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ぽかぽか春庭アーカイヴ(む)向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』
2003年のコラムを再掲載しています
at 2003 10/31 07:20
春庭千日千冊 今日の一冊No.37(む)向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』
向田邦子のテレビドラマを見始めたのは『七人の孫』からだと思う。母が森繁久弥ファンで、私はいしだあゆみが好きだったから見ていた。
『寺内貫太郎一家』は見ていない。私が中学校の教師になり、テレビを見るどころではなく、朝8時から夜9時10時まで学校で仕事を続けても、片づかないという働き方をしていたころの作品だったから、視聴率の高い番組ではあったけれど、まったく見たことがなかった。
『あ、うん』も最初の放映のとき、私はケニアにいた。リアルタイムで放映時に見たものは『隣の女』くらいかもしれない。
放送脚本家として長い間仕事を続けてきた向田邦子が小説家として直木賞を受賞したのが1980年。その翌年には飛行機事故で亡くなってしまった。台湾取材に向かったおりの事故による。向田邦子51歳。直木賞を受賞して1年後の事故死であった。
もっともっと書き続けて欲しい作家のひとりだったのに。1981年、51歳で台湾の空に消えてしまったことがなんとしても惜しまれる。
文体が大好きな作家であったけれど、私にとって、向田邦子は「楽しく読み散らす読者」として以上に関わってきた人。自分の論文執筆にとって、なくてはならない人だった。
テレビドラマをリアルタイムで見た作品は少なかったが、他動詞文用例収集のため、向田のドラマシナリオをせっせと読んだ。
本当の会話文ではないものの、小説の文から拾うより、はるかにリアル会話文に近い用例を採集できる。
ストーリーを読むのは邪道。ひたすら自分の論文に使える用例を採集するのが目的であるのに、ついついストーリーにひかれて読みふけり、用例採集がおろそかになった。
日本語文法などということばを読むと、頭痛吐き気めまいなど催す方、ごめんなさいね。
古典文法の「から、かり、し、き、けれ、かれ」とか「らむ、らむ、らめ」などという活用をひたすら暗記させられるのが文法だと思っている方々、文法と聞くだけでひきつけが起きるのだという。
「て、て、つ、つる、つれ、てよ」あれ、こちらも引きつってきた。
「再帰的他動詞文」の用例として向田のシナリオから拾った文例
「そうよ、綱子ねえちゃん、こないだ差し歯あげ餅でガツーンって、欠いたものね」
向田の『阿修羅のごとく』の中にでてくるセリフである。
三田村家の長女綱子に対して妹が言う台詞。この台詞が映画版シナリオでもでてくるのかどうか、森田芳光監督、綱子を大竹しのぶが演じる映画を見てみようと思っている。
ドラマ『阿修羅のごとく』もエッセイ『霊長類ヒト科動物図鑑』も、向田の人を見る目の確かさが光っている作品。「ヒト科動物図鑑」、なんど読み返しても、内容もちゃんと知っていて読むのに、読むたび思わずくすっと笑ってしまう。
人はまことにさまざまな姿態生態を見せる生き物であるが、それにしても、向田の人間観察の鋭さとあざやかな描写力。どの短編を読んでも、「そうそう、その通り」と、うなづきながら、読む。
地図をいくら見ても必ずまよってしまい、道を間違えずに目的地へ到着することがない。数字に弱く計算ができない、などなど、ぜったいにこれは私の数々の失敗を知って書いたにちがいない、とさえ思ってしまう。
私は今月もまた、電車の中に傘を置き忘れた。自分の欠陥ぶりをなげくとき、向田のエッセイを思い出せば、「こういうおっちょこちょいもまた、人間なんだよね」と安心する。
霊長類ヒト科バンザイ!人は、こんなにもさまざまな顔をみせ、さまざまな生態を示して生きている。
at 2003 10/31 07:20 編集霊長類ヒト科さまざま
さまざまな国から日本にやってきた留学生を相手にしてきました。毎日が「異文化交流。
世界には多様な文化があり、そのどれもが大切な人類の遺産なのだ、ということを毎日感じ取れる仕事ができて、本当によかったと思っている。
「異文化にふれる」というのは、外交官や日本語教師でなくとも、人が毎日の生活のなかで、あたりまえのように成し遂げていることなのだ。
「自分とは違う考え方、違う感じ方の人に会う」というのは、日常生活でだれでも体験していることだ。異文化、というのは、何も外国の文化のことだけではない。
子供を公園に連れて行ったら、ボスママが仕切っている公園で、楽しめなかった、というのも、「自分とは異なるカテゴリーの考え方」に触れた体験であるし、嫁と姑が漬け物の味でひともんちゃく起こすのも、地方ごと家ごとの異なった文化の摩擦といえるだろう。
文化というと、高尚な芸術や建物遺跡のことと思う人が多いが、そうではない。「文化」というのは「人の暮らし方、生き方すべての総称」であるのだ。
日本語教授法のクラスで、最初に異文化理解について日本人学生と話すときによく出す例。
日本で「汁かけ飯」をつくる。「はい、こちらが飯茶碗。こっちがみそ汁。ふたつの碗が目の前にあります。汁かけ飯を作るジェスチャーをしてください」たいていの学生は、飯茶碗を下に置き、みそ汁のお椀を持ち上げてジャーとごはんにかけるジェスチャー。
「韓国では、こうやります。スープのどんぶりとご飯のどんぶりがあったら、スープの椀を下において、その中にご飯を入れます。みそ汁と韓国のスープの味の違いは考えずに、スープの中にご飯をいれるのと、ご飯に汁をかけるのと、どっちがうまいと思う?」
学生は首を傾げ、分らない。
それはそうだ。どちらも美味い。汁かけ飯の作り方、食文化が異なるだけで、どう作ろうと美味いものは美味い。
さらに「ご飯を食べるジェスチャーをしてみて」と言うと、皆いっせいにご飯茶碗を左手に持って、右手の箸を動かして食べるまね。「お茶碗を下においたまま箸をつっこんだら、お行儀が悪いっておこられたでしょ。
でも、韓国ではご飯のお椀は下に置いたままの方がお行儀がいいんだって。どっちのご飯が美味しいと思う?もうわかったでしょ。どっちも美味しいの。ただ、食べ方の食文化が違うだけ」
また「パプアニューギニアの服飾文化の紹介」をすることもある。
パプア島の男性の伝統的な衣装。写真を見せると女子学生はくすっと笑うこともあり、男子学生はちょっと恥ずかしそうに女子学生の顔をうかがう。
パプアの男性の衣装というのは、ペニスケースという筒で大事なところを覆い、あとは裸にペイント、頭に羽根飾り。
次に大相撲の取り組みの写真。がっぷり四つに組んだ尻が大写しになっている。
「大相撲を見た外国の人が、こんな野蛮な服装で人前に尻を出すなんて、恥を知れ、と言ったそうです。どう思いますか」
「恥じゃ、ありません。これが相撲の伝統なんだから、尻見せたっていいじゃないですか」
「そうだよね、でも、さっき皆は、ペニスケース見て恥ずかしそうだったよ」
このへんから、学生にも、文化とは「食べ物、服装、歩き方から、人と人がどれくらい接近して話すか、まで、生まれてから死ぬまでの人の生活の仕方暮らし方生き方の総称」であることがわかってくる。
慣れた生活のしかた、身近に見慣れたものには違和感がなく、見知らぬものには違和感や拒否感が生まれること。
しかし、地球上のすべての人間の文化は等価であり、どのような生活の仕方、ものの考え方があっても、自己中心的なものの見方で判断してはいけないことを分って欲しいのだ。
イスラム教では4人まで正妻としてめとることができる。これを一夫一婦制度の側から、非難しても(あるいは羨んでも)意味がない。
また、イスラムのラマダン(断食)の時期。夜明けのお祈りのときから、日没までの間、食べることも飲むこともできないのを、「健康によくない」などとトンチンカンな批判をしても仕方がない。
ジェンダーやセクシャリティが、個々人によって多様であるのと同じく、それぞれの文化にそれぞれの暮らしがある。
霊長類ヒト科ホモサピエンスは、きわめて多様なバリエーションを持った動物なのだ。
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20230302
自分が暮らしてきた生活様式、自分の理解できる範囲でしか物事を考えられない人はまだまだ多いです。夫婦別姓や同性婚によって社会が変わってしまうと考えて法案成立に異をとなえる人に、「大丈夫、日本社会は同性婚や夫婦別姓で変わってしまうようなヤワなものじゃありません」と、わかってもらうことはむずかしいことなんでしょうね。もう何十年もこの議論が続いているのですから。
<つづく>