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ぽかぽか春庭「日本語教員養成講座の授業」

2020-02-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200125
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録・日本語教師日誌(5)日本語教員養成講座の授業


 2003年にブログ開設して以来の春庭のテーマのひとつ「日本語教師日誌」の再録を続けています。
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2003/12/15
春庭のBC級ニッポン語教育研究11「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「BC級④ 日本語教師養成講座」日本語教員養成講座の授業
について。

 一般の日本人学生に比べ、日本語教師の資格を取得しようとして授業を受ける学生は熱心な人が多く、春庭のハードな要求に応えてけんめいに取り組んでくれる。

半年の間に
1,レポートを3本提出
 「日本学校授業、大学別科日本語授業見学報告」
 「コースデザイン」
 「50分ヒトコマの授業指導案」を期日までに提出。
 期日に遅れた者は、「芸」をクラスメートの前で披露しなければならない。スピーチ、歌、踊り、朗読などなんでもよい。

2,各人、模擬授業実践2回。教師役、学習者役を決めて、交代で模擬授業練習をして、 留学生相手の教育実習前に、教壇にたつ準備。

3,スピーチ1回以上。(日本事情日本文化紹介の模擬授業)
 各人の自慢話や失敗話など。皆、意外な特技を持っている。人前でパフォーマンスができることは、日本語教師の大切な資質。

4,他学生の模擬授業を見た側は、その実践へのコメントを400字以上書く。

5,春庭の超スピード早口の日本語学概論、日本語教育概論、その他の復習解説を聞き取る。聞き取れないと、皆が笑っているときに、笑い損ねてソンをする。

6,ビデオに撮影されている「日本語教育界権威」の先生方の模範授業を見て、つっこむ。けなしどころ、ツッコミどころを見つけるのは、批判的にものごとを考える訓練。

というスケジュールをこなす。

 授業の最終回には、「授業評価」コメントを書いてもらう。授業の良かった点をひとつ以上、これから改善すべき点をふたつ以上書くことを義務づけている。
 良かったことだけ書き、批判点を書かない学生に対しては、減点にすると申し渡しておく。

 春庭が行っている程度の授業を受けて、批判点改善点を見つけられないような人は、自らが教師になる資格はない。教員養成講座を受講するからには、人の授業を見て、きっちりよい点悪い点を評価できる批判力を身につけるべきだと学生には伝える。

 最近は、大学側がアンケート用紙を作成し、学生による授業評価を行う学校も増えてきているが、このアンケートはあまり私の役にたたない。

 アンケートでは「授業を担当した教師は遅刻休講が多かったか」「授業は熱意あるものだったか」などを学生に書かせる。
 一度も休講しなかったことは私自身がすでに知っていることであり、熱意あふれすぎていることも知っている。大学作成のアンケートは、私にとって自分の授業をよりよいものにする資料にはならない。

 これまでの私自身が実施した授業評価で、いろいろ改善点が見つかって、よりよい授業にすることができた。
 しかし、なかなか改善できない点もある。早口。これが、なおらない。
 気をつけるようにしているんですが、、、

 授業を受けて良かった点のコメント。
 『今まで眠い授業を受けることが多かったが、この授業では眠る暇がなかった。盛りだくさんで、調べたり発表したりするのがたいへんだったが、大学に入って初めて「勉強するのが楽しい」と感じた』などが、典型的なコメント。
 楽しいと感じてもらうと、こちらも嬉しい。
 
 悪い点の評価、早口への批判は必ず出る。ごめんなさい。なおせなくて。それから、「先生は、やさしすぎるところがあって、よくない。遅刻してきた学生にびしっと叱らないと、ちゃんと無遅刻無欠席でがんばっている自分たちが、ソンをしているような気になってしまう」というのもあった。

 しかし、「遅刻や欠席は本人の問題」と考えるので、他者の学習権を妨害しない場合は、注意しない。授業中のケータイ着メロ、バズセッションやペア会話練習タイム以外の声高なおしゃべりなどとは異なると思う。

 だいたい、教師自身がおしゃべり大好きなんだから、学生のためにもおしゃべりタイムバズセッションの時間はとってある。おしゃべりしたり、ゲームをしたりしながら、「日本語の教え方」が学べる、超おとくな授業なのだ。

 欠席して、おもしろい体験をしそこねた学生が「休んでソンをした」と思うような授業を展開しているのだ。

 授業での学生からのコメント、また、このカフェ日記への反響で、春庭、また話をつづける気力がわいてくる。
2003/12/15 22:19 ezoo4241401 日本語の深さを知りました。
という こうして、春庭がカフェ日記で拙いことばを届けるのも、足跡やメールのことばをうれしく感じたりできるのも、私たちが言葉をもっていて、言葉の意味を理解できる共通コードを持っているからだ。

 ことばは時に、誤解を招く元になったり、人を刺すとげになったりする。ことばは「もの」と異なる特別な存在だからなのだ。
 一匹のさんまは、私にとっても「おさかなくわえたノラネコ」にとってもほぼ同じ意味をあらわす。
 食うと美味い。「具体的な食物」としての意味。ノラネコにとっては「具体的な食物」という以外の意味はない。

 人は「直接の事物」として受け取るほか、物を記号に置きかえる。音声記号、文字記号、手による記号(手話)など、物と「音」や記号を結びつける。
 音声記号のばあい、日本語なら/sa/ /N/ /ma/ 」という三つの音節から成立している「単語」として脳内で認識する。

 「さんま/sa/ /N/ /ma/ 」という三つの音節からできていることばは、ノラネコがくわえて逃げる「物」としてのサンマとは別の価値をもつ。

 魚屋の店先に一匹50円で売られていて、焼いて食うとうまい魚という意味がある。「さんま」と聞くと、まず第一に明石家さんまの軽妙なトークを思い浮かべる人もいる。「秋刀魚」という漢字が最初に思い出されて、佐藤春夫の詩「さんまにがいかしょっぱいか」が胸にのぼる人もいよう。

 両手にサンマの尻尾をもって家人の目の前にぬっと差し出す。家人は「あ、今夜のおかずはさんまか」と、考える。このとき、「今夜」「おかず」「さんま」などの言葉を知らないと心に思うこともできない。
 ことばは人間にとって二つの側面を持つのだ。
 ひとつは思考の道具。母語によるものごとへの認識がないと、「考える」ことができない。「今夜はさんま食べよう」と夕ご飯のおかずについて考えたとき、「今夜」「さんま」「食べる」意志形「~よう」という四つの言語をあやつるすべを知らないと「今夜はさんま食べよう」と、心に思うことができないのだ。
 声にださなくとも、日々私たちはさまざまなことがらについて考え、心にいろいろな思いが浮かぶ。

 ことばの二つ目の役割は「伝達」。「ねぇ、魚屋で1匹50円だったの。だから今夜もさんまよ」と、家族に伝え「またかよ、たまにはマグロのさしみくらい買えよ」と答えが返ってきたら伝達は成功している。
 「よくいうよ。さしみが買えるくらいの給料貰ってきてから言いなさいよ!」「なんだと」と、ケンカになっても、言語コミュニュケーションとしては成功なのだ。

 「1匹50円だったの。だから今夜もさんまよ」という家人のことばに「またかよ、今夜はサッカー見るよ。からくりなんか、いつだって同んなじようなことやってるもん、飽きたよ」という返事がかえってきたのだとしても、誤解は誤解で一種のコミュニケーションが成立している。
 「なに、言ってんのよ。人の話をちゃんと聞いていないで、新聞読みながら聞いていないで、ちゃんと聞きなさいよ」と、ケンカになっても、言語コミュニケーションとしては成立。

 お互いに共通の理解コードを持っている人同士の間で、話し手と聞き手の間にコミュニケーションが成立する。 
 しかし、共通の言葉を使っているにもかかわらず、お互いの言葉がすれ違い、ときには言葉が刺となって相手に突き刺さる。そんな言葉のやりとりもうまれる。
 ことばは思考と伝達の道具。たかが道具ではあるが、使い方によっては人を傷つける武器にもなり、人の心を温める存在ともなる。

 春庭の授業、留学生の日本語クラスも、日本人学生の日本語教授法のクラスも、初日はエンカウンターというカウンセリングの手法で「学生同士がクラス内で知り合う」というところからスタートする。
 お互いが知り合うこと。わかりあいたいと感じること、これがコミュニケーションの基本だと思っている。


<つづく>
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