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ぽかぽか春庭「明治天皇御製」

2023-03-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230304
ぽかぽか春庭アーカイブス>2003年のコラム(め)明治天皇御製

 2003年、最初のコラム「あ~わ作者めぐり」を再録しています。
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 エンペラーむつひと御製
 うつせみの代々木の里のなりどころ花の梢も苔むしにけり
 この朝けひとむらさめやふりつらむ樅のわかばに露のたまれる
 さしなみのに通ふ道ならぬまがきの竹のひまの見ゆるは
 えびかづら色づきそめぬ山梨の里の秋かぜ寒くなるらし

 11月3日は文化の日。もろびとこぞりて文化のありがたさを満喫したであろうか。
 文化の日が、昔は明治節、もっと昔は天長節であったということを、休みの前に留学生に教えてやった。「日本事情」授業の一環である。

 留学生たちは、みなエンペラが大好き。切手やお札の顔に印刷されていないのを残念がったり、チヨダパレスに会いに行ったり。
 防弾ガラスの中の顔は、よく見えなかったけど「エンペラは、私たちに手をふってあげました」と、感想を述べたりする。ほら、そこは「手をふってあげました、じゃなくて、手をふってくれました、ですよ。あげるもらうくれるを勉強したでしょ」

 日本語学習には、難しい面も多々あるけれど、にほんご、ことば、言葉。文化の基盤は「ことば」である。「ことば」なくして文化無し。一方、文化住宅なくしてプリンスなし。
 西武沿線文化住宅の成功なくして、旧皇族華族の屋敷を買いたたいてプリンスホテルに仕立て上げた堤一族の成功なし。プリンスホテルなくば、わがプリンスは、未来のエンプレスミッチーとテニスしたあと、語り合う場がなかったじゃないか。

 エンプレス翻訳による、まどみちお作「ぞうさん」などを朗読して留学生に聞かせたりすると、「英文学者皇后」に対して尊敬の念いや増して、ミッチーと言えば及川光博しか知らない今時のコソコソしたワカイモンよりよほど「わがコーソコーソ」の民草である。
 「なぜエンペラが存在する必要があるのか」と、食い下がられたときは、「ディズニーランドにミッキーマウスがいるでしょう。ピューロランドにキティちゃん。ニッポンにはエンペラエンプレス。イメージキャラクターです」と「憲法第一条・国民統合の象徴」について説明する。
 (あの、これは留学生にわかりやすくするための、メタファーレトリックというヤツですからね。決して私は、大切な象徴とミッキーマウスを、同列にしているわけじゃ、ありませんって!ウェブログハウス春庭にも、春庭別棟にも、爆弾投げ込みなどノーサンキュー)
 
 我が家の文化。
(2003年の野球)星野監督お疲れさま。阪神が勝ったらイトーヨーカ堂セールに行くことにしていましたが、残念でしたね。ダイエー優勝おめでとう。王監督&選手のみなさん、優勝セールありがとう。
 半年間「買わなくちゃ、でも、お金ないし」と買えずにいた圧力鍋をようやく買うことができた。半額セールで5000円だったから。

 半額になる前は1万円。それくらいの買い物、半年もウジウジ迷っていないで、さっさと買えばいいのに、と、今思ったあなた。王監督のおかげで、5000円の買い物をようやく成し遂げた底辺生活者の喜びを理解せずに、日本の野球文化を語るなかれ、、、、ってこともないです。はい、うちが貧乏なだけ。

 貧乏な我が家の、食生活を支えてきたのは、電子レンジ、圧力鍋と文化鍋である。電子レンジでチンと下ごしらえ、圧力鍋で安いすじ肉もなんとか食べられるように加工し、文化鍋で仕上げる。
 文化お召を着て、文化住宅に住み、文化包丁文化鍋で料理する、かように文化はありがたきかな。(いまどき、文化お召なんて着てる人いないが。) 

 子供の頃から知ったかぶりの蘊蓄語りが大好き。偉そうに仕入れたばかりの生兵法を披露して、「子供のくせして、得意そうに大人に言うんじゃないよ」「こまっちゃくれた子だね」と言われ続けた。「知ったかぶりのもの知らず」というのが、私の本性なので、もうこの年になって、今更直しようもない。

 エラソーに蘊蓄垂れたがるのが、子どものころからの習い性となれば、キョーヨーがあまりに詰まっているので、ときどき放出して外に掻き出さないとお通じに悪いのだ。削除したメールなんかも溜まってくると重くなるから、ごみ箱カラにしなけりゃならないでしょ。

 そこでまた蘊蓄放出。
 10月10日の体育の日と11月3日の文化の日はちょうどいいセットであるが、4月29日のみどりの日とセットにすべき赤の日がないのは、残念である。だが、将来は私の誕生日が赤の日になるだろう、などと冗談をいうと「早く祝日が増えるといいですねぇ」と、留学生から本気で期待された。

 私見では、各人の誕生日は「赤丸国民の祝日」にして、休んでいいことにすべきだと思う。11月3日のエンペラむつひと誕生日と4月29日のエンペラひろひと誕生日が記念すべき日であるならば、私の誕生日だってあなたの誕生日だって、等しく記念すべきだと思うのだ。つまるところ、休みたい。
 
 カルチュラル・スタディ(文化研究)という学問の分野があって、「近代国家論」や植民地問題ポストコロニアル、サブカルチャー研究などを含む。私は1995年からこの分野に指先を突っ込み、つまみ食いを楽しんでいる。
 足から頭までどっぷり突っこんだ日本語文法研究や、足を踏みならし腰をゆすって学んだ芸能人類学などに比べると、ちょっと指先で舐めてみた、くらいのものだが、ものの考え方とらえ方を広げるのにとても役に立った。

 近代国家成立以後(日本では明治維新以後ですな)いかにして国民を国家のもとに取り込んでいくかの手練手管が、カルチュラルスタディ近代国家成立論の研究成果として発表されてきた。
 文化祭も運動会も卒業式も行啓御幸も、博覧会も百貨店も、国語の制定も教育勅語も、みんな「ぬし様まいる」の起請文よろしく、上御一人への熱愛をかき立てていったのだ。
 横町のハッツァンくまさん達は、起請の「ぬし様ひとりを思うておりいすぇ」なんていう殺し文句にころりと参って、有り金寄せ集めて吉原へ。我が心正しき臣民どもも、村の衆寄り集まって日清日露へ満州へ。

 太夫と添いとげ「実(ジツ)」ある恋となるハッツァンなどいるわけがないし、勝ってくるぞと勇ましく誓って国をでたからに、上御一人から実あるなさけを受けたクマサンもいない。汝臣民は餓えに泣き無差別空襲に逃げまどい、とどのつまりは「耐えがたきを耐え、忍びがたきをしのぶ」結果となったのだった。

 今年は1943年学徒動員から60年であるという。雨中神宮球場で行進する昔のニュース映像を見るたびに、きょうびの学生、留学生にとっての平和のありがたさを噛みしめる。

 日本語学習には、たいへんな面も多々あるけれど、にほんご、ことば、言葉。文化の基盤は「ことば」である。「ことば」なくして文化無し。一方、文化住宅なくしてプリンスなし。

 西武沿線文化住宅の成功なくして、旧皇族華族の屋敷を買いたたいてプリンスホテルに仕立て上げた堤一族の成功なし。プリンスホテルなくば、わがプリンスは、未来のエンプレスミッチーとテニスしたあと、語り合う場がなかったじゃないか。

 エンプレス翻訳による、まどみちお作「ぞうさん」などを朗読して留学生に聞かせたりすると、「英文学者皇后」に対して尊敬の念いや増して、ミッチーと言えば及川光博しか知らない今時のコソコソしたワカイモンよりよほど「わがコーソコーソ」の民草である


 留学生に「なぜエンペラが存在する必要があるのか」と、食い下がられたときは、「ディズニーランドにミッキーマウスがいるでしょう。ピューロランドにキティちゃん。ニッポンにはエンペラエンプレス。イメージキャラクターです」と「憲法第一条・国民統合の象徴」について説明する。
 (あの、これは留学生にわかりやすくするための、メタファーレトリックというヤツですからね。決して私は、大切な象徴とミッキーマウスを、同列にしているわけじゃ、ありませんって!ウェブログハウス春庭にも、春庭別棟にも、爆弾投げ込みなどノーサンキュー

 
 
室町戦国の時代、世は荒れ果て、京の御所では食べるものに事欠く御代さえあり、御所女房が道行く人の袖引いた、という記録もあるそうな。そんな時代を経てもなお、有効利用方法が復活してきたシステムである。たぶん我々の体内にはイメージ・キャラクターを必要とする遺伝子が組み込まれているのだろう。

 それにしても、世襲議員に反対。大橋巨泉が主張したように「親が議員であった候補者は必ず親の地盤以外の県から出馬すること」という法律でも定めない限り、三世四世と続いていくのかも知れない。私は反対です。世襲。

 和歌の伝統を世襲してきた冷泉家の人じゃなくてもよい短歌が作れる。観世今春の家に生まれなかった人でも、能のシテが立派につとまる。文化を継承するにあたって、世襲に利点もあるとはいえど、なくてもよし。

<明治天皇御製後半へつづく>
 世襲の宝刀友切丸がなくたって、うちの文化包丁、よく切れます。


☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.39
(め)明治天皇『明治天皇御集昭憲皇太后御集』(明治神宮編集、発行者角川春樹。非売品、とあるが、私は古本屋で300円で買った)

 メール足跡で、自分の書いた文章に反響をもらうとうれしいが、教え子留学生から「先生に教えてもらってよかった」なんぞと言われるのも、教師冥利につきる。自慢じゃないが、ワタクシ教師としては留学生に評判がよろしいのである。
 まだ「はじめましてどうぞよろしく」の口もまわらない学生から「You are my best teacher.」と言われることもよくあり、1年の授業や半年のコースを修了した学生からの謝辞は、並べて売り出したいくらい。誰も買ってくれはしないが。
 ま、だれも誉めちゃくれないから、せめて自分で自分を誉めているのである。ただし、我が業界では、いくら学生に評判上々の教え上手でも、何の評価もされない。研究論文何本出した、の世界なのだ。

 誰の評価をもとめるでもなく、せっせと言語文化継承につとめてきた世襲の方々がいる。年のはじめのためしとて、終わりなき世を言祝ぐ歌会始のときは、テレビ中継で、もったいなくもかたじけなくも、御製御歌に触れる機会がありまするが、歌会のときだけじゃなく、伝統世襲の方々は勤勤勉勉と毎日歌を詠んでいる。

 短歌俳句で飯を食っている職業歌人俳人ならで、毎日欠かさず作品作る根性のあるアマチュア歌人俳人がどれほどいようか。継続は力なり。量が質を高めることもある。

 継続大量生産の中、エンペラひろひとの作品は、丸谷才一などが「帝王調の気風おおらかな傑作が多い」と誉めているし、エンプレスみちこの作品も、子を思う母の、愛情あふれる三十一文字に思わず感動の涙こぼるる。るるルル涙。

 文化のお手本たる「エンペラむつひと」は、61年の生涯になんと十万首の歌を詠んだ。一般社会のアマチュア作品なら「月次(つきなみ)桂園派」と、いっしょくたに束ねられるような歌も含まれているのだが、それにしても十万は、はんぱじゃない。来る日も来る日も、毎日二十首を詠み上げないと、60年で十万に達しない。

 俳句短歌を趣味でやっている人にはわかるだろう。一日二十首、二十句仕上げるのがどれほどたいへんか。日清日露にみこころ安からず、の日々も、欠かさず作っているこの勤勉さ。言霊のさきわう国であるからして、ことばによってさきわっておかないと、この国がたちいかなくなる、という悲壮な決意でもなければ、毎日毎日は続かない。ことばによってさきわう、というのが、万世一系伝統世襲の最も大事な役割であったと、私は思っている。
 日記毎日更新している方、ときどき休みたくなりませんか?私は11月から「土日祝日その他臨時休業あり」に、いたしました。
 
 近代歌人の中でも北原白秋、斎藤茂吉などは、エンペラむつひと御製に対して最大級の賛辞を捧げており、確かに十万も詠めば、中には傑作の一首二首生まれないはずはない。

 無芸大食の私には、短歌批評の芸もないのが当然で、古今新古今勅撰集の昔も知らず、近代短歌の他の歌人の作に比べてどうこうとも言えないのだが、とにかく、「アマチュア歌人で、一日二十首」という一点だけでも、評価するにやぶさかではない。
 くやしかったら、60年で十万首詠んでごらんあそばせ。
 ほら、雲の上人の話をしておりますれば、がさつな私のことばづかいまで、上品になってくるではございませんか。おホホホ、、、。

 11月の声きけば、里の秋かぜ寒くなるらし。皆様風邪にご用心あそばされまして、ごきげんうるわしゅう、おかわりなきよう、おすごしくださりませ。かしこみかしこみたてまつりて、かしこ。

 かしこみ奉って、偽有栖川宮家の結婚式に参列された方々、ご苦労様でありました。雲の上を敬愛する心がありあまり、かくも世の人々を笑わせてくれるまで、こけにされた皆様の、耐えがたきを耐え忍びがたきを忍ばれるお姿、必ずや御稜威、オオミココロは愛で賜い、そのうち、大勲位などもらえるかもしれません。がんばってね。
 不思議の国のアリス皮のみや家の三月兎より

 蛇の足跡五足目:三日休んで再開の「おいおい」である。「書いてある言葉、イミワカンネー」というご批判に答えて、本日は思い切って「脚注なしでは、意味不明」な文章にしてみた。文化の日だもんね。キョーヨー掻き出し炸裂である。
 イミワカンネーとお嘆きのあなた、今時、辞書百科事典が手許になくたって、Google検索すれば、どんな言葉もたちどころにイミがわかるのである。グーグルせよ。
(1グループ動詞:ぐーぐる。活用:ぐーぐらない、ぐーぐった、ぐーぐる時、ぐーぐる、ぐーぐれば、ぐーぐれ 3グループ動詞:グーグルする。活用、ぐーぐるしない、ぐーぐるした、ぐーぐる時、ぐーぐるすれば、ぐーぐるしろ、ぐーぐるせよ)
 グーグルいやなら辞書を買おう。1万円もあれば、けっこうすぐれた機能の電子辞書が手に入る。私だってやっとの思いで圧力鍋を買ったのだ、あなたも電子辞書を買いなされ。

わかんなかったらグーグルしてほしいキーワードリスト。
その1:年寄り向けリスト 及川光博、ピューロランドのキティちゃん、イメージキャラクター、サブカルチャー
その2:若者むけリスト 文化住宅、文化鍋、文化包丁 山上の垂訓、天長節、アカ(昔特高がマークしたという意味で)、行啓御幸、教育勅語(我が皇祖皇宗)、吉原、太夫、起請文、上御一人、終戦詔勅(耐えがたきを耐え)、学徒動員、冷泉家、観世今春、宝刀友切丸、西武の堤、旧皇族邸宅買収のプリンスホテル

 宝刀友切丸のなんたるかを知らんでも、今日のオチは笑ってアゲルと思うのだが。もとい、笑ってもらえる、の間違いでした。「授受動詞文」は、教える側にとっても最初の関門。にほんごは、むずかしいのよぉ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
20230304

<つづく>
 
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ぽかぽか春庭「向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』」

2023-03-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230302
ぽかぽか春庭アーカイヴ(む)向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』

 2003年のコラムを再掲載しています

at 2003 10/31 07:20
春庭千日千冊 今日の一冊No.37(む)向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』

 向田邦子のテレビドラマを見始めたのは『七人の孫』からだと思う。母が森繁久弥ファンで、私はいしだあゆみが好きだったから見ていた。
 『寺内貫太郎一家』は見ていない。私が中学校の教師になり、テレビを見るどころではなく、朝8時から夜9時10時まで学校で仕事を続けても、片づかないという働き方をしていたころの作品だったから、視聴率の高い番組ではあったけれど、まったく見たことがなかった。
 『あ、うん』も最初の放映のとき、私はケニアにいた。リアルタイムで放映時に見たものは『隣の女』くらいかもしれない。

 放送脚本家として長い間仕事を続けてきた向田邦子が小説家として直木賞を受賞したのが1980年。その翌年には飛行機事故で亡くなってしまった。台湾取材に向かったおりの事故による。向田邦子51歳。直木賞を受賞して1年後の事故死であった。
 もっともっと書き続けて欲しい作家のひとりだったのに。1981年、51歳で台湾の空に消えてしまったことがなんとしても惜しまれる。

 文体が大好きな作家であったけれど、私にとって、向田邦子は「楽しく読み散らす読者」として以上に関わってきた人。自分の論文執筆にとって、なくてはならない人だった。
 テレビドラマをリアルタイムで見た作品は少なかったが、他動詞文用例収集のため、向田のドラマシナリオをせっせと読んだ。

 本当の会話文ではないものの、小説の文から拾うより、はるかにリアル会話文に近い用例を採集できる。
 ストーリーを読むのは邪道。ひたすら自分の論文に使える用例を採集するのが目的であるのに、ついついストーリーにひかれて読みふけり、用例採集がおろそかになった。

 日本語文法などということばを読むと、頭痛吐き気めまいなど催す方、ごめんなさいね。
 古典文法の「から、かり、し、き、けれ、かれ」とか「らむ、らむ、らめ」などという活用をひたすら暗記させられるのが文法だと思っている方々、文法と聞くだけでひきつけが起きるのだという。
 「て、て、つ、つる、つれ、てよ」あれ、こちらも引きつってきた。

 「再帰的他動詞文」の用例として向田のシナリオから拾った文例
 「そうよ、綱子ねえちゃん、こないだ差し歯あげ餅でガツーンって、欠いたものね」
 向田の『阿修羅のごとく』の中にでてくるセリフである。

 三田村家の長女綱子に対して妹が言う台詞。この台詞が映画版シナリオでもでてくるのかどうか、森田芳光監督、綱子を大竹しのぶが演じる映画を見てみようと思っている。

 ドラマ『阿修羅のごとく』もエッセイ『霊長類ヒト科動物図鑑』も、向田の人を見る目の確かさが光っている作品。「ヒト科動物図鑑」、なんど読み返しても、内容もちゃんと知っていて読むのに、読むたび思わずくすっと笑ってしまう。
 人はまことにさまざまな姿態生態を見せる生き物であるが、それにしても、向田の人間観察の鋭さとあざやかな描写力。どの短編を読んでも、「そうそう、その通り」と、うなづきながら、読む。

 地図をいくら見ても必ずまよってしまい、道を間違えずに目的地へ到着することがない。数字に弱く計算ができない、などなど、ぜったいにこれは私の数々の失敗を知って書いたにちがいない、とさえ思ってしまう。
 私は今月もまた、電車の中に傘を置き忘れた。自分の欠陥ぶりをなげくとき、向田のエッセイを思い出せば、「こういうおっちょこちょいもまた、人間なんだよね」と安心する。

 霊長類ヒト科バンザイ!人は、こんなにもさまざまな顔をみせ、さまざまな生態を示して生きている。

at 2003 10/31 07:20 編集霊長類ヒト科さまざま
 さまざまな国から日本にやってきた留学生を相手にしてきました。毎日が「異文化交流。
 世界には多様な文化があり、そのどれもが大切な人類の遺産なのだ、ということを毎日感じ取れる仕事ができて、本当によかったと思っている。

 「異文化にふれる」というのは、外交官や日本語教師でなくとも、人が毎日の生活のなかで、あたりまえのように成し遂げていることなのだ。
 「自分とは違う考え方、違う感じ方の人に会う」というのは、日常生活でだれでも体験していることだ。異文化、というのは、何も外国の文化のことだけではない。

 子供を公園に連れて行ったら、ボスママが仕切っている公園で、楽しめなかった、というのも、「自分とは異なるカテゴリーの考え方」に触れた体験であるし、嫁と姑が漬け物の味でひともんちゃく起こすのも、地方ごと家ごとの異なった文化の摩擦といえるだろう。

 文化というと、高尚な芸術や建物遺跡のことと思う人が多いが、そうではない。「文化」というのは「人の暮らし方、生き方すべての総称」であるのだ。

 日本語教授法のクラスで、最初に異文化理解について日本人学生と話すときによく出す例。
 日本で「汁かけ飯」をつくる。「はい、こちらが飯茶碗。こっちがみそ汁。ふたつの碗が目の前にあります。汁かけ飯を作るジェスチャーをしてください」たいていの学生は、飯茶碗を下に置き、みそ汁のお椀を持ち上げてジャーとごはんにかけるジェスチャー。

 「韓国では、こうやります。スープのどんぶりとご飯のどんぶりがあったら、スープの椀を下において、その中にご飯を入れます。みそ汁と韓国のスープの味の違いは考えずに、スープの中にご飯をいれるのと、ご飯に汁をかけるのと、どっちがうまいと思う?」
 学生は首を傾げ、分らない。
 それはそうだ。どちらも美味い。汁かけ飯の作り方、食文化が異なるだけで、どう作ろうと美味いものは美味い。

 さらに「ご飯を食べるジェスチャーをしてみて」と言うと、皆いっせいにご飯茶碗を左手に持って、右手の箸を動かして食べるまね。「お茶碗を下においたまま箸をつっこんだら、お行儀が悪いっておこられたでしょ。
 でも、韓国ではご飯のお椀は下に置いたままの方がお行儀がいいんだって。どっちのご飯が美味しいと思う?もうわかったでしょ。どっちも美味しいの。ただ、食べ方の食文化が違うだけ」

 また「パプアニューギニアの服飾文化の紹介」をすることもある。
 パプア島の男性の伝統的な衣装。写真を見せると女子学生はくすっと笑うこともあり、男子学生はちょっと恥ずかしそうに女子学生の顔をうかがう。
 パプアの男性の衣装というのは、ペニスケースという筒で大事なところを覆い、あとは裸にペイント、頭に羽根飾り。

 次に大相撲の取り組みの写真。がっぷり四つに組んだ尻が大写しになっている。
 「大相撲を見た外国の人が、こんな野蛮な服装で人前に尻を出すなんて、恥を知れ、と言ったそうです。どう思いますか」
 「恥じゃ、ありません。これが相撲の伝統なんだから、尻見せたっていいじゃないですか」
 「そうだよね、でも、さっき皆は、ペニスケース見て恥ずかしそうだったよ」

 このへんから、学生にも、文化とは「食べ物、服装、歩き方から、人と人がどれくらい接近して話すか、まで、生まれてから死ぬまでの人の生活の仕方暮らし方生き方の総称」であることがわかってくる。
 慣れた生活のしかた、身近に見慣れたものには違和感がなく、見知らぬものには違和感や拒否感が生まれること。

 しかし、地球上のすべての人間の文化は等価であり、どのような生活の仕方、ものの考え方があっても、自己中心的なものの見方で判断してはいけないことを分って欲しいのだ。

 イスラム教では4人まで正妻としてめとることができる。これを一夫一婦制度の側から、非難しても(あるいは羨んでも)意味がない。
 また、イスラムのラマダン(断食)の時期。夜明けのお祈りのときから、日没までの間、食べることも飲むこともできないのを、「健康によくない」などとトンチンカンな批判をしても仕方がない。

ジェンダーやセクシャリティが、個々人によって多様であるのと同じく、それぞれの文化にそれぞれの暮らしがある。
 霊長類ヒト科ホモサピエンスは、きわめて多様なバリエーションを持った動物なのだ。
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20230302
 自分が暮らしてきた生活様式、自分の理解できる範囲でしか物事を考えられない人はまだまだ多いです。夫婦別姓や同性婚によって社会が変わってしまうと考えて法案成立に異をとなえる人に、「大丈夫、日本社会は同性婚や夫婦別姓で変わってしまうようなヤワなものじゃありません」と、わかってもらうことはむずかしいことなんでしょうね。もう何十年もこの議論が続いているのですから。

<つづく>
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