室温付近で、大量、コンパクト及び迅速に、繰り返し水素の吸収及び放出が可能なことが条件に
なり、
代表的な水素貯蔵合金として、Mg、MgNi、LaNi、及びTiFeが知られている。

しかし、上述の各種の水素貯蔵合金にはそれぞれ問題点があり(1)MgやMgNiは、水素の吸
脱温度が室温よりもかなり高い。(2)次に、LaNiは、Laがレアアース(レアメタル)であ
るため、非常に高価格であるる。(3)また、TiFeは、水素貯蔵合金として用いる際に活性化処
理が必要で、この活性化処理とは、H雰囲気下で、高温(400℃以上)、高圧(数十気圧以上)
状態を1~2時間維持する処理でまた、一度大気中に曝して水素を放出した後は、再度の活性化処理
が必要である。


※ Titol : Evidence of the hydrogen release mechanism in bulk MgH2

こんかいの九州大学の松村晶教授らのグループは水素ステーションで用いられる水素貯蔵マグネシウ
ム合金の水素放出過程の直接可視化は世界初めての成功。現在まで、金属の水素吸放出のメカニズム
とプロセスを解明し、安全で効率的に水素ステーションのシステムを制御、運転するためには必須で
あるにもかかわらず、測定方法の難しさからそのメカニズムは未だに解明されずにいたが、議論とし
ては(1)水素化物の結晶粒の内部からの核形成、成長による水素の放出と、(2)水素化物の結晶
粒の外周表面からの水素の放出の相反する2つのメカニズムがなされていた。

 

つまり、工業的に使用されているマイクロメートル程度の大きさの粒子の水素化物では、予め内部に
残存している水素化されていないマグネシウムの領域が水素放出過程で重要な役割を担い、水素化物
の内部から水素放出が進行することが明らかになった。こんかいの成果から例えば、温度上昇の速度
や一定温度保持での水素放出過程の測定することで水素放出過程の速度制御できるため、実際に水素
ステーションの水素貯蔵システムの制御、運転に生すことができる。

2. 単純構造の安定なぺロブスカイト太陽電池の作製に成功

物質・材料研究機構(NIMS)の研究グループが、安価で高効率な次世代太陽電池として期待されるペ
ロブスカイト太陽電池について、再現性や安定性が良く、理想的な半導体特性同太陽電池の構築に成
功した。これまでペロブスカイト太陽電池は高い変換効率を示すものの、再現性が低く、また電流-
電圧曲線の電圧掃引方向によって電流が変わるヒステリシスが観測され、安定性に足りる太陽電池が
できていなかったが、(1)雰囲気制御が厳格な有機薄膜太陽電池の作製手法をペロブスカイト太陽
電池の作製工程に導入、水分や酸素濃度を除くと共に、太陽電池構造をできるだけ単純化したペロブ
スカイト太陽電池を作製。(2)作製したペロブスカイト太陽電池の電流—電圧曲線のヒステリシスが
なく、安定性にも問題が無く理想的なダイオード特性を示したという。鉛フリーという側面を除いて
廉価で、変換効率20
%以上の可撓性をもったソーラーセルの出現で移動携帯電子デバイス市場の急速な
拡大を担保する研究成果である。

 



※ Simple characterization of electronic processes in perovskite photovoltaic cells

 



● 赤外線レーザー照射による層状物質の構造制御が可能に

産業技術総合研究所の研究グループは、層状物質である六方窒化ホウ素(hBN)の層間距離を赤外線レー
ザー照射により縮められることを第一原理計算によるシミュレーションで理論的に示したことで(1)
強度をコントロールした赤外線レーザーで層状物質の構造を制御でき、(2)物質の格子振動を赤外
線レーザーで誘起することにより層間引力を増大させ、(3)原子同士の層の隙間を利用した化学反
応による
新たな材料開発が可能になる――格子振動による層間引力を生み出す仕組みをシミュレーシ
ョン解明に成功。

原子1個分の厚みしかないグラフェンなどの層状物質は、電子物性の特異さ(高いキャリア移動度や波
長によらない光吸収など)や層間への物質の取り込みなどを利用し、低消費電力で動作するトランジス
タ、高効率の光・電気信号変換デバイスや高感度センサーなどの幅広い用途が期待されており、層間
距離に依存した電子物性の研究が進められてきたが、これまで層間距離を任意に制御する技術はなか
った。今回の成果で赤外線レーザーは市販の装置で発生させることができ、その照射により層を一層
ずつ剥がすことと複数層を同時に蒸発させるなど、層状物質をさらに細かく分解する応用が顕著であ
った。この提案は、ホウ素原子と窒素原子が交互に並んで六員環を成した蜂の巣状の構造をもつ方窒
化ホウ素
(hBN)の格子振動と共鳴する波長の赤外線レーザー照射によって、巨大な振幅でそれぞれ正
と負の電荷をもつホウ素原子と窒素原子が反対方向に変位する振動を生じ、この振動により層間に、
クーロン力が発生し、層間距離を元の距離の10%以上も縮められるというシミュレーション結果を
得たことで、層間距離を制御しながら層状物質の隙間に取り込んだ化学物質の反応を起こすなど、新
規材料開発に貢献する。

今後は実験的研究によりこの理論を裏付けるとともに、原子層材料の層間に取り込まれた化学物質の
新規反
応が赤外線レーザーによる層間距離の圧縮で誘起される可能性を研究開発し、従来では得られ
ない新材料
の開発を目指す。また、従来は主に熱的な効果のみが注目されていた赤外領域のレーザー
の応用範囲を
格子振動の誘起に伴う新たな化学反応の開発へと拡大が期待される。なお、この技術は
「ネオコンバーテック」対象市場に寄与する「デジタル革命渦論」をさらに強固に拡大させていくこ
とになるだろう。以上3つの最新技術を俯瞰してみた。ますます、面白い ^^;。
 

 

●『吉本隆明の経済学』論 30 

 吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!       

  吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
  

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

 

                                                         第1部 吉本隆明の経済学    

 
 第5章 現代都市論

    解説

   吉本隆明は現代都市の問題を考えるときも、アフリカ的段階からハイパー都市まで包摂
  できる大きな射程から、ものごとの全体を見渡すやり方をとる。そこで東京・浅草のアサ
  ヒビールのビルの屋上に乗っているうんこ型の巨大オブジェを見ても、そこに第一次産業
  的要素へ肥料)が第二次産業(ビール製造)と第三次産業(ビアホール)と結合した「ク
  レ
オール化(稚拙化)の現象を起こしているのだという独創的な見方をしてみせる。

   ここには第一次産業と第二次産業と第三次産業を結合した第六次産業(1+2+3=6)

  こそが、農業が前向きに打って出て生き残る道であるという、最近の官民を巻き込んでの
  運動などの本質にあるものが、思想によって解き明かされているともいえるし、現代都市
  の進化の最前線で起きている建築哲学の向かおうとしている方向を説明するものともなっ
  ている。資本主義が消費資本主義の段階に入り始めている。それによって産業構造全体が
  本質的な変化を起こし、それを反映して都市設計にクレオール化現象が発生している。吉
  本隆明の都市論は、そのような本質的な場所から考えられていく。その意味では、吉本の
  都市論はもっとも広い意味での経済論に包摂されていると言える。

   吉本隆明は都市論の鍵は「視線」にあると考える。都市を視線の構造によって四つの系
  列に分ける。
   第一系列:低い住宅が並ぶ下町の市街地。この町並みは自然に見渡すことができる。こ
  のとき人は身長の高さの水平な視線と、真上からくる視線とを同時に用いて都市の自立像
  を得ている。
   第二系列:ビルとビルの谷間につくられた人工的な広場。ここでは水平な視線に、下か
  ら上を見上げるしかない垂直な視線が交わっている。
   第三系列:異化領域とも呼ばれる。ここではサービス業のために建てられたビルの屋上
  に畑や林が設けられ、壁面に線が植え付けられ、そこにハイテクエ業が同居していたりす
  る。そうすると巨大オブジェを頭にのせた浅草のアサヒビールのビルのように、見上げた
  屋上から自然的(第一次産業的、排泄的)な要素が下に向かって落ちてくるような、ねじ
  れた視線構造が生まれる。
   第四系列:ビルの密集地帯で、高層階から別のビルを見たとき、いくつもの視野が上空
  で重なり合っている感覚が生まれる。上空にある視線同士が重なり合っている構造である。
  高層化する都市が生み出す新しいイメージ群。

   これらの中で、吉本は第三系列の都市構造にいちばん興味をもっているように感じられ
  る。それが彼の考える超資本主義の段階に深く関わっているからである。


 1 像としての都市――四つの都市イメージをめぐって 

   都市論と国家論、社会論はパラレル


  いま紹介をいただきました吉本です。
  自分が都市論に関心を持って、像、イメージとしての都市ということで都市論をやり始めたと
 きは、ちょうど、現在の国家、社会がいったいどういうことになっているのか、どういう方向に
 行くのか、どういうふうに行けば理想なのかというのが僕自身の中でもなかなかわかりにくくな
 ってきたぞという時だったと思います。都市が現在どうなっていて、これからどうなるか、どう
 なるのが理想なのかということは、僕の考え方では、国家、社会が現状はどうなっていて、これ
 からどうなっていくのか、どうなっていけば理想なのかということのわからなさと、そのわから
 ない部分というのは共通だというふうに都市論をやってきました。
 
  もう少し申し上げますと、都市の中における建物・街区、あるいは建物という概念、つまり具
 体的な建築物、ビルディングだけではなくて、建築・建物というのはどういうふうになっていて、
 どういうのが理想なのか、どういうふうに行くのだろうかということもパラレルに対応すると僕
 自身は考えています。

  ですから小さくいえば、この日本鋼管のビルでもいいんですが、一つのビルの中、あるいはビ
 ルの外郭がどうなっているのかを追求することと、都市がいったいどうなっているのか、どうい
 うふうに行くのかを追求することと、国家、社会がどうなっていくのかを追求することとは全部
 パラレルで対応する。そういうところで都市というものをつかまえようとした場合、どういうつ
 かまえ方をするかということから、「像としての都市」という考え方を僕はやってきました。


  消費社会――未知の部分

  それでは都市論あるいは国家、社会の問題でどういうところが一番わかりにくいかというと、
 アメリカと西欧と日本、その三つだけが現在、消費社会というところに入っていると思います。
 消費社会というのは皆さんがいろんな考え方でいろんな定義のされ方をするかもしれませんが、
 僕は僕なりの定義を持っていて、消費社会というのは二つのことによって定義されると思います。
 これは法人をとってきても個人をとってきてもいいんですが、一応わかりやすいから個人の所得
 とすると、日本の平均人の個人所得の中で50%以上が消費に使われているということが消費社会
 と呼ぶ場合の第一の条件です。もう一つ条件があります。それは選択消費、つまり光熱費とか家
 賃とかの毎月必要だという消費ではなくて、今月旅行へ行こうかとか予算がないから行かないで
 おこうというふうに、それぞれが選んで使える分を選択的消費あるいは選択消費というと、それ
 が全消費額の50%以上を占めている。その二つの条件があれば、僕の考え方では、消費社会とい 
 う定義ができます。

  いまそういう段階に確実にあるといえるのは、アメリカと日本と西欧です。西欧をフランスな
 らフランスに象徴させれば、そういうところがまず消費社会の段階に入っていると考えます。
  消費社会に入っている段階の資本主義は、いままでの分析の仕方では分析できないところが出
 てきたわけです。そこが未知の部分だろうと思いますが、未知の部分が出てきたということで、
 国家、社会が現在どうなっているのか、これからどう行くのだろうか、どう行けば理想なのかが
 犬変わかりにくくなっている一番根本の理由は、世界の先進的な社会、国家が消費社会、あるい
 は消費資本主義といってもいいんですが、そういう段階に入ったということが問題を難しくさせ
 ているのです。つまり、かつての分析法が通用しない部分が出てきたということと、いまだかつ
 てこれを完全に全体的に分析し尽くす方法はどなたもできていないで模索中だということです。

  そこが一番の難しさです。

  それと対応するように、都市論の難しさというのも同じところにあります。消費社会の主たる
 指標はどこに求めてもいいわけですが、僕の求め方では、産業の次元、段階によって決めるのが
 一番よかろうと考えると、消費社会に入った先進地域ではだいたいにおいて第三次産業といわれ
 ているもの、サービス業とか娯楽業、医療とか教育、その手の産業が生産額としても就業人口と
 しても半分以上を占めている。そういう社会が消費社会の一番わかりやすい指標だと思います。

  日本鋼皆さんは第二次産業の素材をつくるというイメージから出発していると思いますが、現
 在は第三次産業のほうに手を伸ばしているのか足を伸ばしているのか、そういうふうになってい
 るんじやないか。それほど日本の産業というのは、製造工業・建設業といった第二次産業と第一
 次産業、天然自然を相手にする農業とか漁業∴杯業との主たる対立割合によって社会ができてい
 るというイメージを持つと、それは間違ってしまうわけで、現在では第三次産業に従事している
 生産人口は働く人の半分以上を占めていますから、第三次産業を主体にして日本の産業構造を考
 えなければいけないのです。

  それと同じように、現在においては第三次産業、あるいは第三次段階・第三次層が主体になり
 つつあるということが都市というものの考え方を大変難しくしています。情報社会とか情報都市
 とかいろんな言い方がありますが、僕はそういうふうにつかまえます。つまり、第三次産業ある
 いは第三次層が都市の主体になってきたということが都市を変貌させているし、都市とは何だと
 いうことを考えるのを大変難しくさせている要素だと思います。

  僕の問題意識はそういうところから出発して、自分なりにのろのろと考えを進めてきたわけで
 すが、その考えの筋道を今日お話しできたらいいと思ってやってきました。


  都市の四系列

  まず僕の都市論はどういうふうに出発していったかというと、都市というものを四系列に分け
 れば都市というのは考え尽くせると考えたわけです。 
  一番簡単な系列を系列一(第一系列)とすると、系列一のイメージというのは東京でいえば下
 町の住宅街とか商店街がそうですが、一階家ないし二階家の低い住宅が地べたに追っている。こ
 れは人間の座高とか身長の高さで地面に水平の視線を働かせれば、ちゃんと事実見えるわけで、
 視覚的な自立像ということになります。イメージをつくろうとするにはどうすればいいかという
 と、そういうところに目と同じ高さの地面に水平な視線と真上、天上からやってくる視線とを同
 時に行使しているという自分を想定すると、事実上の下町の住宅街の住宅は自立像、視覚像から、
 あるイメージ像と考えて転化することができます。ですからつり合い上そう考えると、事実、見
 ればわかるじゃないかということになりますが、見ている視線と真上から来ている視線を同時に
 行使しているというイメージを想定すれば、第一系列の場所は尽くすことができると考えます。

  第二系列というのは何かというと、たとえばビルとビルの聞か人工的に広場として休み場所み
 たいにつくられているところが日比谷にもありますし、赤坂、六本木、新宿のあたりにもありま
 す。そういうところが第二系列に属すると考えます。これも行って見ればすぐにわかってしまい
 ますが、イメージとしていう場合には第一系列と区別するために、目の高さの具体的な人間の視
 線というのを、目の高さであるかどうかは別として、地面に水平な視線と、上のほうからといい
 たいところですが、そうすると第一系列と同じになってしまいますから、符号をつけて、マイナ
 スに下の地面のほうから上のほうに行っている垂直の視線とが同時に重なる場所というふうにイ
 メージをつくれば、ビルとビルの問につくられている人工的な広場みたいなものは尽くせるので
 はないでしょうか。

  人工的な広場というのは、たとえば新宿あたりでは駅と駅ビルの間の空閑地につくられていて
 そこに休む椅子とテーブルが置いてあるとか、商店が両端に並んでいるみたいになっています。
 六本本あたりでもそうです。つまり憩いの場所であって、ちょっと休むという場所であったり、
 店をのぞいてみるみたいな場所であったりというふうに人工的につくられていますし、ここらへ
 んだったら多少は本も植えたりベンチを置いたりしてつくってあると思います。

  それを第二番目の系列と考えるとします。ビルとビルとの間につくられている広場的な空間は
 全部そこに含めて大ざっぱに考えてくがさればよろしいと思いますが、それで第二番目の系列は
 尽くせます。
  この系列は、わかったということで、素早く取り除いておきます。本当はここでも問題はある
 と思います。たとえば、つくばの学園都市に行くと、原っぱの中に校舎、ビルディングを建てた
 というふうになっていて、喫茶店とか集会所みたいなものもあるんですが、ちょっと不気味な感
 じになっています。つまり、学園の中とか集会所にいるときには雰囲気が結構ちゃんとあるんで
 すが、いったん学園から外に出たら真っ暗な野っ原の中に入っていったみたいになってくる。こ
 ういう感じというのは非常に問題です。一時、学校でも助手とかあまり特権的でない先生たちが 
 自殺したり、高島平でもそうですが、そういう場所でも自殺者がたくさん出たりして、問題はあ
 るんです。しかし、やりようによってはいかようにも変えられるということで、それは素早く取
 り除いておくとします。

                                 第一部 吉本隆明の経済学                      
     
                                              
                                                                 
  
  (この項続く) 
 

 
● 新弥生時代 植物栽培のボーダレス化

今年は、胡椒を温室試験栽培する計画で動き始めているのだが、メリーチョコレートと連携し、東大
カカオ、初
の商品化へむけ動き出すという。静岡県南伊豆町の研究所で、温泉熱を利用して栽培する
「東大カカオ」豆を
使ったチョコレートを、今秋にも初めて商品化するが、ロッテグループのメリー
チョコレートカムパニーと組み、
数量限定で販売する計画。東大は約40年前からカカオ豆を栽培し、
近年になって一定の収穫量が見込めるようになったことから、商品化に挑戦する。高級チョコレート
などを製造、販売するメリーは希少な国産豆を使うことで、話題作りになると判断。
樹木の生育環境
や栽培方法を研究する施設として、1943年に東大樹芸研究所を設立。カカオ豆の研究を進めてきたというか
らこちらは年期が入っている。農作物栽培方法激変は避けられないと考えているので、「黒胡椒の試験栽培」
に成功して、ゆくゆくは特産物として育っていけばと夢みている。




 

   

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人命は鴻毛より軽し Ⅱ

2015年03月21日 | 時事書評

 

 

 

 

●  人命は鴻毛より軽し Ⅱ

チュニジアの首都チュニスのバルドー博物館で18日、銃を持った武装集団が外国人観光客らを襲撃
し、同国のハビーブ・シド首相によると、日本人3人を含む外国人17人とチュニジア人2人が死亡

したという(朝日新聞、2015.03.19)。目的のためには手段を選ばぬ"聖戦"とはなんたる虚無(イス
ラム的)かと唖
然となる。これに先立つ、ロシア国営放送によると、昨年のウクライナ危機でのクリ
ミア併合時、核
兵器の準備をしていたことを明らかにした。プーチン大統領は「 核兵器の準備をせ
ざるをえなかっ
た 」との発言に対し、長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長が
「新たな被爆地
を作ろうというのか。核兵器廃絶を達成しようとする国際的な流れに逆行する発言で、
憤りを感じる」
と訴え抗議文を送っている(2015.03.19「読売新聞」)。このプーチン発言もなんた
る虚無(スラブ的)かと驚き、うかうかしていられないのでは?と、身を引き締められる思いに駆ら
れる。



 

● 『吉本隆明の経済学』論 29

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!       

  吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。資
 本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
 

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき      

                                                         第1部 吉本隆明の経済学   

  第4章 生産と消費  

     2 消費論 

  Ⅲ

  

  ボードリヤールは、1965年度において(フランスでは)行政機関等からの第三者支出され
 た消費予算は全消費の17%で、その内容は、

   食料品と衣類            1%
   住居、運輸、通信施設       13%
   教育、文化、スポーツ、厚生部門  67%
 
 だと述べている。わたしたちの文脈に洽っていえば大衆の生活必需支出にたいして14%、選択
 サービス支出にたいして67%が補充されている消費社会の実態への国家の寄与をしめしている
 ことになる。この効果を選択的サービス支出である教育について、かれは確かめている。
  ボードリヤールによれば、フランスでは17歳の少年少女の就学率は、全体で52%だとされ
 る。その内訳は、

   上級管理職、自由業、教員の子供  90%
   農民、肉体労働者の子供      40%

  また、高等教育にすすむ機会

   上級管理職、自由業、教員のばあい 3分の1以上
   農民、肉体労働者のばあい     1,2%


  
そこで行政機関等による第三者支出が、階層の固定化をゆるめ、教育の不平等をなくし、教育
 費を再分配する効果は、ほとんどないとボードリヤールはのべている。この数値が正確ならば、
 フランスにおける階層の固定化はたしかに強固なものだとうけとれる。だが第三者消費支出の効
 果をこれで測ることはできないはずだ。たぶんフランスでは国家が産業社会に規制力を発揮して
 いる(法律、法規などを介して)割合はもともと30%くらいだとおもえる。その制約のもとで
 第三者消費予算17%のうちの、また六七%にあたる教育、文化、スポーツ、厚生などの割当て
 が個々の教育支出に寄与できる率は、はじめから取るにたりないことは、わかっているからだ。
 因みに日本のばあいについて、教育の階層別の均等、不均等に言及してみる。
 
 『白書』(『国民生活白書』昭和六三年度)によれば、全階層を1分校からV分校まで所得にし
 たがって分ける。1分院がいちばん所得がすくなく、V分校がいちばん所得がおおい階層とする。
 これらの分院のそれぞれについて、大学生の子供をもつ家庭の割合をみると、

 

  つまりはっきりと選択消費支出が半分を超えて、わが国が消費社会と呼べるようになったとい
 える昭和61年をとれば、第1分院と第V分院、いいかえれば消費社会の最低の生活程度と最高
 の生活程度の階層のあいだの高等教育にすすんだ子供の割合は、十の校のおなじオーダーにあっ
 て、ほぼ同等といっていい。わたしにはこの数値のほうが消費社会の実態に適っているとおもえ
 る。フランスの社会が特殊で階層の固定化が強く、どうにもならない社会という画像が与えられ
 る。

  たぶん30年以前には第1分校では、家庭の生活経済がゆるさないから、大学進学をあきらめ
 ろと子弟にいう親はありえた。またすこしでもはやく働いて家計を肋けよという親もありえた。
 第V分校ではそのころでも、子弟はすべて大学教育をうけるのがあたりまえということはあった。
 この格差は「無」と「有」の格差だといえよう。現在では数値のしめすところで、第1分校と第
 V分院のあいだに、教育費の支出について格差はほとんどないことをしめしている。ここには消
 費社会の本質が描き出されている。

  ひと口にいえば、すでに飽和点に達した生産的消費の分野では、格差は縮まって相対的な平等
 に近づいているということだ。もっと判りよくいえば、子弟を大学に進学させるという分野で一
 家族が100人の子弟をもつことなどありえない。たかだか数人で子弟教育費は極大に達する。
 そういう分野では最低所得の階層と最高所得の階層が、格差を縮め、平等に近づく可能性が生じ
 るということだ。消費社会というのは、こういう飽和点に達した生産的消費の産業分野から、し
 だいに高次化してゆく社会のことをさしている。これを消費社会の定義としてもいいくらいだ。
 消費社会(高次産業化社会)にたいする肯定も否定も、この本質を本質としておいたうえでなさ
 れるのでなければ、まったく無意味だといえる。この意味ではボードリヤールの消費社会論は、
 意味をなさない。

  わたしたちはだんだんとボードリヤールの理念の批判の核心に近づいていく。
  ボードリヤールは、凡庸な左翼進歩知識人の誰でもがいうこととおなじことを、繰返しいいは
 じめる。消費社会は(ほんとうは高次産業社会はといいなおすほうがいい)平等な消費可能性へ
 万人を近づけ、格差をなくしていった。テレビ、車、ステレオなどは以前は特権的な階層だけに
 しか手に入らなかったのに、いまでは万人が(一般大衆が)誰でも手に入れられるようになった。
 これはただのありふれた事実だが、ボードリヤールによればこの平等への格差の縮まりは、うわ
 べだけで、社会的矛盾や、不平等の内在をおしかくしていることになる。だがわたしにはそんな
 馬鹿げた言い草はないとおもえる。テレビ、車、ステレオなどが以前は一部の特別な階層だけが
 自由に購買できたのに、いまでは万人(一般大衆)が誰でも購買できるようになったということ、
 いいかえれば選択的な商品の消費支出に財力をまわすことができるようになった消費社会の出現
 は、あきらかに弱者のボードリヤールのいう「平等」な消費の「幸福」にむかって格差を縮めた
 ことを意味している。形式も表面的もなければ、社会の内在する不平等をおしかくしてもいない。

 これはたんなる事実の問題だ。この事実を否定的な言辞で迎えるのは左翼インテリ特有の根拠の
 ない感傷と大衆侮蔑的な言辞にすぎない。たとえば上級管理職は車3台をもつことができるのに、
 肉体労働者や農民は車1台しか購買できないといった格差は、すべての選択消費についてありう
 るだろう。だが車3台を特権的な上級職は購買できるのに、農民や肉体労働者は車をもつことが
 できないといった格差とは雲泥の質のちがいなのだ。何となれば上級管理職がどんなに財の余裕
 があっても乗用車を10台も20台ももつことはまったく無意味だからだ。そうだとすれば消費
 社会は、車の購買について上級管理職と肉体労働者のあいだに車3台と1台の格差以上のものを
 消滅させてしまったことを意味する。すくなくともそう理解するのが実態にかなっている。もち
 ろんテレビ、車、ステレオ以外のものについて、消費社会はまだたくさんの社会的矛盾や不平等
 を残存させている。それは解決されなくてはならない。

  だがこのことはボードリヤールのいうような、テレビ、車、ステレオのような消費財の購買に
 ついての「平等」はうわべだけのもので、社会的矛盾や不平等の深刻な内在には手が届かないな
 どということとは、まったくちがっている。テレビ、車、ステレオについての不平等の解消は、
 社会的矛盾や不平等のうちの一部分が解消されたことにほかならないのだ。

  ボードリヤールはだんだんと馬鹿げた言説の核心に近づく。肉体労働者と上級管理職の支出の
 間の差異は、(フランスでは)生活必需品で100対135にすぎないが、住居設備では100
 対245、交通費では100対305、レジャーでは100対39になっているとボードリヤー
 ルはいう。そして「ここに、均質な消費に関する量的な差を見るべきではなくて、これらの数字
 から、追求される財の質に結びついた社会的差別を読みとるべきなのである」(ボードリヤール
 『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳)と述べている。わかしには何と愚かなことを言
 うのかとおもえる。肉体労働者と上級管理職の支出のあいだに、生活必需品で100対135の
 格差しかないのは、食料品や光熱費などのような日常必需品では、たとえば上級管理職であろう
 が肉体労働者であろうが、ひとの3倍も5倍も料理を食べることなど不可能だし、ひとの3倍も
 5倍も上等な質の食料をいつも料理することなど意味をなさない。格差比率がすくなくなるりま
 えだとおもえる。住居設備や交通費が2~3倍の格差をもつことも、そんなに深刻な意味をもち
 えない。消費社会は賃金や所得の平等が実現した理想社会ではないなどとあらためていう必要が
 どこにあろうか。また肉体労働者が10日間のレジャーをとることができた。上級管理職が39
 日のレジャーをとったために、レジャー費の格差が100対390になった。ボードリヤールは
 これが消費についての量的な差ではなく、社会的差別を読みとるべきだと主張する

  だがボードリヤールは消費社会を、所得の平等が実現した共産主義社会でなくてはならないと
 おもっているのだろうか。わたしはひとかどの知識人がこういう言ってみるだけの欠陥の言説、
 言説の欠陥を得々として語り、それによってスターリニズムの世界支配に寄与してきた歴史をか
 んがえると肌に粟を生ずる。肉体労働者は一日のレジャーももちえないのに、上級管理職は39
 日のレジャーをもつことができた。この「無」と「有」との格差を消費社会は「有」と「有」の
 相対的な格差に変貌させた。わたしには肉体労働者をそこまで経済的に解放してきたことさえ、
 「無」であったときに比較して格段の「平等」への接近だとおもえる。消費社会にたくさん残存
 する社会的矛盾や不平等を批判するのに、所得が万人に平等な架空の社会を基準におくなど、ふ
 ざけはてた言い草だとおもう。

  ボードリヤールは消費の概念を、健康、空間、美、休暇、知識、文化など第三次産業の中心に
 おかれた分野にまで踏みこんだうえで、おなじ倫理(というよりも固定観念)のほうへ誘導して
 いる。

 
   健康や空間や美や休暇や知識や文化への権利が口々にいわれている。これらの新しい権利が
   
出現するたびに、新しい官庁が生まれている(保健省、余暇利用省)-美観やきれいな空
   を保護する官庁というのも出てくるかもしれない。これは制度化された権利によって公認

   れるだろう個人的かつ集団的な一般的進歩を表現しているらしいが、この現象の意味はあ

   まいであり、そこに逆のものを読みとることが可能である。

   空間への権利が生まれたのは、
万人のための空間がもはや存在しなくなり、空間と静けさが
   他人の犠牲の上に成り立つ一部
の人びとの特権となった後のことであり、同様に「所有権」
   が生まれたのは、土地をもたな
い人間が出てからのことであり、労働に対する権利が生まれ
   たのも、分業の伜のなかで労働
が交換可能な商品となり、その結果もはや特定の個人に属さ
   なくなった後のことなのだ。同
じく、かつて労働がそうであったように、「余瑕への権利」
   の出現も、悠々自適の段階から
技術的社会的分業の段階への移行、すなわち余暇の終焉を予
   告しているとはいえないだろう
か。

   豊かな社会のスローガンや民主主義の宣伝ポスターとして吹聴されているこれらの新しい社
   会 的権利
の出現は、したがってそれらの権利に関連する諸要素が、階級(あるいはカースト)
   の特権の差異表示記
号の地位を得ることになったことの徴候である。「きれいな空気ヘの権
   利」の意味するものは、自然の財産としてのきれいな空気の消滅とその商品の地位への
移行、
   およびその不平等な社会的再分配という事実である。したがって資本主義システムの
進歩に
   すぎないものを、客観的な社会の進歩(モーゼの律法衣に刻まれるような「権利」)ととり
   ちがえてはならない。資本主義的システムの進歩とは、あらゆる具体的自然的価値が徐々に
   生産形態、つまりド経済的利潤、・社会的特権の源泉へと変質することなのである。   

              (ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳)

   わたしたちはボードリヤールのあやふやな論理にここまでつきあう必要はない。だがここが消
 費社会と呼ばれている社会の産業的な構造でいえば、肝要な第三次産業の系列におかれた場面な
 のだといえる。健康、空間(緑)、美(コスメティック)、休暇(レジャー)、知識、文化は高
 次産
業の中心にやってくるとともに、ボードリヤールのいうようにあたらしい国家官僚の職務が
 登場
してくるかもしれない。そしてかれの言うように健康が産業や国家責務となるのは不健康が
 まん
えんしたからだし、空間がそうなのは万人のための空間が存在しなくなり、余暇がそうなっ
 たの
は悠々自適の生活かおわったからだし、知識や文化がそうなったのは、叡知が失われたから
 かも
しれない。だがそのことの意味はボードリヤールのいうところとまったくちがう。ひとりで
 に健
康でひとりでに空間をとりもどし、美や休暇や知識や文化や空間や水でさえも、それを万人
 (一
般大衆)の平等な所有に近づけるためには、それを保護するのではなく、あたらしく造りだ
 すよ
りはかないことを意味している。これが自然への働きかけが高次産業化することの本質なの
 だ。

   ボードリヤールのいうのとちがって、資本主義的システムの進歩といえども「客観的な社会の
 進歩」だし、「具体的自然的価値」が高次生産化することもまた客観的な「社会の進歩」である
 ことは論をまたず自明のことだ。わたしにはボードリヤールの理念は、誰がどうなればいい社会
 なのか、まったく画像を失っているのに、なお不平のつぶやきが口をついて出るので、それをつ
 ぶやいて
る常同症の病像にみえてくる。
 
 

    

  ボードリヤールがせっかく果敢に消費社会の実体に踏みこみながら、一方で陥っている巨大な
 空孔に、もうすこし先までふれていかなくてはならない。


    あらゆる物質的(おょび文化的)欲求が容易に満たされる社会という、われわれが豊かな
   
社会について抱いてきた固定観念は放棄されなければならない。なぜなら、この観念は社会
   
的論理を一切捨象しているからである。その上で、マーシャル・サーリンズが「最初の豊か
   
な社会」についての論文で取り上げた見解に従わねばならない。それによれば、いくつかの
   
未開社会の例とは反対に、われわれの生産至上主義的産業社会は稀少性に支配されており、
   
市場経済の特徴である稀少性という憑依観念につきまとわれている。われわれは生産すれば
   
するほど、豊富なモノの真只中でさえ、豊かさとよばれるであろう最終段階(人間の生産と
   
人間の合目的性との均衡状態として規定される)から確実に遠ざかってゆく。というのは、
   成
長社会において、生産性の増大とともにますます満たされる欲求は生産の領域に属する欲
   求
であって、人間の欲求ではないからである。

    そして、システム全体が人間的欲求を無視する
ことの上に成り立っているのだから、豊か
   さが限りなく後退しつつあることは明らかである。それどころではない。現代社会の豊かさ
   は稀少性の組織的支配(構造的貧困)が優先するために、徹底的に否定される。

   サーリンズによれば、狩猟=採集生活者たち(オーストラリアやカラハリ砂漠に住む未開の
   遊牧民)は、絶対的「貧しさ」にもかかわらず真の豊かさを知っていた。未間人たちは何も
   所有していない。彼らは自分の持ちものにつきまとわれることもなく、それらのものを次々
   に投げ棄ててもっとよいところへ移動していく。生産装置も「労働」も存在しないので、彼
   らは暇をみつけて狩をし採集し、手に入れたものをすべて彼らの間で分かちあう。何の経済
   的計算もせず貯蔵もしないで、すべてを一度に消費してしまうのだから、彼らは大変な浪費
   家である。
 
   狩猟=採集生活者はブルジョアジーの発明したホモ・エコノミクスとはまったく無縁であり、
   経済学の基本概念など何一つ知らずに、人間のエネルギーと自然の資源と現実の経済的可能
   性の手前に常にとどまってさえいる。睡眠を十分にとり、自然の資源がもたらす富を信じて
   暮すのである(これが未開人のシステムの特徴だ)。ところが、われわれのシステムの方は、
   不十分な人間的手段を前にした絶望や、市場経済と普遍化された競争の深刻な結果である根
   源的で破局的な苦悩になって(それも技術の進歩とともにますます強く)特徹づけられるこ
   とになる。

              (ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原完訳)
 

  このすぐあとでボードリヤールは、未開社会は集団全体として「将来への気づかいの欠如」と
 「浪費性」があって、これが真の豊かさのしるしだといっている。また遂に貧しさというのは、
 財の量がすくないことではなくて人間と人間との関係の問題だから、社会関係の透明さと相互扶
 助があれば、飢餓状態でも豊かにくらすことができると述べている。

  どうもこういう言説には信じられないところがふたつあるだいいちはこれは幼児のときは憂
 いも苦しみもおぼえず邪気なくくらせて、過去も未来も思い患うこともなく豊かな生活をしてい
 たというのとおなじだ。だれでもそれを否定しないだろうが、そこへ逆行できないことも、再構
 成できないことも自己史と文明史にとって自明なのだ。もうひとつある。産業の高度化による豊
 かさと、選択的な消費における格差の締まりには、たしかにあるうさんくささの影がつきまとう。
 そのうさんくささは概していえば不安、頼りなさのようなものに帰着するといっていい。これは
 何に起源をもち、どこからやってくるのか。すくなくともボードリヤールの考えているような人
 類の未開の幼児期への賞賛などからはやってきはしない。わたしの考えでは産業の高次化が物(
 商品、製品)にたいする感覚的な働きかけから距たってゆくところからこの不安は主として由来
 するようにみえる。この感覚的な距たりは遅延として理性と理念を襲うにちがいないからだ。べ
 つの言い方を採用すればこの遅延は生産が消費に変貌する転換点なのだといえる。

  ボードリヤールによれば、はじめに選択的な消費支出の対象として洗濯機がえらばれて人手さ
 れたとする。これは衣類を洗濯する道具であるとともに、消費者の幸福感や威信の要素になり、
 このことのほうが消費に固有な領域だということになってしまう。この意味表示要素に視点がお
 かれるかぎり、さまざまな物が洗濯機にとってかわることができる。象徴の要素、記号の要素か
 らみれば、物(商品、製品)はどんな機能や欲求とも無関係だ(結びつきがない)とともにあら
 ゆる物(商品、製品)は固有の意味作用をもたずに、物と物との境界はあいまいなものになって
 しまう。これが消費社会(高次産業社会)の実状だということが、悲観的、否定的な重心をもっ
 て語られている。しかしわたしには消費社会(高次産業社会)の核心がそこにあるとはおもえな
 い。

  第三次産業以後において、わたしたちは生産が物(商品、製品)の手ごたえ、感覚的な反射か
 ら距てられたところからうまれる不定さ、視覚的、触覚的な物の、映像化による非実在感などに
 由来する不安に対応する方法をもちあわせていないこと。ボードリヤールの見解と反対に、消費
 行動の選択に豊かさや多様さ、格差の縮まりなどが生じていること。そこに核心があるようにお
 もえる。もっといえばこういう消費社会の肯定的な表象の氾濫に対応する精神の倫理をわたした
 ちはまったく編みだしておらず、対応する方途を見うしなっているところに核心の由来があると
 おもえる。わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、すべて欠如に由来し、
 それに対応する歴史をたどってきたが、過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知
 っていない。ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。

                                  第一部 吉本隆明の経済学  


この項の議論(反ボードリヤール経済学)に対し、現実の世界は、吉本の描いて見せた"高度消費社
会(前社
会主義社会)" のイメージ通りだったのか?確かに、斉藤和義の唄ではないが、生活するう
えで欲しいものな
らなんでも手に入る時代でありながら、秋葉原通り魔事件が起きる"デフレ格差拡
大"社会――資本収益率(ほぼ4~5%)が所得成長率(ほぼ1%~2%)よりも高い、高所得者と高資
産保有者
がますます富む時代――でもある。『21世紀
の資本』の著者であるトマ・ピケティは、そ
の解決には、資本課税の強化を国際協調のもとですべての国で課税強化することを提案し、日本に対
しては、「財政面で歴史の教訓を言えば、1945年の仏独はGDP比2百%の公的債務を抱えていたが、
50年には大幅に減った。もちろん債務を返済したわけではなく、物価上昇が要因だ。安倍政権と日銀
が物価上昇を起こそうという姿勢は正しい。物価上昇なしに公的債務を減らすのは難しい。2~4%
程度の物価上昇を恐れるべきではない。4月の消費増税はいい決断とはいえず、景気後退につながっ
た」と評価し、(1)世界レベルの格差を減らすには経済の透明性が不可欠、(2)累進課税的なも
のにし若者・女性を優遇する税制、(3)パートタイム労働者、有期雇用労働者等がより良い社会保
障を得られるような構造改革――を提案している(2015.01.31/ログミー「
若い世代に有利な税制を」
トマ・ピケティ氏、日本の課題と対策を提示」)
ている。

 

 

                                      (この項続く)  

 

  

 

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反ボードリヤールの経済学

2015年03月20日 | 時事書評

 

 

 

 

● 免震ゴムの何が不正なのか?

東洋ゴム工業が製造販売した建物の揺れを抑える免震装置に国に認定された性能を満たしていない製
があった問題で、装置が使われていた建物では、建物の建設工事を一時中断するなど、影響や懸念
が広
がっているという(NHK「NEWSWEB」2015.03.16 上図クリック)。ニュースを耳目し、組織
的な不正事件なのかと考えてみたが、免震ゴム機能の規定あるいはその評価方法について全くの無知
であることに気付かされ、不正かどうかの判断の先送りと、組織犯罪などを含めた現代的犯罪学につ
いて俯瞰の必要性に迫られたというわけだ。

 

建築物の基礎免震、橋梁や高架道路などの支承に、ゴム組成物と鋼板などの硬質板とを交互に積層し
免震構造体が用いる。この免震構造体は、上下方向には高い剛性、せん断方向には低い剛性をもち
地震の振動数に対し固有振動数を低減し、振動の入力加速度を減少し、被害を最小限にするため、
構造体用ゴムは高い減衰性能が要求される。一般的に、ゴム組成物中に樹脂成分の配合量を増量す
れば減衰性能は向上する一方で、樹脂成分の配合量の増量に伴い、ゴム組成物の混練・ロール加工時
の加工性が悪化する傾向があり、ゴム組成物の加工性と、加硫ゴムの減衰性能は二律背反関係にある。
この対策として、ジエン系ゴムを含有するゴム成分100重量部に対し、ノボラック系のフェノール
変性キシレン樹脂を10~80重量部配合し、加硫ゴムの減衰性能とゴム組成物の加工性とをバラン
スを改善し、ジエン系ゴムとして、天然ゴムおよびブタジエンゴムの併用系を使用する新規考案が提
案されている(下図参照)。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


この件については、残件扱いとして、再度掲載する。 

 

  

● 『吉本隆明の経済学』論 28  反ボードリヤールの経済学


 吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!       

  吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
 

   はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

                                                         第1部 吉本隆明の経済学   

 第4章 生産と消費 

     2 消費論

  Ⅱ

   

  いままでみてきたところからもあきらかなように、産業の高次化は、必需的な消費(または生
 産)支出の百分率が低下すること、それとは遂に遅延的な支出(または生産)いいかえれば選択
 的な支出(または生産)の百分率が伸びてゆくことと対立している。だがわたしたちが手易くみ
 られる著書では、どんな様式をとりながら産業は高次化してゆくのかについて、はっきりした画
 像をあたえているものはない。そこでわたしたちの考察の流れにそってこれを集約してみたい。

 第一にわたしたちは産業の高次化を、生産と消費の空間的な遅延、時間的な遅延化そのもの、お

 よび空間的な遅延と時間的な遅延の交差するところでおこる価値の高次化を意味すると規定でき
 るとかんがえる。もうすこし具体的にこの画像をはっきりさせてみたい。例えば、選択的な商品
 消費(生産)支出のひとつの分野、自動車産業のばあいをかんがえてみる。これを『白書』のわ
 け方にしたがってつぎのいくつかに類別してみる。

 (1)高付加価値化


    まずクルマの大型化とか、高機能のエンジンをつけて高い機能をもたせるばあいには、自

    動車産業の高次化という画像はほとんどかんがえなくていい。だがこの車に情報機能を高
    度にもたせようとして、電信、電話、受像、送信の設備をつけたとする。このばあいには
    はっきりと情報関係の機器を生産する他の分野の産業との連結がおこる。この連結は車の
    生産というところからは付加価値をつけくわえたということだが、他の分野の産業との網
    状化結合という視点からは、自動車産業が高次化する契機をはらんでいるといえよう。こ
    れは消費支出の側からもいうことができる。車が高い情報機能をうることによって、共詩
    的に複数の用途をなしとげることができるし、車にいて移動しながら複数の指令を送った
    り受けたりすることができるようになる。このばあいは空間的な遅延や時間的な遅延の多
    数回を一回化することによって、価値の高次化をうみだしているとみていい。

 (2)生産工程の改善
 
    組みたての工程を超自動化することで、たくさんの品種を少量生産するシステムをつくっ
    たとすれば、このシステムは他の分野のおなじシステムの連結によって組みたてられるか、
    あるいは他の分野のおなじようなシステムを組みたてるために、連結されて使用されるこ
    とになる。この連結はまえの図とおなじように車の組みたて産業の高次化の起源をなすと
    みなされる。

 (3)技術開発
 
    たとえばカー・エレクトロニクス装置を開発したり、セラミック製のエンジンを開発して
    り付けたりすれば、エレクトロニクス産業や高度なセラミック機械化の産業との連結が
    おこなわれることになる。これは自動車産業の流れとしては付加価値化にあたっていると
    みなせるが、他のエレクトロニクスやセラミックの産業との連結という面からかんがえれ
    ば、産業の高次化への萌芽をもっていると理解される。

 (4)多角化
 
    たとえばカー・エレクトロニクス装置を車につけることで、他の情報関連のサービス業と
    連結して、使用の目的を多様にすることができる。この使用の多様化はそれ自体が高次産
    業そのものである。また他の産業分野との連結という面でも産業の高次化の契機をもって
    いるといっていい。
    このばあいレストランや外食産業と連結して料理の宅配にこの車が使用されたとすれば、
    この使用目的の多角化は、第一次、第二次産業との連結として実現したことになる。また
    情報関連産業と連結して空間的な遅延や時間的な遅延を其詩的に重層化するために使用さ
    れたとすれば第三次産業との連結が実現されたことになる。

  こういった考察は、わたしたちに産業の高次化とはなにか、それはどんな局面でおこるかにつ
  いて示唆を与えている。さまざまな言い方ができるだろうが、わたしたちはつぎの二つに要約
  することができる。


    (1)ひとつの産業分野のなかで生産の工
程の改善や付加によって、生産と消費との空間的な
     遅延や時間的な遅延を共時化することで価値をうみだそうとするときは、産業の高次化
     の契機をもつ。またそのばあい遂に他の分野の産業と連結することで空間的な遅延や時
     間的な遅延を産出するとき、その遅延の産出は産業の高次化の契機をもっている。
  (2)ひとつの産業分野が他の分野の産業と連結されて網状化かすすんだあげく、本来の産業
     分野よりも網状化の支脈のほうがあたかも本来のような比重を占めるようになったとき、
     それを産業の高次化とみなすことができる。


   この(2)のばあいについては、売上げ高の面からみた図表をみつけることができる(図11
  参照)。この図表をみてゆくと精密機械の分野だけは、非本業的な売上高が50%をこえている
  ことがわかる。売上高はかならずしも生産の比重と一致しないともいえるが、およそのところ
  で売上高の大小は生産の比重の大小と対応するとみなせる。すると精密機械の製造の分野では、
  はっきりと産業の高次化がすすんでいるといえる。傾向としていえばすべての産業の分野は現
  在に近づくほど非本業化の比率はおおきくなっている。繊維と非鉄金属の分野で非本業化か50
  %をこえることは時間の問題だといっていい(図12参照)。
 

    


   

  わたしたちは産業の高次化する契機を、他の分野の産業とのあいだの連結と、もうひとつその
 連結によっていままで本流でなく非本業的な支脈だとみなしていた連結の流れが50%をこえてし
 まって、その方が本流のように変容してきたとき、様式としてありうるものとかんがえてきた。
 だがおなじような連結は、おなじひとつの産業分野のなかでもおこりうる。

  たとえばひとつの自動車産業を具体例としてこれをかんがえてみる。トヨタの自動車産業にお

 いて従業員の数はジェネラル・モータースの約70万人にたいしてわずか6万人くらいであると
 いわれる。しかしながらこのトヨタの第一次下請の中小企業の数は600強というデータになっ
 ている(榊原英資『資本主義を超えた日本』)いいかえれば下請は高度に分業化されている。
 そし
てこの第二次下請のそれぞれの企業は、第二次下請の納入業者数百と取引きしているとされ
 る。
いいかえればトヨタ自動車の単独の企業として600のまた数百倍の下請企業と毛細管のよ
 うに
連結をひろげていることになる。これを一般化して図示すれば図Bのようになる。


  おなじ企業系列のあいだのこの微細で膨大な網状組織は、それ自体が産業の高次化の契機をも
 っているといえる。もっと比喩的な言い方をすれば下請の膨大な数の分業システムのそれぞれが、
 また膨大な数の分業システムと連結しているこの画像は、それだけで末端のところで生産が消費
 に反転し、消費が生産に反転する契機を暗喩している。このような末端の連結システムをもつこ
 とは、それ自体が産業の高次化を意味しているといってよい。そしてほんとうをいえば産業の組
 織システムとしてこの標識は、究極にちかいものだといってもよい。この企業の内部系列におけ
 る網状化のシステムには、もうひとつ連のばあいをかんがえることができる。ひとつの下請の中
 小企業が、単独の親企業を指定するだけではなく、高度な部品メーカーーとして複数の親企業を
 指定するばあいである(図14参照)。

  このばあいにも網沃化自体が企業の高次の産業化の契機をもっていることが指摘される。ひと
 つの産業分野を基幹にして下請の企業数が、幾何級数的に増殖してゆく画像は、究極的にはその
 ひとつの基幹になっている産業が、裾野の方に微細な、高度な、ひとつの部品の生産に、ほとん
 どひとつの企業が対応しているという画像に収斂してゆく。一台の自動車はそのあらゆる小さな
 部品毎に一企業の高度な専門的な製造工程が対応しているという画像をいだかせることになる。

 これはたとえば自動車産業を産業としての高次化という概念にぴたりと適合させずにはおかない
 とおもえる。消費者がこのようにシステム細胞化された産業の集大成として、自動車にたいして、
 選択的な商品として消費支出したとき、かれは部品企業の幾何級数的な増殖によってもたらされ
 た空間的な遅延と時間的な遅延の細胞のように微細な網状の価植物を購買しているのだといって
 よい。また遂に一下請の中小企業がほとんど一種類の高度な部品を製造しており、それが一基幹
 となる産業ごとに幾何級数的な数で第一次下請から第二次下請の方にむかって増殖しながら分布
 している産業の構成をかんがえると、製造(生産)の様式としては極限の形をもっていて、もは
 や産業は第二次以後の高次な段階にすすむよりほかに、この製造(生産)の画像をこえる方途は
 ないことを、暗示しているようにみえる。

  わたしたちは意図的に生産し、そしてそれを消費する。たぶん動物は(ほとんど)意図的には
 生産しないで、消費だけはやる。そして共時的にいえばこの過程で人間も動物も昨日とおなじ身
 体状態を残余としてのこす。この残余を通時的にいえば生まれ、育ち、成熟し、老い、死ぬとい
 う過程がのこることになる。なぜわたしたちは意図的には生産しないで動物一般のように消費だ
 けをやって、残余として身体状態を昨日とおなじに保つということに終始しなかったのだろうか。
 ここにはメタフィジックが関与しているようにおもえる。

  わたしたちが分析し解剖したいのは、消費社会と呼ぶのがふさわしい高度な産業社会の実体な
 のだが、この画像はふたたび動物一般の社会に似ているようにおもえる。動物一般の社会は(ほ
 とんど)意図的な生産をやらないで消費行動だけをやって、あとに残余として昨日とおなじ身体
 状態をのこす。わたしたちがそのなかに生活し、対象としてとりあげている高度な消費社会でも、
 意図的な高度な生産をあたかも生産が(ほとんど)行われないかのように考察の彼方へ押しやり、
 消費行動だけが目に立つ重要な行為であるかのようにあつかおうとしている。これはラセン状に
 循環して次元のちがったところで動物一般の社会に復帰しているような画像にみえてくる。相違
 はわたしたちのなかにメタフィジックが存在するということだけだ。このメタフィジックによれ
 ば消費は遅延された生産そのものであり、生産と消費とは区別されえないということになる。



    


  Ⅲ

  

  消費社会の画像を、記号の象徴がとびかい、物に浸透して、物と空気のあいだのいちばん強固
 な界面があいまいになった神話の世界にしてしまったのは、ボードリヤールだ。そこには大胆な
 踏みこみといっしょに、ひどい判断停止があり、哲学と経済学の死に急ぎがつきまとっている。

  いままでわたしたちが論議してきた文脈からいえば第三次産業に産業の重心が移ってしまった
 社会(第三次産業が全産業の50%以上を占めてしまった社会)が、物質的な生産が終焉し、記号
 が物のかわりに消費される社会とみなされている。これは現在の高次産業社会の実像とも、可能
 な想像図ともまったくちがう。

  減衰が死に、移行が分断におきかえられ、そこにボードリヤールの好みが集約されている。い
 ちばん実像とちがうところは、第二次産業の社会(製造・エ業・建設業等)までで資本主義社会
 の概念は終焉とみたてられており、商品生産物をめぐる価値法則、いいかえればスミスからマル
 クスまでの古典学派のつくりあげた価値法則はおわり、象徴的な価値が構造体として流通すると
 みなされていることだ。わたしたちはまったく高次産業社会にも、そのあとにもそんな画像をつ
 くろうとしていない。可能性としてだけいえば第三次産業よりも高次の社会はかならず生産につ
 いての価値法則を貫徹するし、マルクスの価値概念は拡張し、修理されなくてはならないとして
 も、ボードリヤールのいうような象徴の記号と物との境界をおびやかす事態などどこにもありえ
 ないとかんがえている。

  これはわたしたちとボードリヤールとが根本的に消費社会の画像をちがえていることを意味す
 る。第三次産業に重心をうつしてしまった社会を、資本主義社会の死と等価におき、生産の死、
 労働の死、物の価値法則の死、象徴交換の神話と死を語るとき、ボードリヤールは、すこし早ま
 ったラヂカリストにみえてくる。かれは壮大な物の体系の死から、ちょっとみると楼小にしかみ
 えない物の氾濫と分布への転換を、産業社会のなかに崩壊作用として見つけたしてきた。鋭敏で
 ユーモアに富んでいるが、いくらか死の画像におびえ、その論理化を急ぎすぎているように見う
 けられる。

  死はいつも向こうからこちらへやってこなければほんとうの死の像とはおきかえられない。だ
 がそれでもボードリヤールほど本気に消費社会の絶体絶命の像を描こうとしたものはいないとお
 もえる。そこでボードリヤールを批判的に通り過ぎることは、たぶんさまざまな消費社会の画像
 を批判的にあつかうことを象徴するにちがいない。わたしたちは ちょうどそこまでやってきた。

  ボードリヤールが挙げている消費社会の特徴を要約して順序不同に列挙し、必要ならば註釈を
 つけることからはじめてみる。

  (1)消費社会では、マス・コミュニケーションが三面記事的性格をもつ。いいかえれば一方
     では当りさわりなく、どれもこれもおなじように表面だけしかないのに、他方では煽情
     的、非現 実的な記号を、その表面に氾濫させて実像をわからなくさせている。このば
     あいの一方と他方がなにをさすかは、以下の項目ですこしずつはっきりさせられる。

  (2)消費社会では、物が消費されているようにみえながら、第一義としては象徴的な記号が
     消費されている。現実の物を消費すること自体は二の次なのだ。こういうボードリヤー
     ルの言い方は恰好がよくいっているが、かなりあいまいだ(あいまいで恰好がいいこと
     はボードリヤールの高次社会像の本質的な特徴だといえ亘。わたしたちの言葉で註釈を
     つければ、消費社会では選択的なサービス消費(娯楽・教養・文化・医療・旅行等)が
     主体とかんがえられるべきで選択的な商品を購買するための消費支出、また日常必需品
     の消費支出は第二義的なものだという意昧にうけとれる。

  (3)現実の世界、政治、歴史、文化と消費社会の消費者との関係は、利害、投企、責任など
     のかかわりをもたない。そうかといってまったく無間心な、かかわりのない位相だとも
     いえない。もちろんよく認識されているという関係でもない。消費社会の消費者の典型
     的な態度は、世界情勢、政治、文化などにたいして「否認」の関係にある。こういう言
     い方から、だんだんと消費社会と、そのなかの一般大衆にたいするボードリヤールの描
     いている像が姿をあらわしてくる。
  (4)消費社会の一般的な大衆の生活は、政治、社会、文化の領域と「私生活」の閉じられた
     領域とに分裂した日常生活になっている。べつの言葉でいえばじぶんたちの日常生活は
     平穏無事であることを望み、そんな生活にひたりながら、ベトナム戦争とかアフリカの
     飢餓とかが、情報や映像になっておくられてきて、記号と像の刺戟を与えてくれれば程
     よい日常だとおもわれている。

  (5)消費社会では、現実、社会、歴史のなかにおこる緊張から解除されて、弱者(一般大衆
     のこと)が幸福であることが理想として目指される。そこでただ消費社会の「欲望と戦
     略家」に左右されるだけの、苦労や心配事のない大衆の受動性が支配的な社会の雰囲気
     になる。そしてこの受け身の平穏に、「罪の意識」を感ずることをまぬがれるために、
     マス・メディアによって三面記事的なカタストロフに仕立てられた事件のあつかいが氾
     濫する。ボードリヤー ルにいわせると自動車事故のニュースというのは、消費社会の
     「日常性の宿命」をいちばん見事に具体化した象徴的な事件だということになる。車が
     つぶれ血が飛び散るといった事件の映像が皮膚のちかくで出現するからだ。

  (6)消費社会は「脅かされ包囲された豊かなエルサレム」たらんと欲している。ボードリヤ
     ールに言わせればこれが消費社会のイデオロギーだということになる。


  ひとまずこれくらいで中休みにして、註釈をつけよう。こういうボードリヤールの言説には批
 判的な感想をすぐ申し述べることができる。第一に、ボードリヤールが描いている消費社会の画
 像は、ひとびとが(一般大衆が)世界の情勢にも社会や政治や歴史の現状にもあまり関心をもた
 ず、じぶんの豊かな消費生活だけを大事に抱きこんで日常をおくっており、そのくせ何かドラマ
 テイックな惨劇や事件がじぶんたちの生活社会以外のところでは、映像や記事の象徴としておこ
 れば刺戟的だなどとかんがえている社会だとみなされている。

  つぎに言えることは、消費社会とは何か、はっきりした社会経済的な把握をしめさない(しめ
 せない)うちに、トリヴィアルな修辞的な断片をあげつらって、否定的な言説をつくっているこ
 とがわかる。現実、社会、歴史の緊張にあまり関心をむけずに、無数の弱者(一般大衆)が平等
 な幸福をめざし、せいぜい身近な日常生活の場面でおこる宿命的な大事件は、自動車事故くらい
 だ。こういう弱者(一般大衆)が受動的である社会が、どうして否定的な画像で描かれなくては
 ならないのか、どうしてみくだされなくてはならないのか、わたしにはさっぱりわからない。

  知識が体系をもち教養がはっきりした輪郭と厚昧を帯びているという錯視をもっか知識エリー
 ト意識からの愚痴話か、あるいは弱者一般大衆)を侮蔑し、自分をそこから択りわける知的エリ
 ートを気取りながら、弱者(一般大衆)の解放を理念として標榜して、実際は弱者のための地獄
 をつくってきたスターリニズム周辺の知識人という以外の像を、ボードリヤールのこの種の言説
 からみちびきだすのは不可能におもえるからだ。もしボードリヤールのいう「弱者の幸福」が否
 定やおちゃらかしの対象になるとすれば、すくなくとも政治的理念、社会的理念はいっさいこの
 世界に不要だということになる。

  弱者が知識人の知的専制下におかれた「知識エリートの幸福」を目指す社会などは政治的エリ
 ートの専制による「政治的エリートの幸福」を目指して、最近破産を露呈した社会主義の社会と
 おなじように、茶番にも何にもなりはしないのだ。わたしたちは消費社会の理論的解剖という現
 在の課題に踏みこみながら「消費社会は脅かされ包囲された豊かなエルサレムたらんと欲してい
 るのだ。これが消費社会のイデオロギーである」などと、落ちをもてあそぶわけにはいかない。

  消費社会とは何かという、解剖そのことが重要であり、消費社会にたいする否定的レッテルや
 肯定的レッテルなどは論理をはぐらかし、判断の停止の方に誘導してゆくほかに何の意味もなさ
 ない

 こういう課題をボードリヤールが回避しているのは、まったく不可解というほかない。この種の
 手のこんだ倫理的判断停止ならば哲学者、社会学者、文学者の顔をして、世界中の文化の現状を
 牛耳りながら、その実スターリン地獄をいまも支えている連中が、いたるところでやっている。

 ボードリヤールは消費社会を誇張した象徴記号の世界で変形することで、資本主義社会の歴史的
 終焉のようにあつかっている。実質的にいえば産業の高次化をやりきれない不毛と不安の社会の
 ように否定するスターリニズム知識人とすこしもちがった貌をしていないとおもえる。わたしに
 は消費社会の画像が、わたしたちの感受性と理念に問いかけてくるものは、ボードリヤールがと
 きに落ちこんでいる退行による否定や欠如による否定とは似てもにつかぬものにおもえる。押し
 つけてくる肯定と、押しつけてくる格差の縮まり、平等への接近に、どんな精神の理念が対応を
 産みださなくてはならないか。ここではまったく未知のあたらしい課題が内在的に問われている
 とおもえる。

                                 第一部 吉本隆明の経済学  


ボードリヤード批判として、『松岡正剛の千夜千冊』(交貨篇 0639夜 「消費社会の神話と構造」)
の書評――それはひとつには、このように社会の価値の創発契機をシステムの中にことごとく落とし
てしまっているのは、言語学・経済学・精神科学などの人間科学そのものの体たらくでもあって、ま
ずはその「知を装う欲望消費」をこそ食い止める必要があるということである。しかしここには、
ったい人間が発見してきた科学というものは何かという根底を批評するしかない覚悟と計画も含まれ
て、少なくともボードリヤールのロジックでは二進も三進もしない問題も待ちうける――が参考にな
った。


                                      (この項続く)  

 

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グリッドパリティ達成!

2015年03月19日 | デジタル革命渦論

 

 

 

● グリッドパリティ達成!

そも、グリッドパリティ(Grid parity)とは、再生可能エネルギーによる発電コストが既存の電力のコ
スト(電力料金、発電コスト等)同等かそれより安価になる点(コスト)を指す。つまり、太陽光発
電の発電コストが、従来の電力料金を下回ったことを意味し、再生可能エネルギーの実現に向けての
裏付けとアクションプランの策定と実行において成功したことを意味する。具体的には、システム価
格の低下を背景に2014年の発電コストが22円台/キロワットアワー(住宅用太陽光発電)を達
成した
ことだ。

そこで、グリッドパリティ達成した後、市場拡大のために何を必要とすべきか、独立行政法人新エネ
ギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が太陽光発電開発戦略をまとめ、20年までのシナリオを示し

いる。その太陽光発電開発戦略は、太陽光発電の大量導入時代を踏まえ、普及とともに社会を支え
るた
めに何が求められるかを検討し、発電コストの削減だけでなく、社会から必要とされる課題を包
括的に
捉え、座業としての基盤強化を盛り込んだシナリオを開示した。

同開発戦略は2013年までの数字を基にまとめているため、新たに2014年の住宅用の発電コストについて
輝したところ、運転年数20年、割引率年利)3%、耐用年数(法定)17年、償却率/改定償却率0.
118/0.125を前
提に、システム容量4キロワット、システム単価(工事費含む)を364千0円/
キロワットと
し、年間0.36万円/キロワット/年の維持費で運転した場合、設備利用率を12%と
ると発電コストは2014年度に20円台/キロワットアワー
になった。NEDO斬エネルギー部太陽光発
電グループによると、住宅用の太陽光発電のシステム価格は、2013年に385千円/キロワットだった
のか20
14年に364千円/キロワットと低下。電気料金も値上がりし、これらを理由にこれまで月割と
されていたグリッドパリ
ティを達成したと説明している。国内での価格低減は、市場競争と技術開発
の成果だ
が、世界的な低価格傾向はシリコン原料価格の低下とモジュールの世界的な供給過刺にある。
また、設置設計でもバワコンとモジュールの比率を最適叱しており、これも発電コスト低減に寄与して
いるという。
 

  

FIT(固定価格買取制)導入後の太陽光発電市場はメガソーラーなど産業用を中心に大幅な伸びとなり
全体の約74%を非住宅用シス
テムで占めるようになった。住宅用も構成比こそ低いものの看実に増
加し2013
度の導入量は導入量は130、7万キロワットになった。これは20112年度(FIT開始後7月~
3月)の96.9万キロワットに対し3割以上
の伸びとなる。さらにFITによる認定容量(2013年7月~
2014年10
月)も268.8万キロワットになっている。ただ、太陽光発電か大量に普及することにより
社会的課題も浮き彫りになったと同戦略では指摘している。

そのひとつか導入ポテンシャルの問題。住宅用は約2700万戸に潜在的なポテンンャルがあるとす
るが、そのう
ち導入可能な一戸住宅は約1200万戸で、残りの住宅およそ1200万戸は80年以前
の耐震基準しか満たしていない。
さらにこのうち空き家か約150万戸を占め屋根形状からモジュー
ルを設置で
きない住宅もこの他約150万戸あるとされる。新たにモジュールを設置しようとするな
ら住宅の耐震強度を高めるために建て換えならず、導入可能とされる住宅でもすぺての一戸建ての屋根
に設置されるわけではなく、モジュールの軽量化や設置技術の改良などで潜在的なポテンシャルを高
める心配がある。また、新築の設置コストは364千円/キロワットが既築は400千円と開きがあり、
工事費の逓減が課題となる。

 

一方、太陽光発電の市場は発電事業施・発電支援などで事業を拡大させており、住宅市場でもFIT導入
後に発電支
援など新たな○&M事業が注視され、需要のすそ野を広げている。O&Mは保守管理と性能
維持の二つに分けられ、これ
まで主に産業用の非住宅でニーズを吸収してきた。しかし住宅用でもオ
ペレ
ションサービスやメンテナンス、アセットマネジメントなどに関心が生まれており、将来的な利
用も期待されている。例えば
パワコンであればメンテナンス性を高めるため部品交換をしやすくした
り、バワ
コン専用の部品の開発でき、一般に10年とされているパワコンの寿命を20年に延長し低コスト
化にも繋げらることもできる。

また、モジュールの技術面からみた課題は発電の高効率化、低コスト化技術、信頼性の向上の3点で、結
晶シリコン型太陽電池の高効率化は製品レベルでモジュール変換効率20%を超えるものが販売され始
めたことから、20%以上の高性能セルの開発と量産化技術が求められるようになったとする。低コスト
化技術は基板薄切り型や切代(カーフロス)の低減で、製造プロセスの確立が急務。システム全体ではパ
ワコンや架台、設置工事などのコスト低減も必須と指摘した。このうちパワゴンはダウンサイジング
や変換効率、架台や設置工事は軽量化と施工性の向ト、が重要になるとしている。

 

 

● 『吉本隆明の経済学』論 27

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!       

  吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその思
 考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。資
 本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
 

    はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

 

                                                        第1部 吉本隆明の経済学   

 第4章 生産と消費 

     2 消費論
    
     Ⅰ

     

  この生産にたいする消費または消費にたいする生産の時空的な遅延については、もうすこし論  
 議をすすめることができそうだ。ここに個人的な消費が多様化してゆく動向を語るグラフがある。
 昭和55年(1980)年から昭和63(1988)年にわたる八年間の消費支出が多様化しな
 がら増加してゆく傾向をしめしたものだ。消費支出は高度(産業)化社会になるにつれて、必需
 的支出と選択的支出に分岐してゆき、その分岐の度合はますます開いてゆくことがわかる。そし
 てもうひとつ選択的支出のうち選択的な商品支出と選択的なサービス支出とが、また分岐してゆ
 くことがわかる(図6参照)。ここで、

  (1)
選択的サービス支出  旅行、カルチャー・センター、外食等
  (2)選択的商品支出    家電製品、乗用車、衣料品等

 

   ここでもうすこしグラフについて立ち入ることができる。必需的支出、選択的サービス支出、
  選択的商品支出の割合はさきの図のようになる(図7参照)。
   この図は、さきのグラフとあわせてつぎのことを語っている。

    (1)
必需的消費支出は、絶対量を増加させているにもかかわらず、割合(パーセント)とし
    ては
 減少の傾向にあること。
  (2)
選択的な商品支出と選択的なサービス支出は増加の傾向にあること。
  (3)さ
らに数字にこだわれば、必需的支出の割合は減少しながら半分(50%)の境界をこえ
    て、
もっと低い割合に移ろうとする過渡にある。いいかえればわたしたちの消費生活は必
    需のだ
めの消費線からそれ以外のための消費線へと移行しつつあるといっていい。

  それ以外のための消費線とはなにか?わたしたちはなにのために消費生活をやっているの
か?
  こう問われるべき段階にはいりつつあるのだから、それは問われなくてはならない。だが
その
 まえに言うべきことがいくつかあるとおもえる。

  
  このばあいにマルクスのいう消費がすなわち身体の生産、生活の生産、生存の生産であるよう

 な消費は、このばあい表やグラフの必需的な消費支出にあたっていることがわかる。すると必需
 的な消費支出と生産とのあいだには時間的な遅延や空間的な遅延をかんがえなくても、対応が成
 り立つことがいえる。そこでさきの図5の生産と消費との関わりはすこし修正しなくてはならな
 いことになる(図8参照)。

  ここでは生産が同時に消費だというばあいの消費は必需的消費だけをさすことになり、選択的
 消費は生産にたいして犬なり小なり時空的な遅延作用をうけることになるといえよう。ところで
 ここでもうひとつ犬切だとおもわれることがある。それは遅延という概念だ。わたしたちはこの
 時空的な遅延が産業社会の高度化のカギをにぎっているものとみなしたい。なぜかといえば、こ
 の時空的な遅延のところで生産と消費のあいだの組み込みは、複雑な時空的なフラクダルに変容
 し、その結節点で価値化か起こるとかんがえることができる。そしてこの遅延の領域で産みださ
 れた価値は、生産が同時に消費であるというマルクスの価値領域にたいして、高次の価値領域と
 みなすことができる。高次の価値領域の成立はすなわち高次の生産業の成立を意味している。い
 いかえれば時間的な遅延を介してみられた空間的な遅延は価値を構成し、空間的な遅延を介して
 みられた時間的な遅延は意味を構成するといっていい。すこし具体的な例をつかってこの問題を
 より具体的に語ることができる。

  いまここに産業の高度化にいたるプロセスを掲げた表がある。産業の分野として、わかりやす
 くするため、さきにあげた選択的商品消費支出の品目に対応する家電と自動車の産業がどう高度
 化されるかを例として抽出してみる(図9参照)。
  ここで産業の高度化にあたるものは、高付加価値化、生産手段の高度化、関連技術の開発、多
 角化などに分類されていることがわかる。そしてこれらの生産の高度化は選択的な商品消費支出
 とのあいだの時空的な遅延のところで対応していて、そこで連結されている。高付加価値化や生
 産工程の改善はより時間的な遅延であり、技術開発や多角化はより空間的な遅延にあたっている。

 

  そしてもうひとつ犬切とおもわれることは、これらの産業の高度化の姿は、末端のところで、
 (サービスなどを介して)消費にひとりでにスイッチされているといえる。わたしたちはこの末
 端
で消費にスイッチされる領域が、確定した輪郭をもちうるようになったとき、それを産業の高
 度
化から、より高次産業への移行とみなす。そう定義できるようにみえる。

  ここであらためて産業の高度化と高次産業への転移、また高次産業の発生と成立とが、なにを
 意味するのかをかんがえてみる。わたしたちはたぶん常識でかんがえられないほどの高度化の契
 機にさらされている。

  第一に挙げられるのは、生産の多角化がいわば自然に移行するように、末端から選択的な消費

 につながっているところで、いつも高度化をかんがえることができる。もうひとつ第二にかんが
 えられることは、生産の本来の流れが自然に支流に移行しているときに産業の高度化とみなすこ
 とができる。たとえば製造業種を例にとってみる。するとこれらの全業種について、売圭尚から
 みた非本業比率の数字は与えられている。非本業とは、本来その業種の主流であるべきものから
 枝葉を多角化していった度合をあらわすとみなされる。昭和五四年度に全業種の非本業比率は、
 13.3%であった。昭和59年度には15.5%に上昇し、昭和61年度には19%になった。

  いい
かえれば本来の業種の主流からの多角化がすすんでいったことを意味している。この多角
 化は高
度化のひとつの支柱であることはいうまでもない。精密機械、繊維、非鉄金属、一般機械、
 鉄鋼
などの分野で非本業比率は、全製造業種の非本業比率の平均売上高を超えている。いいかえ
 れば高度化が進行したことを意味している。とくに精密機械の分野では昭和六一年度に井本業比
 率は60%を超え、繊維分野では40%を超えようとしている。このことはいうまでもなく、売上
 高からみたばあい精密機械という分野が解体し、高次産業へ移行したことを意味している。たぶ
 ん使用価値として情報産業用の電子事務機器やOA機器や、高度情報装具、医療機器の部品とい
 ったような、高次(第三次)産業の次元へと解体し、転化してゆく過程をたどりつつあるとみな
 すことができよう。

  わたしたちはこの種の考察を堂々めぐりしながら、だんだんと高次産業についてひとつの像と
 輪郭をはっきりさせられるような印象をうける。ひと口にいえば産業の高次化(咄Ww)は素材
 を製造業の分野からあつめて、高付加価値化、生産手段の高度化、電子技術化、多角化などによ
 って空間的な遅延と時間的な遅延を産みだし、ひとつの構造に組み立てることを意味している。

 この組み立てはもちろん生産と消費とを連結することを目的にしている。そしてこの生産も消費
 もたぶん抽象的、井然性的なものだ。そしてそれにもかかわらず、わたしたちは人間の段階化さ
 れた自然のどの場面にも適応できる原型を、高次の自然(人工)と高次の人間(情報機械化)と
 のあいだに想定していることになる。

  Ⅱ

  

  消費社会と呼ばれているものはなにか。みたされない規定をわたしたちの考えてきた経路にそ
 って言いなおしてみなくてはならない。ある著書はこの言葉を、犬多数のひとびとが消費行動の
 ほうにこころを傾けている社会のようにうけとっている。またべつの著書は、ひとびとが消費を
 する社会の部分的な局面の意味に解している。そこではひとびとに消費をしいる設備や場所が集
 まっていて、おもに消費行動だけがおこなわれる。またべつの著書では、むしろ高次な産業社会
 とおなじ意味で消費社会という言葉がつかわれている。いままでとってきた考え方から消費社会
 をわたしたちなりに定義することができる。それをいってみれば、生産にたいする消費の時間的
 な、また空間的な遅延の割合が50%をこえた社会が消費社会ということになる。ちがう言い方も
 できる。

 必需的な支出(または必需的な生産)が50%以下になったのが消費社会だ。必需的な支
出(また
 は生産)というのは、さきの消費論I図5、図6から食料、家賃・地代、光熱・水道
通勤・通学
 の交通費など、日常生活として繰り加えし再生産するのにかかる支出(または生産)
のことにな
 る。するとこの支出(または生産)は、マルクス的な概念による生産が消費である(ま
たは消費
 が生産である)部分、いい加えれば生産と消費が遅延なしに密着し組み込まれている部分にあた
 っていることがわかる。

  さきの図6(消費論I)の数値をみるとこの必需的支出は、夫婦の片方だけが働いているばあ
 い、昭和55年度で53.7%、昭和63年度で50.2%、また夫婦共働きのばあい、昭和55
 年度で50.1%、昭和63年度で47.2%となっている。すると共働きの夫婦のばあいをとれ
 ば必需的な支出は50%以下になっていて、わたしたちの規定の仕方では日本は消費社会にはいっ
 ていることがわかる。

  さきの図5(消費論I)はこの消費社会的な図像をしめしている。人口構成からいうと第一次
 産業(農・漁・林)は9.3%、第二次産業(製造・建設業など)は33.1%第三次産業(サー
 ビス・小売・卸・流通業)は57.3%となっていて、消費社会という呼び方は、第三次産業が
 50%をこえた社会の画像と対応していることがわかる。これは国内総生産の図像からもうらづ
 けることができる(図10参照)。



  もうすこし立ち入ってみる。約30年前の昭和31年をとると第二仄産業である農林水産業の
 国内生産の割合は約18%あり、それが30年間に3%まで減少している。第二次産業の主役で
 ある製造業は昭和32年には約19%だったが昭和62年には35%に増加している。また第二
 次産業を構成しているもうひとつの桂である建設業は、昭和32
年から昭和62年まで大体8%
 から7%のあたりに固定している。一方で第三次産業のうち昭和32年から昭和62年にかけて
 30年のあいだに、はっきりと増加をしめしているのは小売卸業と金融保険業であり、減少して
 いるのはサービス業だといっていい。これをおおきく傾向としてとりだせばつぎのようになる。


  (1)第二次産業(農・漁・林業)は30年のあいだにはげしく減少している。
  (2)第二次産業の主役である製造業は、第二次産業(農・漁・林)の激減と建設業の現状維
    持をテコにして、割合としては30年間に増加している。
  (3)第三次産業(小売、卸業、金融、サービス、流通)は小売、卸業と金融保険業の増加な
    どをテコにして全体の50%をこえてきている。


  わたしたちは第二次産業の基幹である製造業の国内総生産はもっと比率がすくなく、また傾向
 としては現状維持か、すこしずつの滅少とかんがえていたが、むしろ増大していることは意外で
 あった。これは農業、漁業、林業などをはげしく喰いちぎって増加しつづけてきたことを象徴し
 ている。それならば製造業のうち何か増加のもとになっているのかを言ってみれば、昭和32年
 から昭和62年のあいだに、加工組立ての分野が11%から45%にはげしく増加していること
 がわかる。これと遂に、生活に関連した製造業は昭和32年の60%から昭和62年の18%に
 はげしく減少している。いってみれば必需的な生産にかかわる製造業は、はげしく減少し、組立
 て加工にかかわる製造業は、はげしく増加して第三次産業化へのかかわりの通路をつけてきたと
 いって
いい。

                                  第一部 吉本隆明の経済学  

                                      (この項続く)  

 

  

 

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福井のグルメ二品

2015年03月18日 | 創作料理

 

 

 

 

● へしこは海のチーズ

北陸新幹線の部分開業フィーバーをうけ、今夜はその延長の福井は若狭のグルメ二品にフットライト
を当てる。まず、へしこ。へしこは鯖を糠漬けにしたもので、福井を代表する特産品の一つで福井の
伝統的なスローフード。そのの昔、若狭湾で獲れた鯖は鯖街道と呼ばれる山道を通り、京都へ運ばれ
ていた。京の都人がこぞって求めたという質の高い若狭の鯖は、地元ではへしこに加工され、冬の貴
重なタンパク源として欠かせない存在。塩辛さの中に旨みがギュッと凝縮され、ビタミンB、鉄分な
どをバランスよく含みます。そのまま焼いてご飯にのせるだけで充分美味しいですが、特有の旨みは
パスタをはじめあらゆる料理の具材や調味料としても生かされている。長野圏には柿のゆべしのごと
く、蕪に挟めばへしこのミルフィーユにチェンジ。パスタにからめれば、チーズいらずのアンチョビ
風スパゲティに変身。勿論、うどん、ラーメン、丼にも仕えという保存食になり。世界の魚介類のチ
ーズとして展開できそうな"
若狭のへしこは日本の伝統食品宝"である。

 

  

 

 ● 鮎がスイートフィッシュなら、ぐじはタイルフィッシュ

若狭焼きで有名な若狭ぐじ(甘鯛)を御食国(みけつくに)、若狭焼きとは、一汐した若狭ぐじを鱗
を付けたままじっくり焼き上げたもので、京料理では若狭焼きの善し悪しが、板前の腕前の目安とさ
れるほどの伝統のある料理方法。若狭ぐじは和名をアカアマダイという。英語でタイルフィッシュと
呼ばれるほど、タイルのようにきらきら輝き美しい魚。福井県では夏場に刺し網漁で漁獲される他、
延縄(はえなわ)釣りで一年中漁獲される。その角張った頭の形から「屈頭魚(くつな)」と呼ば
れていまたが、それがなまり「くじ」「ぐじ」と呼ばれるようになる。若狭湾で獲れたすべてのぐじ
を「若狭ぐじ」と呼ばず「若狭ぐじ」と呼ばれるのには幾つもの高いハードルを越え命名される。

 

 

  

 

 

 

 

● 『吉本隆明の経済学』論 26 

 

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!       

 

    吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズとも
 異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかったその
 思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造とは何か。
 資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の核心に迫る。
 

    はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 4章 生産と消費
 第5章 現代都市論
 第6章 農業問題
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき     

                                                         第1部 吉本隆明の経済学   

 第4章 生産と消費 

     2 消費論
    
     Ⅰ

     

  ヘーゲルの自然概念のかなめにあるのは、観察する理性にとって自然が段階化するという点で
 あった。この段時化によって自然は無機物や植物や動物に区分される。わたしたちが現代つかっ
 ている概念でいえば、ヘーゲルの段階化は、位相的な構造と順序の構造の結合を意味している。
 無機物は存在がそのものであり、それだけであるようなものだ。植物は存在が個別的であるだけ
 の存在だ。動物になると存在は個別的でありながら種としての区分をうけいれている。これは位
 相的な構造にあたっている。もうひとつ段所化は順序の構造をふくんでいる。生命の在り方とし
 て無機物・植物こ動物は順序的だとみなされる。また動物のうえに人間(ヒト)という順序を加
 えることもできる。もうひとつヘーゲルの段階化にはたいせつな特徴があった。これらの段階化
 された存在は、じぶんのまわりの外部の自然にたいして部分的な関係しかもちえないということ
 だ。

  いいかえれば段階化は自然との関係の部分化を意味した。ヘーゲルがあげた例をとれば、鳥類
 は天空がなければとぶことができない。だが天空という自然は鳥類がとぶためだけにあるわけで
 ない。だから鳥類の自然にたいする関係は部分的なものだ。おなじように魚類にとって水はなく
 てはならない生存の環境だ。だが水は魚類の生存のためだけにあるのではない。そこで魚類の水
 にたいする関係は全面的なものではない。これは獣類をとってきてもおなじだ。段階化された存
 在(自然)と、それ以外の自然との関わりは、こんなふうにいつも部分的なものだ。

  マルクスはヘーゲルの段階化の概念のうえに人間(ヒト)をかんがえた。順序でいえば動物的
 の上位に人間的をおいたといってもいい。そして人間とそれ以外の自然との関わりは部分的では
 なく全面的で普遍的なものとみなした。すくなくとも可能性としては人間だけが外部の自然にた
 いして、全面的な普遍的な関係をつくるものとかんがえようとした。これは道にいってもいい。
 じぶん以外の自然にたいして全面的で普遍な関係をもちうるものを人間(ヒト)と定義した。こ
 こで普遍的な関係は特定の構造でなくてはならない。マルクスはどうかんがえたかといえば、こ
 の普遍的な関係は、こまかくいえば直接に生存(生活)の手段である自然としても、また生存(
 生活)の行動の対象や材料や道具としての自然についても、全面的に自然を人間の非有機的な(
 無機物としての)肉体にしてしまい、またじぶん自身はそのとき有機的な自然(肉体)になって
 しまうという〈組み込み〉の関係によって、普遍的な関係は生みだされるとかんがえた。たとえ
 ば、道具や装置をあつかうばあいでも、農耕のように、ほとんど素手で耕すばあいでもおなじだ。

 道具や装置をつかって素材に手をくわえても、素手で地面に種子をまいても、人間は自然(物)
 を非有機的な肉体にしているのだし、このとき人間の方は筋力(の行使者)という有機的な自然
 に、じぶんを変化させていることになる。
 
  マルクスにとって、すぐにもうひとつの問題があらわれる。人間がまわりの自然とのあいだに
 この〈組み込み〉の関係にはいったとき、べつの言葉でいえば自然にたいして行動にうつったと
 き、この非有機的な肉体である自然と、有機的な自然であるじぶんの肉体との〈組み込み〉の領
 域から価値化されてゆくということだ。また価値という概念はここの領域のほかからは生みださ
 れないとみなされた。経済的なカテゴリーの言葉からこの関係を記述するとすれば、生産という
 概念をつかうか消費という概念をつかうほかに、この普遍的な関係はいいあらわせない。そして
 じっさいにマルクスは、生産という概念をつかって人間とのこりのぜんぶの自然との〈組み込み〉
 の普遍性をいいあらわそうとした。その極端ないい方の断片をいくつかあげてみる。


   宗教、家族、国家、法、道徳、科学、芸術等々は、生産の特殊なありかたにすぎず、生産の
   一般的法則に服する。

   歴史全体が、自然史の、人間への自然の生成の、現実的な部分である。人間にかんする科学
   が自然科学をそのもとに包括するように、自然科学はのちにまた人間にかんする科学をその
   もとに包括するだろう。すなわち、それは一つの科学となるであろう。

   思惟自体の基盤、思想の生命発現の基盤、すなわち言語は、感性的自然である。
   
                      (マルクス「経済学と哲学とにかんする手稿」)


  こういった断片的な文句は、マルクスの汎生産と汎自然とががっちりと組み込まれているとこ
 ろを、よく象徴している。たとえば宗教、家族、国家、法、道徳、科学、芸術などが生産の特殊
 な在り方だといわれると、嘘がいわれているのではないとしても、おおいに蹴いてしまう。そし
 て蹟く方が正常だといっていい。だがこのばあい生産という言葉は、自然と人間のあいだの関係
 という概念を経済学的な範時におきなおしただけの言葉なのだ。いいかえれば生産=関係を意味
 している。つよい直観的な論理がはたらいているので、たくさんの補いをつけなければならない
 としても、見事な判断になっている。だがわたしたちが言葉通りうけいれれば、だめなところが
 でてくる。もうひとつある。この方がたいせつなのだが、一種の論理のはぐらかしをうけた奇異
 な感じをいつもともなう。比喩的にいえば〈組み込み〉の概念が、二つのものがひとつに合体さ
 れたものであるため、余地、空隙、遊び、分離がなく、対立した概念がシステミック(組織がら
 み)に結合している印象をうけてしまう。人間とそのほかのぜんぶの自然との普遍的な関係は、
 人間の働きかけの面からは生産といっていいように、働きかけによって有機的な自然となった肉
 体(筋力)という面からいえば、消費にほかならない。じじつマルクスの消費の概念は生産にく
 つついた裏にあたっている。マルクスは書いている。


    消費は直接にまた生産でもあるが、それは、自然界において諸元素や化学的諸成分の消費
   が植物の生産であるのと同じである。たとえば消費の一形態である食物の摂取によって人間
   が自分自身の肉体を生産することはあきらかである。しかしこのことは、なんらかのやり方
   で人間を、なんらかの面から生産するものであれば、どんな種類のほかの消費についてもい
   えることである。消費的生産。しかしながら消費と同一のこの生産は、第一の生産物の破壊
   から生ずる第二の生産であると経済学はいう。第一の生産では、生産者が自分を物と化し、
   第ニの生産では、かれによってつくられた物が人間となる。だからこの消費的生産は――た
   とえそれが生産と消費との直接の統一であるとはいえI-本来の生産とは本費的にちがうも
   のである。生産が消費と、消費が生産と一致する直接の統一は、それらのものの直接の二元
   性を存続させる。  
                             (マルクス「経済学批判序説」)


  植物という自然の段階について、代謝の活動をここでは消費、すなわち生産だという〈組み込
 み〉の関係におき直している。自然界にたいして植物は諸元素や化学的な成分を提供されるよう
 に働きかける。そしてじぶんは酸素を提供しながら生長する。自然界は消費したのだし、植物は
 じぶんを生産したのだ。人間も段階として、おなじことをやっているというのが、このばあいの
 マルクスが言いたいことだ。 生産は同時に消費の行為であり、また逆に消費があるときかなら
 ず生産をモチーフとしていて、人間の行為はそれ以外のあらわれ方はしない。こういう生産と消
 費がシャムの双生児のようにひき離せない概念は、はじめにヘーゲルの自然の段所化をうけいれ、
 そのうえに人間とそれをとりまく自然とのあいだの相互行為をシステミック(組織がらみ)な〈
 組み込み〉として普遍化を企てたとき、どうしても避け難いものだった。

  古典派以後の経済学の概念では生産人という概念は生産行為に関係づけられ、消費人という概
 念は消費の行為に関係づけられ、それぞれが別の人間であることも、また同一の人間の別べつの
 局面での行為であることもできる。それは無意識に前提にされている。だがヘーゲルーマルクス
 的な考え方では、段階は観察する理性に関係づけられ、生産と消費の〈組み込み〉の関係は、人
 間の行為(行為的理性)に関係づけられるので、同一の人間の内部での区別にしかすぎない。

  具体的な例でいえば、ある一人の生産にたずさわる人間が、仕事以外の時間にレストランに出
 かけて料理を喰べた。この消費行為の局面では、かれは消費人だということになる。これはある
 一人の人間は生産にたずさわり、別の一人の人間がレストランで料理を喰べたとかんがえてもお
 なじことだ。だがマルクスのかんがえ方ではそうならない。ある一人の人間が職場で物の生産に
 たずさわった。このときかれは物を生産し、同時に生産する行為によって身体(のエネルギー)
 を消費したことになる。またある一人の人間がレストランヘ行き、料理を喰べて金銭を支払った。

  かれは消費行為をしたのだが、同時にそのことによって栄養を補給し、気分を安らかにするこ
 とで、かれの身体を生産したのだ。すくなくとも明日また職場で生産にたずさわれるほどに身体
 を生産したことになる。

 

  わたしにはヘーゲルーマルクス的な生産と消費の概念のほうが妥当なようにおもえる。生産人
 と消費人を人間
のべつの局面とかんがえることは、近似的には差支えないようにおもえるが、あ
 くまでもげんみつにいえば、ヘ
ーゲルーマルクス的な概念で生産と消費をかんがえざるをえなく
 なる。ただ人間は生産の場面でそれにたずさわ
っているときには、疲労がひどくこたえないかぎ
 りは、
身体を消費していることには無意識だし、消費の場面では遂に、料理を喰べることによっ
 て、玉突きや、パソコ
ン遊びをやることによって……身体や精神を生産していることは無意識に
 なっている。もうすこし留保すべきこ
とがある。ヘーゲルーマルクス的な生産と消費は、どう
 んがえても〈組み込み〉の息苦しさ、ぬきさしならな
い関係の感じがつきまとって、どこかで風
 穴をあけなく
ては我慢ならない気がしてくる。

  もうひとつあげれば、
生産の行為の裏に身体の消費が附着していることは、その行為が理性的
 な内省の機会をもつか、あるいは身体の
消費のあげく病的な症候を呈すれば気づくことができる
 が、生産の局面とそれに対応する消費の局面とが時間的にか空間的にあまりに隔っているばあい
 は、消費がいいかえれば身体の生産にあたることは、直接には指定できないことになる。このば
 あいには生産はすなわち消費であり、消費はすなわち生産であるというマルクスの概念は、一般
 的な抽象論の次元にうつされてしまう。そしてこのことは生産と消費の高度化にとって避けるこ
 とができないといっていい(図5参照)。

                                第一部 吉本隆明の経済学  

                                      (この項続く) 

 

 

 

  

 

 

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中央日本周回新幹線構想

2015年03月17日 | 極東アジア経済構想

 

 



● 米国加州のエコカー規制は邦人メーカにはさらなるチャンス!

厳しい排ガス規制で知られる米カリフォルニア州で、ハイブリッド車(HV)が肩身の狭い思いをし
ている。もはや最新技術とはみなされず
、エコカーの定義からも外された。流れは他の州にも及んで
おり、各メーカーは次世代エコカーの投入を急いでいる(朝日デジタル、2015.03.15)。HVは、も
はや最新の環境技術が使われた車ではない。と、
規制を担当する州大気資源局のアルバート・アラヤ
副局長という。自動車メーカーに州内で売る新車の14%をエコカーにするよう義務づけているが、
17年からはここからもHVを外す。目的は、技術革新を後押しすることだ。義務がなかったら、自
動車メーカーは技術開発をしようと思わないだろう、とも。メーカーは義務に違反すれば1台あたり
5千ドル(約60万円)の罰金を科せられる。

多めにエコカーを販売した他社から「排出枠」を買い取ってしのぐこともできるが、多額の費用がか
かる。「環境保護に後ろ向きな会社」というイメージも背負ってしまう。カリフォルニアが環境規制
に熱心なのは、昔から車の数が多く大気汚染に苦しんだからだという。それにしても、エコカーの販
売そのものを義務づける規制は世界でも異例で、非現実的だ」との批判も根強い。充電施設などの)
インフラが整っておらず、消費者から望まれていない。メーカーがついていくのは難しいのではない
かとの声も上がっている。 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、EVを1台売るごとに約1万ドル
(約120万円)の赤字が出る。大々的に販売させるのは、マゾヒズムの極みだとの激しい反発の声
もある。

※ ZEVZero Emission Vehicle)とは、排出ガスを一切出さない電気自動車や燃料電池車を指す。カ
  リフォルニア州のZEV規制は、州内で一定台数以上自動車を販売するメーカーは、その販売台数
  の一定比率をZEVにしなければならないと定めている。ただし、電気自動車や燃料電池車のみで
  規制をクリアすることは難しいため、プラグインハイブリッドカー、ハイブリッドカー、天然ガ
  ス車、排ガスが極めてクリーンな車両などを組み入れることも許容されている。

しかし、燃料電池、電気自動車普及にはハード&ソフトの両面からのスマートな行政のバックアップ
が不可欠だ。前者は水素ステーションの配置と法整備、後者は、幹線道路の非接触給電レーン(走行
中の非接触給電=既存電車の非接触給電化と同じような機能)や給電ステーションの整備が前提とな
るが、いずれにしても邦人メイカーには、このアゲインストは、ビックチャンスでもある。


 

● テラヘルツ技術を活用した太陽電池評価に成功

低炭素社会の実現に向け、世界中で再生可能エネルギーの活用が進んでいる。太陽光発電は、商用太
陽電池の約80%を占める結晶シリコン太陽電池は、発電時にさまざまなエネルギー損失が発生するこ
とが課題のひとつとなってるが、瞬間的な発電状態の変化が、エネルギー変換や損失に与える影響を
検証することができれば、発電効率を高める研究開発につながる。
こうした理論を実証する有効な方
法として、SCREENホールディングスと大阪大学は2011年10月、LTEM 技術を用いて太陽電池から発
生するテラヘルツ波計測し、1兆分の1秒という極めて短い発電状態の変化を可視化することに世界
で初めて成功。このLTEM技術で太陽電池評価システムの装置化を実現し、再生可能エネルギー分野
の世界的な研究開発拠点「福島再生可能エネルギー研究所」に設置する。
SCREENホールディングス
と大阪大学は、今回の取組みを通じて、「福島再生可能エネルギー研究所」での太陽電池分野の総合
的な研究開発に寄与するとともに、研究で蓄積されたノウハウを応用し、テラヘルツ波の検出・分析
技術を駆使した新たな分野への技術展開を目指す。

※ レーザーテラヘルツエミッション顕微鏡(LTEM):大阪大学レーザーエネルギー学研究センタ
  の斗内教授が開発した、テラヘルツ波応用解析装置。約百フェムト秒という極めて短い時間のレ
  ーザーパルスを半導体、超伝導体、強誘電体などの材料やデバイスに照射することにより、発生
  するテラヘルツ波を検出し可視化できる顕微鏡。(1フェムトは1千兆分の1秒)。

 

ところで、フォトデバイスは、材料として半導体及び金属が用いられるのが一般的である。特に、半
導体では、温度が高くなると、価電子帯の電子が、熱的にハンドギャップを超えて伝導帯に入る。電
子の分布は、いわゆるフェルミ分布に従う。電子及び正孔は、それぞれ熱の影響によって、ドナー準
位及びアクセプタ準位から、伝導帯及び価電子帯に移動する。温度によって、フォトデバイスの特性
が大きく変化する可能性があり、フォトデバイスの温度依存特性を検査する技術が求められていた。

上図1の検査装置100は、太陽電池パネル90を検査するための装置で、太陽電池パネル90から
電磁波パルスLT1を放射させるパルス光LP11を太陽電池パネル90に照射する励起光照射部12
と、パルス光LP11の照射に応じ、太陽電池パネル90から放射される電磁波パルスLT1を検出
する検出部13と、太陽電池パネル90における、パルス光LP11が照射される部分の温度を変更
する温度変更部31とを備えた構成で、電磁波検出に基づいたフォトデバイス検査において、フォト
デバイスの温度依存特性を検査できる。

● テラヘルツ技術でなにができるのか?

LTEM の原理、実験装置構成

LTEM の原理は、ある種の試料(半導体,超伝導体,強誘電体など)にフェムト秒レーザーパルスを
照射することで、THz 波が発生することが知られていたが、古典的な電磁気論によれば、THz波は電
流・分極の時間変化により発生する。半導体の場合、フェムト秒レーザーパルス照射により発生した
光励起キャリアは、p-n 接合、ショットキー接合などの内部電界、あるいは電極に電圧を印加したこ
とで外部電界によって加速しTHz 波パルスが発生。そのTHz 波を観測することで材料の局所特性が分
析できる。太陽電池の最も基本的な構成は、上図1に示すようにSi で作られた大面積のp-n 接合素子
いわゆるフォトダイオードで、太陽電池にフェムト秒レーザーパルスを照射し、光励起キャリアが生
成する。同キャリアは、太陽電池の空乏層領域で加速・分離されTHz 波パルスが発生する。上記は、
太陽電池にサブピコ秒オーダーの非常に短い時間の発電を引き起こすことを意味する。LTEM 技術を太
陽電池特性計測に応用することで、フェムト秒レーザーパルスによる発電状態をテラヘルツ波で捉え、
非破壊、非接触でイメージング可能となる。

レーザーテラヘルツ研究では、先進的なレーザー技術を利用したテラヘルツ帯の光源・検出器開発、
これを利用した基礎研究や応用技術の開発とテラヘルツ帯で動作する超高速量子デバイス等の開発に
取り組まれている。テラヘルツ帯(0.1~100THz)野電磁波は、その発生・検出が困難で、「未開拓電磁
波」とされてきたが、フォノンやプラズモン、分子の回転遷移など物質の多様な素励起の周波数に対
応し、物性研究で重要な役割を果たし、この分光特性を利用したイメージング、バイオ・医薬品研究
危険物検知などさまざまな分野への応用が期待されている。

 

● 中央日本周回新幹線構想に向けて 

北陸新幹線長野−金沢間が14日開業し 東京から北陸への時間が大幅に短縮された。基本計画決定か
ら43年を経て実現した東京から金沢までの直通ルートの開通した。総工費約1兆7800億円をか
けた新しい動脈は、人の流れを大きく変えることが予想されている。東京から金沢へは、東京駅から
越新幹線を利用し、越後湯沢駅で在来線特急「はくたか」に乗り換えるのが一般的だった。このル
ートの所要時間は最速で3時間51分。14日の開業で東京−金沢間は最速2時間28分となり 1時
間23分も短縮。東京−富山間も1時間以上短縮され、2時間8分で結ばれた。東京−金沢間の料金は
普通車指定席で1万4120円。

経済効果も試算されている。日本政策投資銀行は、首都圏からの観光客が増加し、石川県で年間12
4億円、
富山県で同88億円の経済波及効果があると試算。富山県の石井隆一知事は「北陸全体にと
って百年に1度
のビッグチャンス」と期待を示しているが、上越新幹線は北陸新幹線に乗客を奪われ
る格好となり、新潟市な
ど沿線自治体で構成する「上越新幹線活性化同盟会」によると、上越新幹線
と、長野−金沢間が開業する前の北陸新幹線との乗客数の比率は60対40だった。金沢延伸後は45
対55に比率が逆転する見通しを示している。特に、毎日新聞(2015.03.05)によると、北陸新幹線
が開通したことにより、人の流れ激変し「JR8割、航空2割」予想とも報じている。

 

この動きに対し、2012年6月29日に北陸新幹線敦賀までの工事実施計画が認可された福井県は県民一
丸になり早期実現に期待が膨らんでいるだけでなく(
大震災を経験した日本にとっても重要な国土政
策。政府はさらに、工期短縮を図るべきである―西川一誠福井県知事)、大阪や京都、奈良などの関
西圏の関係者もその影響予測を注視委している
。そこで、考え方を変えてみた。敦賀から先のルート
は、フリーゲージトレイン(軌間可変電車)を使えば、敦賀―米原ルートが一番早く、しかも工費も
やすくなる上に、東海道本線の相乗りを考慮すれば敦賀-米原-大津-大阪-京都-奈良への負の影
響は払拭される上に、"
琵琶湖ネックレス構想"の拡大版である、"中央日本周回新幹線構想"実現の夢
が現実味を帯びることになる。つまり、新潟港・富山港・敦賀港・舞港を基点として日本海経済圏
(朝鮮-中国-ロシア)との極東アジア
経済圏構想も含め、大阪-名古屋-東京-新潟-金沢を新幹
線で結ぶことが可能となり、極東アジアのトップランナー広域経済圏が構築できる。これは面白い!
 

  

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