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斑鳩寺

2016-11-18 22:58:20 | 西播磨
2016年11月18日お参りしました。
説明書「聖徳太子がご開創になった霊刹である。推古天皇14年(606)秋7月、、天皇は太子に請うて、勝鬘経を講ぜしめられた。そこで太子は豊浦宮でこれを講ぜられることを三日で終わった。その夜仏天が感応し給いて、蓮華の花が講演の地に降りしいたと伝えられる。この年又太子は法華経を岡本宮で講ぜられた。天皇はその妙味を叡感され、播磨国揖保の郡に於いて、水田百町を太子に賜った。よって太子はこの地を鵤荘と名づけられ、一つの伽藍を営ませられた。これが仍ち当寺である。往古には七堂伽藍、数十の坊院がいらかを並べ、真に華麗を極めていたが、天文10年(1541)尼子政久氏の播磨侵入後の混乱の中惜しくも堂塔尽く焼失した。その後楽々山円勝寺の昌仙法師により漸次再建されたのである。当寺は太子ご創建から一千年間は大和法隆寺の末寺的存在であったが、火災再建後天台宗となる。」

兵庫県揖保郡太子町鵤709
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徳川初期の境内図

仁王門











南門





手水舎



聖徳殿前殿(兵庫県指定文化財)
「桁行五間、梁間五間、単層、入母屋造、向拝一間、本瓦葺。聖徳殿前殿は、もと聖徳太子像を祀っていた太子堂である。本来五間四方で、内部中央三間四方を内陣とする。斑鳩寺で最も重要な建造物で嘉暦4年(1329)の「鵤荘絵図」に描かれており、永正16年(1519)に政所僧が寺の門を閉め、太子堂に立てこもり、赤松氏の軍勢が鵤荘へ入るのを阻止したとの記録がある。なお、太子堂は天文10年(1541)に焼失し、同20年(1551)復興され、その後、寛文5年(1665)再建されている。明治43年から大正3年にかけて西側に中殿と八角堂を増築して太像を祀っている。」



















中殿(登録有形文化財)
「中殿は前殿と後殿を繋ぐ両下造の本瓦葺。梁間4間の身舎が二重折上格天井の内陣で,両側面の裳階は廊下とする。両妻の柱は前殿と後殿の柱を兼用し,内部空間は実質桁行5間規模となる。伊藤平左衛門設計の近代仏堂である。」



八角堂(登録有形文化財)
「3層の屋根を重ねた八角円堂の外観で,中殿取合い部の南北に入母屋造翼部を突出。上層は三手先に扇垂木,中間の庇は平三斗に疎垂木,下層は出組に繁垂木と変化を付ける。内部は中殿に面して唐破風を飾り,中央に厨子を納める。伊藤平左衛門設計の近代仏堂。」





太子堂

























弥勒堂



三重塔(重要文化財)
「永禄8年(1565)赤松正秀により再建。全高25m。」

















鐘楼(兵庫県指定文化財)
「桁行三間、梁間ニ間、袴腰付き、入母屋造、本瓦葺。元禄6年(1693)再建。」









東門









山王社








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