社町は、豊田市役所の北東約2.5kmのところ
豊田市役所前から国道153号線を東へ、挙母町1丁目信号を左(北)へまだ国道153号線です
約900mの久保町2丁目信号を右(東)へ矢作川を高橋で渡ります
間も無く横断歩道橋の左手に八幡宮が南向きに鎮座します
手前を左(北)に入ると、八幡宮西側参道手前に駐車スペースが有ります
南側の参道入口です、スギの木が花粉で黄色になっています
八幡宮です
鳥居です
神馬像です
手水舎の側に目的のクスノキです
手水舎です
南東側から
東側から
豊田市名木愛護会の標識です、胸回り7.5m、根回り11.0m、樹高18mの巨木です
北東側から、幹の中は洞になっています
北側から、北西側に有ったであろう幹が無くなった部分が大きく感じます
参道正面の建物です
舞殿の様です
八幡宮拝殿入口です
社記の石碑です
社記
愛知県豊田市社町1番地
八幡宮
祭神 品陀和気命 正面(応神天皇)
息長比売命 右 (神功皇后)
帯中津日子命 左 (仲哀天皇)
由緒
当八幡宮は平安の昔、高橋荘領主高橋惟康が石清水八幡宮を勧請し、居館した高橋郷不動堂村(現上野町1丁目附近)に瑞籬を営み奉斎した。その後惟康後裔の在地高橋氏により、長承2年(西暦1133)3月15日再勧請創建されたのが始まりである。
勧請創始の高橋惟康は、藤原北家嫡流道隆の孫師太夫忠親と南家文章博士大学頭実範の娘三位の間に出生し、母三位女が相伝した高橋領を伝領相続統治したので高橋殿と云われた。後、甲斐駿河の両国司となり、駿河国に転出した。
往時は数多い神宮寺を有していたと伝えられるが、時運の変遷により漸く悟楽寺・儀隣寺の二ヶ寺の寺号のみ伝承されている。
爾後、高橋荘地頭職中条氏被官東方政所鈴木氏一族崇敬厚く、菅沼家代々禰宜として奉仕するが、矢作川の洪水氾濫和を知らず、その度に社域を害し、御神霊を悩ました。時の禰宜5代寛國これを愁い、御神慮の安からんことを図る。
時の領主渡邊飛騨守源治綱侯寺部村岩前山を社地と卜し、造営遷宮し領内総鎮守とされたのが、人皇御西天皇御宇明歴2年(西暦1656)6月のことである。
以後、渡邊氏歴代の崇敬尊信の念まことに篤く、領民ともどもに領内安穏・武運長久の祈願所であった。往時の例祭には、領主を始め家臣領民参列し、領内村々より警固献馬する慣しで、非常に賑った。
明治5年4月郷社に列せられ、神饌弊帛料共進神社に指定された。
戦後神道指令により宗教法人となった。
昭和35年6月八幡社を八幡宮となし、昭和54年幣殿内拝殿以下を新改築し、其の規模が一新され、昭和55年9月六等級社に昇級し現在に至った。
大祭
例祭 10月10日、新穀感謝祭 12月2日、祈念祭 3月春分日
氏子数崇敬者数
氏子 660戸、崇敬者 10000人
境内地 3232坪
境外地 山林 24042坪
建造物
本殿(6坪)、神饌所(9坪)、幣殿(6坪2合5勺)、拝殿(16坪2合5勺)、内拝殿(13坪5合)、渡殿(2坪5合)、神輿格納庫(4坪)、手水舎(1坪8合)、神門(4合5勺)、透塀(延長16間)、燈籠(17基)、神馬(1基)、社標(2基)、鳥居(木造1石造4基)、社務所(43坪)、手水鉢(3個)神輿殿(4坪)、告知標(1基)、便所(3坪3合)
境内神社 秋葉社・天満社・津島社・山神社・稲荷社・金刀比羅社・神明社・神明社・白山社・猿投社・八柱社
*「御西天皇」とは正しくは「後西天皇」のことで、また、境内社は一村一社令によって集められ合祀されているようです。
境内社の神明社と八柱社です
天満宮です
猿投社です
白山社です
社務所脇の西側参道脇にはイチイガシです
北東側から、イチイガシの幹も洞になってしまっています、幹の上部が無くなった為でしょう
豊田市の名木指定標識です、胸回り 4.25m、根回り 5.0m、樹高18mの大木です
南西側石段から
西側鳥居下から
西側の赤鳥居(木造)です
社號標です
では、次へ行きましょう
豊田市役所前から国道153号線を東へ、挙母町1丁目信号を左(北)へまだ国道153号線です
約900mの久保町2丁目信号を右(東)へ矢作川を高橋で渡ります
間も無く横断歩道橋の左手に八幡宮が南向きに鎮座します
手前を左(北)に入ると、八幡宮西側参道手前に駐車スペースが有ります
南側の参道入口です、スギの木が花粉で黄色になっています
八幡宮です
鳥居です
神馬像です
手水舎の側に目的のクスノキです
手水舎です
南東側から
東側から
豊田市名木愛護会の標識です、胸回り7.5m、根回り11.0m、樹高18mの巨木です
北東側から、幹の中は洞になっています
北側から、北西側に有ったであろう幹が無くなった部分が大きく感じます
参道正面の建物です
舞殿の様です
八幡宮拝殿入口です
社記の石碑です
社記
愛知県豊田市社町1番地
八幡宮
祭神 品陀和気命 正面(応神天皇)
息長比売命 右 (神功皇后)
帯中津日子命 左 (仲哀天皇)
由緒
当八幡宮は平安の昔、高橋荘領主高橋惟康が石清水八幡宮を勧請し、居館した高橋郷不動堂村(現上野町1丁目附近)に瑞籬を営み奉斎した。その後惟康後裔の在地高橋氏により、長承2年(西暦1133)3月15日再勧請創建されたのが始まりである。
勧請創始の高橋惟康は、藤原北家嫡流道隆の孫師太夫忠親と南家文章博士大学頭実範の娘三位の間に出生し、母三位女が相伝した高橋領を伝領相続統治したので高橋殿と云われた。後、甲斐駿河の両国司となり、駿河国に転出した。
往時は数多い神宮寺を有していたと伝えられるが、時運の変遷により漸く悟楽寺・儀隣寺の二ヶ寺の寺号のみ伝承されている。
爾後、高橋荘地頭職中条氏被官東方政所鈴木氏一族崇敬厚く、菅沼家代々禰宜として奉仕するが、矢作川の洪水氾濫和を知らず、その度に社域を害し、御神霊を悩ました。時の禰宜5代寛國これを愁い、御神慮の安からんことを図る。
時の領主渡邊飛騨守源治綱侯寺部村岩前山を社地と卜し、造営遷宮し領内総鎮守とされたのが、人皇御西天皇御宇明歴2年(西暦1656)6月のことである。
以後、渡邊氏歴代の崇敬尊信の念まことに篤く、領民ともどもに領内安穏・武運長久の祈願所であった。往時の例祭には、領主を始め家臣領民参列し、領内村々より警固献馬する慣しで、非常に賑った。
明治5年4月郷社に列せられ、神饌弊帛料共進神社に指定された。
戦後神道指令により宗教法人となった。
昭和35年6月八幡社を八幡宮となし、昭和54年幣殿内拝殿以下を新改築し、其の規模が一新され、昭和55年9月六等級社に昇級し現在に至った。
大祭
例祭 10月10日、新穀感謝祭 12月2日、祈念祭 3月春分日
氏子数崇敬者数
氏子 660戸、崇敬者 10000人
境内地 3232坪
境外地 山林 24042坪
建造物
本殿(6坪)、神饌所(9坪)、幣殿(6坪2合5勺)、拝殿(16坪2合5勺)、内拝殿(13坪5合)、渡殿(2坪5合)、神輿格納庫(4坪)、手水舎(1坪8合)、神門(4合5勺)、透塀(延長16間)、燈籠(17基)、神馬(1基)、社標(2基)、鳥居(木造1石造4基)、社務所(43坪)、手水鉢(3個)神輿殿(4坪)、告知標(1基)、便所(3坪3合)
境内神社 秋葉社・天満社・津島社・山神社・稲荷社・金刀比羅社・神明社・神明社・白山社・猿投社・八柱社
*「御西天皇」とは正しくは「後西天皇」のことで、また、境内社は一村一社令によって集められ合祀されているようです。
境内社の神明社と八柱社です
天満宮です
猿投社です
白山社です
社務所脇の西側参道脇にはイチイガシです
北東側から、イチイガシの幹も洞になってしまっています、幹の上部が無くなった為でしょう
豊田市の名木指定標識です、胸回り 4.25m、根回り 5.0m、樹高18mの大木です
南西側石段から
西側鳥居下から
西側の赤鳥居(木造)です
社號標です
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