2014年4月26日
来迎寺(らいごうじ)は、浄土宗西山派の仏教寺院です。
寺伝によると、平清盛公は我が国の貿易の中心地はこの兵庫であると確信して、良港を築くために海岸線を埋め立てる工事に着手した。
しかし、潮流が速く難工事であった。時の陰陽師が30人の人柱と一切経を書写した石を沈めるよう言上した。通行の旅人を捕らえたが肉親からの非歎は大きかった。このとき、清盛の侍童である讃岐香川領主大井民部の子、松王17歳が「人柱は罪が深い、わたしひとりを身代わりに沈めてください」と申し出た。応保元年(1161)7月13日、千僧読経のうちに松王は海底に沈み経ケ島造営は完成した。天皇は大いに感動され、松王の菩提を永く弔うために当寺を建立し、念仏の道場とされた。依って経島山来迎寺不断院と号し、通称築島寺の縁起です。
神戸市兵庫区島上町2-1-3
map


清盛の寵姫妓王と妓女の墓
平家が壇の浦で敗れたため、平家ゆかりの兵庫の八棟寺(来迎寺の末寺)で一門の菩提を弔った。


松王小児入海之碑


珪化木
土中に埋もれた樹木が化石となったものです。


来迎寺(らいごうじ)は、浄土宗西山派の仏教寺院です。
寺伝によると、平清盛公は我が国の貿易の中心地はこの兵庫であると確信して、良港を築くために海岸線を埋め立てる工事に着手した。
しかし、潮流が速く難工事であった。時の陰陽師が30人の人柱と一切経を書写した石を沈めるよう言上した。通行の旅人を捕らえたが肉親からの非歎は大きかった。このとき、清盛の侍童である讃岐香川領主大井民部の子、松王17歳が「人柱は罪が深い、わたしひとりを身代わりに沈めてください」と申し出た。応保元年(1161)7月13日、千僧読経のうちに松王は海底に沈み経ケ島造営は完成した。天皇は大いに感動され、松王の菩提を永く弔うために当寺を建立し、念仏の道場とされた。依って経島山来迎寺不断院と号し、通称築島寺の縁起です。
神戸市兵庫区島上町2-1-3
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清盛の寵姫妓王と妓女の墓
平家が壇の浦で敗れたため、平家ゆかりの兵庫の八棟寺(来迎寺の末寺)で一門の菩提を弔った。


松王小児入海之碑


珪化木
土中に埋もれた樹木が化石となったものです。

