旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

大宝神社

2020-11-24 21:32:12 | 滋賀
2020年11月23日、お参りしました。
由緒書より「当神社は、701年(大宝元年)疫病流行の時、小平井村信濃堂(現在の栗東市小平井)に降臨された素盞鳴尊と稲田姫命を霊仙寺村(栗東市霊仙寺)経由綣村(栗東市綣)の地先、追来神社境内に4月8日ご鎮座。これにより疫病が鎮まったと伝えられる。
 このとき社名を大宝天王宮と称し、正一位とされた。広く50余郷信仰の総社と称され、翌年より健康を授かろうと例大祭を4月初子の日と定めた(現在5月4日)。同年に今宮応天大神宮の神号勅定。858年~67年(貞観年中)より天台宗融合の両部神道となる。
 1433年(永享5年)将軍足利利家が上鈎村に陣を置き天下可抽を祈願し、311石の地頭を寄進の後に、近江守護職佐々木氏に境内整備、修理等を命じ、徳川将軍家により当地を知行地とした渡辺氏なども社殿修理などの継承を怠らなかった。
 神主職は、この地方の名族小槻氏の世襲であったが、1659年(万治元年)より片岡氏(足助氏)に委ねられた。1693年(元禄6年)より別当神応院と称する社僧が運営にあたった。
 境内は、1713年(正徳3年)の資料から本殿を中心に境内社が34社、建物は神宮寺の様相にて、三重塔大日・薬師堂・鐘楼堂等々が建ち並び当時の荘厳さをうかがい知ることができる。中仙道間の大宝山佛眼寺は新宮寺となっていた。1868年(慶応4年・明治元年)神仏分離令により仏教色を一掃し、社名を大宝神社と改称し、現在に至る。」
滋賀県栗東市綣7-5-5
map
鳥居

手水舎







佛眼寺地蔵堂



狛犬





参道





四脚門
「本欅造本瓦葺、南向きで左右に築地付きの門である。1718年(享保3年)京都の宝鏡寺第111代後西天皇の理豊皇女から徳厳親王の病気が当神社の祈祷にて全快されたお礼に寄進建立され徳厳親王の書による扁額も寄進された。1718年(享保3年)の棟札には『屋根方棟梁京河原町竹屋町上ル住人檜皮屋壱兵衛』の次に『北平勝手けらば葺キ葺手大郎衛門(中略)南平落葺き惣兵ゑ』など6人の職人名が記してある。1863年(文久3年)の棟札には『大工棟梁綣村住人西田久兵衛』『瓦師同国野洲郡大林村住人長谷川兵輔』のほか日雇頭日雇助の名前の次に『天王宮別当職神応職応院禅覚禅定』と記されている。享保3年の棟札から建立時は檜皮葺きであったが1736年(享保21年)1744年(延享元年)の年号入り鬼瓦が現存することから、このころに瓦葺きになったもよう。1888年、1923年、1954年、1984年の棟札も現存。宮中からの寄進であるため築地塀に5本の白い線が横に入っている。」



社務所

神馬

拝殿(栗東市指定文化財)
「桁行三間梁行三間の入母屋造で、滋賀県下に多い妻を正面とする形式である。部材の多くは後世のものだが、軒を受ける中柱上の舟肘木は1.09mあり、下端は流麗な曲線で、大きな面取りを持っており、室町時代の特徴を示している。」

中門・本殿





境内社追来神社(重要文化財)
「鎌倉後期の1283年(弘安6年)建立、一間社流造、檜皮葺。延喜式内社で栗太八座の一座とも言われている。地主の神として大宝年間以前よりこの綣の地に鎮座されている。伊吹山に座す多々美彦命が祭神。古来は、意布伎(伊不伎)神社と記されている。社内にあった狛犬の台座裏に『伊不伎里惣中』と記されている。中世には、若宮権現とも呼ばれ現在も通称その名で呼んでいる。御神木は、いぶきで意布伎の意は、『お』とも読めるため、『おふき』とよんで追来に転じたされる説が有力である。『いふき』の『ふき』は、息を吹く、風を意味し風の神である。地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神となっているため、無理に境内社としての位置付けになり、若宮でありまた、社名変更を余儀なくされていると推測される。」

境内社稲田媛社(栗東市指定文化財)
「一間社流造檜皮葺で旧名を十禅師宮といい、本殿右側にある追来神社を模して造営されたと思われる程よく似た江戸時代の建造物である。」

愛宕神社

大国神社・八幡蛭子神社

稲荷神社

伊勢両大神宮

御神木

神武天皇遥拝所

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大長寺 | トップ | 宇和宮神社 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

滋賀」カテゴリの最新記事