ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

福島県猪苗代町、白津八幡神社の二本杉です!!

2016-11-16 06:15:44 | 巨樹・大木
白津八幡神社は、猪苗代町役場の東南東約4kmのところ

県道322号線から、リステル猪苗代へ至る西側の道路を入ると

参道入り口になります、参道の西側に駐車場がありあす



リステル猪苗代のビルが見えます

参道入り口です



参道石段です、拝殿には雪囲いの準備がされています

手水です



参道石段の上、社殿の前に右と


左に杉の大木があります




左側の杉は、融合木の様です



左側の杉を西側から見ました



社殿前から右側の杉を見上げました




社殿脇、北東側から右の杉です

本殿覆い屋です

境内社です


下の境内、南西側から見上げました

目通り幹周りは、左側の杉が5,4mの巨木です、右側は4,7mの大木ですが

左側が融合木だとした場合は、右の杉の方が大きいのかな

では、次へ行きましょう
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福島県猪苗代町、樋ノ口の大公孫樹です!!

2016-11-15 05:00:11 | 巨樹・大木
樋ノ口地区は、猪苗代町役場の北東約6kmのところ

国道115号線を北へ、裏磐梯・土湯トンネル方面へ向かいます

国道東側に吾妻小学校があります、その東側に大銀杏があります

裏磐梯と土湯との分かれ道の一つ南側の信号が樋ノ口です

信号を、南東側へ入る県道323号線に入ります

まもなく、道路東側に大公孫樹があります

小学校東側道路脇に車を止めさせていただきました


交差点東側に大公孫樹があります



北西側から



西側から




南側から融合木のようですが、目通り幹周り7,4mの巨木です

根元に祠が並びます、ギンナンがたくさん落ちていました

では、次へ行きましょう
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福島県猪苗代町、磐椅(いわはし)神社の鳥居杉です!!

2016-11-14 06:33:40 | 巨樹・大木
磐椅神社は、猪苗代町役場の北約1,5kmのところ

土津神社の駐車場に車を置いて、案内図で500mなので

歩いて行きましたが、車でも磐椅神社まで入ることもできます


土津神社の白鳥居前の道路を東へ300m程、この案内板を入ります

用水沿いに砂利道を進みます

200mより距離があるように感じますが~

大鹿桜です

説明版です
   町指定天然記念物
     大鹿桜
       (昭和44年8月1日指定)
     別名「翁桜」とも称され会津の五桜の一つに数えられる名木で、花の色が白色から
    しだいに鹿の毛の色に変化することから、この名前がつけられた。
     社伝によると、今より約一千年前天暦年中(947~957)村上天皇の勅使が参
    拝のときに京都から持ってきて植えたとなっている。
     現在はその子孫である。樹の種類はサトザクラの一品種である。花の中心からおし
    べが緑化したものがでているので、ちょうど花の中から葉が出ているように見える珍
    しいものである。
     福島県緑の文化財登録第一号である。
                    猪苗代町教育委員会(平成4年11月1日設置)


大鹿桜の直ぐ北側に磐椅神社があります

説明版です
    延喜式内勅祀社(旧県社)
     磐椅神社
    祭神  大山衹命 埴山姫命
      相殿  誉田和気命 息長足姫命
    祭日  例大祭 10月10日 春祭  5月14・15日
    由緒
      当社は延喜式内祀社として應神天皇の御代、神功皇后摂政の時、式内大臣の巡視
     のみぎり勅命を奉じ、国土開発の神なる大山衹命・埴山姫命を磐梯山の嶺に奉斎す、
     また元明天皇の御代、和銅年間の草創ともいわれる。聖武天皇の御代、天正元年8
     月25日、見弥山南麓に遷座し、相殿として誉田和気命(應神天皇)・息長足姫命
     (神功皇后)を配祀す。
平城天皇の御代、大同元年夏、磐梯山破裂により社殿損障によって、嵯峨天皇の
     御代、弘仁4年、御造営される、文徳天皇の御代、齋衡3年正月陸奥国、石椅神に
     従四位下と文徳実録に見ゆる、この神、磐椅、岩椅、石椅につくりしを、明治2年
     民政局より磐椅(いわはし)との旨通達あって改む
      村上天皇の御代、天暦元年、勅使御差遣あり、由来を尋ねありし時、宸輪物及び
     桜樹を奉献せられ社殿修覆、奉幣の儀あり、この際の桜を大鹿桜と称す
      土御門天皇の御代、元久2年、猪苗代城主、三浦経連、社領八千余町の寄進あり
     次で正元元年夏現在の所に御遷座され杉を植え、此れを鳥居杉と称す、承久年間に
     は三浦盛常二千三百町を寄進あり、伏見天皇の御代、正應年中、藤原氏の女、御皇
     威の衰え給えるを痛く歎き、私に神㓛皇后應神天皇の御影を鋳せられ神鏡金銀の幣
     額等を添えて永仁3年密使を以て奉献せられる。
      寛文年中保科正之公社殿の造営あり、寬保3年閏4月12日正一位の神階を受奉
     せらる。
      会津磐梯山は父なる山で母なる会津の里の豊作をまたらす神として、人々の信仰
     のよりどころであり磐椅神社は会津の土着の信仰に基づく神体山崇拝の神社で、磐
     椅明神、峰明神として信仰されている。
       昭和61年5月15日         宮司 伊東正則
     



鳥居前右側に鳥居杉があります

手水です




南側から




南東側から

設営版です
  天然記念物
     鳥居杉
    元久二年甲子年、猪苗代城主三浦経連磐椅神社に社領を寄進し、2年後の承元元年夏、
   大鹿桜の傍、現土田堰の南に在った神社を現在の地に遷座して、其の時鳥居の杉として
   社前に稙されたものが此の杉で樹齢約770年である。
    左 西側の杉は、幾度かの落雷で半月空洞状態と成り、昭和33年8月の猛烈な台風で
   地上約15mを残して倒漬し 現在の姿となったとは言い、磐椅神社の神木、鳥居の杉と
   して古い歴史を語り、信仰の中心の御社の尊厳を保っている。
                           猪苗代町教育委員会

鳥居と拝殿です


本殿です



拝殿前から



北西側から目通り幹周り6,7mの巨木です

注連縄には、多くのコインが結び付けられたりしています

境内西端に切り倒された木があります

切り倒された根元の直径が1,7mもある松の様です


南側参道には西峯遺跡があります



南側の参道です


では、次へ行きましょう
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福島県猪苗代町、土津神社(保科正之公墳墓)です!!

2016-11-13 04:05:07 | 文化財・寺社
土津(はにつ)神社は、猪苗代町役場の北約2kmのところ

磐梯山南麓、猪苗代スキー場の入り口にあります

公営無料駐車場が手前東側に用意されています

白鳥居の目立つ参道入り口です

説明版です
  土津神社
    土津神社は磐梯山南東ふもとににあり、今から20万~30万年前の磐梯火山の噴出
   物が堆積した斜面上に立地しています。
    徳川三代将軍家光の異母弟で、徳川四代家綱を補佐した会津藩松平家の初代保科正之
   を祀った神社です。正之公は磐梯山の神、磐椅神社の末社として自分を祀るよう遺言さ
   れ、その社は没後1675(延宝3)年に土津神社として創建されました。
    造営された社は、日光東照宮と比べられるほど絢爛豪華なものだったといいます。
    残念ながら創建当初の建物は、戊辰戦争で焼失してしまいました。現在、神社、奥の
   院(保科正之公の墳墓)ともに会津藩主松平家墓所として国指定史跡となっています。
    土津神社の墓石、石碑、石燈籠など江戸時代に作られた石造物のほとんどに、磐梯火
   山や猫魔火山を形成している安山岩が使われています。

案内板です
   土津神社は二代将軍秀忠の第四子会津松平家の初代藩主保科正之公(1611~167
  2)をお祀りした神社です。
   正之公は吉川惟足、山崎闇斎、横田俊益等当時の最高学者を師とされ殊に当時殆んど絶
  えなんとした日本古来の卜部神道の大家吉川惟足を師とせられ四重の奥秘を受け継がれ体
  得されると共に領内の政治、産業、文化、教育、武道の基盤を定められ是が実践を図られ
  た。
   幕府は神道方を置き、神道精神の復興に大きな貢献をされた為、土津霊神の霊号を受け
  られたのである。
   記
  祭神土津大明神正之公の霊号
  相殿客神高良玉垂の大明神
      式内宿袮の神号
  相殿合祀三代~九代歴代藩主

参道を進むと拝殿ですが

右に土津霊神之碑があります

案内板です 
  土津霊神之碑
   この碑は御祭神保科正之公の事績を大義名分を最も重視された大学者山崎闇斎先生が心血
  を注いで綴られた大文章である、字数1943文字、日本最大のものである。
   碑石高  5,45m(一丈八尺)
     幅  1,83m(  六尺)
     厚  1,51m(  五尺)
   重 量 30,0t余(八千余貫)


四面に文字が並びます

町指定重要文化財(美術工芸品)に指定されています

神楽殿です

さらに高い位置に本殿です

本殿です、本殿を取り囲む形で、霊神社が並びます

右側手前から岩彦神社(正之公の嫡子の社)

信彦霊社(城代)

之彦霊社(家老)

津彦霊社(家老)

忠彦霊社(重臣)

石彦霊社(正之公の七子)

左側に少し離れて進功霊社があります

土津神社初代宮司を祀っています

奥の院へ行きましょう

玉石の敷かれた参道を進みます

井戸の様です

石畳遺構の説明版です

道路を越えてさらに進むと

奥の院の門です

説明版です
   町指定史跡
     保科正之公墳墓
       昭和60年3月28日指定
     会津藩初代藩主保科正之公は寛文12年(1632)12月18日江戸において、
    62歳で亡くなられた。正之公は「我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」
    と自ら埋葬地を猪苗代湖が一望できる磐梯山麓に決めていたので、二代藩主正経は、
    遺言どおり墳墓の造営にあたった。
     最初南北六十間、東西五十間を整地し、その中央に小屋を建て棺を安置し、その周
    囲南北三十間、東西三十二間に柵を作り四方に鳥居を立て、3月26・27の両日に
    わたって葬儀をとり行った。その後棺の所に円墳を築き頂上に「土津神墳鎮石」と刻
    んだ八角形の鎮石を建てた。
                     猪苗代町教育委員会(平成8年2月設置)

会津中将源君之墓の墓碑です

円墳の上に鎮石があります

墳鎮石です

東日本大震災の地震で墳鎮石がずれてしまいました、災害復旧の説明版がありました

では、磐椅子神社へ行きましょう
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福島県猪苗代町、天子のケヤキです!!

2016-11-12 18:21:09 | 巨樹・大木
天子のケヤキは、猪苗代町役場の東約1kmのところ

猪苗代商店街のメインストリートの直ぐ東側

JAあいずの南側広場の奥に

亀城趾の土塁の跡を思わせる上に有ります


南側、広場から見ました

階段がありますが~、無断侵入禁止ですので

覗いてみました、祠と石像・古木が見えました

東から見ました


見えるケヤキが目的のケヤキです

日本一の幹周のケヤキだったようです、現在は、南側が枯れてしまっているようですが~

嘗ての規模は、目通り幹周り15,4mの巨木です

では、次へ行きましょう
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福島県猪苗代町、百目貫の公孫樹です!!

2016-11-12 07:13:05 | Weblog
百目貫は、猪苗代町役場の南南西約1kmのところ

この時期、役場の南側に広がる、稲刈りの済んだ田の先

家並みの中に黄色く色づいた銀杏の巨木が目に付きます

南側の道路を回り込むと、イチョウの根元にはトラクターが止まっています

道路脇に車を置かせていただきました


南側から

境内の南側には石塔が並びます




南東側から見上げました


説明版です
    町指定天然記念物
      百目貫の公孫樹
        昭和48年12月20日指定
       故事によれば、昔、地蔵堂を含むこの地に東光寺という大きな寺院があり、この
      公孫樹はその境内にあったと伝えられている。
       樹形は箒形で地上約4mで三幹となり、乳枝が垂れ下がり乳公孫の相を呈してい
      る。樹高21m、胸高幹周5,2m、枝張り20m四方、樹齢推定千年の巨樹であ
      る。
       一説に昔摂津の河原田泉というところから、東光寺の観音様を背負ってきたとき
      の杖を挿して根付いた「逆さ公孫樹」とも伝えられている。
       福島県緑の文化財登録第349号      猪苗代町教育委員会
                             (平成5年10月設置)





南西側から


こちらも説明版です
    猪苗代町指定天然記念物
      百目貫大公孫樹
        樹 高 30,0m
        周 囲  5,2m
        枝はり 20,0m四方 
       本公孫樹のあるこの一帯にむかしあったという東光寺という寺の観音を摂津の河
      原田泉という所から背負い申してきたとき、携えていた杖を地にさしたところ根付
      いた逆さ公孫樹という伝説がある樹齢千年の古い公孫樹である。
       昔の広い境内の跡だというこの場所には今、地蔵堂、麓山神社、御篭り堂などが
      まつられている。
                             百目貫区

地蔵堂です

南側棟続きに麓山神社の社があります



北側から

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福島県北塩原村、打越山大正寺の大銀杏です!!

2016-11-11 05:11:45 | 巨樹・大木
大正寺は、北塩原村役場の北西約1kmのところ

国道459号線から北へ、三ノ森川に沿って登って行きます

参道入り口に駐車スペースがあります


参道入り口です

北山漆薬師如来の文字が見えます

打越山大正寺です、境内に大銀杏があります

説明版です
  北塩原村指定重要文化財
    天然記念物 大正寺の大銀杏
     指 定 昭和61年3月6日
     所在地 北塩原村大字北山字寺ノ前4590
    樹齢約1100年、自然樹形の雌樹で樹高約33m、胸高周囲5,5m、
    乳根ができている。
    昭和58年には福島県緑の文化財に指定されている。 
    なお、当寺は会津五仏の一つである北山漆薬師堂の守り寺として弘仁4年
    (813)の開山と伝えられている。
                       北塩原村教育委員会

参道から見上げると、杉が目立ちますが~

手水舎です

参道石段と山門です


左右に六地蔵様がいらっしゃいます




大銀杏です

本堂です

北山里薬師如来の由来です



本堂前から



紅葉が見頃を迎えています

腹打霊石です

傳教大師聖句が彫られています

おんばさまです

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福島県湯川村、浜崎城址です!!

2016-11-10 06:43:03 | 城跡・館跡・陣屋跡
浜崎城址は、湯川村役場の北北東約3kmのところ

国道121号線で北に進むと、JR磐越西線を越えて西側の道路に入ると

道路脇に説明版があります、道路が本丸の中央を通っています

日橋川の手前の道路が広く成ってるところに車を置かせていただきました

道路脇に説明版があります、本丸南端です

説明版です
   史跡「浜崎城址」案内図
     本城趾は、中世から近世にかけて会津盆地のほぼ中央を通る米沢街道の要衝、浜崎集落の
    北東に在って、北を日橋川が西流し、「北方(きたかた)」と称した会津北部を押さえる位
    置を占める重要拠点であった。「会津古塁記」によると「別名藤森城と称し、浜崎主馬、至
    徳年間(1384年~1386年)築く」とあるが築城年代は詳でない。
     古文書(真壁文書)によれば、観応3年、1352年正月から三浦若狭守(葦名直盛か)
    は真壁政幹の代官、薄景教らを率いて、河沼郡の合川、浜崎城、蜷河庄政所館(会津坂下町
    )等を攻めていることが「真壁文書」にある。
     この文書にでてくるのは浜崎城の歴史上の初見である。
    これは浜崎城がそれ以前に築城されていることを物語るものである。
     下って、宝徳3年(1451年)及び亨徳2年(1453年)葦名氏の内紛による二度に
    わたる浜崎城をめぐる合戦があり、浜崎城は落城し、浜崎靭負政頼や松本右馬允通輔の一党
    は滅亡した。
     浜崎城は慶長の初めごろ(1600年)までは、日橋川と大塩川の二大河川が合流する岬
    の微高地地域(元塩川町古町地内)にあった。天正18年豊臣秀吉は、小田原の北條氏を攻
    め滅ぼし、同年8月に「奥州仕置」を終えて、会津を蒲生氏郷に与えた。氏郷は翌19年家
    臣の知行割を行い、重心らを領内各所に配置した。塩川の浜崎城へは蒲生喜内頼郷(横山喜
    内)をいれたが、この浜崎城は南と北を二つの河川に挟まれた地域で、再々水災に遭い悩ま
    されていた。
     慶長6年(1601年)10月蒲生秀行の代には、家臣の蒲生主計介郷貞を塩川の浜崎城   
    に入れたが、主計介は水災を怖れて日橋川南岸の浜崎の地に城域を移し新に築城した。これ
    が現存の浜崎城址である。元和元年(1615年)一国一城の制度になった時、この浜崎城
    址は廃城すべきであったが、蒲生氏は「茶屋」と名づけ、暫しの年月そのまま残しておいた。
     城址の規模は、「浜崎城跡発掘調査記録」によると、本丸東西90mに幅約10mの濠を
    めぐらし、二の丸はその西北に並んでいたことがわかる。現存の城趾は本丸の西と南、東北
    の一部に土塁が残り、東と西に濠跡が湿地となり、南は水田になっている。中央を国道12
    1号線が南北に通り、本丸を東西に分断している。
     二の丸は西北に続いていたが現在は畑になっている。二の丸のほぼ真ん中をJR磐越西線
    が走り、土塁と濠は共に破壊されて、その跡をとどめていない。
     本城址は昭和56年3月27日湯川村史跡に指定された。
                             湯川村教育委員会




         

想定図です

説明版北側の住宅脇の土塁、本丸西側部分です

北側の側溝は堀の跡です

本丸東側の堀跡は良く残っています

中に入ってはいけません

川沿いに土手道が造られて

堀の部分が残っています

北東側土塁です

北側の川と土塁の間に道路が出来ています

道路脇の土塁は、北側虎口の部分です

中側から北側の土塁です、今も1m以上の高さがあります

土塁の上に史蹟標柱がありました

日橋川に橋が架かっています

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福島県湯川村、北田城址です!!

2016-11-09 06:46:29 | 城跡・館跡・陣屋跡
北田城址は、湯川村役場の北西約3kmのところ

県道331号線の西側耕地の中に有ります

田圃の中の道を進み、稲刈りの済んだ田圃の真ん中です

県道331号線脇に案内板が有ります

西に進むと区画整理された田圃の真ん中にまた案内板です

北へ進むと、城跡が見えて来ます

小山の上に北田城祉の標柱があります

村指定史跡 北田城趾です

説明版です
   史蹟 「北田城趾」案内図
     北田城址は、会津における数少ない中世鎌倉時代初期の古城塁趾で、耶麻郡猪苗代町の
    亀ヶ城趾、喜多方市慶徳町の新宮城址とともに、中世会津の歴史を語る上で欠くことので
    きない存在価値をもつ城塁祉である。
     北田城は、建久4年(1193年)佐原次郎廣盛が築いて居住したところである(会津
    古塁記)廣盛は佐原遠江守盛速の次男で北田氏を称した。その子孫が216年間代々ここ
    に居を構え勢力を振ったが、応永16年(1409年)6月3日、6代上総介政泰に至り
    葦名盛政に攻め滅ぼされた。(塔寺長帳)
     城址は、湯川と旧日橋川との合流点の南西高台であり、当時は北に新宮城、南に小高木
    城(後の鶴ヶ城)があり会津の平地における要害の地であった。
     現在は、北田城本丸の南西の一部であり、この土塁は、昭和58年に行った記録保存調
    査の際に、最初の小さな土塁に土を盛り補強されたものであることが発見された。(北田
    城祉調査報告書)
     塁上に建っている碑は、昭和35年4月有志によって建立されたものであり、次の詩が
    刻まれている。
                            湯川村教育委員会

想定図です

東側

南側

西側

北側の眺めです

白鳥が田圃の落穂で朝食中でした

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福島県湯川村、国宝所蔵の勝常寺です!!

2016-11-08 06:43:18 | 文化財・寺社
勝常寺は、湯川村役場の西約2kmのところ

県道331号線沿いの常勝小学校の西側に在ります

小学校の南側に駐車場が用意されています


駐車場の案内板です

南から参道の道を進むと大きな欅があります

もう直です

入り口右側には池の中島に神社があります

本堂へは、左側の参道を行くようです

国宝の石柱です

山門の仁王門です

説明版です
   勝常寺の概観
     勝常寺は大同2年(807)、あるいは弘仁元年(810)南都六宗の一つである
    法相宗を学んだ徳一上人の開基と伝えられている。
     創建当寺の建物は現存していない。
     薬師堂は、会津中央薬師堂と呼ばれ、応永5年(1398)の再建で和様、唐様式
    の手法を加えた堂である。これ以外の建物は近世以後のものである。
     仏像は創建当時の仏像12躯など三十余躯あり、平安初期の仏像が一時院に十二躯
    も保存されているのは珍しい事である。
   国宝
     薬師如来座像          (1躯)
     日光菩薩立像          (1躯)
     月光菩薩立像          (1躯)
   国指定重要文化財
     薬師堂(元講堂)        (1棟)
     十一面観音菩薩立像       (1躯)
     地蔵菩薩立像          (1躯)
     聖観音菩薩立像         (1躯)
     四天王立像           (4躯)
     地蔵菩薩立像(雨降り地蔵)   (1躯)
     天部像立像((伝虚空蔵菩薩)  (1躯)
   村指定文化財
     徳一菩薩座像          (1躯)
     絹本着色両界曼荼羅図      (1幅)
     絹本着色真言八祖像掛軸     (8幅)
     絹本着色十二天画像掛軸     (12幅)
     不動明王立像          (1躯)
     十二神将立像          (12躯)
   拝観時間  午前9時~午後4時
   拝観期間  4月1日~11月中旬
   休館日毎週火曜日
     昭和60年9月4日
     国重要文化財収蔵庫修理落慶記念として設置した物を、国宝指定を記念して書替え
    たものである。
                         湯川村教育委員会
    


手水舎ですが水道の蛇口が並びます

国指定重要文化財の薬師堂です

鰐口です

宝物殿です、拝観には予約が必要の様です

嘗ての伽藍の説明版です
   勝常寺は大同2年(807)伝教大師の論敵として有名な法相宗の碩学徳一上人によって
  開かれた東北を代表する古刹である。創建当初の寺院名は詳でないが中世以降常勝寺と称し
  ている。
   創建された当時は七堂伽藍が備わり、盛時には多くの付属建物が立ち並んで12の坊舎と
  百余ヵ寺の子院を有する一大寺院であったと伝えられているが、現在残されている建物は元
  講堂(薬師堂)を除く外は近世以降の建物であり、本坊(客殿)庫裏、中門等で仏像も三十
  余躯ある。
   このうち3躯は国宝指定を受け、更には薬師堂と9躯は国重要文化財の指定を受けている。
  講堂は応永5年(1398)の再建で会津中央薬師堂と呼ばれている。
   仏像は何れも今から約1170余年前、勝常寺が創建された当時から伝えられたもので、
  これだけ多くの平安初期の仏像が一か所に保存されているのは我が国では珍しいことである。
   創建時の主要建物の位置は伝承、焼け土、道路等に拠り大体は想像できる。講堂を起点と
  して南に向って大体等間隔に金堂・中門・南大門の位置が一直線上に立ち並んでいたことが
  想定できるし、三重の塔跡は中門のそと東側にある講堂の近くにあったはずの経蔵・鐘楼・
  僧坊等の位置は明瞭でない。
   本坊は現本坊の区画内に南向きに建てられていたらしい、中門の前の路を通り本坊へ達し
  たと考えられる。東大寺に似た伽藍配置であったらしい。

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群馬県桐生市、「伝」桐生大炊介手植のヤナギです!!

2016-11-07 05:33:54 | 巨樹・大木
ヤナギがあるのは、桐生市役所の東約1,5kmのところ

町中のちいさな公園に有ります

公園脇に車を止めさせて頂きました



案内板です


公園入口から大柳です

群馬県指定天然記念物 伝桐生大炊介手植のヤナギの標柱です

説明版です
    群馬県指定天然記念物
      「伝」桐生大炊介手植のヤナギ
         指定年月日 昭和27年11月11日
      樹齢約400年と推定されるアカメヤナギの雌株である。
      永正13年(1516年)頃、桐生城主桐生重綱がこの付近に鷹狩をした際、
     名馬浄土黒が突然倒れ、重綱も間もなく死去した。 
      重綱の子桐生大炊介助綱は、馬をこの地に埋め、供養のため1本の柳を植えた
     のがこの柳であると伝えられている。
      周辺の環境変化によって、この数年の間に樹勢が衰え、昭和56年には樹勢回
     復のための自動給水装置を設けた。
      しかし、昭和57年8月の台風禍によって大枝が折れ、景観は変わった。
        昭和58年3月              桐生市教育委員会






南西側から



南東側から



北側から




東側から目通り幹周り4,2mのヤナギの大木です

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群馬県前橋市、八幡神社の大イチョウです!!

2016-11-06 20:35:40 | 巨樹・大木
八幡神社は、前橋市役所の南東約1kmのところ

訪問したのは、例大祭の翌日です

前橋市内の中心部にあります

境内南側の広場に車を入れる事が出来ました


正面鳥居です

手水舎です

重要文化財の標柱です

重要文化財の説明版です

拝殿です

額です



大銀杏です



東側から

保存樹指定標識があります

境内社です

お百度石です



社殿裏側のケヤキの大木です

保存樹指定標識です

南側の広場から大銀杏です

鳥居と社殿の間にも銀杏の大木があります


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群馬県渋川市、金蔵寺のしだれ桜です!!

2016-11-05 03:37:34 | 
金蔵寺は、渋川市役所の北北西約4kmのところ

県道35号線北へ、県道沿いに参道入り口があります

駐車場は、参道西側と本堂西側です

参道入り口に案内板です

参道です




山門を入った直ぐに桜の大木があります

群馬県指定天然記念物 金蔵寺のしだれ桜の石碑です

説明版です
   金蔵寺のしだれザクラ
    1、名称及び員数
       群馬県指定天然記念物 金蔵寺のしだれザクラ 一本
    2、指定年月日
       昭和27年11月11日
    3、所在地
       群馬県渋川市金井1965番地
    4、指定理由
       群馬県文化財保護条例第三十八号の規定による。
       指定等の基準第六の一の一による。
    5、文化財の概要
       このサクラがさきはじめるころ、里芋の種を取り出して植え付けをはじめることから、
      地元の人たちは親しみをこめてこの木を「いも種ザクラ」とよんでいる。
       木の大きさは、根元廻り5,5m、目通り3,2mで樹勢は盛んである。
       花の色には紅白二種があるが、この木はだいたい白色種であり、境内には種から生え
      た白nしだれザクラがある。 
       なお、この木は枝の部分によって花に紅味を帯びたところがあり、しだれザクラの系
      統上からも注意すべきものである。
        平成元年3月31日            群馬県教育委員会
                             渋川市教育委員会
                       


境内側から

参道から振り返りました

六地蔵さまです

本堂です

市指定天然記念物 金蔵寺のナンテンの標柱です

説明版です


小さな木しか見当たりませんでした

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群馬県東吾妻町、箱島甲波宿禰神社の大欅です!!

2016-11-04 06:27:05 | 巨樹・大木
箱島地区は、東吾妻町役場の東南東約10kmのところ

県道35号線沿いに箱島郵便局があります

北側に入った所に、甲波宿禰(かわすくね)神社があります

社殿北側境内に駐車スペースがあります

参道鳥居です

甲波宿禰神社です



鳥居脇のケヤキです




根張りが立派です

手水です

拝殿です

本殿です

説明板です
    甲波宿祢神社の彫刻・神輿
      (町重要文化財 昭和48年月23日指定)
    甲波宿祢神社の創建は古く、延歴4年(785)といわれている。
    拝殿の木鼻の唐獅子の彫刻は、ケヤキの木地を生かした優れたものである。
    側障子の彫刻は、一枚ケヤキに彫刻を施したものである。
    神輿(みこし)は安永4年(1775)の作で、秋の祭典にかつがれる。

文化財標柱です、大欅の文字があります




社殿右手に大欅です

東村名木十選 甲波宿祢神社のケヤキの標柱です




南西側から、目通り幹周り5mの巨木です




東側から、注連縄の巻かれた御神木です




コナラの大木です

東村名木十選 甲波宿祢神社のコナラの標柱です

境内端に多くの祠が並んでいます




社殿北側にもケヤキの大木が並んでいます



道路脇の一本は道路にはみ出した枝の多くが切られてしまっていました

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群馬県渋川市、村上佐間神社の大ケヤキ2本です!!

2016-11-03 07:50:51 | 巨樹・大木
村上地区は、渋川市役所の北西約8kmのところ

国道353線で草津方面へ向かうと、JR吾妻線おのがみ駅のある地区です

地区の北側中央部に佐間神社があります

鳥居前に駐車スペースがあります

参道入り口です

.
入り口鳥居脇右側のケヤキですこちらが現在一番太い目通り幹周り5,3mの巨木です


左にも大ケヤキがあります

左側ケヤキの足元に道祖神様がいらっしゃいます

説明板です
    佐間神社の双神
      寬保元歳酉四月吉日(1741年)邑中とあり、高さ52cm 幅36cm 厚さ23cm
      吾妻から本村に入り最初の道祖神である、旅人達はこの森でしばしの休憩した。
         渋川市村上135番地





右側の大ケヤキを境内側から見ました





左側の大ケヤキも境内側から見上げました

手水舎です

拝殿です

本殿です

神楽殿です

境内社です



拝殿西側のケヤキです

境内東側に玉垣があります

天然記念物 佐間神社大けやきの標石が残ります

ここに、さらに大きなケヤキがあったようです

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