20190723
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>再録感じる漢字(8)明治時代の漢字かな使い分け
春庭コラムの中、漢字について書いたものを再録しています。
~~~~~~~~~~
2005/12/21(水)
日本語相談(6)>漢字とひらがな(明治の随筆)
現在、新聞社でサイト編集をしているまっき~さんからのコメント。
「 編集やって気付いたのが、「子供」「子ども」「捏造」「ねつ造」とか、使い分けが多いですね。」 (2005 12/19 9:21)
「子供」の「供」。「供」の、もともとの意味は「寄り添う者、つき従う者、ともだち」の意味である。「部長のお供をして接待へ」など。
しかし、「子供」という語のばあい、「供」は、「ども」の当て字。「ども」は、名詞につけて複数を表わす非自立語である。非自立語であるので「どもが歩いている」などとは表現できない。
12/19に解説した「子ども」の表記について、付け加え。
「ども」は名詞について複数を表わす、と書いたが、「ども」は、自分より目下の存在を複数にする場合と、自称を謙遜卑下して複数する場合に用いる。
「私ども」「近所のガキども」「幕府の犬ども」は、よいが、「先生ども」「お母さんども」などの場合、先生やお母さんを低くみておとしめるという語感になったしまう。
耐震強度偽装の建築屋ども、歳費お手盛りで税値上げに賛成する議員ども、など、意図的に「ども」を使うことはあり得るが、一般の名詞には使わない。
一般の名詞を複数にするときは、「たち」を使う。「学生たち」「お母さんたち」など。
同じ複数でも、「私たち」と「私ども」は、語感がちがう。「私ども」は、謙遜意識を含む。また、「たち」と「ども」は共起しない。(一つの語のなか、文のなかでいっしょに用いられることを共起するという)
「私どもたち」とは言えない。
しかし、「子ども」に関しては「子どもたち」と言える。これは、「子ども」の「ども」が「複数をあらわす接尾辞」から「子ども」というひとつの単語の一部に昇格し、「こども」は、ふたつに分けられないひとまとまりの単語と見なされるようになったからである。
「子+ども」から、「こども」という一単語になり、それに、さらに複数の「たち」がついて「子どもたち」となっている。
「子ども」をひとつの単語と見なした場合「子供」という表記でよいことになる。
そのため、「子ども」「子供」両方の表記が混ざって使われているのだ。「朝日新聞用語辞典」では「こども」の表記は「子供」と出ているが、2005/12/20夕刊一面のコラム「ニッポン人脈記」の中では「子ども」と表記されている。
このように、漢字とひらがなの表記も「ゆれ」があり、変化がある。
日本語の文法や発音も大きく変化してきた。文章史においても、古事記の文章から現代の文章まで、さまざまな表現があり、表記があり、変化しつつ現在の文体になっている。
古事記からの文体変遷史となるとさても壮大なことになるので、近代文体史のなかの、漢字ひらがな表記の問題にかぎって、表記の変遷をほんのさわりだけ、見ていこう。
近代日本語史の流れからいくと、確実にひらがなカタカナ表記が増えていく傾向にある。
漢字と仮名の割合。時代を追って見ていこう。
幸田露伴が明治時代に書いた「碁」についてのエッセイ。(原文の旧字旧仮名遣いを新字新仮名で表記)
読まずに、字面だけ眺めてください。エッセイといっても、漢字が多いことがわかる。
「棊は支那に起る。博物志に、尭囲棊を造り、丹朱これを善くすといい、晋中興書に、陶侃荊州の任に在る時、佐史の博奕の戯具を見て之を江に投じて曰く、囲棊は尭舜以て愚子に教え、博は殷紂の造る所なり、諸君は並に国器なり、何ぞ以て為さん、といえるを以て、夙に棊は尭舜時代に起るとの説ありしを知る。然れども棊の果して尭の手に創造せられしや否やは明らかならず、猶博物志の老子の胡に入つて樗蒲を造り、説文の古は島曹博を作れりというが如し、此を古伝説と云う可きのみ。」
エッセイといっても、難しいですね。こういうエッセイを楽しんで読む読者層も、漢文の素養がたっぷりの人達だったのでしょう。
<つづく>
2005/12/22(木)
日本語相談(7)>漢字とひらがな(明治大正昭和の文)
ろくじょうさんが紹介してくれた、明治時代の手紙文。
「お目にかかってお礼を申し上げるべきなのに、熱がでちゃったんで、ゆるしてね」という内容だと思うのだけど、まあ、難しいこと。。
「 小生義 以テ拝趨鳴謝可仕筈之処、先日来 間歇熱状ニテ平臥罷在暫時不敬可 御海恕奉願候 」
仮名書きは「以テ」の「て」と「熱状ニテ」の「にて」二ヶ所のみ。
大正7年に、群馬県の蚕種業者である田島信が書いた「欧米旅行日誌」の冒頭。(原文旧字カタカナ書き旧仮名遣いを新字新かなで表記)
寺や漢学塾で基礎的な教育を受けただけの農民出身の商人であるが、明治時代に書き留めた旅行記に、大正時代になって、序文を書いた。
現在ではカタカナで書く国名地名も、伊太利亜国(イタリア国)未蘭府(おそらくミラノ市)と、できるかぎり漢字で表記していたほか、文全体に漢字が多い。
大正期になっていても、一般の人は文章を書くとなると、まだまだかしこまって一筆啓上していた。
「伊太利亜古国未蘭府於て蚕種売捌の紙数代価及び買人姓名日々明細筆記、明治三十一年水害の節日記浸水汚染す、文字誤謬多く慚愧を忍で書 」
明治期の言文一致運動を経て、明治後半から大正にかけて、夏目漱石らによって、日本語の書き言葉、文章の規範が確立した。文章史において、漱石以後は、現在の文章とかわらない表現になってきているのである。
漱石は、漢詩漢文によって教養の基本を築いた人。漢文素養にプラスして英文学研究者として研鑽をつみ、さらに、江戸期の随筆や俳句俳文、円朝らの落語速記録を重ね、近代文体の確立に苦心した。
これらを総合して現在の「現代文」が成立していった。
1909(明治42)年の漱石の文章『永日小品』より。
高浜虚子らとの交友記、正月の一日を闊達に描写している。現在の文章を読むのと、かわりなく読める。
「雑煮を食って、書斎に引き取ると、しばらくして三四人来た。いずれも若い男である。そのうちの一人がフロックを着ている。着なれないせいか、メルトンに対して妙に遠慮する傾きがある。あとのものは皆和服で、かつ不断着のままだからとんと正月らしくない。この連中がフロックを眺めて、やあ――やあと一ツずつ云った。みんな驚いた証拠である。自分も一番あとで、やあと云った。
フロックは白い手巾(ハンケチ)を出して、用もない顔を拭いた。そうして、しきりに屠蘇を飲んだ。ほかの連中も大いに膳のものを突ついている。ところへ虚子が車で来た。これは黒い羽織に黒い紋付を着て、極めて旧式にきまっている。あなたは黒紋付を持っていますが、やはり能をやるからその必要があるんでしょうと聞いたら、虚子が、ええそうですと答えた。そうして、一つ謡いませんかと云い出した。自分は謡ってもようござんすと応じた。」
(引用者注:メルトン(melton) 肉厚ののケバ立った紡毛地。平織りの生地をフェルト状に仕上げたもので、防寒用のコ-トやブレザ-に用いられる。)
昭和期の文章のなかで、漢字が多そうな文を選んでみる。
中島敦も漢文の素養があり、中国の歴史などに取材した小説を執筆した。
1942(昭和17)年、中島敦「盈虚(えいきょ)」より
「衛の霊公の三十九年と云う年の秋に、太子が父の命を受けて斉に使したことがある。途に宋の国を過ぎた時、畑に耕す農夫共が妙な唄を歌うのを聞いた。
既定爾婁豬 盍帰吾艾(牝豚はたしかに遣った故 早く牡豚を返すべし)
衛の太子は之を聞くと顔色を変えた。思い当ることがあったのである。
父・霊公の夫人(といっても太子の母ではない)南子は宋の国から来ている。容色よりも寧ろ其の才気で以てすっかり霊公をまるめ込んでいるのだが、此の夫人が最近霊公に勧め、宋から公子朝という者を呼んで衛の大夫に任じさせた。宋朝は有名な美男である。衛に嫁ぐ以前の南子と醜関係があったことは、霊公以外の誰一人として知らぬ者は無い。」
昭和になると、中島のように漢文の素養が豊かな作家でも、だいぶ漢字の使用はすくなくなっていることがわかる。
「寧ろ→むしろ」「其の→その」「此の→この」など、現代ではひらがなで書かれるほうが多い単語も漢字で書かれているが、読みにくくはない。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>再録感じる漢字(8)明治時代の漢字かな使い分け
春庭コラムの中、漢字について書いたものを再録しています。
~~~~~~~~~~
2005/12/21(水)
日本語相談(6)>漢字とひらがな(明治の随筆)
現在、新聞社でサイト編集をしているまっき~さんからのコメント。
「 編集やって気付いたのが、「子供」「子ども」「捏造」「ねつ造」とか、使い分けが多いですね。」 (2005 12/19 9:21)
「子供」の「供」。「供」の、もともとの意味は「寄り添う者、つき従う者、ともだち」の意味である。「部長のお供をして接待へ」など。
しかし、「子供」という語のばあい、「供」は、「ども」の当て字。「ども」は、名詞につけて複数を表わす非自立語である。非自立語であるので「どもが歩いている」などとは表現できない。
12/19に解説した「子ども」の表記について、付け加え。
「ども」は名詞について複数を表わす、と書いたが、「ども」は、自分より目下の存在を複数にする場合と、自称を謙遜卑下して複数する場合に用いる。
「私ども」「近所のガキども」「幕府の犬ども」は、よいが、「先生ども」「お母さんども」などの場合、先生やお母さんを低くみておとしめるという語感になったしまう。
耐震強度偽装の建築屋ども、歳費お手盛りで税値上げに賛成する議員ども、など、意図的に「ども」を使うことはあり得るが、一般の名詞には使わない。
一般の名詞を複数にするときは、「たち」を使う。「学生たち」「お母さんたち」など。
同じ複数でも、「私たち」と「私ども」は、語感がちがう。「私ども」は、謙遜意識を含む。また、「たち」と「ども」は共起しない。(一つの語のなか、文のなかでいっしょに用いられることを共起するという)
「私どもたち」とは言えない。
しかし、「子ども」に関しては「子どもたち」と言える。これは、「子ども」の「ども」が「複数をあらわす接尾辞」から「子ども」というひとつの単語の一部に昇格し、「こども」は、ふたつに分けられないひとまとまりの単語と見なされるようになったからである。
「子+ども」から、「こども」という一単語になり、それに、さらに複数の「たち」がついて「子どもたち」となっている。
「子ども」をひとつの単語と見なした場合「子供」という表記でよいことになる。
そのため、「子ども」「子供」両方の表記が混ざって使われているのだ。「朝日新聞用語辞典」では「こども」の表記は「子供」と出ているが、2005/12/20夕刊一面のコラム「ニッポン人脈記」の中では「子ども」と表記されている。
このように、漢字とひらがなの表記も「ゆれ」があり、変化がある。
日本語の文法や発音も大きく変化してきた。文章史においても、古事記の文章から現代の文章まで、さまざまな表現があり、表記があり、変化しつつ現在の文体になっている。
古事記からの文体変遷史となるとさても壮大なことになるので、近代文体史のなかの、漢字ひらがな表記の問題にかぎって、表記の変遷をほんのさわりだけ、見ていこう。
近代日本語史の流れからいくと、確実にひらがなカタカナ表記が増えていく傾向にある。
漢字と仮名の割合。時代を追って見ていこう。
幸田露伴が明治時代に書いた「碁」についてのエッセイ。(原文の旧字旧仮名遣いを新字新仮名で表記)
読まずに、字面だけ眺めてください。エッセイといっても、漢字が多いことがわかる。
「棊は支那に起る。博物志に、尭囲棊を造り、丹朱これを善くすといい、晋中興書に、陶侃荊州の任に在る時、佐史の博奕の戯具を見て之を江に投じて曰く、囲棊は尭舜以て愚子に教え、博は殷紂の造る所なり、諸君は並に国器なり、何ぞ以て為さん、といえるを以て、夙に棊は尭舜時代に起るとの説ありしを知る。然れども棊の果して尭の手に創造せられしや否やは明らかならず、猶博物志の老子の胡に入つて樗蒲を造り、説文の古は島曹博を作れりというが如し、此を古伝説と云う可きのみ。」
エッセイといっても、難しいですね。こういうエッセイを楽しんで読む読者層も、漢文の素養がたっぷりの人達だったのでしょう。
<つづく>
2005/12/22(木)
日本語相談(7)>漢字とひらがな(明治大正昭和の文)
ろくじょうさんが紹介してくれた、明治時代の手紙文。
「お目にかかってお礼を申し上げるべきなのに、熱がでちゃったんで、ゆるしてね」という内容だと思うのだけど、まあ、難しいこと。。
「 小生義 以テ拝趨鳴謝可仕筈之処、先日来 間歇熱状ニテ平臥罷在暫時不敬可 御海恕奉願候 」
仮名書きは「以テ」の「て」と「熱状ニテ」の「にて」二ヶ所のみ。
大正7年に、群馬県の蚕種業者である田島信が書いた「欧米旅行日誌」の冒頭。(原文旧字カタカナ書き旧仮名遣いを新字新かなで表記)
寺や漢学塾で基礎的な教育を受けただけの農民出身の商人であるが、明治時代に書き留めた旅行記に、大正時代になって、序文を書いた。
現在ではカタカナで書く国名地名も、伊太利亜国(イタリア国)未蘭府(おそらくミラノ市)と、できるかぎり漢字で表記していたほか、文全体に漢字が多い。
大正期になっていても、一般の人は文章を書くとなると、まだまだかしこまって一筆啓上していた。
「伊太利亜古国未蘭府於て蚕種売捌の紙数代価及び買人姓名日々明細筆記、明治三十一年水害の節日記浸水汚染す、文字誤謬多く慚愧を忍で書 」
明治期の言文一致運動を経て、明治後半から大正にかけて、夏目漱石らによって、日本語の書き言葉、文章の規範が確立した。文章史において、漱石以後は、現在の文章とかわらない表現になってきているのである。
漱石は、漢詩漢文によって教養の基本を築いた人。漢文素養にプラスして英文学研究者として研鑽をつみ、さらに、江戸期の随筆や俳句俳文、円朝らの落語速記録を重ね、近代文体の確立に苦心した。
これらを総合して現在の「現代文」が成立していった。
1909(明治42)年の漱石の文章『永日小品』より。
高浜虚子らとの交友記、正月の一日を闊達に描写している。現在の文章を読むのと、かわりなく読める。
「雑煮を食って、書斎に引き取ると、しばらくして三四人来た。いずれも若い男である。そのうちの一人がフロックを着ている。着なれないせいか、メルトンに対して妙に遠慮する傾きがある。あとのものは皆和服で、かつ不断着のままだからとんと正月らしくない。この連中がフロックを眺めて、やあ――やあと一ツずつ云った。みんな驚いた証拠である。自分も一番あとで、やあと云った。
フロックは白い手巾(ハンケチ)を出して、用もない顔を拭いた。そうして、しきりに屠蘇を飲んだ。ほかの連中も大いに膳のものを突ついている。ところへ虚子が車で来た。これは黒い羽織に黒い紋付を着て、極めて旧式にきまっている。あなたは黒紋付を持っていますが、やはり能をやるからその必要があるんでしょうと聞いたら、虚子が、ええそうですと答えた。そうして、一つ謡いませんかと云い出した。自分は謡ってもようござんすと応じた。」
(引用者注:メルトン(melton) 肉厚ののケバ立った紡毛地。平織りの生地をフェルト状に仕上げたもので、防寒用のコ-トやブレザ-に用いられる。)
昭和期の文章のなかで、漢字が多そうな文を選んでみる。
中島敦も漢文の素養があり、中国の歴史などに取材した小説を執筆した。
1942(昭和17)年、中島敦「盈虚(えいきょ)」より
「衛の霊公の三十九年と云う年の秋に、太子が父の命を受けて斉に使したことがある。途に宋の国を過ぎた時、畑に耕す農夫共が妙な唄を歌うのを聞いた。
既定爾婁豬 盍帰吾艾(牝豚はたしかに遣った故 早く牡豚を返すべし)
衛の太子は之を聞くと顔色を変えた。思い当ることがあったのである。
父・霊公の夫人(といっても太子の母ではない)南子は宋の国から来ている。容色よりも寧ろ其の才気で以てすっかり霊公をまるめ込んでいるのだが、此の夫人が最近霊公に勧め、宋から公子朝という者を呼んで衛の大夫に任じさせた。宋朝は有名な美男である。衛に嫁ぐ以前の南子と醜関係があったことは、霊公以外の誰一人として知らぬ者は無い。」
昭和になると、中島のように漢文の素養が豊かな作家でも、だいぶ漢字の使用はすくなくなっていることがわかる。
「寧ろ→むしろ」「其の→その」「此の→この」など、現代ではひらがなで書かれるほうが多い単語も漢字で書かれているが、読みにくくはない。
<つづく>