2014/03/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(6)山手111番館の蝶々さん
山手111番館はJ.E.ラフィン (John Edward Laffin 1890-1971)邸として、1926(大正15)年)に建てられました。アメリカ人建築家、J.H.モーガンの設計で、ベーリックホールと同じく、スペイン風の外観です。
ラフィン一家の物語、調べてわかったことを記録しておきます。
J.E.ラフィンは、港湾関係の陸揚げ会社や両替商を経営する実業家でした。横浜で1890年12月29日に生まれて、1971年5月13日にカリフォルニア(グラナダ・ヒルズ)で死にました。シベリア生まれのマリアLVANOVA(1899 -1967年8月30日)と結婚。現在、山手111番館となっている邸宅は、結婚に際して、父トーマスMラフィンが息子に贈った家です。
ジョン・E・ラフィンの父、トーマスMラフィン(トーマス・メルヴィン・ラフィン Thomas Melvin Laffin 1862-1931)は、アメリカの海軍士官として航行中、艦船修理のために横浜に寄港しました。修理の間、休暇を利用して行った箱根湯本で、運命の出会いが。
ひと目で石井みよとの恋に落ち、日本に残ることを決意しました。
トーマスは1886(明治19)年に日本郵船に入社し、その後独立して、ラフィン商会を設立しました。1990年に長男ジョン・エドワードが誕生し、みよとの間に8人の子女をもうけました。
ジョンの8人の兄弟姉妹のうち、3歳下の妹のエセル・ラフィン・スティルウェル(Ethel Laffin Stillwell 1893年11月1日-1965年8月16日)は、Charles Stillwell と結婚してシアトルで暮らしました。晩年、未亡人となったエセルは、1952年に、生まれ故郷の横浜への帰国を果たし、横浜でなくなりました。
もうひとりの妹、エレノア・ラフィン(Eleanor Laffin 1897-1944年6月26日)は、横浜で47歳でなくなっています。
日米混血のため日本で暮らしにくくなったためと思われますが、エレノアは、太平洋戦争中、スイスのパスポートを取得しようとしました。しかし、それが果たされないうちに、横須賀発の電車に轢かれ、病院に運ばれて2時間後に亡くなったのです。自殺にも思えるのですが、調べはついていません。エレノア死去の知らせは、シアトルに住むエセルのもとに届きました。
戦時中に電車事故で亡くなったエレノアの死は悲劇的でしたが、両親のトーマス・メルヴィン・ラフィンと石井みよの恋は、まさしく「蝶々夫人」のハッピーエンド版です。海軍士官だったトーマスが箱根湯本に遊山に出かけてみよに出会う。トーマスはたちまち恋に落ち、日本で暮らすことを決意。海軍を退職し、日本郵船に入社。仲睦まじく、8人の子供を育てた、、、、。
テーブルや椅子は復元ものの横浜家具かと思いますが、ラフィン一家が仲良く囲んで食事をしたのかと想像される食堂
オペラ『蝶々夫人』の原作短編小説を書いたジョン・ルーサー・ロング(John Luther Long1861 - 1927)は、日本に滞在したことのある姉サラ・ジェーン・コレル((1848-1933)から日本の話を聞きました。サラは、夫の宣教師アーヴィン・ヘンリー・コレル(Dr.A・H・Correll 1851-1926)とともに東京、横浜、長崎で暮らし、布教と教育活動を行いました。ロングは姉から日本の話を聞いて1895年に短編小説として執筆しました。
蝶々夫人のモデルには、シーボルト夫人滝やグラバー夫人ツルなどがあげられていますが、サラの日本滞在期間1891~1895を考えると、ジョンEラフィンが1890年に生まれた時期とぴったり合います。
小説としては、涙の悲劇にしたほうが受けます。
蝶々夫人は息子の将来に希望を託して自殺しますが、トーマスMラフィンと結ばれた石井みよは、幸福な「異人さんの妻」であったのでしょう。
ただ、戦時下にアメリカ国籍であることに不安を感じたエレノアの死は、電車事故という痛ましいものだっただけに、物語の最後を悲しい色にしています。
今、山手111番館は、J.H.モーガンが腕を振るったすてきな洋館として、私たちを迎えてくれます。港の見える丘公園に建つ白いスペイン風の洋館に、ラフィン一家はどんな風に暮らしていたのでしょうか。
ジョン・E・ラフィンは1971年にカルフォルニアで亡くなったとのことですが、家族子孫は日本にいるのでしょうか。この次山手111番館を訪れることがあれば、もっとくわしい資料を探してみます。
私は仕事があって行くことができませんが、3月11日には、日頃は非公開の2階までガイドが案内してくれるそうです。お近くの方、山手111番館に行って、2階がどうだったか、リポートしてくださいませ。く~、見たかったけれど、教科書編集の仕事が入っている日でした。
<つづく>