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ぽかぽか春庭「森鴎外」

2023-03-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230307 
ぽかぽか春庭アーカイブ>(10)「も:森鴎外」

 ☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.40
(も)森鴎外『ぢいさんばあさん』
 日本文学史上、一番「きが多かった人は誰か」というとんちクイズがある。今は昔男ありけりの在原業平か、光源氏か世之介か。答えは森鴎外。「そのココロは」「本名、森林太郎で、木が五本」はい、おそまつ。

 「き」が多かった森林太郎、ドイツ留学先で恋仲になった女(『舞姫』エリスのモデル)を、「出世のさまたげ」として日本から追い返したことは、10/18に書いた。

 林太郎が最初にめとった妻は、男爵家令嬢赤松登志子。長男於菟を得ると同時に離婚。林太郎28歳のときのこと。この後、林太郎は登志子が亡くなるまで妻帯せず、登志子死去の後、ようやく40歳で19歳年下の志げを妻とした。登志子が亡くなるまで妻帯しなかったのは、男爵家への遠慮であるという説もあるし、自分は惚れていたのに母親が嫁を気に入らないためにやむなく離縁したのであって、登志子が死ぬまで後妻を入れなかったのは、嫁を追い出した母へのあてつけである、という説も。若い志げは、すぐに長女茉莉を生み、鴎外は子煩悩のよきパパとして幸福な家庭生活を営んだ。

 家庭だけでなく、文学者としても軍医としても功なり名遂げた鴎外であるが、ただひとつの「負け」となったのが、「かっけの原因」をさぐる医学論争である。「ビタミンB不足がかっけの原因」という、現在では定説となった正解に対して、鴎外はあくまでも「細菌説」を引っ込めなかった。
 明治時代、兵士たちの「かっけ病」は、大きな問題であった。兵員の3割がかっけのために戦力とならず、かっけを克服せずには富国強兵が望めなかったのだ。

 鴎外の「細菌説」に反対したのは、高木兼寛。薩摩藩士の子として生まれ、海軍医学校に進んだ。イギリス医学を学んだ高木は、かっけの原因が栄養のアンバランスにあると確信し、兵食の改善を提起した。
 森鴎外らのドイツ医学による細菌説が優位であったため、栄養実験船「筑波」を出港させ、兵食の改善による“脚気撲滅”を立証した。鴎外の敗北であった。

 この後、高木は東京慈恵会医科大学を創設。さらに、わが国最初の看護学校を設立した。

  鴎外は自分の墓に「森林太郎の墓」という文字のほか記させなかった。あらゆる名誉も従二位の勲位も自分を飾ることばとしなかったのである。いさぎよい終わり方である。(大勲位が大好きなあの方は、大きなお墓に「大勲位、純ちゃんに公認断られて憤死」という墓銘碑を書くかしら。あ、まだ死んでませんけど)

鴎外の遺言全文
 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス
  大正十一年七月六日 森林太郎言

 と、カタカナ混じりで書かれても「イミワカンネー」であるので、遺言の要所を現代語訳する。
 私は石見の人森林太郎として死にたいと思う。
宮内庁や陸軍などに縁故があるけれども、生と死の別れる瞬間にはすべての外形的な取り扱いを辞退する。森林太郎として死ぬ墓には「森林太郎墓」とだけ彫り、それ以外一字も彫ってはならない。書は中村不折に依託し、宮内省陸軍の栄典は絶対に取りやめることを願う。
 「石見の人」として死ぬという森鴎外、享年60歳。現代の感覚でいえば、まだ「ぢいさん」と呼ぶには早い年齢であったが。

 鴎外の『ぢいさんばあさん』は、藩士との争いから蟄居を言いつけられた夫と37年も別居した妻の物語。別居の間、妻は姑と息子の死をみとり、子亡きあとは御殿女中奉公をして夫を待つ。37年後にやっと夫の蟄居が許された後は、隠居所に同居して仲良く老後を過ごす、という短編。

 『ぢいさんばあさん』を読むたびに「私だって37年間くらいは、帰らぬ夫を待つことにしましょう」と思うのだが、うちの場合、蟄居閉門でやむなく離ればなれというのではない。帰る気になれば地下鉄で16分という距離の事務所に泊まり込みで仕事を続けているワーカホリック夫が勝手に帰ってこないだけである。

 世の奥様方の中には子育てに時間をとられるほか、「お茶!」「新聞!」などとわがまま放題の夫に三つ指ついてお仕えする時間をとられる方もおいでだろう。私は「夫のお守り」の必要がないので、子供の相手だけすればよかった。(その代わり、一度たりとも子供のおむつを替えたことも、おふろに入って子供を洗ってあげることもしなかった夫をあてにせず、家事育児はすべてひとりでやるしかなかったけど)

 しかし、子供にしか目を向けていなかったので、子供が巣立ったあと「空の巣症候群」になること必定。「空の巣症候群にかからぬためのひまつぶし」準備のためにホームページ作成をはじめたのである。
 ホームページに書いた事すべてが、もしかしたら、帰らぬ夫へのラブレターかもしれない。37年後には「ぢいさんばあさん」のように、長い別居などなかったかのように仲むつまじく過ごせる日を夢見ながら。

 若い頃の私は「鉄の女」と評された。サッチャー政権誕生以前のことだが、たたくとキンコンカンと音がする堅さに加えて、父が鉄鋼労連だったことからのあだ名である。男達は「あんたがそこに立っているだけで、怖い」と近づきもしなかった。女は自分の意見など述べる必要はなく、「あたし、難しいことはよくわかんないけど、あんたが正しいと思うわ」と、うっとりした目をして男を眺めているほうがモテる、という時代だった。

 たった一人、ナイロビ下町で道に迷った私を親切に案内してくれたのが、ケニアで出会った夫である。夫は「自前の意見を述べる女」を怖がらず、議論につきあってくれた。(10/19)の項参照。
 「割れた文化鍋に綴じ蓋」と言われた、似合いのカップルであった日も、今は遠い。
 「ぢいさんばあさん」として仲良く暮らせる日が、いつの日か、やってくるのだろうか。

 でもね、37年も待つなら、その間に新しい恋も必要よねぇ!「晩年の恋」に3票め! 私を怖がらない人がいるなら、晩年の恋も生まれるでしょうに、ヤバイ! 10/29の項、蛇の足跡で、「舐めんなよ」なんてタンカを切ってしまった。またまた「こわい女」という、あらぬ評判を増やしてしまった。本当の私は、怖くなんてないんです。しおらしく、内気なひきこもり女ですのよ。シオシオ(と手弱女ぶり)。

 そこの、どっと引いてしまった、あなた。ま、ま、もそっと近こう寄りなさい。手荒なことはしませんて。そう固くならずに、ほらほら、、、と、おそばににじり寄り無理矢理我が身を叩いてもらうと、キン、コ~ン。響き渡るは、鐘ふたつ。
 「はい、残念でしたね、鐘ふたつ、合格なりませんでしたっ。おところお名前をどうぞ、またのお越しをお待ちしています。今日のゲストは、森鴎外さんと高木兼寛さんでしたあ。また、らいしゅうっっ!」って、明日も読んでね。

蛇の足跡8足目:う~ん、鐘ふたつ不合格は納得いかない。次は女ののど自慢C賞に挑戦だ!
 「♪つまずいて 傷ついて 泣き叫んでも さわやかな希望の 匂いがする  人はみな 悩みの中 あの鐘を鳴らすのは あなた あなたに逢えて よかった  愛しあう心が 戻って来る  やさしさや いたわりや ふれあう事を 信じたい心が 戻って来る♪」
 もどってぇ~ あなたあああ!! 戻る気があるなら、地下鉄で16分!
 以上「女ののど自慢」C賞に挑戦でした。

 蛇の足跡8足目:トリビアの泉情報。昔むかしあるところのじいさんばあさんが、川からどんぶらこと流れてきた桃を拾いました。二つに切ったら、中からかわいい桃太郎が。
 というのは、文部省が「教育上不適切な部分」を改ざんした真っ赤なうそ。本当の桃太郎は、桃を食べて若返ったじいさんばあさん、たちまち若い頃の「ねぇ、あなた、今夜は燃えたいの」を復活させて、ふたり励んで作った子であったのだ。国定教科書に「うん、おまえ、灰になるまで燃えようぜ」なんて、教育上不適切な表現は許されなかったのである。
 みなさん、旧文部省の教えによれば、子供はメイクラブの結果生まれるんじゃなくて、桃からですよ。桃。お子さんに「ぼく、どこから生まれてきたの」と質問されたら、「桃からに決まっているじゃないか、ハッハッハ」と、正しい教育をいたしましょう。もちろん、おかわいらしいアイコサマも、最新医学の成果によってお生まれになったのではなく、桃から生まれたのである。あっ、また春庭に爆弾が!平和を愛する庭なんですから、爆弾テポドン、ノーサンキュー! 
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