20230311
ぽかぽか春庭アーカイブ(や)山崎正和
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.41
(や)山崎正和『世阿弥』
10/26に、姑と『わらびのこう』を見た話を書いた。この映画の中で、市原悦子演じるれんが、山中で生き別れの義妹に出会う。義妹は婚家を出されたあと、里に帰るに帰れず、山の中にひそんで山姥となって生きる。山は里に生きられぬ女をそのふところに迎え入れ、山の幸をめぐんでくれたのだ。左時枝演じる山姥は、絵本の中でみた山姥さながらの迫力。娘が幼かったとき、山姥がでてくる「日本昔話」を見て大泣きし、夜泣きが続いたことなど思い出した。
山姥は、各地の伝説に残る山の中に住む老婆。
世阿弥の能『山姥』は、今の新潟県青海町大字上路を舞台にしている。
前場。ツレは百万山姥という名の遊女。曲舞(くせまい)の名人で「山姥の山巡り」の舞で評判をとっている。百万とお供の一行が善光寺詣のため上路を通る。けわしい山道に都会ものが難儀しているうち日が暮れるが、山の女が宿を貸す。山の女(前シテ)は、自分こそが真の山姥であり、百万が自分を題材にした曲舞で名を上げながら、山姥の心を解していないと恨みを述べる。
後場では、百万山姥一行が待つうちに、山の女の真の姿、山姥が現れる。その姿は、自然の力を越えたおそろしくおどろおどろしいもの。山姥は山巡りのようすを一行に見せ、自然の秘めた深く壮大な哲理を知らせて山の奥深く姿を消す。
各地の民話では山姥は私の娘が泣き出したような「人や牛をとって喰う」恐ろしい存在として描かれることが多い。だが、世阿弥の描き出した山姥は、もっと深いものを感じさせる。人の世の善悪正邪を越えた、超自然の存在、山野に普遍し季節の巡航の中で巡り来るマレビトの仲間。
能の詞章である謡曲は、流派に伝えられるうち、上演台本として改変が加えられたり、他の作品、ときには他の作者の作品と組み合わされたりして、元の作者がはっきりわかっていないものも多い。能といえば「観阿弥世阿弥」と並び讃えられていながら、世阿弥元清の作だとはっきりしているものは数少ない。『山姥』は、世阿弥の作品であることがはっきりしているもののひとつだ。
足利将軍義満の愛顧を得た世阿弥、義満没後はあとを継いだ義嗣にうとまれ、佐渡に流される。佐渡でどのように長い配流の生活をおくったのか、などもはっきりわかる資料が少ない。
それだけに世阿弥の生涯は作家の創作意欲をかき立てる。世阿弥を描いた作品で私が好きなのは杉本苑子の小説『華の碑文・世阿弥元清』だ。
戯曲では、山崎正和の『世阿弥』。「見られる側の人間」「演じる側の人間」として、権力者の影の存在にあまんじつつ、己の人間存在を大成させる芸能者を描いている。
ラストシーン、義満の影として演じることをいさぎよしとせず、己を光りの存在としたかった元雅の亡霊、世阿弥をうとんじた義嗣の亡霊が現れる。
義嗣は「そなたが影法師である限り、そなたに写されてとどまる限り、光りたる者に眠りはない」とうめく。
いつの世も、光と影は反転する。聖と賤、正と邪、善と悪、清と汚、、、、。人は皆、二面の体と心を持ち、二面が反転し、一転二転、また三転。ころころと、こけつまろびつ生きていくのである。
生き続けて、聖者のごとき清らかな肉体と心を示す者もいようし、汚濁汚辱のなかにのたうち回るような者もいる。
むろん、私は猥雑汚濁のごみための中ではい回り、パソコンのごみ箱処理も満足にできないで、「パソコンわかんないんですぅ」と、嘆きつつ、ひとりぬる夜のあくる間はいかに久しき今夜も、「春庭今日も一日中、心も頭もポカポカです」なんぞという足跡をつけてまわるのである。
今夜もポカポカ。ほっかほかカイロがそろそろ恋しい季節ですね。温ったまったところで、本日はこれでおしまい。
春庭千日千冊 今日の一冊No.41
(や)山崎正和『世阿弥』
10/26に、姑と『わらびのこう』を見た話を書いた。この映画の中で、市原悦子演じるれんが、山中で生き別れの義妹に出会う。義妹は婚家を出されたあと、里に帰るに帰れず、山の中にひそんで山姥となって生きる。山は里に生きられぬ女をそのふところに迎え入れ、山の幸をめぐんでくれたのだ。左時枝演じる山姥は、絵本の中でみた山姥さながらの迫力。娘が幼かったとき、山姥がでてくる「日本昔話」を見て大泣きし、夜泣きが続いたことなど思い出した。
山姥は、各地の伝説に残る山の中に住む老婆。
世阿弥の能『山姥』は、今の新潟県青海町大字上路を舞台にしている。
前場。ツレは百万山姥という名の遊女。曲舞(くせまい)の名人で「山姥の山巡り」の舞で評判をとっている。百万とお供の一行が善光寺詣のため上路を通る。けわしい山道に都会ものが難儀しているうち日が暮れるが、山の女が宿を貸す。山の女(前シテ)は、自分こそが真の山姥であり、百万が自分を題材にした曲舞で名を上げながら、山姥の心を解していないと恨みを述べる。
後場では、百万山姥一行が待つうちに、山の女の真の姿、山姥が現れる。その姿は、自然の力を越えたおそろしくおどろおどろしいもの。山姥は山巡りのようすを一行に見せ、自然の秘めた深く壮大な哲理を知らせて山の奥深く姿を消す。
各地の民話では山姥は私の娘が泣き出したような「人や牛をとって喰う」恐ろしい存在として描かれることが多い。だが、世阿弥の描き出した山姥は、もっと深いものを感じさせる。人の世の善悪正邪を越えた、超自然の存在、山野に普遍し季節の巡航の中で巡り来るマレビトの仲間。
能の詞章である謡曲は、流派に伝えられるうち、上演台本として改変が加えられたり、他の作品、ときには他の作者の作品と組み合わされたりして、元の作者がはっきりわかっていないものも多い。能といえば「観阿弥世阿弥」と並び讃えられていながら、世阿弥元清の作だとはっきりしているものは数少ない。『山姥』は、世阿弥の作品であることがはっきりしているもののひとつだ。
足利将軍義満の愛顧を得た世阿弥、義満没後はあとを継いだ義嗣にうとまれ、佐渡に流される。佐渡でどのように長い配流の生活をおくったのか、などもはっきりわかる資料が少ない。
それだけに世阿弥の生涯は作家の創作意欲をかき立てる。世阿弥を描いた作品で私が好きなのは杉本苑子の小説『華の碑文・世阿弥元清』だ。
戯曲では、山崎正和の『世阿弥』。「見られる側の人間」「演じる側の人間」として、権力者の影の存在にあまんじつつ、己の人間存在を大成させる芸能者を描いている。
ラストシーン、義満の影として演じることをいさぎよしとせず、己を光りの存在としたかった元雅の亡霊、世阿弥をうとんじた義嗣の亡霊が現れる。
義嗣は「そなたが影法師である限り、そなたに写されてとどまる限り、光りたる者に眠りはない」とうめく。
いつの世も、光と影は反転する。聖と賤、正と邪、善と悪、清と汚、、、、。人は皆、二面の体と心を持ち、二面が反転し、一転二転、また三転。ころころと、こけつまろびつ生きていくのである。
生き続けて、聖者のごとき清らかな肉体と心を示す者もいようし、汚濁汚辱のなかにのたうち回るような者もいる。
むろん、私は猥雑汚濁のごみための中ではい回り、パソコンのごみ箱処理も満足にできないで、「パソコンわかんないんですぅ」と、嘆きつつ、ひとりぬる夜のあくる間はいかに久しき今夜も、「春庭今日も一日中、心も頭もポカポカです」なんぞという足跡をつけてまわるのである。
今夜もポカポカ。ほっかほかカイロがそろそろ恋しい季節ですね。温ったまったところで、本日はこれでおしまい。
<山崎正和後半へつづく>