市場の大ケヤキは、太田市役所の北東約6kmのところ
国道50号線の北側を走る県道39号線の足利市境近く
矢場川と工業団地の間、住宅地の中に琴平神社があります
道路脇に車を止めさせえ頂きました
琴平神社が目印です
東側に市場のケヤキです
太田市指定 天然記念物 市場の大ケヤキの石柱です
北西側から大ケヤキです
説明版です
太田市指定 天然記念物
市場の大ケヤキ
所 在 地 太田市大字市場字稲荷乙473
指定年月日 昭和56年(1981)8月26日
ケヤキ(欅)はニレ科の落葉高木で、幹は灰色で直立し多く分岐する。葉は葉身を茎に付着させる柄をもち、
たがいちがいに一枚づつ付く。その形は楕円形で、葉の縁はのこぎりの歯のように細かく切れ込み先がとがる。
雌雄同株で、春ごろ新芽と同時に淡黄緑色の細かい花をつけ、間もなく結実する。古来から社寺、人家等各所に
植えられた。
この大ケヤキは、琴平神社の東に接して立ち、地元では「市場の大榎」と呼称して永く親しんできた。ケヤキ
をエノキと呼ぶ風習は各地にあると言われる。
目通り約7m、根元回り約13、8m余り、樹高約23で根元付近から3本に分岐する。樹齢は500年以上
を経ていると推定され、主幹の根元に大きな空洞がある。現在も樹勢はさかんで、地元の人たちによて保護され
ている。
伝説説明版です
伝説
御神木榎はもとの塚上に在たるものの如く根張り地表によく露はれ所謂盤根腊節の態をなす其の附近には年代
不詳の墓石及び古銭の発掘せられたるを以って由緒深き地なるものの如きも其の資料に乏しく詳かでない。
幹上は地上より低くして三岐となる、此の三梢の由来には次の傳説がある。
昔此の道は東三道と呼ばれ、当寺は重要な街道として栄え、亦四六時中矢場川の清流を控え居りし頃、馬子が
馬を休息させるべく馬を川入せんとした時、河童が突如馬に襲い掛り馬の尾を以って引込んだと言う。馬は荒狂
い乍ら河童を川岸に跳ね上げたと言う。馬に捕らえられた河童は、徹底的に制裁を与えられて、其の非を責めら
れた末、馬子はそこに3本の榎を植えて、此の木の生命の有らん限り今后悪事を働いてはならぬと諭し改心させ
善人の馬子は河童も放してやったと言う。河童は馬子の前に終生を誓い、其の后河童出没の噂も堪えて、此の地
は平穏に栄え続けたと言う。
又洞穴の由来にも伝説が古老より言い伝えられて居る、一説によると洞穴をなす幹部が元木であり、過去に落
雷にあい損傷を蒙り、残りの部分が発育し現在をなしたるものとされ、腐って元木は腐朽し洞穴となったと言う。・・・
裏面にも説明が有ります
洞穴部には焦げ跡が残ります
南側から
東側から
では、次へ行きましょう
国道50号線の北側を走る県道39号線の足利市境近く
矢場川と工業団地の間、住宅地の中に琴平神社があります
道路脇に車を止めさせえ頂きました
琴平神社が目印です
東側に市場のケヤキです
太田市指定 天然記念物 市場の大ケヤキの石柱です
北西側から大ケヤキです
説明版です
太田市指定 天然記念物
市場の大ケヤキ
所 在 地 太田市大字市場字稲荷乙473
指定年月日 昭和56年(1981)8月26日
ケヤキ(欅)はニレ科の落葉高木で、幹は灰色で直立し多く分岐する。葉は葉身を茎に付着させる柄をもち、
たがいちがいに一枚づつ付く。その形は楕円形で、葉の縁はのこぎりの歯のように細かく切れ込み先がとがる。
雌雄同株で、春ごろ新芽と同時に淡黄緑色の細かい花をつけ、間もなく結実する。古来から社寺、人家等各所に
植えられた。
この大ケヤキは、琴平神社の東に接して立ち、地元では「市場の大榎」と呼称して永く親しんできた。ケヤキ
をエノキと呼ぶ風習は各地にあると言われる。
目通り約7m、根元回り約13、8m余り、樹高約23で根元付近から3本に分岐する。樹齢は500年以上
を経ていると推定され、主幹の根元に大きな空洞がある。現在も樹勢はさかんで、地元の人たちによて保護され
ている。
伝説説明版です
伝説
御神木榎はもとの塚上に在たるものの如く根張り地表によく露はれ所謂盤根腊節の態をなす其の附近には年代
不詳の墓石及び古銭の発掘せられたるを以って由緒深き地なるものの如きも其の資料に乏しく詳かでない。
幹上は地上より低くして三岐となる、此の三梢の由来には次の傳説がある。
昔此の道は東三道と呼ばれ、当寺は重要な街道として栄え、亦四六時中矢場川の清流を控え居りし頃、馬子が
馬を休息させるべく馬を川入せんとした時、河童が突如馬に襲い掛り馬の尾を以って引込んだと言う。馬は荒狂
い乍ら河童を川岸に跳ね上げたと言う。馬に捕らえられた河童は、徹底的に制裁を与えられて、其の非を責めら
れた末、馬子はそこに3本の榎を植えて、此の木の生命の有らん限り今后悪事を働いてはならぬと諭し改心させ
善人の馬子は河童も放してやったと言う。河童は馬子の前に終生を誓い、其の后河童出没の噂も堪えて、此の地
は平穏に栄え続けたと言う。
又洞穴の由来にも伝説が古老より言い伝えられて居る、一説によると洞穴をなす幹部が元木であり、過去に落
雷にあい損傷を蒙り、残りの部分が発育し現在をなしたるものとされ、腐って元木は腐朽し洞穴となったと言う。・・・
裏面にも説明が有ります
洞穴部には焦げ跡が残ります
南側から
東側から
では、次へ行きましょう