「偕楽園の太郎杉」の続きです
常磐町1丁目は、水戸市役所の西北西約1.5kmのところ
「偕楽園桜山第二駐車場」(無料)に
車を止めさせて頂きました
南門が閉まっていたので、好文亭表門から入ってまずは「吐玉泉」「太郎杉」と「次郎杉の切株」等を見ました

案内板です、好文亭へ行きましょう

階段を上って、表門と好文亭を結ぶ道へ戻ります

好文亭方向(東)へ進みます

ここは左です
、直進すると好文亭南側から南門方面へ下れます(帰りに利用しました)

まもなくです

好文亭中門です

好文亭入口料金所です
(中には入りませんでした)

説明版です
好文亭(こうぶんてい)
好文亭は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)が、詩歌・管弦の催しなどをして家中の人々とともに心身の休養をはかるために、天保13年(1842年)に建てたものです。
好文というのは梅の異名で、「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった」という中国の故事にもとづいて名付られました。
建物は木造二層三階建ての好文亭本体と北につながる奥御殿(平屋造り)からなり、全体を総称して好文亭と呼んでいます。斉昭はその位置から建築意匠まで自ら定めたといわれています。
奥御殿を設けた理由は、万一城中に出火などあった場合の立ち退き場所として備えられたためと、当時藩内では管弦禁制であったので、城中の婦人達のため遊息の場所としたという配慮があったようです。
昭和20年(1945年)8月2日未明の空襲で全焼しましたが、昭和30年(1955年)から3年をかけて復元されました。昭和44年(1069年)9月奥御殿と橋廊下は焼失しましたが、昭和47年(1972年)2月に復元されました。
平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災では壁の崩落など大きな被害を受け閉館を余儀なくされましたが、平成24年(2012年)2月に復旧しました。
*何回も火事に遭っているのですね~

東側へ「芝前門」を出ます

ここにも竹種の「寒竹」(かんちく)が植えられています
*秋にタケノコが出て食用になり、観賞用や生垣としても利用されているようです。

直ぐ北側には梅林が広がっています

「遺徳之碑」です

説明版です
遺徳之碑
故茨城県参事関君遺徳之碑
茨城県第6代参事関新平(旧佐賀藩士)が、明治6年から同8年まで、茨城県の参事(知事)を務め、しの間仁政を布き人徳を残して去ったことに対して、多数の旧水戸藩士がその遺徳を偲び明治30年(1897)に建碑しました。
関新平は、江藤新平・木下民平(喬任)とともに「肥前の三平」と呼ばれた逸材です。

南西へ進むと「偕楽園記碑」の大きな石碑です

説明版です
偕楽園記碑
偕楽園の名前の由来や創設した理由、利用の心得などが、斉昭の直筆で記されています。
碑には、斉昭の宇宙観や人間観、藩主としての姿勢、偕楽園が弘道館と一対の施設として構想されていたことが記されています。
また、この公園は自分ひとりのものではなく、領内の人々が学問や武芸を学んだあとで余暇を利用して休息し、心身を養うところであることを明らかにしています。
偕楽園の名前は、「多くの人々と楽しみをともにしたい」との思いから名づけられました。
碑の裏には斉昭の定めた園内での禁止事項(六ケ条)が刻まれています。その内容は今日の公園管理の先駆をなすものといえます。

井戸です、水があるのかどうかは分かりませでした

好文亭東側のサルスベリです

説明版です
百日紅(さるすべり)
推定樹齢300年
中国南部の原産のミソハギ科の落葉樹です。
8月頃に紅の濃淡又は白色の花が咲きます。

南側から

東側から三階建ての「好文亭」を見ました
、庭のマツの整備をしていました

北側の平屋部分が「奥御殿」です

南側端の「仙奕台」です、南東に千波湖を見ました
*仙奕台(せんえきだい)
千波湖をはじめ周囲の景観が一望できるこの突き出して台地を仙奕台と称します。
「奕」は囲碁を意味し、四方を眺め湖上から吹き上げる涼風を受けながら碁や将棋などを楽しんだところです。
石でできた碁盤や将棋盤・琴石・卓石は当時のものです。

北側に在った「左近桜」は枯れてしまって二代目が植えられています

東へ進みます「見晴らし広場」から好文亭を見ました



東門近くの「二季咲桜(にきざきざくら)」が咲いています
この辺で、続きにさせて頂きます、次は「常磐神社」です
常磐町1丁目は、水戸市役所の西北西約1.5kmのところ
「偕楽園桜山第二駐車場」(無料)に

南門が閉まっていたので、好文亭表門から入ってまずは「吐玉泉」「太郎杉」と「次郎杉の切株」等を見ました


案内板です、好文亭へ行きましょう


階段を上って、表門と好文亭を結ぶ道へ戻ります


好文亭方向(東)へ進みます


ここは左です


まもなくです


好文亭中門です


好文亭入口料金所です


説明版です
好文亭(こうぶんてい)
好文亭は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)が、詩歌・管弦の催しなどをして家中の人々とともに心身の休養をはかるために、天保13年(1842年)に建てたものです。
好文というのは梅の異名で、「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった」という中国の故事にもとづいて名付られました。
建物は木造二層三階建ての好文亭本体と北につながる奥御殿(平屋造り)からなり、全体を総称して好文亭と呼んでいます。斉昭はその位置から建築意匠まで自ら定めたといわれています。
奥御殿を設けた理由は、万一城中に出火などあった場合の立ち退き場所として備えられたためと、当時藩内では管弦禁制であったので、城中の婦人達のため遊息の場所としたという配慮があったようです。
昭和20年(1945年)8月2日未明の空襲で全焼しましたが、昭和30年(1955年)から3年をかけて復元されました。昭和44年(1069年)9月奥御殿と橋廊下は焼失しましたが、昭和47年(1972年)2月に復元されました。
平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災では壁の崩落など大きな被害を受け閉館を余儀なくされましたが、平成24年(2012年)2月に復旧しました。
*何回も火事に遭っているのですね~


東側へ「芝前門」を出ます


ここにも竹種の「寒竹」(かんちく)が植えられています

*秋にタケノコが出て食用になり、観賞用や生垣としても利用されているようです。

直ぐ北側には梅林が広がっています


「遺徳之碑」です


説明版です
遺徳之碑
故茨城県参事関君遺徳之碑
茨城県第6代参事関新平(旧佐賀藩士)が、明治6年から同8年まで、茨城県の参事(知事)を務め、しの間仁政を布き人徳を残して去ったことに対して、多数の旧水戸藩士がその遺徳を偲び明治30年(1897)に建碑しました。
関新平は、江藤新平・木下民平(喬任)とともに「肥前の三平」と呼ばれた逸材です。

南西へ進むと「偕楽園記碑」の大きな石碑です


説明版です
偕楽園記碑
偕楽園の名前の由来や創設した理由、利用の心得などが、斉昭の直筆で記されています。
碑には、斉昭の宇宙観や人間観、藩主としての姿勢、偕楽園が弘道館と一対の施設として構想されていたことが記されています。
また、この公園は自分ひとりのものではなく、領内の人々が学問や武芸を学んだあとで余暇を利用して休息し、心身を養うところであることを明らかにしています。
偕楽園の名前は、「多くの人々と楽しみをともにしたい」との思いから名づけられました。
碑の裏には斉昭の定めた園内での禁止事項(六ケ条)が刻まれています。その内容は今日の公園管理の先駆をなすものといえます。

井戸です、水があるのかどうかは分かりませでした


好文亭東側のサルスベリです


説明版です
百日紅(さるすべり)
推定樹齢300年
中国南部の原産のミソハギ科の落葉樹です。
8月頃に紅の濃淡又は白色の花が咲きます。

南側から


東側から三階建ての「好文亭」を見ました


北側の平屋部分が「奥御殿」です


南側端の「仙奕台」です、南東に千波湖を見ました

*仙奕台(せんえきだい)
千波湖をはじめ周囲の景観が一望できるこの突き出して台地を仙奕台と称します。
「奕」は囲碁を意味し、四方を眺め湖上から吹き上げる涼風を受けながら碁や将棋などを楽しんだところです。
石でできた碁盤や将棋盤・琴石・卓石は当時のものです。

北側に在った「左近桜」は枯れてしまって二代目が植えられています


東へ進みます「見晴らし広場」から好文亭を見ました




東門近くの「二季咲桜(にきざきざくら)」が咲いています

この辺で、続きにさせて頂きます、次は「常磐神社」です
