旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

阿閇神社(あえじんじゃ)

2023-03-23 21:12:19 | 東播磨
2023年3月22日、お参りしました。
「明神鳥居をくぐり拝殿を真っすぐ進むと、本殿は4棟、横一列。それぞれが一間社春日造りで、正面の縁は廊橋で結ばれる。屋根は檜皮葺きで、現在の本殿は1702(元禄15)年の建立さとれ、県指定文化財となっている。『播磨風土記』に『阿閇の津』と記され昔から港として発達し、舟人の往来の盛んな所で『住吉大社神代記』(大平3年)に阿閇社とあることから、ここに海上守護神として摂津の住吉大社から『子神』として御分霊を奉斎したのが当社である。後に、源季房朝臣(赤松氏の祖)が播磨国の守護として、加古郡大内村に移住され、国家安全を祈願された。のち、赤穗郡に白旗城を築き居城とされたが、赤松氏の祈願所として深く崇敬を受け、ために、社殿は赤松氏の居城に向かって西向に建立されているという。」
兵庫県加古郡播磨町本荘4丁目11-21
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社標

鳥居

社務所

手水舎

鳥居

由緒書

狛犬



拝殿



本殿(兵庫県指定文化財)
「この本殿は、一の宮から四の宮に至る四社からなり、南北線上に西向きに近接して並立している。北橋の一の宮には表筒男命、二の宮には中筒男命、三の宮には底筒男命、南端の四の宮には息長帯姫命をまつっている。建立年代については、普請関係文書が残されており、それによれば、1701(元禄14)年5月に大阪・宮屋藤兵衛から『皇子造一間社仕様帳』を出させて工事に着手し、翌15年11月には、すべて作業は完成したらしい。現在の本殿は、様式作法からも、そのときのものに相違なく、各四社は、一間社春日造の同形・同規模からなり、いずれも正面の縁を廊橋で結ぶ形式をとっている。屋根は檜皮葺で、切妻の妻入正面に軒唐破風つき庇を出し、棟には、千木鰹男木を飾っている。各四社とも、元禄造営後は、1800(寛政12)年の屋根替えをはじめとして幾度かの修理を経ており、柱間装置・縁まわりなどにその跡がみられるが、主要軸部には旧材が残されている。特に組物や蟇股・木鼻・手狭などの細部手法は江戸中期ごろ特色を良く表していて、保存もよい。各部には、良質の材料を用い、工作も優秀である。この本殿は、江戸中期の造建ではあるが、正規の春日造り形式をよく伝え、特に、四社が軒を近接して並立する配置は他に類似例が少なく、神社建築史研究上注目される遺構である。」









阿閇恵美須神社
「当神社は、事代主命・三穂須須美命を奉斎し、蛭子命を合祀しています。昔から海運が展け、漁業・農業の盛んな土地で、里人は産業隆昌の守護神として各地に蛭子神社をお祭りしていました。近年、当地は臨海工業地帯として目覚ましい発展を遂げており、更に氏子地域諸々の産業・氏子住民の福徳円満家運隆昌を祈念し、ここに出雲国美保神社より御分霊を戴き、1965(昭和40)年阿閇神社の玉垣内に新社殿を建立し奉斎いたしました。」







大将軍社

大歳神社

塞神社












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圓満寺

2023-03-23 18:11:26 | 東播磨
2023年3月22日、お参りしました。
「弘法大師が開祖とされる。山号は巌光山と号す。約1キロ南西の無量寿院の住職が隠居の後に過ごす寺として創建されたという。江戸時代の初期 全国に寺請制度が実施されるのに伴い、姫路城主より寺領地を下賜されると共に、加古郡土山村の檀那寺と言う役目を負い、圓満寺は加古郡阿閇庄野添村字北川原に移転した。五重塔は1993年に建築、鉄筋コンクリートのもの。」
兵庫県加古郡播磨町上野添2-1-1
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山門













手水舎

仏足石

十二神将





夢現一願観音

髪塚

修行大師

写経塚





水子地蔵尊

茶之寿観音

不動明王

本堂

播磨五重塔 舎利宝塔


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御厨(みくりや)神社

2023-03-23 16:19:05 | 明石市
2023年3月22日、お参りしました。
説明書より「祭神は、応神天皇(誉田別命)、菅原道真、素戔嗚尊(牛頭天皇)。往年の火災により、社殿と共に記録文書を焼失し創立の年月は不祥。社伝によると、神功皇后の西征の際、この二見浦に船を泊めて船子を加え兵糧を集めた時、土地の者が食物を奉ったところという。その故事によって御厨(神饌を調進する所)の名が起った。この御厨という言葉は、主として伊勢神宮について使用されることから、伊勢神宮の荘園ではなかったかとの説もある。貞観年間(985~987)に八幡宮を勧請した。901(延喜元)年菅原道真が筑紫大宰府に左遷されて西行の途次、船をこの浦に寄せて社地に上陸した所縁により、寛和年中(985~987)に天満宮を勧請した。この当時の社地は君貢神社(二見町東二見1)付近と伝え、菅原道真が西下の時、一夜の宿とした岡を"仮寝の岡"といい、そこに手植えした松を"仮寝の松"として神木とされ、二見の名所であった。松は枯れたが、石碑は残っている。しかし、菅公が休息したのは現在の社地であるという説もあり、鳥居の傍の松に"菅公腰掛松"というものがあったといい、また菅公が右大臣であったところから、大臣の唐名・丞相を冠して地名とした丞相谷は現在地の南方にある。現社地が卯ノ花ノ森に移ったののは長暦年間(1037~1040)と伝えられる。卯ノ花ノ森は常盤木の森ともいい、付近一帯を御社の岡と呼ぶ。土地柄から船頭や回船業者など開運関係者の崇敬が厚く、拝殿内に帆前船の絵馬と模型が奉納されている。天正年中(1573~1591)に池田輝政公が境外に社領40石を、1618(元和4)年に徳川家光公が、御朱印地40石と山林を寄付された。又、往時の神仏混淆時代、御厨神社の別当時として海雲寺があり、神社に接して円林坊、常光坊、西二見に最蔵坊と宝積坊が塔頭として存在していた。海雲寺とはこの四坊の総寺号で、神社境内に接した二坊(菅相院)が天満宮を支配し、西二見の二坊(威徳院)が八幡宮の別当だったという。現在残っているのは西二見の威徳院だけである。祭事は1月18・19日の厄除大祭、3月25日春祭、7月10日・11日祇園祭、7月25日夏祭、10月20日~26日の土・日曜の秋祭がある。」
兵庫県明石市二見町東二見1323
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鳥居







手水舎



安永三義之碑
「安永三義人とは江戸時代の安永年間(1772~81)に東二見村を飢えから救った弥惣兵衛、市郎右衛門、伊左衛門のことで、林村の漁師と東二見の漁師が鹿の瀬のタコツボ漁で争いがあり、東二見は裁決で敗れ、漁場が無くなり東二見の村人は悲惨な状況に追込まれました。安永2年老中松平右近が江戸城を下り二見村を通過した時に、3名は厳罰覚悟で老中に現在の窮状を直訴しました。この直訴のお陰で、東二見村の漁師は沖での漁が認められ、村は飢えから救われました。」



随身門

仮寝の松

狛犬



拝殿











本殿



















社務所







境内社、由加神社(手置帆負命)・秋葉神社(武甕槌命)・金刀比羅神社(大物主命)

朝日神社(天照大神)

高良神社(武内宿祢、大年神)、大年神は大正8年6月西二見字野々口より合祀



稲荷神社(宇迦能魂命、大山祇命)大正2年2月合祀










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