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春庭@アート散歩

春庭の秋の散歩2010年11月

2010-10-30 07:15:00 | 日記
2010/11/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>秋のアート散歩(1)芸大・赤レンガ館、陳列館

 11月5日金曜日の「ひとり遠足」で、芸大の赤レンガ1号館と赤レンガ2号館を初めて見ました。赤レンガ館は音楽学部の正門付近に並んで建てられています。

 美術学部の中にある芸大美術館には何度か来ているけれど、道路を挟んだ音楽学部側の中には立ち入ったことがありませんでした。正門の前に「学外者の立ち入り禁止」と書かれているので、気の小さい私はこれまで中に入ったことがなかったのです。音楽の練習をする場ですから、物見遊山の人が入れ替わり入って来たのではうるさくて練習できないだろうから、このような立て札を立てるのもわかります。

 しかし、今は独立行政法人になったとはいえ、芸大も私たちの税金で設立運営されてきた大学です。納税者が中の建物を静かに見るくらい許されてもいいんじゃないかと思って、今回思い切って中に入りました。
 赤レンガ1号館2号館の紹介サイト。
http://maskweb.jp/b_geidaibrick_0_1.html

 赤レンガ2号館の中、現在は美術修復研究が行われています。正木記念館や陳列館が美術館として一般公開されているのに、赤レンガ館は一般公開はされていないのは残念です。美術修復研究は、他の建物で行うのも可能でしょうから、こちらの赤レンガ館も「芸大音楽博物館」などにして、一般公開してもらいたいものです。

 美術学部には明治時代からの貴重な作品がたくさん収蔵されていますが、音楽学部にも歴代の作曲家の楽譜とか貴重なものがたくさんあるはず。一般公開して、これまで税金で支えて貰ってきたおかえしを納税者にすべきです。
 映画やアニメなど新しい分野の研究教育も行われるようになって、芸大もだいぶ開けては来ましたが、音楽学部はまだまだ閉鎖的な気がします。

 美術学部側の陳列館も赤煉瓦作り。入り口には皇居二重橋の飾電燈が役目を終えて展示されています。
http://maskweb.jp/b_geidaichinretsu_1_0.html
 東京芸大美術館陳列館2階で「テキスタイル コネクション-宇宙を織りなす-」が開催されていました。芸大染織研究室とNPO法人「文化芸術振興研究所」の主催です。

 私は染め物と織り物が好きで、新宿の文化大学美術館などで染織作品を見てきました。芸大で織物を見るのは初めて。
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2010/textile/textile_ja.htm

 スーザン・クレバノフ、ナンシー・コジコフスキー、楊建軍ほか、アメリカ合衆国・中華人民共和国・日本の作家14名による作品が展示されており、とても見応えがありました。針金を編んだ造形作品など、私には「これもテキスタイル?」と思う作品もありましたが、織物は生活着としての日常性から宇宙の広さまで表現できるアートとしてのテキスタイルまで、とても幅が広い。茶碗が日常の湯飲み茶碗飯茶碗から、宇宙までを表現できるのと同じです。作品のカタログが欲しかったけれど、今回のアート散歩は「無料」がコンセプトですから、買いませんでした。会期は11月7日まで。

 芸大美術館本館で開催されている「明治の彫塑 ラグーザと荻原碌山展」は、12月まで会期があるし、有料だから、今回はパス。
 芸大正木記念館で平櫛田中コレクションを見ました。会期は、2010年10月26日(火) - 11月7日(日)。
 正木記念館の建物は、東京国立博物館本館のミニチュアみたいな感じ。
http://www.geidai.ac.jp/museum/concept/masaki_ja.htm

 平櫛田中(ひらくしでんちゅう)の名を初めて知ったとき画号が「田中」なんて、平櫛という苗字と「たなか」という苗字とふたつあるみたいな号だなあと思ったのですが、平櫛家へ養子に入る前の本姓が「たなか」だったと知りました。もともとの本名を画号にしたんですね。

 平櫛田中は、107歳まで生きた彫刻界の大物。ブロンズ彫刻はいろんな作家を見てきたけれど、木彫の彫刻家と言えば高村光雲と平櫛田中の名くらいしか思いつかない。その平櫛が集めた内外の彫刻作品を芸大に寄付したコレクションが展示されていたのです。いつもは彫刻はあまり見ないのだけれど、無料だから見ました。
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2010/denchu10/denchu10_ja.htm

 小さめの作品が多かったですが、ロダン、ブールデル、マイヨールの作品もあり、弟子たちが平櫛田中をモデルにした作品がふたつ並んでいました。田中は90歳で文化勲章を受章。百歳になったとき、130歳まで木を掘り続ける材料として、600万円出して直径2メートルのクスノキ材を三本買い込んだ、というエピソードが有名。
 私も元気に歩き回って足腰鍛えて、百歳になったら30年分のダンスシューズを買い込みたいな。

<つづく>


ぽかぽか春庭「ドイツ歌曲コンクール」
2010/11/10
ぽかぽか春庭@アート散歩>秋のアート散歩(2)ドイツ歌曲コンクール

 芸大の中をいろいろ見て回って、新しいコンサートホール奏楽堂も確認。木造のコンサートホール、旧奏楽堂は現在は台東区の所有文化財になっていて、木曜日日曜日が一般公開日です。旧奏楽堂の前へ行くと、11月5 日金曜日は公開日ではないのに、人が出入りしています。コンサートをやっているのかなと思って、入り口受付で尋ねたら「今、ドイツリートコンクールをやっていますが、第1部が終わって20分の休憩に入ったところです。第2部は4時50分開演です。お聞きになるなら、入場整理券を差し上げます」といいます。

 財団法人日本友愛青年協会主催の「第21回友愛ドイツ歌曲コンクール」が開催されていました。12月10日に行われる本選会のチケットは2000円ですが、今日の2次予選は入場無料ですから、聞いていくことにしました。
 友愛青年協会は鳩山一郎が設立した団体。(カフェのmitsubaさんは「若い頃この団体の職員をしていた」と、よく日記に書いておられます)現在の主な活動は中国でのボランティア植林運動、軽井沢の山荘経営と、このドイツリートコンクールのようです。

 ドイツリートコンクール優勝者にはウィーンで行われるコンサートへの出演と8日間のオーストリア旅行ご招待&20万円の賞金が与えられます。
 私が聞いたのは、一般の部の第2部。モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、シューマン、ブラームスなどのリートを朗々と歌っていました。7人の審査員は厳しくチェックして本選出場者を選んでいるのだと思いますけれど、素人の私の耳にはみなさん美しい歌声で、どの人が最終予選に残るのかなど、見当も付きません。

 国内の多くの音楽コンクールでは、審査員との弟子関係で優勝者、入賞者が決まるのだと聞いたことがありますけれど、さて、このコンクールは出来レースなのやらガチンコなのやら。

 某文学賞をイケメン若手俳優が受賞したというので、またまた八百長コンクール論が沸騰しています。「芸名での応募ではなかったので、受賞するまでまったく俳優の応募だと気づかなかった」という社長の談話がいかにもウソくさい。最終候補作に残ったら、編集者は応募者と連絡をとり、顔合わせもするので、あれだけ顔が知られている人に気づかなかったということはありえません。また、賞金2000万円の辞退をさせるべきではなかった。実力が評価されて受賞したのなら、堂々と貰えばよい。しかも、1回目だけ大賞を出し、2,3,4回目は該当作無し。第5回目の今回は2000万円辞退で、来年からは200万円にダウンして「新人賞」という名に切り替えるという。何だかなぁ。

 世間で一番有名な文学賞の選定について、その文学賞を主宰している大手出版社の編集者と知り合う機会があったので、聞いてみたところによれば。
 内部編集者による下読みの段階では、数百篇に及ぶ候補作を本気でふるいに掛けて1次予選2次予選と進めていくけれど、最終予選に残すのは「受賞後の単行本を売っていく戦略も含めて、いろいろ社内事情もありまして、,,,」ということでした。5、6篇に絞られた後の最終選考で1作を受賞作とする最終選考では、委員の作家大先生たちにお任せするということでした。つまり、入り口と最後の出口はがちんこ、真ん中はいろんな事情から選抜されるという、、、、。

 世の中のコンクール応募者で、ほんとうに実力だけが評価されると信じている人々には、厳しい現実でしょうが、真ん中の「賞を出す側の事情」をかいくぐるためには、実力だけでは無理ということを知るのも必要かと。芸能界の「主役抜擢オーディション」などがほとんど出来レース、コンクール形式で応募者を集めるのは話題作りのためだけ、というようなことはよく知られるようになってきていますけれど、さて、国内の音楽コンクールのがちんこ具合はいかほどなのか。

 ちなみに、奏楽堂、審査員以外の聴衆は25名。300人は入るホールでちょっと寂しい聴衆でしたが、本選会には満員になるのでしょう。6時から20分の休憩を挟んで、大学大学院学生の部のコンクールでしたが、西洋美術館でデューラー展を見るために奏楽堂を出ました。若い声楽家が伸び伸び育っていくのを祈っています。

<つづく>


ぽかぽか春庭「デューラー展」
2010/11/12
ぽかぽか春庭@アート散歩>秋のアート散歩(3)西洋美術館デューラー展

 デューラー展のチケット、招待券を3枚もらいました。ダンス仲間のミサイルママ、12月8日のオペラコンサートのチケットに応募したらペア券があたったので、いっしょにいかない?と誘ってくれたので、お礼に1枚あげました。K子さんは11月16日の東京芸術劇場のコンサートチケットを「行けなくなったから」とプレゼントしてくれたので、お礼に1枚あげました。バーター貿易のようなもんです。こうして、仲間と仲良く「無料で楽しむ生活」を楽しめます。

 大きなサイズの油絵なら混み混みの人垣の遠くから眺めても、鑑賞可能な場合もあるけれど、今回のデューラー作品は版画と素描。細い線での描写が命の版画だから、なめるくらいくっついて見つめたい。来年1月まで会期はあるけれど、土日はぜったいに一人で一枚の絵を独占するのは無理。この先、冬休みまで平日に休みが取れる日がないし、11月5日金曜日の夜は、文化センターの行事のためダンスサークルの練習がお休みなので、ワンチャンス。西洋美術館、金曜日は8時まで開催しているので、奏楽堂でドイツリートを聴いたあと、西洋美術館でデューラー展を見てしまうことにしました。
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/durer201010.html

 エレベーターで地下の展示室に入ると、ちょうどギャラリートークを開催中で、若いデューラー研究者(イケメン)が作品解説をしていました。30分間は、解説者についてまわりました。すらすらとよどみなくデューラー版画の特徴を述べ、デューラーのパトロンのマクシミリアン公について語り、イタリアルネサンスとドイツルネサンスの芸術ちがいを概説する。興味深い解説が聞けてよかったです。

 終わって聴衆が解散した後、イケメン解説者は、何人かの質問に答えていました。ふっと見ると、解説者が知り合いと話しているのが聞こえました。「いやあ、緊張しちゃって、話したかったことをすっとばしました」というようなことをしゃべっている。いえ、いえ、何のなんの、私のような版画についてまったく何も知らない者にとって、鑑賞の役に立つお話でした。おそらくデューラー研究の大学院生だろうと思います。これから先、がんばってよい研究をつづけてください。

 デューラーの版画、細い線を駆使して聖母マリアも磔刑のキリストも聖人たちも「想像上の犀」も見事に描かれています。これまで美術館で見てきたデューラー、私には四角四面できまじめな版画、という印象でした。この人は一線一線を毎日こつこつを描き続ける職人気質、もしくは宗教者のような人物だったのではないか。酔って管巻いたり、女を追いかけ回したりなんてことはしなかった人だろう、という印象だった。

 イケメン君も、デューラーはコンパスや定規を駆使して絵を構成したと解説していました。彼自身が残した書簡などで、「古典美術の理解でもっとも基本となるのは、幾何学と測量法」と書いたというし、大量の日記、旅行記などを詳細に記録した、きまじめな画家でした。王侯との謁見、芸術家たちの歓迎会(アントワープの宴会など)で、16世紀当時のヨーロッパの食生活までわかる。また、ルネッサンス期の人文学者との幅広い交友についての記録から、ルネッサンス人の精神的内面的な記録もわかる。1528年4月6日に没するまで、ヨーロッパ芸術界の重鎮としてすごし、後世にも大きな影響を残しました。

 芸術家は奔放でハチャメチャで周囲の人のことなど考えないわがまま放題というイメージからすると、なんだか「出来過ぎ君」のようなデューラーの生涯。今回の「素描と版画」という企画も、地味でまじめな企画でちょっと敷居が高かった。
 どうやら私は、「芸術家はハチャメチャであるほど面白い」と思っているみたいです。
 
<つづく>
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2010年11月13日


ぽかぽか春庭「渋沢史料館」
2010/11/13
ぽかぽか春庭@アート散歩>秋のアート散歩(4)渋沢史料館

 11月7日日曜日、渋沢史料館へ行って来ました。
 飛鳥山公園に並ぶ三つの博物館のうち、紙の博物館と郷土史料館を前身とする飛鳥山博物館には入ったことがあるけれど、渋沢史料館と渋沢庭園に来たことがなく、飛鳥山の南半分が渋沢家の邸宅だったことも知らなかった。

 渋沢栄一は、明治大正の財界を代表する大立て者にして、91歳で没するまで冨と名声と長寿を全部一人で実現した人。日本近代経済の基礎を築き、500を越える会社を設立、子爵を授爵。教育や福祉にも熱心で、論語の精神と経済を両立すべく活動しました。
 私はこれまでそういう「功成り名遂げた人」に興味がなかったので、史料館に入ったことがありませんでした。

 今回見学した晩香廬は、1917(大正6)年、渋沢栄一の喜寿を記念して竣工された洋風茶室(和洋折衷のティールーム)。渋沢邸の中でも、賓客接待用のレセプションルームでした。晩香廬(ばんこうろ)は、丈夫な栗材を使用し、暖炉・薪入れ・火鉢などの調度品、机・椅子などの家具も最新の設計により、全体の調和が図られています。インドのタゴール、中華民国の蒋介石などを迎え入れ、アジア外交を民間人として担った外交の場にもなってきました。
 建物概観の写真撮影は自由ですが、内部の写真撮影は禁止されています。でも、写真に残しておきたい室内でした。「細かいところまで意匠をつくし贅を尽くした作り」という調度品や暖炉のデザイン。
http://maskweb.jp/b_bankouro_1_0.html
 
 青淵文庫(せいえんぶんこ)は、渋沢栄一の80歳傘寿のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて建てられた書庫兼接待所。1925(大正14)年の竣工で、栄一の書庫として、使用されるはずでしたが、関東大震災で栄一のコレクションである論語の書籍が消失したため、実際には書庫ではなく接客の場としても使用された洋館です。東京大空襲にも消失を免れ、建築当時の姿を残しており、晩香廬と共に国の重要文化財に指定されています。
http://maskweb.jp/b_seien_1_0.html

 学芸員によるギャラリートークに午後1時半から参加。
 1923年の完成直前に関東大震災があって、鉄筋コンクリート作りの建物が大きく崩れてしまい、完成が2年遅れの1925年になったという建設中のエピソードや、書庫のステンドグラスは、渋沢家の紋所の柏をデザインしているとか、説明をしてくれました。でも、そのような説明は、もらったパンフレットにも書いてあるので、ひとつくらいは、パンフレットにも載せていないような、「とっておきの話」を加えてくれれば、大勢の人とぞろぞろいっしょに歩きながら見て回るギャラリートークに参加してよかった、と思えるのになあ。

 お金持ちに対して、何はどうあれとりあえず反感を感じてしまう貧乏人の春庭ですが、渋沢栄一はもうけたお金は教育や福祉など社会に還元すべきだという信念をもって経済活動を行ったということらしい。三井三菱安田財閥を築き上げた財界人とはひと味ちがう人物だったようで、今まで「地元に住んでいた偉人」という以上のことは知らなかった不明をわびて、栄一の人となりを一通り学びました。

 渋沢一族のなかで、面白かったのは、栄一の息子渋沢篤二のエピソード。放蕩を続け、名門出の妻を捨てて芸者との生活を選んだため、栄一によって法的に廃嫡され、栄一の後継者は篤二の息子敬三となりました。篤二は禁治産者という烙印を押され、栄一の指示により篤二名義の財産はすべて妻敦子の名義に書き換えられました。栄一なりに、堂上華族である橋本伯爵家出身の嫁を気遣った結果なのでしょう。
 莫大な資産を引き継いで子爵家の当主として生きるよりも、なにがしかの捨て扶持を与えられて、好いたおなごと気楽に生きるほうを選んだ篤二、それもひとつの生き方です。

 敬三は、学者になりたいという夢を諦め、渋沢家を守るために財界人として、また戦後は、幣原内閣の大蔵大臣として政治にも取り組む生涯をおくりました。不遇であった父の生涯を記念するために、父親が撮影した写真を写真集『瞬間の累積』として出版したり、民俗学研究のパトロンとなって研究者を支援しました。

 東京大空襲の際、飛鳥山公園の南側に広がっていた渋沢家の大邸宅のうち、本邸その他が消失。晩香廬と青淵文庫だけが残されました。
 旧岩崎邸、旧朝香宮邸(現都立庭園美術館)、旧前田公爵邸(現近代文学館)、旧古河邸(元陸奥宗光邸)、旧細川侯爵邸(現和敬塾本館)など、都内の近代建築のうちの個人邸宅を見てきて、それぞれに味わいのある邸宅でしたが、今回の晩香廬も、渋沢栄一のひととなりを感じさせるよい建物だと思いました。

<おわり>


コメント
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