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【非攻 ひとりを殺せば死刑、他国を侵せば大手柄】
人ひとりを殺せば、不義であるとして、必ず死刑に処せられる。もし、この論理にしたがう
とすれぼ、人を十人殺したときには、不義を十回犯したのであるから、十回死刑に処すべきで
ある。百人を殺せば、百回死刑に処すべきである。こういう犯罪については、天下の君子は、
いずれもこれを非難し、不義と認める。ところが、他国侵略という大きな不義については非難
しようとしない。それどころか、かえってこれを「義」とみなしている。
かれらは、侵略行為が不義であるという道理をわきまえていないのだ。それなればこそ、戦
争の事蹟を書きたてて後世に伝え残そうとするのである。もし、不義であることをわきまえて
いれば、戦争の事蹟を書きたてて、後世に伝え残そうとするはずがない。
たとえば、ここに、ひとつひとつの黒は見分けても、黒一色に塗りつぶしたものを「白」と言
い張る男がいるとしよう。この男は、白と黒との区別をわきまえぬ人間である。少量の苦味は
嘗め分けても、大量に苦味を嘗めて、「甘い」と言い張る男がいるとしよう。この男は、甘味
と苦味との区別をわきまえぬ人間である。
同様に、小さな不義については非難しながら、他国侵略という大きな不義については非難し
ようとせず、かえってこれを「義」とみなす者、これは、義と不義との区別をわきまえぬ男で
はないか。
これがいまの君子である。かれらは義と不義との区別をあいまいにしているのだ。
※ 勲章の意味 映画「殺人狂時代」で、チャップリン扮するところの殺人業者(ムッシュ・
ベルドオ)が裁判長に向かっていう。「なるほど、わたしは七人の女を殺した。生活のた
めに…。だが、戦争で百万の人間を殺したものは、罰せられない。勲章をも、英雄と呼ば
れる。何故です、何故です?」チャップリンが展開した論理は、まさに墨子が「非攻編」
で訴えたもの。小さな不義については非難するが、戦争という大きな不義については非難
しようとせず、かえってこれ賛美する「君子」の不合理性、こういう「君子」が幅をきか
している限り、墨子の論理は、永に有効性をもちつづけるのである。
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殺一人謂之不義、必有一死罪矣。
若以此説柱、殺十人十重不義、必有
十死罪矣。殺百人百重不義、必有百
死罪矣。当此天下之君子、皆知面非
之、謂之不義。今至大為不義攻国、
則弗知非、従而誉之、胴之義。情不
知其不義也。故書其言以遺後世。若
知其不義也、夫奚説書其不義以遺後
世哉。
今有人於此、少見黒目黒、多見黒
曰白、則必以此人為不知白黒之弁矣。
少嘗苦曰苦、多嘗苦曰甘、則必以此
人為不知甘苦之弁矣。今小為非則知
而非之、大為非攻国、則不知非。従
而誉之、謂之義。此可謂知義与不義
之弁乎。是以知天下之君子、弁義与
不義之乱也。
一人を殺さばこれを不義と用い、必ず一死罪あり。もしこの説をもって柱かば、十人を殺さば
不義を十重す、必ず十死罪あらん。百人を殺さば不義を百重す、必ず百死罪あらん。かくのご
ときは天下の君子、みな知りてこれを非とし、これを不義と謂う。いま大いに不義をなし、国
を攻むるに至りては、すなわち非とするを知らず、従いてこれを誉め、これを義と謂う。まこ
とにその不義を知らざるなり。故にその言を書してもって後世に遺す。もしその不義を知らぱ
それなんの説ありてその不義を書し、もって後世に遺さんや。いまここに人あり、少しく黒を
見て黒と即いヽ多く黒を見て白と曰わば、必ずこの人をもって白黒の弁を知らずとなさん。少
しく苦を即めて苦しと曰い、多く苦を官めて甘しと曰わば、必ずこの人をもって甘苦の弁を知
らずとなさん。いま少しく非をなさば知りてこれを非とし、大いに非をなして国を攻むれば、
非とするを知らず。従いてこれを誉めて、これを義と謂う。これ義と不義との弁を知ると謂う
べきか。ここをもって天下の君子の、義と不義とを弁ずるの乱るるを知るなり。
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《解説》「墨子」の中には、独特の構成をもったものが十編ある。それは1つの細か上・中・
下から成り、それぞれ言い回しが多少違うだけで諭旨は全く同じなのだ。つまり同内容のもの
が三つずつ収録されている(「非儒編」は上・下の二編)。これは「墨子」が弟子たちの手
によって成ったものであり、かれの死後、三派に分かれた墨家によってそれぞれに伝えられた
ためといわれる。「非攻細」も上・中・下という構成で、ここに訳出しだのは「非攻・上」だ
が、この編だけは形式、内容ともややおもむきを変えている。他の編のように、「子墨子曰わ
く……」ではじま問答体ではなく、冒頭から墨子の著という体裁をとっている。あるいは、こ
の編だけは、墨子自身が書いたのかもしれない。事実、この編は、そういう推測が許されるほ
どの迫力をもっている。
参考までに「非攻・中編」の内容を要約しておこう。為政者は人民の幸福を目的として国を治め
るべきであるのに、人民の用を奪い、人民の利を廃して戦争を起こす支配者が多い。かれらの
戦争目的は何かといえば、戦勝を誇り、他国を奪って利益を得ることなのだ。だが、戦勝を誇
ることなどは、どんな実利ももたらさない。他国を奪って利益を得たとしても、失うものはそ
れ以上に大きい。多くの費用と多くの生命が失われるからだ。戦争を起こすのは、多くの場合
強国である。これらの国は、広大な土地をもちながら、なお他国の土地を侵している。その結
果、多くの人民を殺し、苦しめている。人民の利益をそこなうことが、どうして正しい道とい
えよう。ところが、好戦的な者はこんなことをいう。-今日、楚・呉・斉・晋は大いに栄えて
いるが、
これらの国の祖先がはじめて諸侯に封ぜられたときは、その領地はわずかに数百里四方、人民
も数十万にすぎなかった。ところが戦争を収ねて他国の領地をとり、他国の人民を併せたため
に、今は数千―四方の領地と、数百万人の人民をもつようになった。これは戦争によって得た
利益ではないか、と。だが、たとえそれらの国が利益を得たとしても、決してそれは正しい道
ではない。それらの国が利益を得たために、どれほど多くの国が悲惨な目にあったことか。医
者が人の病いをなおす場合を考えてみよ。薬を病人にあたえても、数人の者だけに効いて、他
の多くの者には効かなければ、その薬はよい薬とはいえないではないか。医者の使命は、万人
の病いをなおすことである。少数の者にしか効かない薬を調合することは、医者としての本分
にもとることである。むかしから今まで、多くの国が亡んだ。それらの国々はみな戦争によっ
て亡んだのである。大国は力ずくで小国を圧迫する。そのために小国は亡びる。菖が斉と越と
の間にはさまって亡び、陳・蔡が越と呉との間にはさまって亡んだのはそのためである。大国
であっても亡びる。呉は越を属国にして一時覇者となったが、その後、越に亡ぼされてしまっ
た。どれもこれも戦争が亡国を招いたのである。武力を特んで国をいつまでも保つことはでき
ない。昔、晋に六人の将軍がいた。そのひとりである智伯は、領地の広大さと人民の多きとを
特んで、諸侯に対抗して覇分もI珀の君主となろうと考えた。それには武力によるのが最上の
策であると考え、まず中行氏を攻めてその領地を奪い、さらに苗氏を攻めてこれを破り、つい
で趙襄子を晋陽に囲んだ。そのとき、それまで智伯にくみしていた韓・聊爾氏は、趙氏が亡ぼ
されたら、やがて、自分たちも同じ運命に見舞われるのではないかと考えた。そこでかれらは
ひそかに趙氏と内通し三方から智伯を攻め、ついにこれを亡ぼしてしまった。「君子は水に鏡
みずして、人に鏡みる」ということわざがある。水に顔を映してみれば、顔の形がわかるだけ
だが、人を鏡とすれば、吉凶を知ることができる。戦争によって利益が得られると思う者は、
智伯のことを鎗とすべきだ。
※ 墨子の「非戦」はいつの時代の国家権力者達にとって危険思想として映るに違いない。
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【大好評、愛媛のみかんぶり】
愛媛県と回転ずしチェーン「くら寿司」が協力し、同県宇和島市産の養殖ブリ「みかんぶり」
を使った商品を開発、6日から全国のくら寿司の店舗で販売を始めたが、これが好評だという。
5日には石橋寛久宇和島市長、くら寿司を運営する「くらコーポレーション」の田中邦彦社長
らが、みかんぶりのおいしさをアピールしていた。愛媛県は、養殖漁業では全国1位の生産額
を誇り、県産の養殖魚を「愛育フィッシュ」と名付けている。みかんぶりは、養殖ブリに「い
よかん」の皮の成分を混ぜた餌を与えて育てることで、独特の香りと味を出した特産品。ブリ
特有の臭みがまったくないだけでなく、切り身にした後も色落ちが少ないといった特色がある
があるというが、柑橘系の爽やかな食感がブリは子供たちにも好評だとテレビで伝えていた。
これは。「産業技術の融合」「漁業の高度化」の好例だ。、
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※ 特開2011-177170
※ 特開2003-299445 養魚用飼料
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【第七章 自由の展望】
デヴィッド・ハーヴェイは新自由主義の総括にあたって、この章の冒頭で、フランクリン・ル
ーズベルト大統領は、一九三五年の年頭教書演説を引き合いにだし、新自由主義化か惨僣たる
大失敗であるとみなされることは間違いないと総括する。その理由を、ルーズベルトの構想は
ヒューマニズム思想の連綿と続く系譜にはっきりと位置づけられるものである。たとえばカー
ル・マルクスも空腹は自由を生み出さないという恐ろしくラディカルな見解を抱いていた。彼
は「自由の王国は、実際、窮乏と外的合目的性とによって規定された労働がなくなるところで
はじめてはじまる」と述べ、念を押すように、自由はそれゆえ「本来の物質的生産の領域の彼
岸にある」とつけ加えているとし、マルクスは、われわれは自然との物質代謝の関係、あるい
は人間相互の社会的諸関係からはけっして自由にはなれないが、少なくとも人類の個体的・類
的潜在力の自由な探求が現実の可能性になるような社会秩序の建設を目指すことはできるとい
うことを、十分に理解していた。マルクスの自由についての基準と、アダム・スミスが『道徳
感情論』の中で述べている自由の基準を比較する。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、一九三五年の年頭教書演説の中で、一九三〇
年代の大不況の経 済的・社会的諸問題は、市場の行きすぎた自由に起因するという見
解を明快に述べた。曰く、アメリカ人は「行きすぎた利益により蓄財することで、法
外な私的権力をつくりあげるという発想をきっぱりやめなければならない」。貧しき
人は自由人ではない。いずれの場所においても--‐と彼は論じる---社会的公正は彼方
にある理想ではなく、明確な目標になった。国家と市民社会が果たすべき最優先の義
務は、貧困や飢餓の根絶にその力を活用しその資源を振り向けることであり、生活の
保障を与え、大規模な災害や生活の紆余曲折から保護し、ちゃんとした住宅を保障す
ることである。欠乏からの自由は、後に〔一九四一年〕彼が未来の政治的ビジョンに
据えた四つの基本的自由の一つである。こうした幅広い自由概念は、ブッシュ大統領
の政治レトリックの中核に据えられた実に挟溢な新自由主義的自由とは対照的である。
ブッシュはこう論じる。われわれが抱えるさまざまな問題に対する唯一の対処法は、
国家が私企業への規制をやめ、社会福祉から手を引き、市場の自由と市場倫理をより
いっそう普遍化することである、と。このように、「ただ自由企業を擁護するだけの
もの」へと新自由主義的な堕落を遂げた自由の概念は、カール・ポランニーの指摘に
よれば「所得・余暇・安全を高める必要がない人にとっては自由の充足を意味するが
財産所有者の権力からの避難場所を手に入れるために民主的な権利を利用せんとむな
しい試みをするかもしれない人にとっては、ほんのわずかの自由しか意味」しない。
デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺 治 監訳「第七章 自由の展望」
(『新自由主義-その歴史的展開と現在 』より)
そのことはまた、新自由主義的な命題や処方隻の有効性に対する不満として、支配層の政策グ
ループ内部にもあらわれてくる。かつては新自由主義に熱中していた人々、ジェフリー・サッ
クスやジョセフ・スティグリッツ、ポール・クルーグマンや実際に関与していた人々、たとえ
ばジョージ・ソロスが、今では批判派に転じ、ある種の修正ケインズ主義への回帰(わたしの
考えに近いのかも知れない!要調査)やグローバルな諸問題の解決策としてのより「制度的」
なアプローチ、グローバル統治に対するよりまともな規制のシステムから、投資家の向こう見
ずな投機をより厳重に監督することにいたるまでありとあらゆるものがそこに含まれる)を提
唱するにまでいたっている。最近では、グローバル統治の改革については、単なる主張にとど
まらず大きな見取り図が示されている。グローバル統治の基礎としてのコスモポリタン的倫理
(一人を傷つけることは万人を傷つけることだ」)への学術的・制度的関心が再び起こってお
り、過度に単純化された普遍主義であるという点で問題があるとはいえ、まったく利点がない
わけでもないが、非識字の根絶という二〇〇〇年のミレニアム・サミットで189カ国の首脳公
約は、新自由主義世界ではほとんどすべての国で国民総生産に占める公教育の割合が実質的か
つ持続的に低下しているという状況のもとでは虚しく響くと批判する。
※参考:国際関係論における倫理 : その系譜、理論的視角、問題、池田丈佑、国際公共政策
研究. 10(2) P.59-P.75、2006-03
この種の目標は、新自由主義が立脚し新自由主義化のプロセスがその強化に大いに貢
献してきた根本的な権力基盤に挑戦することなしには実現することはできない。これ
は、国家が福祉給付から手を引いていく過程を逆転させるだけではなく、金融資本の
圧倒的権力と対峙することをも意味する。ケインズは、配当や利子に寄生して暮らす
「金利生活者」を軽蔑し、彼が言うところの「金利生活者の安楽死」を、一定の経済
的公正を実現するためだけではなく、資本主義につきものの周期的恐慌による破壊を
回避するための必要条件とみなした。一九四五年以後に構築されたケインズ主義的妥
協と「埋め込まれた自由主義」の長所は、こうした目標を一定実現する役割を果たし
たことである。それとは対照的に、新自由主義化の時代が到来すると、金利生活者の
役割は賛美され、金持ちの税金は軽減され、賃金や給与よりも配当や投機による利益
の方が優先され、地理的に封じ込められていたとはいえ途方もない規模の金融危機が
解き放たれ、国から国へと伝わって雇用とライフチャンスに破滅的な影響をもたらし
ている。〔貧困の根絶といった〕敬虔な目標を実現する唯一の道は、金融権力と対決
し、これまで構築されてきた階級的特権を撤廃していくことである。だが、そんなこ
とをする大国が現われる徴候はどこにも見られない。
一方でケインズ主義への回帰に関しては、私が以前に指摘したように、ブッシユ政権
は累進的に増大する財政赤字を延々と未来に先送りすることを是認する姿勢をとるこ
とで、すべての人々にきわめて困難な問題を突きつけた。しかしながら、伝統的なケ
インズ主義の処方箋とは対照的に、この場合の再分配とは、貧困層や中産階級を犠牲
にして、さらには一般株主(年金基金を含む)と言うまでもなく将来世代を犠牲にし
て、大企業とその裕福な最高経営責任者(CEO)、金融・法律アドバイザーがたっ
ぷり儲けるというものである。伝統的ケインズ主義がこのように改ざんされ、転倒さ
せられうるという事実もけっしてわれわれを驚かせはしない。というのも、これまで
も見てきたように、新自由主義理論とそのレトリック(とりわけ自由と解放に間する
政治的レトリック)が何よりも、エリート階級の権力の維持・再建・回復に帰着する
諸実践を覆い隠すものとして機能してきたことを示す証拠がたっぷり存在するからだ。
だからこそオルタナティブの探求は、われわれの置かれた時間と場所の現実をしっか
りと踏まえつつも、この階級権力と市場倫理が定義する準拠枠の外部に向かうべきな
のだ。そしてこの現実は、新自由主義秩序そのものの中心部に重大な危機の可能性が
存在することを示している。
デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺 治 監訳「第七章 自由の展望」
(『新自由主義-その歴史的展開と現在 』より)
金融危機が起こると、国民経済全体が強力な金融権力による略奪のえじきとなるが、その金融
危機を特徴づけるは一般に慢性的な経済的不均衡であると指摘し。その典型的な徴候を(1)
国内の財政赤字が膨れ上がって制御不能になっていること、(2)国際収支危機、(3)通貨
価値の急激な下落、(4)不動産市場および金融市場における国内資産価値の乱高下、(5)
インフレの昂進、(6)賃金の下落をともなう失業率の上昇、(7)資本逃避であると指摘し
現在のアメリカは、これらの主要な七つの指標の中で最初の三つのスコアの高さが際立ち、四
つ目に関しても深刻な懸念があり。現在の「雇用なき景気回復」と賃金の停滞は、六つ目の問
題が頭をもたげはじめたという(※2007年の出版までの分析での)。アメリカ以外の国々でこ
れだけの指標があてはまれば、ほぽ間違いなくIMFの介入が必要だとされるだろう(IMFのエコ
ノミストたちは、連邦準備制度理事会の前議長ボルカーと現議長グリーンスパンと同じく、日
をそろえて、アメリカの経済的不均衡がグローバルな安定性を脅かしているとの不満を表明し
た)。だが、IMFを支配しているのはアメリカなのだから、これはまさにアメリカが自分で自
分を規律づけることを意味し、グローバル市場はこの規律づけを行ない、それはどのような影
響を及ぽすのかこれは重大な問題であると。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/62/796d041eabdaace2751b92e8c6983b01.jpg)
「拡大再生産にもとづく蓄積」と呼ぶものを中心とした運動が存在し、そこにおいて
は、賃労働の搾取や社会的賃金を決定づける諸条件が中心的な諸問題であった。他方
では、「略奪による蓄積」に反対するさまざまな運動が存在する。これらの運動に含
まれるのは、(1)本源的蓄積の古典的な形態(たとえば土地からの農村住民の強制
排除)に対する抵抗、(2)国家があらゆる社会的義務(国民に対する監視と警察に
よる取り締まりを除いて)を乱暴に放棄することに対する抵抗、(3)文化・歴史・
環境への破壊行為に対する抵抗、(4)国家と同盟した現代の金融資本が仕掛ける「
資産収奪的」なデフレおよびインフレに対する抵抗などである。こうした多様な運動
の間にある有機的な結びつきを見出すことが、差し追った理論的・実践的課題である。
しかし、それが可能となるのは、われわれの分析が明らかにしてきたように、極度に
不安定でますます深刻になる地理的不均等発展によって特徴づけられる資本蓄積過程
のダイナミズムを追跡することによってのみである。そして、この不均等性は、第四
章で論じたように、国家間の競争をつうじて新自由主義化の拡張を大いに促進する。
階級政治を再活性化させる上での課題の一つは、この地理的不均等発展を債務ではな
く資産へと転じることだ。支配階級エリートの分割統治政策に対しては、地域権力の
自己決定権を再構築することに共感をよせる左翼の連合政策で立ち向かわなければな
らない。(中略)市場は競争的で公正であるという理念は、企業と金融の権力の途方
もない独占化、集中、国際化という事実によってますます否定されている。各国内で
も(中国、ロシア、インド、南アフリカなど)、国際的にも、階級間・地域間の不平
等が驚くほど拡大したことは、新自由主義世界が完成する途上での「過渡的」なもの
であると言ってごまかすことがもはやできないほどの深刻な政治的諸問題を生じさせ
ている。新自由主義が、支配階級の権力回復という(成功した)プロジェクトを偽装
するための(失敗した)空想的レトリックであることが認識されればされるほど、平
等主義的な政治的要求を唱え、経済的公正、フェアトレード、より豊かな経済保障を
追求する民衆運動が復活していく基礎が築かれていく。
デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺 治 監訳「第七章 自由の展望」
(『新自由主義-その歴史的展開と現在 』より)
このように、ハーヴェイらは分析を通じ、この最終節「オルタナティブに向けて」で、生活を
構築する支配的プロセスたる終わりなき資本蓄積に対する批判は、新自由主義の根拠となり逆
にそれを根拠にもする特殊な諸権利-個人的な私的所有に対する権利や利潤原理-に対する批
判を当然ともなう人間としてのわれわれの地位に本来備わっている諸権利に加えて、平等なラ
イフチャンスの権利、政治的結社と「よき」統治の権利、直接的生産者による生産管理の権利
人身の不可侵性や尊厳に対する権利、報復のおそれなしに批判する権利、健康で文化的な生活
環境に対する権利、共同所有の資源を集団的に管理する権利、空間を生産する権利、異なった
存在でいられる権利、など(新自由主義によって神聖なものとされる諸権利とは異なった諸権
利)のオルタナティブな諸権利を内包しうるようなオルタナティブな社会的プロセスとはいか
なるものであるかを明確化し、新自由主義が説く自由よりもはるかに崇高な自由の展望が存在
し、新保守主義のもとで可能となるよりもはるかに有意義な統治システムは存在すること、そ
して、そうした自由を獲得し、そうした統治システムを構築するべきなのだとむすぶ。
この項つづく
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/5f/2ca26e858e8d3fa8b9b3c1fe7e7e8186.png)
【ホットキャリアなグリーン国債】
昨夜も掲載したが、ここのところの新規考案の申請が凄まじい勢いだ。今日を目を通したのは
量子閉じこめ効果により量子エネルギー順位が離散化し、ホットキャリア(運動エネルギーが
高揚した電子:ホット・エレクトロンとも呼ぶ)が熱になるまでの緩和時間中にキャリアを取
り出す、ホットキャリア型の太陽電池の基本構成とその包括的な製造方法の提案(トヨタ社)
だ。4つある量子ドット太陽電池のなかで、セル変換効率が66%と飛び抜けて高い方式だ。
そのメカニズムは、キャリア発生部の大きさを20nm以下にすると、ホットキャリアの移動
距離を10nm以下にすることが可能になり、ホットキャリアの移動距離を従来のホットキャ
リア型太陽電池よりも大幅に短縮することができる。ホットキャリアの移動距離を低減するこ
とにより、エネルギー損失を低減することが可能になるので、光電変換効率を高めることが可
能になるというものなのだが、詳しくは、上下のをクリックして読んでください。時間もない
ので、そこで思いついたのは、人間社会もこうなんだなぁ~というもので、社会的環境条件で
人間力の大小は決まると、アベノミクスの成長戦略の成果の可否もこのホットキャリアな量子
ドット太陽電池からなにがしかのヒントがあるねという思いがした。つまるところ政府による
インセンティブがなにがしか適切に整えられたならば飛躍可能だと。それが、特区構想のよう
なもでもいいし、環境国債(グリーン国債)に包含される「高性能太陽電池普及政策」のよう
な形であっても良いわけだ。あっと、これは「未来国債」としてブログ掲載したっけ?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/96/2bba8f422735af28aa1c481446563cbe.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/aa/5d7cd29983165bba5c7a16fa23080df6.png)
【符号の説明】
11、21…p層 12、17…混合pn材料層 12a、31…p型半導体材料 12b、32…n型半導体材料
13、23…n層 14…裏面電極(第1電極) 15…表面電極(第2電極) 16…キャリア生成粒子(キ
ャリア生成物質) 16x、18x、22x、30x…キャリア発生部 16y、18y、22y、30y…キャリア選択移
動部 16ya、18ya、22ya、30ya…第1障壁層 16yb、18yb、22yb、30yb…量子井戸層 16yc、
18yc、22yc、30yc…第2障壁層 18…キャリア生成細線(キャリア生成物質) 22…キャリア生成膜
24…積層体 30…キャリア生成物質 100、110、200…太陽電池
それだけじゃない。肝心のオールソーラシステム(ASS計画)のコア製造プロセス及び装置構
想もなんとなく最終段階に入ってきたような確信が、頭上に舞い降りたような感じ。つまり、
それは、もうヘロヘロの状態になっていることの裏返しなのだが、今夜はこの辺で。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/52/97b8d7fba768f74956debcd5fc07125f.jpg)