浜崎城址は、湯川村役場の北北東約3kmのところ
国道121号線で北に進むと、JR磐越西線を越えて西側の道路に入ると
道路脇に説明版があります、道路が本丸の中央を通っています
日橋川の手前の道路が広く成ってるところに車を置かせていただきました
道路脇に説明版があります、本丸南端です
説明版です
史跡「浜崎城址」案内図
本城趾は、中世から近世にかけて会津盆地のほぼ中央を通る米沢街道の要衝、浜崎集落の
北東に在って、北を日橋川が西流し、「北方(きたかた)」と称した会津北部を押さえる位
置を占める重要拠点であった。「会津古塁記」によると「別名藤森城と称し、浜崎主馬、至
徳年間(1384年~1386年)築く」とあるが築城年代は詳でない。
古文書(真壁文書)によれば、観応3年、1352年正月から三浦若狭守(葦名直盛か)
は真壁政幹の代官、薄景教らを率いて、河沼郡の合川、浜崎城、蜷河庄政所館(会津坂下町
)等を攻めていることが「真壁文書」にある。
この文書にでてくるのは浜崎城の歴史上の初見である。
これは浜崎城がそれ以前に築城されていることを物語るものである。
下って、宝徳3年(1451年)及び亨徳2年(1453年)葦名氏の内紛による二度に
わたる浜崎城をめぐる合戦があり、浜崎城は落城し、浜崎靭負政頼や松本右馬允通輔の一党
は滅亡した。
浜崎城は慶長の初めごろ(1600年)までは、日橋川と大塩川の二大河川が合流する岬
の微高地地域(元塩川町古町地内)にあった。天正18年豊臣秀吉は、小田原の北條氏を攻
め滅ぼし、同年8月に「奥州仕置」を終えて、会津を蒲生氏郷に与えた。氏郷は翌19年家
臣の知行割を行い、重心らを領内各所に配置した。塩川の浜崎城へは蒲生喜内頼郷(横山喜
内)をいれたが、この浜崎城は南と北を二つの河川に挟まれた地域で、再々水災に遭い悩ま
されていた。
慶長6年(1601年)10月蒲生秀行の代には、家臣の蒲生主計介郷貞を塩川の浜崎城
に入れたが、主計介は水災を怖れて日橋川南岸の浜崎の地に城域を移し新に築城した。これ
が現存の浜崎城址である。元和元年(1615年)一国一城の制度になった時、この浜崎城
址は廃城すべきであったが、蒲生氏は「茶屋」と名づけ、暫しの年月そのまま残しておいた。
城址の規模は、「浜崎城跡発掘調査記録」によると、本丸東西90mに幅約10mの濠を
めぐらし、二の丸はその西北に並んでいたことがわかる。現存の城趾は本丸の西と南、東北
の一部に土塁が残り、東と西に濠跡が湿地となり、南は水田になっている。中央を国道12
1号線が南北に通り、本丸を東西に分断している。
二の丸は西北に続いていたが現在は畑になっている。二の丸のほぼ真ん中をJR磐越西線
が走り、土塁と濠は共に破壊されて、その跡をとどめていない。
本城址は昭和56年3月27日湯川村史跡に指定された。
湯川村教育委員会
想定図です
説明版北側の住宅脇の土塁、本丸西側部分です
北側の側溝は堀の跡です
本丸東側の堀跡は良く残っています
中に入ってはいけません
川沿いに土手道が造られて
堀の部分が残っています
北東側土塁です
北側の川と土塁の間に道路が出来ています
道路脇の土塁は、北側虎口の部分です
中側から北側の土塁です、今も1m以上の高さがあります
土塁の上に史蹟標柱がありました
日橋川に橋が架かっています
では、次へ行きましょう
国道121号線で北に進むと、JR磐越西線を越えて西側の道路に入ると
道路脇に説明版があります、道路が本丸の中央を通っています
日橋川の手前の道路が広く成ってるところに車を置かせていただきました
道路脇に説明版があります、本丸南端です
説明版です
史跡「浜崎城址」案内図
本城趾は、中世から近世にかけて会津盆地のほぼ中央を通る米沢街道の要衝、浜崎集落の
北東に在って、北を日橋川が西流し、「北方(きたかた)」と称した会津北部を押さえる位
置を占める重要拠点であった。「会津古塁記」によると「別名藤森城と称し、浜崎主馬、至
徳年間(1384年~1386年)築く」とあるが築城年代は詳でない。
古文書(真壁文書)によれば、観応3年、1352年正月から三浦若狭守(葦名直盛か)
は真壁政幹の代官、薄景教らを率いて、河沼郡の合川、浜崎城、蜷河庄政所館(会津坂下町
)等を攻めていることが「真壁文書」にある。
この文書にでてくるのは浜崎城の歴史上の初見である。
これは浜崎城がそれ以前に築城されていることを物語るものである。
下って、宝徳3年(1451年)及び亨徳2年(1453年)葦名氏の内紛による二度に
わたる浜崎城をめぐる合戦があり、浜崎城は落城し、浜崎靭負政頼や松本右馬允通輔の一党
は滅亡した。
浜崎城は慶長の初めごろ(1600年)までは、日橋川と大塩川の二大河川が合流する岬
の微高地地域(元塩川町古町地内)にあった。天正18年豊臣秀吉は、小田原の北條氏を攻
め滅ぼし、同年8月に「奥州仕置」を終えて、会津を蒲生氏郷に与えた。氏郷は翌19年家
臣の知行割を行い、重心らを領内各所に配置した。塩川の浜崎城へは蒲生喜内頼郷(横山喜
内)をいれたが、この浜崎城は南と北を二つの河川に挟まれた地域で、再々水災に遭い悩ま
されていた。
慶長6年(1601年)10月蒲生秀行の代には、家臣の蒲生主計介郷貞を塩川の浜崎城
に入れたが、主計介は水災を怖れて日橋川南岸の浜崎の地に城域を移し新に築城した。これ
が現存の浜崎城址である。元和元年(1615年)一国一城の制度になった時、この浜崎城
址は廃城すべきであったが、蒲生氏は「茶屋」と名づけ、暫しの年月そのまま残しておいた。
城址の規模は、「浜崎城跡発掘調査記録」によると、本丸東西90mに幅約10mの濠を
めぐらし、二の丸はその西北に並んでいたことがわかる。現存の城趾は本丸の西と南、東北
の一部に土塁が残り、東と西に濠跡が湿地となり、南は水田になっている。中央を国道12
1号線が南北に通り、本丸を東西に分断している。
二の丸は西北に続いていたが現在は畑になっている。二の丸のほぼ真ん中をJR磐越西線
が走り、土塁と濠は共に破壊されて、その跡をとどめていない。
本城址は昭和56年3月27日湯川村史跡に指定された。
湯川村教育委員会
想定図です
説明版北側の住宅脇の土塁、本丸西側部分です
北側の側溝は堀の跡です
本丸東側の堀跡は良く残っています
中に入ってはいけません
川沿いに土手道が造られて
堀の部分が残っています
北東側土塁です
北側の川と土塁の間に道路が出来ています
道路脇の土塁は、北側虎口の部分です
中側から北側の土塁です、今も1m以上の高さがあります
土塁の上に史蹟標柱がありました
日橋川に橋が架かっています
では、次へ行きましょう