ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

栃木県足利市、西場の百観音です!!

2018-12-09 06:38:29 | 遺跡・史跡
西場地区は、足利市役所の東約8kmのところ

正月登山んでおじゃました大小山の登り口です

(大小山のブログコメントに、Aちゃんさんから・・・

「西場百観音も紹介してください」と有りましたので

この度、ようやく紹介できることになりました)

県道67号線から県道175号線を北へ

大小山の「大小」の文字が見えて来ます

妙義山の東稜線の先端の丘の上に百観音が有ります

丘の東側の道路脇に車を止めさせて頂きました


大小山です

この丘の上に百観音があります

丘の下の通りです

案内板です






丘の下の通り脇には石塔等が並びます

足利市の重要文化財です

説明版です
  足利市重要文化財(考古資料)
 石造 勢至菩薩供養塔 一基
  総高190.0cm、坐像の高さ58.0cm、塔身
 の高さ80.0cm、光背をつけた勢至菩薩坐像、蓮座
 、敷茄子、塔身から構成され、保存状 態は良好でうす
 。銘文から「寛政8年」(1796)「西場村寿福山勧
 行寺 願主 大阿闍梨円海」の造立になることが判りま
 す。勧行寺の存在を示す資料としても貴重です。

 石造 廻国供養塔 一基
  総高197.0cm、塔身の高さ172.0cm、幅
 36.0cm、台石の高さ25.0cmです。塔身は方
 柱形状で、台石上に直立しています。銘によれば本塔は
 「西場村願主 行者 源蔵」の日本二返廻国を成し遂げ
 た記念碑として、文政10年(1827)に建立された
 ものです。
  昭和57年3月15日指定
          足利市教育委員会

庚申墓を中心とした石塔群です

  民俗文化財
 西場の百観音
  この百観音は、観音山の南斜面勘行寺(廃寺)跡にあ
 る石造観世音菩薩像百体で、前列に西国33番、中列に
 坂東33番、後列に秩父34番の霊場の石仏が南面して
 三段に整然と並んでいる。
  百体の観音像は全体に同じ規模に彫刻され。船形光背
 を備え像要も美しく見事である。
  石仏の造立年代は、観音像の台座七基に記された紀年
 銘から寛政2年(1790)から同10年(1789)
 にわたっている。
  西国、坂東、秩父の霊場巡礼の功徳を分かちあおうと
 した勘行寺僧侶の布教姿勢とそれに呼応した村人の信仰
 の姿をしるすことのできる貴重な文化財と言える。
  (昭和62年5月20日 足利市指定)
 平成2年3月
    財団法人足利市民文化財団
    足利市教育委員会

丘に上がりましょう

御堂が有ります

 勧行寺跡と百観音の説明版です

更に上へ行きましょう

百観音の説明版です、下に有った説明版とほぼ同じ内容のものです

文化財標柱です

前列

中列

後列です

実は、全100体の観音像を1体ずつ撮影しましたが、全てを紹介するのは後日にしたいと思います

では、次へ行きましょう
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新潟県阿賀町、国指定史跡「室谷洞窟」です!!

2018-12-09 03:32:57 | 遺跡・史跡
室谷地区は、阿賀町役場の南西約18kmのところ

国道49号線から県道227号線を南へ

県道の終点、林道の始まるところの

北側岩壁に室谷洞窟が在ります

県道終点の広場に車を止めさせて頂きました


県道の終点です

会越街道 林道本名室谷線(38、979m)の終点標柱です

すぐ右手に洞窟の口が開いています

説明版です
 国指定文化財 史跡
  室谷洞窟
    指定 昭和55年2月4日
 この史跡は阿賀野川支流室谷川(現常浪川)の側方
浸食によって形成された洞窟である。洞窟内の堆積層
は15層に及び縄文時代草創期(約9千年前)から早
期への文化の推移を整然と示しており堆積層の下部か
らは草創期の特異な方形平底土器や石鏃のほか、多く
の獣骨片の抉出は、山岳性洞穴の生活実態と動物帯の
分布を明らかにするものである。
 さらに半環状配石に囲まれて成人女性の人骨が屈葬
の形で発見され、縄文前期の埋葬形式が確認されてい
る。
 このように縄文時代の生活を知るうえで極めて重要
な遺跡である。
                 文化庁
                 阿賀町県教育委員会





深さは有りませんが、雨風を防げるだけには十分なものだったようです

では、次へ行きましょう

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新潟県上越市、今泉城跡です!!

2018-07-03 12:29:17 | 遺跡・史跡
今泉地区は、上越市役所の南約7kmのところ

JR北陸新幹線じょうえゆみょうこう駅の北東側です

県道579号線の東側に大和神社が鎮座します

神社の周りには駐車場が無いので

新幹線駅前の有料駐車場を利用しました

大和神社から願清寺までの間が

今泉城跡だそうです


大和神社の参道を入ると

説明版が有ります
 今泉城跡
  今泉城の中心部は現在の
 大和神社周辺と見られてい
 ます。願清寺裏から大和神
 社境内南側に土塁遺構の部
 分が残り、これに沿って堀
 の跡があったと伝えられて
 います。
  今泉周辺は今泉郷と呼ば
 れ、南北朝時代に南朝方の
 村上義信・隆義父子が居城
 を構えていました。その後
 、上杉謙信の跡目を争った
 「御館の乱」に敗れた上杉
 影虎が、御館から鮫ヶ尾城
 へ逃れる途中に今泉城に立
 ち寄っています。
  なお、神社境内には南北
 朝から戦国時代にかけての
 石仏があります。また、周
 辺の字名に、立(館)の内
 ・立の腰・馬場前・堀の西
 ・乙館など館の存在を意味
 する地名が残っています。
  平成3年  上越市
 




境内南側には土塁が残っています

南側の道路を東から見ました

同じ道路を西側から

大和神社の大ケヤキの根元は西側の土塁の上でした

説明版です
 大和神社と今泉城跡
 


では、北東側へ移動しましょう


東向きの山門です

親鸞聖人像です

鐘楼です

本堂も東向です

北側の寺の敷地です、本堂脇と墓地との間に段差が見られます

説明版に有った寺裏の高地でしょうか

では、次へ行きましょう
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長野県松本市、波多若澤寺跡です!!

2018-05-26 15:02:13 | 遺跡・史跡
若澤寺跡は、松本市役所の西南西約13kmのところ

波多神社前から西へ家並みの中を山の中に向かいます

白山(標高1387m)の北東山麓です



この分かれ道を右へ約1,5kmのところです

丁目石10丁目は下の遊歩道にあるようです

祠の脇を更に登ります

間もなく林道はゲートで行き止まりになります

はた「歴史の遊歩道」案内図です

若澤寺跡入口です

説明版が有ります
  松本市特別史跡
     若澤寺跡
    所在地   松本市波多9103
    所有者   水沢山共有林組合 ほか
    指定年月日 平成23年3月22日
  指定内容
   若澤寺は、山号を慈眼山あるいは水沢山といい、新義真言宗
  京都智積院の寺院で、江戸時代には広大な伽藍が整備されて多
  くの人々が訪れ、「信濃日光」と呼ばれていた。しかし、明治
  初年の廃仏毀釈により廃寺となり、多くの建物は取り壊された
  り、移築された。現在寺跡に残っているのは、田村堂、金堂、
  中堂、護摩堂、方丈の石垣と一部の礎石だけだが、その規模の
  大きさは賑わった時代を彷彿とさせる。
   若澤寺は、室町時代に2kmほど山中に入った元寺場から水
  沢谷の現在地に下りたと伝えられ、戦国時代から江戸時代初期
  には、武田勝頼や小笠原氏により寺領を安堵された。江戸時代
  後期の文化年間(1804~17)に、「若澤寺一山之絵図」
  に描かれている伽藍ができあがったといわれている。
    平成24年3月   松本市教育委員会


ここを登って行きます


方丈・護摩堂跡です?

草花が咲きほこる中を進みます


こちらが方丈跡のようです

礎石が残っています

護摩堂跡です、大きな柱礎石が並んでいます


石垣が続きます


若澤寺絵図です

中堂救世殿跡です

水澤観世音霊場の石碑が立っています

石垣沿いの道を上へ行きます

金堂跡です

もう一段上にも郭が有ります



宝篋印塔の台石です

隣の石には仏託功徳経白が刻まれています

田村堂・宝篋印塔跡です

方丈や護摩道跡を見下ろしました

若澤寺跡の山側斜面上に石塔が並びます

石塔から降りて来ました、中堂救世殿跡です

では、波多山城跡へ行きましょう

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埼玉県富士見市、諏訪氷川神社と雲居の滝です!!

2018-01-06 10:19:51 | 遺跡・史跡
諏訪地区は、富士見市役所のすぐ南の地区です






諏訪二丁目、諏訪神社の北側に氷川神社が有ります


参道を進みましょう

参道の左側のイチョウです

富士見市指定保存樹木第11号です

参道右側のイチョウです

狛犬です

手水舎です

神楽殿です

拝殿です

本殿覆い屋です

境内社です


本殿裏側のイチョウです

保存樹木第10号です

参道東側の雲居の瀧え行きましょう

一段下の谷間の広場です

弁財天です

北側に水が流れていきます

足元に湧水がありました

では、次へ行きましょう
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長野県飯田市、上村御池山隕石クレーターです!!

2017-09-09 07:04:08 | 遺跡・史跡
御池山隕石クレーターは、飯田市役所の南東約14kmのところ

赤石尾根上を走る広域基幹林道南アルプスエコーラインの頂上付近

御池山(標高1905m)の東斜面に在ります

南側のエコーライン入口の下栗の里から更に登りが続きます

約10km登って御池山の東の出たところで

日本で唯一御池山クレーターの案内板が有ります

切り立った岩があります

ほぼクレーターの縁に沿うように林道が走っています

クレーターの端の案内板です

展望台入り口に案内版が有ります
   日本初!「御池山」隕石クレーター総合案内板
     御池山んせきクレーターは、直径約900m、2万~3万年前に直径約45mの
    小惑星が衝突してできたものと推測されています。もともと地形が急な斜面にクレ
    ーターができたために、侵食して崩れた部分が多く、残っている部分は約40%で
    すが、御池山山頂の尾根沿いに半円形の地形が残っている。日本初の自然科学遺産
    です。
     いん石クレーターは、宇宙から流れ星となって落下する小惑星・すい星などが燃
    えつきずに、地上に衝突した際にできたいん石孔です。この御池山いん石クレータ
    ーができた約2万~3万年前地球は、氷河期の終わり頃、日本列島も中国大陸とつ
    ながっていていて、ナウマンゾウが棲息していた時代と見られます。
     御池山遊歩道沿い
       クレーターの縁を歩きながら御池山山頂までのハイキングが楽しめます。
       片道1.5km、往復1時間半
     エコーライン沿い
       クレーターによってできた特徴ある地形を見ることができます。

                          平成16年  飯田市

広い駐車場ですが、雲が出てきています

クレータ北側縁の山が見えます

この先がクレーターのようですが、ガスがかかって見えなくなってしまいました

では、次へ行きましょう 
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福島県会津坂下町、国指定史跡亀ヶ森・鎮守森古墳です!!

2017-08-15 04:43:03 | 遺跡・史跡
亀ヶ森古墳は、会津坂下町役場の北約4kmのところ

県道21号線を北へ、阿賀川を渡る会青橋の手前を西に入って間もなく


道路沿いに案内板が有ります

まず亀ヶ森古墳に行って見ましょう

亀ヶ森古墳です

会津32番観音札所です

説明版です
   史蹟亀ヶ森・鎮守森古墳
    国史跡指定 昭和51年5月6日
    指定面積 31110.29㎡
     亀ヶ森古墳は、墳丘の全長が約127mでm、東北第2の規模を誇る
    前方後円墳です。後円部は三段築成で、葺石がみられます。出土した埴
    輪から、4世紀後半の築造と考えられています。
     鎮守森古墳は、墳丘の全長が約55mの前方後方墳です。墳丘とほぼ
    相似形の周堀があるのが確認されました。出土した二重口縁壺から、4
    世紀中頃の築造と考えられています。
     町では、古墳の恒久的保存と郷土学習の場として史跡公園整備をめざ
    して、史蹟の公有化事業を進めています。
                 会津坂下町教育委員会

取材日は、地区の方々が草刈を行なっていましたので、墳丘上の取材は遠慮しました

亀ヶ盛古墳まえから見た鎮守森古墳です

南側の墳丘入口です

西側から見ました

では、次へ行きましょう
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福島県只見町、叶津番所跡と五十嵐家住宅です!!

2017-08-06 20:45:16 | 遺跡・史跡
叶津番所は、只見町役場の北約3kmのところ

国道252号線と国道289号線の交差点の所に在ります

交差点の所をみ南に入ると正面に叶津番所の建物長谷部家住宅があります

敷地内に車を止めさせて頂きました


正面に建物が有ります

長谷部家住宅と成っています

東側から見ました

西側には蔵の壁に描かれた眼が睨んでいます

案内板です
   旧五十嵐家住宅
     ・国指定重要文化財 昭和47年5月15日指定
     ・所在地 只見町大字叶津字居平437番地
     ・所有者 只見町
    旧五十嵐家住宅は福島県内の古民家では最も古いもので、昭和47年重要文化財の指定を
   受けました。翌48年只見町は、本住宅を五十嵐家から譲り受け、只見町字上町からこの地
   に移転し保存しています。
    この住宅は、享保3年(1718)4月に滝口大作という人が建てたことが移築修理の際
   の墨書きによってわかっています。構造は桁行7間、梁間4間で、中央に広い土間を持つ3
   間取り、直屋根式の本百姓民家です。太い木割りを持つ日本海側に多い民家で、その地域性
   と、時代の特性を示す価値は高く評価されています。
    五十嵐家は、生活様式の変化と建物の老朽化にょって改築や修理がおこなわれましたが、
   昭和48年の解体移築の際、増築された中門を取り払うなど、すべて原形に戻して整備しま
   した。  

   旧長谷部家住宅(叶津番所)
     ・県指定重要文化財 昭和48年3月23日指定
     ・所在地 南会津郡只見町大字叶津字居平456番地
     ・所有者 個人
    旧長谷部家住宅は規模の大きい上層家屋で、うまや中門をうけた曲がり屋です。棟が高く
   棟裏には小天井を張り、せがい造りで、会津の通例として外縁は備えず、座敷周りに内縁を
   つけています。もと座敷前面にあった乗り込みは撤去され、内部は現在水屋全体まで板敷で
   すが、元は一部が土間であったと考えられます。
    水屋と居間境の柱は約35cm、居間周りは23cmと太く、居間境、差し鴨居も丈51
   cmと大きなもので、柱仕上げはいずれも鉋掛け面取りで、天井は居間を除き、上段、座敷
   、仲座敷ともさお縁を用いています。またこれらの部屋にはいずれも面皮なげしを回すなど
   上等な仕上げになっており、建立年代としては、土間中二階の存在、中引と桁を等間隔に通
   した二重梁構造などの造作状況等からみて江戸後期と推定されます。長谷部家は旧叶津村の
   名主をつとめ、八十里越の番所と制札所になっています。
  

五十嵐家住宅へ行って見ましょう

工事中です

南側は完全にネットで覆われてしまっています

五十嵐家住宅の説明版です



では、次へ行って見ましょう
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群馬県渋川市、小室敷石住居跡です!!

2017-08-02 08:20:52 | 遺跡・史跡
滝沢石器時代遺跡の国道353号を挟んで南側にあります

国道から南に入って消防署を過ぎて道なりに進みます

三叉路に案内版が立っていますので右へ入ると間もなく

左側に遺跡の覆い屋が有ります




道路脇に遺跡の東屋が有ります

小室敷石住居跡の石碑です

説明版です
    群馬県指定史跡
      小室敷石住居跡
        昭和42年11月24日指定 
      この住居跡は、縄文時代中期末葉~後期初頭(約4000年前)の敷石住居跡
     である。地面を浅く掘りくぼめ床面に平らな石を敷きつめてある。敷石は柱穴に
     沿ってほぼ六角形に敷かれており、中央に石組の炉が配置されている。さらい南
     側出入口部分にも石敷きがなされており、その基部には埋甕がある。住居部分は
     東西経3m、南北経3,35mで、出入口部分は幅0,7m、長さ1・・・mを
     測る。
      昭和42年に発掘調査が行なわれ、当時としては他に例をみないものであり、
     また保存状態も良好であったので、縄文時代の文化・集落研究に貴重な資料とな
     っている。
        平成3年2月20日      群馬県教育委員会・北橘村教育委員会



中を覗いてみました敷石を見る事が出来ます

案内板です
    群馬県指定史跡
      小室敷石住居跡
      1、指定年月日  昭和42年11月24日指定
      2、説明  この遺跡は昭和42年3月群馬大学教育学部尾崎喜佐雄教授によっ
             て発掘調査されたもので他に例のない遺構をもち今後の縄文式文
             化時代の住居跡集落の研究に重要な資料となるものである。
      3、注意  住居の部分に立ち入ってはならない、指定地域及び保存施設をき損
             してはならない。
        昭和42年11月24日
                     群馬県教育委員会・北橘村教育委員会

では、次へ行きましょう



(ここまで2017年7月19日取材)    
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群馬県渋川市、国指定史跡、滝沢石器時代遺跡です!!

2017-08-01 09:01:14 | 遺跡・史跡
滝沢石器時代遺跡は、渋川市役所の東北東約4kmのところ

赤城山の南西側裾野近くに在ります

国道353号線を赤城山へ登って行くと

途中に案内板が出ています

遺跡面を見上げました下の道路脇に駐車スペースが有ります

遺跡面です


史蹟 滝沢石器時代遺跡の石碑です

説明石碑です
    滝沢石器時代遺跡
指定年月日 昭和2年4月8日
  説  明  滝沢石器時代人は、縄文期の人々で、縄文早期から晩期にかけて
        数千年の間、高台下の湧玉の泉を中心に生活を営んでいたが、その
        竪穴住居や生活用具は長い年月の間土砂の下に埋まっていた。
         大正15年(1926)発掘調査が行われたが、住居跡群や巨大
        な石棒・岩版・精巧な耳栓その他数多の土器・石器類の出土は、よ
        うやく縄文文化の科学的研究が行なわれ始められた当時において、
        多大な学問的成果を収め、縄文文化研究に大きな影響を及ぼしたこ
        とにこの遺跡の意義がある。
  注  意  遺跡は発掘終了後、当時のまま地下に保存してあるので、発掘・破
        懐・遺物の採取等は禁止され、地形の改変は許可を必要とする。
    昭和43年11月3日        文化庁・赤城村教育委員会

下の面に説明版が有ります

説明版です
   国指定史跡 瀧沢石器時代遺跡
     瀧沢石器時代遺跡は、名峰、赤城山の西麓に広がる舌状台地上に立地する
    旧石器・縄文早期~晩期・弥生・古墳・平安時代にかけての複合集落遺跡で
    る。
     旧内務省考査官の柴田常恵や群馬県史跡名勝天然記念物調査委員の岩澤正
    作らの指導のもと、大正15年(1926)い実施された発掘調査によって
    、長さ1m、重さ60kgを越える大石棒・炉跡を中心とした住居跡・配石
    遺構などが発見され、昭和2年(1927)に約13haの用地が国指定史跡
    とんる(平成16年に追加指定あり)。東に赤城山、西に榛名山、北に子持
    山と小野子山の山体を望む遺跡の北東の隅には”湧玉”と呼ばれる湧水が現
    在も豊富にわきだし、縄文時代の景観をしのばせる。
     瀧沢石器時代遺跡は周辺の住環境整備事業の実施と関連して、平成9年(
    1997)から平成11年(1999)かけて、旧赤城村教育委員会による
    保存整備のため調査している。
     現在までに縄文時代前期から晩期の住居跡15軒、後晩期の大規模な配石
    遺構(環状列石)、中後期の集石遺構、盛土遺構、土坑、平安時代の住居跡
    7軒などが確認されている。
     発掘調査により、遺構中心部から出土した縄文時代後晩期の配石遺構は東
    北地方の環状列石と肩を並べるほどのもので、直径30m以上の大規模な環
    状列石であることが確認されており、この環状列石の西端部では大石棒をと
    もなう祭祀の様子をうかがえる場所が見つかっている。
     この石棒祭祀跡を中心に岩版、石棒、石剣、土偶などの祭祀用具や土製耳
    飾、凹石、石皿、打製石斧、磨製石斧、石匙、石鏃などの石器が数多く見つ
    かっており、縄文人の信仰の姿をうかがうことができる。
     また、環状列石の外側に広がる縄文時代の住居跡や土坑からは、前期の諸
    磯式土器や中期の焼町類土器、加曽利E式土器、後期の高井東式土器、晩期
    の安行式土器などの深鉢のほか、打製石斧、石匙など様々な出土品が見つか
    っている。
                     渋川市教育委員会
                     指定年月日:昭和2年4月8日
                     所在地:渋川市赤城町滝沢・見立
                     出土品保管先:渋川市赤城歴史資料館
では、次へ行きましょう
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群馬県渋川市、八木沢清水石器時代住居跡です!!

2017-07-31 06:18:42 | 遺跡・史跡
国道323号線を西に走っていると

上越新幹線の高架を潜って間もなく道路左側に案内板が有ります

ここから3,2km北側の集落から中山峠側に登って行きます

子持山と小野子山の間の南面に在ります

登って行くとまた案内板がありました

大石の並ぶ交差点を右に入ると間もなく

八木沢清水遺跡です

東屋が遺跡です

群馬県指定史跡 八木沢清水縄文時代住居跡の石碑です

説明版です
  群馬県指定史跡 八木沢清水縄文時代住居跡
    1、名称と員数 群馬県指定史跡 「八木沢清水縄文時代住居跡」
              一軒(90平方メートル)
    2、指定年月日 昭和58年2月22日
    3、所 在 地  群馬県北群馬郡小野上村大字小野子756番地の3
    4、指定 理由  群馬県文化財保護条例第38条の規定による
               指定等の基準第6の1の1による
               縄文時代草創期の竪穴住居跡としては県内最初の発見例である。
    5、史跡の概要 八木沢清水縄文時代住居跡は、昭和51年9月、養魚池の築造工事を行った
              角田辰次氏によって発見されました。
               昭和52年8月から本格的な発掘調査をした結果、縄文時代から弥生・古墳
               時代に及ぶ住居跡・土坑などの遺構や土器・石器などの遺物が確認されまし
               た。特に、地表下約1、5m、関東ローム層(赤土)上面で発見された住居
               跡は縄文時代草創期後半(約6000年~8000年前)のもので、群馬県
               内初の発見例であることがわかりました。
                この住居跡は直径4,5~5mの楕円形、深さは傾斜面に建てられていた
               ため、南側で14cm、北側で4cmになっていました。
                床面は、中央部が若干低く壁に向かって徐々に高くなっています。柱穴と
               思われる直径16~26cm、深さ13~40cmの穴が16個見つかりま
               したが、その配列に規則性はあいませんでした。
                また、住居跡からは撚糸文と押型文とよばれる土器と石器が出土しました
               が、炉と思われる施設や焼けた土の痕跡はありませんでした。
                昭和60年9月1日      群馬県教育委員会・小野上村教育委員会



ジオラマです

八木沢清水遺跡

文様の付け方

生活の道具

縄文カレンダー

遺跡面です

南側は果樹園になっています

では、次へ行きましょう


少し下って来ました、南側の榛名山がきれいでした
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千葉県市原市、奈良の大仏です!!

2017-06-24 05:58:38 | 遺跡・史跡
千葉県市原市に「奈良の大仏」が有ります

で、大仏通りを東へ、奈良公園を目指して進むと

大仏 の案内板があります

本泉寺の北東約1kmのところです

大仏前に駐車スペースがあります


奈良の大仏です、あまり大きくありませんが台座が高く見上げる様になっています

朝の逆光のため御顔が暗く成ってしまっています

説明版です
   市指定文化財 
     奈良の大仏
        昭和49年6月10日指定
      当地は将門伝説と風光の美しさで知られ、等身大の石造釈迦如来立像が鎮座し、以前より
     奈良の大仏の名で親しまれている。
      参道には樹齢約100年のヤマザクラの並木があり、目通り幹囲は、最大で3m以上にも
     及ぶ。また近くには、多数のソメイヨシノが植栽されておりこの立像を囲んで、スダジイ・
     スギ・イチョウ・クロマツ・モミの大木がうっそうと茂り、その周辺の林床植物としては、
     コシオガマ・ツルニガクサ・ウコギ・ノコンギク・フタリシズカなど数百種類を数える。
        昭和58年3月

大仏右手のスダジイの大木です

大仏左手前のスダジイの大木です、共に幹周り4m程有ります

では、次へ行きましょう
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福島県喜多方市、伝小野小町塚です!!

2017-05-18 09:57:19 | 遺跡・史跡
小野小町塚は、喜多方市役所の西南西約16kmのところ

西会津町近く、阿賀野川左岸の高郷町峯に在ります

県道16号線を西会津町から喜多方市に入ってまもなく

道路北側に駐車スペースが有ります




県道脇に在ります

供養塔の載る小野小町塚です

喜多方市指定史跡標柱です

説明版が有ります
   喜多方市指定文化財
      史跡 伝小野小町塚
     この宝篋印塔は、小野小町の墓と伝える。小町は平安朝時代、出羽郡司となった
    良実の娘で、歌に長じ六歌仙の一人にかぞえられ、歌風は情熱的で奔放、また、美  
    人で有名である。
     年老いて出羽に赴く途中、病のためにここで没したと伝えられる。
     会津でただ一ヶ所の小町塚で、新編会津風土記に記載されている。
       平成12年11月         喜多方市教育委員会
                        小町の里づくり実行委員会
                        高郷村観光協会
                      平成12年度福島県地域づくりサポート事業補助事業

道路南側には小野小町の化粧清水が有ります

細い道を入って行くと

化粧清水です

泉として整備されています

説明版です
   伝 小町の化粧清水
      小野小町は都から出羽の国へおもむく途中この村の農家へ泊めてもらいました
     農家の主人夫婦は小町をやさしくお世話しました。
      小町はこの地で亡くなるまでの間この清水を水鏡にして化粧したと伝えられて
     います。
       平成14年4月          小町の里づくり実行委員会
                        高郷村観光協会

では、次へ行きましょう   
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群馬県前橋市、八幡山古墳です!!

2017-05-14 20:20:24 | 遺跡・史跡
八幡山古墳は大きな前方後円墳です

前梅市役所の南東約4kmのところ

古墳の北側のドラッグストアに車を置かせていただきました




八幡山公園です

埴輪の馬がいました



西側の入り口です

後方部を見ます

説明石碑です
   八幡山古墳
     かつては、現在住宅地となている広瀬川右岸の台地上に百数十基におよぶ大小の古墳が
    あり、一大古墳群を形成していた。本古墳はこの古墳群を代表するものの一つで、古墳群
    中唯一の前方後方墳です。
     墳丘の規模は現状で全長130m、前方部幅59m、同高さ8m、後方部幅72m、同
    高さ12mで、前方後方墳の形もよくとどめている。また、墳丘周囲には幅25m~30
    mの堀がめぐっていたことが確認されている。
     埋葬主体部は、未調査のため明らかでないが、墳丘頂上部から埋葬した竪穴系のもので
    あったと推定される。なお、本古墳の南東には、県内最古の古墳とかんがえられる天神山
    古墳がある。


八幡山古墳の標柱です

後方部えの登路です

登路を上がります

後方部頂上から前方部をみます


後方部から前方部との接続部です

前方部から後方部を見ました

西側に出ましょう

西側の接続部です

前方部です

幅の広い堀跡です

では、次へ行きましょう
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群馬県前橋市、山王町金冠塚古墳です!!

2017-05-12 09:13:17 | 遺跡・史跡
金冠塚古墳は、前橋市役所の南東約5kmのところ

広瀬団地の中の住宅地のなかにフェンスに囲まれています

北側説明版の前に車を止めさせて頂きました

北西側から古墳を見ました、全体が入っていませんね~



市指定史蹟 金冠塚古墳です

説明版が有ります
    前橋市指定史跡 金冠塚古墳
      指定年月日 昭和61年6月6日
      所 在 地 前橋市山王町1丁目13-3
     朝倉町から広瀬町・山王町にかけて、かつては、140基を越える古墳があったと
    言われています。その中で、昭和10年(1935)に行なわれた群馬県内一斉調査
    では上場村14号墳と記載されています。
     山王二子山古墳とも呼ばれていましたが、金銅製の冠が出土したことにより、名称
    を金冠塚古墳に統一しました。昭和56年(1981)発掘調査が行なわれ、全長5
    2,5m後円部の直径32,3mで、後円部に榛名山二ツ岳起源の軽石(角閃石安山
    岩)を加工して積み上げて造られた推定全長5,2m以上奥壁の幅2,5mの横穴式
    石室があったことがわかりました。
     大正4年(1915)出土した金銅製冠は、古代朝鮮半島三国時代の新羅や伽耶で
    作られていた「出の字」梨の冠に似ていることから、このころの朝鮮半島の文化の影
    響が日本にも強く現れていることがわかります。
                      前橋市教育委員会


後円部墳丘に上がりましょう

西側の斜面です

前方部を見ました

東側斜面です

では、次へ行きましょう
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