2017年06月03日(土)、
JRハイキングに参加した。
草津市東部の『志津』地域を巡った。
志津小学校から東へ向かい
名神高速道路を越える。
こちらは岡本町。
『岡本の道標』
隣に石仏もある。
「右 おかもと」
「左 田上ふどう」
画像には見えないが裏側に
「山元又兵衛」
「大正13年三月」
と、書いてある。
解説によると、
山元又兵衛(酒屋又兵衛)は岡本の造り酒屋で、地域の社会貢献のために道標を建立した。
昭和14年に廃業した。
ふどうは、不動尊。
交差点の角に
『若宮神社』
創建不詳。
岡本町の鎮守だが、江戸時代の記録によると小槻神社の御旅所だった、とされる
草津川
水が流れてない…
堤防下に
『岡本北の道標』
「右 田上道」「左 金勝道」
解説によると、大正時代に建立された、と推定されている。
志津道(横町道標~桐生)、
青地道(東海道立木神社~岡本)、
荒張道(山寺~美園)、
中郡街道(金勝道・坊袋~金勝)
草津駅から東海道を通ってここまで来てさらに田上不動尊(桐生)までが志津道で、今回歩いた道のほとんど。
草津宿の南の立木神社からほぼ真っ直ぐに岡本まで進む道が青地道。
岡本から北に向かう道が荒張道と中郡街道で、現在の栗東市東部地域を通る。
志津道を振り返って見る。
本来はもっと曲がりくねった田んぼ道だったようで、これは大正時代以降に整備された新道。
以前にも述べたが、
「金勝」、きんかつ、きんしょう、こんかつ、
じゃなくて、
「こんぜ」と読む。
ただし、
こんぜ道の目的地である「金勝寺」は「こんしょうじ」と読む。
ややこしいですな。
岡本町から北へ向かうと山寺町、
草津川と美濃郷川の合流する所に
『山寺の道標』
「左 古んせ(こんぜ)ミち」
撮影したのはこれのみ↑
他は、解説によると
「川下具さつ」
「山寺村」
「右 田上ふどう道」
と、書いてある。
江戸時代建立、道標。
田上不動尊は山の中にあり、
最寄りのバス停からハイキングで二時間ぐらいかかる。
なかなか行けないですわ
大平橋を渡り東に向かうと
『山寺城跡』
解説によると、
北側は土取りで低くなり、
西側の土塁は消滅。
方形の館城で、東南隅に櫓台あり。
隣にあった楽音寺と一体だった。
竹やぶになってる。
土塁のような高まりがあるが、中に入るわけにはいかないので、あきらめる。
『十二将神社』
祭神も創建も不詳。
織田信長の焼き討ちで、由緒書が消滅したのかな?
1687年に村民が薬師堂を再建し、同時に神社も再建された。
金勝寺関連の楽音寺跡地と言われ、発掘調査をしたそうです
なぜか、神社の境内に入ってない…
『祥光寺』
創建1450年
佐々木六角久頼の菩提寺として建てられた。
法名が寺の名前になった。
キョーラク会社の敷地に佐々木高頼の塚跡があったが、久頼は高頼のお父さんです。
だから、祥光寺を建てたのは高頼かもね。
伽藍は天正年間の兵火で焼失したが、本尊だけは村人が救出したそうです。
「薬師堂」
中に入りました。
本尊の薬師如来坐像(南北朝時代)は楽音寺の本尊だったそうです。
城跡の北側に
『北谷古墳群』
名神高速道路建設工事で発見された。
1号墳と11号墳が古墳時代前期、
それ以外は後期古墳。
11号墳は前方後円墳の可能性あり。
こちらも自分的には城跡に利用されたのでは?と思う…
志津地区から離れて北上すると
『小槻大社』
ややこしいですが、先に訪れたのが小槻神社。
こちらは小槻大社。
栗東市下戸山。
創建は不詳。
栗太郡の豪族小槻山君が祖神を祀ったのが始まりだとか?
境内に入ると
『小槻大社古墳群』
北谷古墳群などとともに小槻山君関連の古墳と考えられる
この石は古墳の石室の一部かも?
『本殿』国重文
解説によると
小槻山公は、大化改新後栗太郡司となり、平安時代には平安京の実務官僚の頂点であった官務家として栄えた。
中世には青地荘の領主青地氏が1519年が建立した。
つまり、戦国時代の建物なのだ。
内陣の宮殿は1281年というから鎌倉時代ですね。
宮司の宇野茂樹氏が文章を書かれてる。
旧東海道歩きで岡村城跡に立ち寄った時に述べたが、城主の宇野氏の子孫かな?
ここにも石室の一部
古墳の上に「龍王社」が建てられてる。
この石組も石室関連か?
以上です。
祥光寺の前の「山寺会館前」バス停から草津駅に帰りました。
志津地区の人は、定期的に講座をおこなったりして、地域の史跡・歴史に関心が高いようです。
草津市域は、都会化が急激に進んでるだけに志津地域の人が自分の土地の歴史を大切にする気持ちは非常に貴重だと思います
羨ましいです
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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