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ぽかぽか春庭「日本にミニがやってきた in 杉野学園衣装博物館」

2024-07-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240725
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩ファッションの夏(4)日本にミニがやってきた in 杉野学園衣装博物館

杉野学園衣装博物館の口上
 昨今「Y2K」ということばを盛んに耳にするようになりました。Y2Kとは若いひとたちの間で流行するファッションの呼称であり、「Year 2000」、すなわち2000年代の流行を取り入れた装いのことを指しています。へそ出しルックや厚底のくつ、アームカバーやルーズソックスなど、平成の装いを特徴づけるアイテムは多々ありますが、なかでも象徴的なのが「ミニスカート」ではないでしょうか。
 平成、令和と流行を繰り返すミニスカートですが、初めてファッション界に登場したのは1960年代のことであり、パリ・モードから大きく離れたロンドンのストリートファッションから生まれたこの装いは世界的に大流行し、1960年代後半の日本でも女性たちの間でミニスカート旋風が吹き荒れました。本展ではミニスカート流行のただ中にドレスメーカー女学院で制作されたミニ丈の装いと共に、日本におけるミニスカートの登場について紹介します。

 Aラインだとか、サックスタイルだとか、ファッションは次々に新しい流れが生まれ、流れ去っていきます。
 夏ははだかでなければよし、冬は寒くなければよし、という方針だった20代のHALが流行に乗ったのが、ミニスカートでした。なんとなれば、スカートを作るにあたり、生地代が安く済んだからです。姉はおしゃれで、アヤ伯母が毎月買っていた「装苑」の付録の型紙を重宝して自分でミシンを踏んで好みの服を作っていました。ミニスカートは生地代半分で済み、姉はせっせと服を作ります。私はそのお下がりを」もらって着ていたので、必然的に70年代はミニを着ることになりました。

 くるぶしまでの長さのロングスカートから解放されて社会進出を始めた女性たちは、より活動的な衣装を求めていました。ミニスカートは、女性の活動をより自由にするファッションと受け取られました。マリー・クワントのストリートファッションは、パリのオートクチュールにも広がり、日本にもミニがやってきました。

 文化学園「装苑」、杉野学園ドレメという、洋裁の2大潮流のうち、我が家はドレメに縁が薄かったのですが、今では文化学園服飾博物館も杉野学園衣装博物館も、ぐるっとパスで入館できるので、よく訪れます。

 ドレメ式洋裁の学校を成功させた杉野芳子も、1960年代のおわりころ、盛んにミニスカートのデザインを発表しました。
 7月24日、内科検診をすませた足で、目黒駅からドレメ通りを通って、杉野衣装博物館に行きました。1階と2階に杉野芳子がデザインし、ドレメの学生たちが仕上げたミニワンピースが並んでいました。


  

 

 

 ミニ衣装に活動性を見出した女性たちは、パンタロンスーツも受け入れました。
 女性ジャーナリストの俵萌子が園遊会に招かれたとき、「パンタロンスーツで出席してもかまわないでしょうか」と、ドレスコードについて宮内庁に問い合わせをして許可された、というエピソードを書いていました。パンタロンは保守的な場面ではまだ正式な衣装と認められていない時代でした。私も、結婚式はともかく、葬式では年配の人が多いのだから、目くじら立てられぬよう、和装でないまでも黒のスカート喪服で参列せよ、というアドバイスを受けたことがあります。50年もたった今、街行く女性の半数以上がパンツ姿で、スカートが少数派になっているのを感じます。
 ミニスカートも見かけますが、ミニの下にレギンスを合わせていることが多い。生足で闊歩しているのは、女子高校生くらいか。

 杉野芳子のミニデザインを眺めながら、時代の変遷にしばし浸りました。
 ドレメ通りは、ドレメ出身の森英恵や島田順子につづきたい学生たちが、行きかっていましたが、服装はごく普通の感じ。人目を奪うような突拍子もない服装は見当たらない。いいけどね。自分は地味な服装でも、人をあっと言わせるデザイン考え付くデザイナーもいることだろうし。
 
<つづく>
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