早すぎる 蜩鳴きて 行く夏を 小さき花の 蔓茘枝添う
【1985 年のゴールド・ラッシュ】
梓弓 引きみ緩へみ 来ずは来ず 来ば来そをなぞ 来ずは来ばそを
作者未詳/万葉集
万葉集ファンなら万葉集のこんなところ
がすきだ。かれた、なれた、遊びのごこ
ろの、洒落たこころの大切さをまた教え
られたようで良いですね。機械工学でも
公差、遊びがなければギスギスする。栄
養学でも同じ、酵素、ミネラル、補酵素
がなければ上手く機能しない。いまや‘
コエンザイム10’はブーム。ちがうか!
「梓弓を引いたり緩めたりするように、
気をもませて。うぅ~ん、来ないなら来
ない、来るなら来る、それを何で? 来な
いなら来るなら、それなのに何で?」 と。
ご近所の方で転出の挨拶に見えられた。
同席した彼女に聞くともう13年にもなる
という。明るく挨拶する奥様とは対称に
別れというシーンに少し過剰な感傷が心
にふ~っとさざ波を立て消えていく。季
節的にはあまり記憶がない蜩が朝から鳴
いている。6月から出てくるから珍しい
ことではないだろうが、少し変だと思い
つつ、大きな胡瓜を裏庭から取ってきた
がゴウヤ(ニガウリ、ツルレイシ)の実
がなっているよときみはいう。今回の歌
はちょっと難しいかなぁと思いつつ、昨
今の出来事を背景に「夏の日と老齢の哀
愁」をテーマに歌を詠う。
1985年9月22日、ニューヨークのホテル・
プラザに先進5カ国(米英仏独日)の大
蔵大臣と中央銀行総裁が集まり、基軸通
貨のドルに対して、参加各国の通貨を一
律10%~12%の幅で切り下げるため外国
為替市場での協調介入をするという取り
決めをしたのが「プラザ合意」で1ドル
250円が一気に120円に向かい、長谷川慶
太などは1ドル50円もおかしくないと
託宣し、親子親戚が銀行やキャピタリス
トの誘導で不動産を買いあさっていた「
一億総中流意識」の懐かしい時代だが、
ブログで掲載している通り、この頃のわ
たしは主流批判を続けるも、ご多分に漏
れずチャッカリとバブルのおこぼれを頂
いていた。また、政府の打ち出した「土
地総量規制」に対する吉本隆明等の批判
とは真逆の立場にいた。このことと、同
時並進する社会・文化・産業に圧倒的に
影響を与えることとなるアップルのマッ
キントッシュの登場にみられる米国の青
年達が起こした『デジタル革命』(狭義
には「IT技術革命」)とが相乗効果と
なり時代は奇妙な方向に、換言すれば、
これまでの経験が通じない未体験ゾーン
領域が大きな口あけ我々を持ち構えてい
るかのような臨場感を強く感じている。
長谷川慶太
その結果どうなるのか?ライシュの『暴
走する資本主義』に書かれていると昨夜
の続きになるが、松岡正剛は「原題は『
スーパーキャピタリズム』(超資本主義
)となっている。スーパーキャピタリズ
ムは日本ではまだなじみのない用語だが、
経済権力の主体が投資家と消費者に移っ
ていくことによって、一国の経済社会の
‘影の部分’が肥大化してしまった資本
主義のことをいう。それで何がおこるか
というと、経済格差の極端化、雇用不安
の拡大、地域経済の低迷、環境悪化、人
権侵害、過剰サービスが引き起こされる
」と解説する。
図 ダウ平均の上昇推移(1900年~2000年)
米国に法定金利 5.25パーセントで満足し
ていた預金者たちが投資家になり、1985
年には株保有者が国民の20パーセントに
なったものの(→2005年にはアメリカ国
民の半数の世帯が株保有)、エンロン事
件の様に強欲ハゲタカの餌食になるとい
うわけだが、基軸通貨のドルと世界軍事
戦略独占と新自由市場主義経済を振りま
き、民主主義と自由主義をグローバル経
済の「市場」に埋め込んでしまった。こ
の二つはマスというボリュームゾーンを
担保してはじめて存在というという変容
を遂げることになる。
そも米国の精神は移民にあり、それゆえ
国家的に際しては「多様のなかの統一」
の理念が持ち出され「分離の民主主義」
(差異の多様性)と「ネットワークする
民主主義」(帰属の多様性)とを如何に
両立させるかが争われた。かくて、1980
年代は新自由主義的ポピュリズムがケイ
ンズ型の福祉国家のヴィジョンの不備を
突くという運動のうねりをつくりだし「
公的領域の縮小→市場の拡大→自由の拡
張」という幻想を振りまく。
そして、それを鵜呑みにした日本政府は
所得税の最高税率を75%から37%に下げ
→貧富格差を拡大→社会のつながりや将
来の展望を不透明したというわけだが日
本の多くの知識階層がそのことに気付い
たのは中谷巌をはじめとして2000年に入
って。宜なり、やんぬるかな ^^;。
【試練は選ばれし者にある】
Power in Movement: Social Movements,
Collective Action and Politics
話は変わる。最近、『環境リスク本位制
時代』の「組織論と運動論」に関して考
察する機会があり、それをHPに記載し
ていたが「運動論」が書けないことに気
が付いた。その1つが、啓蒙主義系譜の
‘リベラリズム’の限界、つまりは高度
資本主義の構造(=高度な分業社会→社
会主義社会)からくるもの、2つめは‘
環境’が形而下学に属しているという本
質からくるもの、3つめは1と2から「
組織論」だけが残るという必然性にある
という結論に至った。
それでは環境問題、すなわち地球環境と
いう人類の人為的活動が環境生態の許容
限界を超えて引き起こされる諸問題に対
処する「組織論」とは何かということだ
が、その一歩手前から考えてみよう。
社会科学では、組織という用語は様々
な用いられ方をしており、唯一の定義が
存在しないバズワード(buzzword)で、学
問領域や、組織を捉える視座によって、
対象とする範囲や定義は様々だとされる。
そこで、社会学とは、現代の制度や組
織 (institution) を研究する学問だが、一般
的には、組織は「共通の目標を達成する
ために、計画的に調整される、人々の行
動」だ。
Organization Theory for Leaders
社会学では、計画的な公式組織と、非計
画的な非公式組織を区別するという特徴
がある。制度の観点から組織を分析する
前者の立場にたてば、組織は諸個人の永
続的な形態と理解される。組織を構成す
る諸要素やそこでの行動はルールによっ
て決定されるため、タスクは分業と調整
のシステムを通じて実行される。つまり、
組織は、構造(メンバーシップ、階層構
造、ポジション)、コミュニケーション、
自律性、組織を集合的主体として行動す
るルールなどから定義され、諸要素を計
画的に調整することで、個人で対処でき
る能力を超えた問題解決が期待できる。
これでは味気ない解説となるので、ここ
は組織を最も深く洞察していたピーター・
フェルディナンド・ドラッカーに登場し
てもらおう。ドラッカーがこの世を去っ
てから、もうすぐ5年になる。ドラッカ
ーは自身を「社会生態学者」「観察者」
「文筆家」と呼ぶ。つまり、生物学者が
生物の生態を観察するように、社会の生
態を観察し、省察して、誰もまだ気がつ
いていないこと、言い換えるならば「過
去と現在の断絶」に着目して「新しい現
実」を発見する行動を一貫し『明日を支
配するもの』(1999年)で「組織をして
成果を上げさせるための道具、機能、機
関がマネジメントである」と述べている。
また、彼は、政府や自治体、病院、学校、
企業など、世の中にあるあらゆる組織が
「社会の機関」であると繰り返し指摘す
る。「それらの組織体は、自分自身のた
めに存在するのではなくて、ある特定の
社会目的を実現し、社会、地域、個人に
必要な特定のニーズを満たすために存在
する」と名言を述べている。そして、右
肩上がりの経済成長がもはや望めない現
在、企業に特に問われるのは、イノベー
ションの推進だ。彼は、著書『イノベー
ションと企業家精神』(1985年)の中で、
イノベーションのための7つの機会を明
らかにする。①予期せぬことの生起、②
ギャップの存在、③ニーズの存在、④産
業構造の変化、⑤人口構造の変化、⑥認
識の変化、⑦新しい知識の出現、の7項
目だが、①について、補足すると①予期
せぬ成功、②予期せぬ失敗、③その他の
予期せぬ出来事の3つがあり、ここに大
きなイノベーションのチャンスがあると
繰り返し指摘する。つまり、予期せぬ出
来事は、前提条件に何らかの変化が現れ
た生じると考え、変化の核心をいち早く
洞察すれば、イノベーションを起こせる
可能性があるという。予期せぬ成功、予
期せぬ失敗、予期せぬ出来事が発生した
ら、その背景に環境の変化がないかを分
析する。これが、イノベーションを起こ
すための、最も有効な機会になる。
非営利組織には、機会、卓越性、コ
ミットメントの三本柱が不可欠であ
る。ミッションはこれら三つの要素
を織り込まなければならない。さも
なければ、目標は到達されず、目的
は達成されず、いかなる成果も得ら
れないことになる。やがては組織内
の人を動かすこともままならなくな
る。
『非営利組織の経営』
ドラッカーの‘未来の仕事’とは「自分
自身のために存在するのではなくて、あ
る特定の社会目的を実現し、社会、地域、
個人に必要な特定のニーズを満たすこと」
と再定義できよう。つまりは、イノベー
ションの機会を察知し、社会目的を実現
するさせる者に試練を与え、その試練を
乗り越えた者こそが社会から栄光と名誉
が与えられるということになる。21世
紀はその意味で『環境リスク本位制時代』
であるとともに同時に「前社会主義社会
時代」であるといういうことに他ならな
い。と同時に長々と考察してきた「市場
万能主義」あるいは「金融資本原理主義」
に対するアンチ・テーゼとして成立し、
その行動こそが‘新しい自由主義’では
ないかとドラッカーが言っている様に思
えるが如何に。