2021年11月18日、お参りしました。
説明書より「天武天皇が吉野山より東国へ向かう時、この地で大山咋神の化身であるという樺井翁と軍議を談じ、翁が姿を消したあとに残された宝珠をこの地の後に鎮めとし、のち701(大宝元)年に秦都理が霊夢によってこの宝珠を得て、これを神体として宮殿を創建したのがはじまりと伝える。
近世以前は、御霊神社が『下の宮』と呼ばれたのに対して、『上の宮』と呼ばれ、ともに椿井から上狛にかけての人々の信仰を集めていた。拝殿棟木に墨書銘があり、現在の拝殿が1610(慶長15)年に再建されたこととともに。有力農民の代表である『十二番頭』や南村(上狛)と北村(椿井)の宮座一老、松尾社、御霊社の神主などの名が記されている。また、宮座に残されていた遷宮神事を行う時の絵図にも、狛野荘の荘官である下司・公文・トネの席や、有力名主によって構成されていた中老座・ばく老座の席、能や狂言を演ずる舞台や楽屋、はしがかりなどが描かれていて、これらから、中世の村政をつかさどった組織と松尾神社とのかかわりがうかがえる。なお、表門も拝殿とほぼ同時期の桃山時代の造立である。本殿は1808(文化5)年に奈良春日社若宮本殿を移築したものであり、東隣の御霊神社本殿は、春日社三ノ宮を1823(文政6)年に『下の宮』に移築し、さらに明治13年に神社併合により、ここに移築されたものである。中世村落における神社の面影をとどめる建物群である。」
京都府木津川市山城町椿井
map
鳥居
社標
手水舎
表門(京都府登録文化財)
拝殿(京都府登録文化財)
本殿(重要文化財)
「室町後期の1568(永禄11)建立、一間社春日造、檜皮葺。」
摂社・御霊神社(京都府登録文化財)
末社
説明書より「天武天皇が吉野山より東国へ向かう時、この地で大山咋神の化身であるという樺井翁と軍議を談じ、翁が姿を消したあとに残された宝珠をこの地の後に鎮めとし、のち701(大宝元)年に秦都理が霊夢によってこの宝珠を得て、これを神体として宮殿を創建したのがはじまりと伝える。
近世以前は、御霊神社が『下の宮』と呼ばれたのに対して、『上の宮』と呼ばれ、ともに椿井から上狛にかけての人々の信仰を集めていた。拝殿棟木に墨書銘があり、現在の拝殿が1610(慶長15)年に再建されたこととともに。有力農民の代表である『十二番頭』や南村(上狛)と北村(椿井)の宮座一老、松尾社、御霊社の神主などの名が記されている。また、宮座に残されていた遷宮神事を行う時の絵図にも、狛野荘の荘官である下司・公文・トネの席や、有力名主によって構成されていた中老座・ばく老座の席、能や狂言を演ずる舞台や楽屋、はしがかりなどが描かれていて、これらから、中世の村政をつかさどった組織と松尾神社とのかかわりがうかがえる。なお、表門も拝殿とほぼ同時期の桃山時代の造立である。本殿は1808(文化5)年に奈良春日社若宮本殿を移築したものであり、東隣の御霊神社本殿は、春日社三ノ宮を1823(文政6)年に『下の宮』に移築し、さらに明治13年に神社併合により、ここに移築されたものである。中世村落における神社の面影をとどめる建物群である。」
京都府木津川市山城町椿井
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鳥居
社標
手水舎
表門(京都府登録文化財)
拝殿(京都府登録文化財)
本殿(重要文化財)
「室町後期の1568(永禄11)建立、一間社春日造、檜皮葺。」
摂社・御霊神社(京都府登録文化財)
末社
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