北田城址は、湯川村役場の北西約3kmのところ
県道331号線の西側耕地の中に有ります
田圃の中の道を進み、稲刈りの済んだ田圃の真ん中です
県道331号線脇に案内板が有ります
西に進むと区画整理された田圃の真ん中にまた案内板です
北へ進むと、城跡が見えて来ます
小山の上に北田城祉の標柱があります
村指定史跡 北田城趾です
説明版です
史蹟 「北田城趾」案内図
北田城址は、会津における数少ない中世鎌倉時代初期の古城塁趾で、耶麻郡猪苗代町の
亀ヶ城趾、喜多方市慶徳町の新宮城址とともに、中世会津の歴史を語る上で欠くことので
きない存在価値をもつ城塁祉である。
北田城は、建久4年(1193年)佐原次郎廣盛が築いて居住したところである(会津
古塁記)廣盛は佐原遠江守盛速の次男で北田氏を称した。その子孫が216年間代々ここ
に居を構え勢力を振ったが、応永16年(1409年)6月3日、6代上総介政泰に至り
葦名盛政に攻め滅ぼされた。(塔寺長帳)
城址は、湯川と旧日橋川との合流点の南西高台であり、当時は北に新宮城、南に小高木
城(後の鶴ヶ城)があり会津の平地における要害の地であった。
現在は、北田城本丸の南西の一部であり、この土塁は、昭和58年に行った記録保存調
査の際に、最初の小さな土塁に土を盛り補強されたものであることが発見された。(北田
城祉調査報告書)
塁上に建っている碑は、昭和35年4月有志によって建立されたものであり、次の詩が
刻まれている。
湯川村教育委員会
想定図です
東側
南側
西側
北側の眺めです
白鳥が田圃の落穂で朝食中でした
では、次へ行きましょう
県道331号線の西側耕地の中に有ります
田圃の中の道を進み、稲刈りの済んだ田圃の真ん中です
県道331号線脇に案内板が有ります
西に進むと区画整理された田圃の真ん中にまた案内板です
北へ進むと、城跡が見えて来ます
小山の上に北田城祉の標柱があります
村指定史跡 北田城趾です
説明版です
史蹟 「北田城趾」案内図
北田城址は、会津における数少ない中世鎌倉時代初期の古城塁趾で、耶麻郡猪苗代町の
亀ヶ城趾、喜多方市慶徳町の新宮城址とともに、中世会津の歴史を語る上で欠くことので
きない存在価値をもつ城塁祉である。
北田城は、建久4年(1193年)佐原次郎廣盛が築いて居住したところである(会津
古塁記)廣盛は佐原遠江守盛速の次男で北田氏を称した。その子孫が216年間代々ここ
に居を構え勢力を振ったが、応永16年(1409年)6月3日、6代上総介政泰に至り
葦名盛政に攻め滅ぼされた。(塔寺長帳)
城址は、湯川と旧日橋川との合流点の南西高台であり、当時は北に新宮城、南に小高木
城(後の鶴ヶ城)があり会津の平地における要害の地であった。
現在は、北田城本丸の南西の一部であり、この土塁は、昭和58年に行った記録保存調
査の際に、最初の小さな土塁に土を盛り補強されたものであることが発見された。(北田
城祉調査報告書)
塁上に建っている碑は、昭和35年4月有志によって建立されたものであり、次の詩が
刻まれている。
湯川村教育委員会
想定図です
東側
南側
西側
北側の眺めです
白鳥が田圃の落穂で朝食中でした
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