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ぽかぽか春庭「湯川秀樹」

2023-03-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230319
ぽかぽか春庭アーカイブ(ゆ)湯川秀樹

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.43
(ゆ)湯川秀樹『旅人、ある物理学者の回想』
 日本で最初にノーベル賞を受賞したのは湯川秀樹。何もかも失って萎縮した戦後日本に夢と希望を与え、自信をなくしていた人々が、「やればできる」という戦後復興への熱い期待を取り戻すきっかけとなった。1949年のこと。

 湯川博士は、こどものころは内省的で孤独な少年だった。数学は得意だが、まだ何になりたいというはっきりした将来の夢もなく、秀才揃いの兄弟の中ではむしろ目立たない少年だった。(地質学者、小川琢治京都大学教授の5人の息子は、惜しくも戦死した末子滋樹をのぞき、4人がそれぞれ超秀才、各分野の著名な学者になったことで有名)

 ある日の中学校授業。コンビを組んで物理の実験をしていた同級生から「君はアインシュタインのようになるだろう」と言われた。言われたが、アインシュタインが何者か、知らなかった。そのうち、世界をわかせた相対性理論の学者であることを知ったが、まだ、心酔するには至っていなかった。
 1922年、アインシュタインが来日したとき、日本中が熱狂して新理論をひっさげて20世紀科学世界を一変させた学者を迎え入れた。しかし、秀樹少年は京都で行われた講演会にも行かなかった。自分が理論物理学に進むとも思っていなかったからだ。

 湯川秀樹がアインシュタインに会ったのは、それから十数年ののち。
 1934年、湯川博士は、原子核内中間子の存在を予言し、素粒子論に新たな理論を加えた。1937年、中間子場理論を発表。1939年、理論が認められヨーロッパへの講演旅行に出発。しかし第二次世界大戦の勃発により、ヨーロッパからアメリカへ回った。この時、ようやく湯川博士はアインシュタイン博士と邂逅した。あこがれのアインシュタイン博士はすでに白髪の老人になっていた。

 その後何度も湯川秀樹はアインシュタインに会い、敬愛の念を深めた。
 1955年ラッセル・アインシュタイン宣言の共同署名者となる。アインシュタインが願った世界平和への意志を引き継ぎ、湯川博士は晩年を平和運動に貢献してすごした。

 「湯川博士」の名は、私たちの世代にとって「大学者」「えらい科学者」の代名詞であった。「末は博士か大臣か」というのが親が子に望む出世コースだったが、ノーベル賞受賞以来、大臣人気はすっかり寂れ、「将来は湯川博士」が合い言葉になった。

 完全文系人間の私には、湯川博士はいつも遠い遠い星であった。近づくことも夢見ることもないスター。恵まれた環境と素質を持った秀才一家の超秀才。あまりにもかけ離れた存在に思えた。湯川博士になりたいなどと思ったことは一度もない。(私がなりたかった人リストは11/08に書いた)

 しかし、『旅人』を読むと、小学校中学校時代の秀樹少年は、おどろくほど私の小学校中学校時代と似た面を持っていた。
 夢見がちで、いつもぼうっと想像をふくらませていて、現実を忘れる。自分の好きなことだけに熱中して、それ以外の勉強はいっさいお留守。孤独でひきこもりの内省的な生活。むろん田舎の鈍才少女と、京都のとびっきりのエリートコースを歩む天才とは、レベルが違いすぎる。だが、秀樹少年の子供時代の回想を読んで、今まで敬して遠ざけていたこのノーベル賞受賞者がとても好きになった。
  秀樹少年も私と同じく、ノートに童話を書きためていた少年であったのだ。彼は引退後の生活について「また、童話を書いてすごしたい」という希望を述べている。

 彼の自伝『旅人』には美しい描写が続き、なつかしく生き生きとした戦前の京都、町屋の暮らしが活写されている。物理学者には、寺田寅彦など文学的才能の豊かな人が多いが、湯川秀樹も理論物理学者としてとの才能と同等に文学的な才能が豊かな人である。
 私は俳句や短歌が好きだから、最後に湯川秀樹の短歌を並べておわりにする。

たそがれて子等なお去らぬ紙芝居少年の日は遠くはるけし
そこはかのうれいある日の帰るさはいやなつかしき今日の夕山
比叡の山窓にもだせり逝きし人別れし人のことを思へと

<湯川秀樹後半へつづく>

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