2023年3月22日、お参りしました。
説明書より「祭神は、応神天皇(誉田別命)、菅原道真、素戔嗚尊(牛頭天皇)。往年の火災により、社殿と共に記録文書を焼失し創立の年月は不祥。社伝によると、神功皇后の西征の際、この二見浦に船を泊めて船子を加え兵糧を集めた時、土地の者が食物を奉ったところという。その故事によって御厨(神饌を調進する所)の名が起った。この御厨という言葉は、主として伊勢神宮について使用されることから、伊勢神宮の荘園ではなかったかとの説もある。貞観年間(985~987)に八幡宮を勧請した。901(延喜元)年菅原道真が筑紫大宰府に左遷されて西行の途次、船をこの浦に寄せて社地に上陸した所縁により、寛和年中(985~987)に天満宮を勧請した。この当時の社地は君貢神社(二見町東二見1)付近と伝え、菅原道真が西下の時、一夜の宿とした岡を"仮寝の岡"といい、そこに手植えした松を"仮寝の松"として神木とされ、二見の名所であった。松は枯れたが、石碑は残っている。しかし、菅公が休息したのは現在の社地であるという説もあり、鳥居の傍の松に"菅公腰掛松"というものがあったといい、また菅公が右大臣であったところから、大臣の唐名・丞相を冠して地名とした丞相谷は現在地の南方にある。現社地が卯ノ花ノ森に移ったののは長暦年間(1037~1040)と伝えられる。卯ノ花ノ森は常盤木の森ともいい、付近一帯を御社の岡と呼ぶ。土地柄から船頭や回船業者など開運関係者の崇敬が厚く、拝殿内に帆前船の絵馬と模型が奉納されている。天正年中(1573~1591)に池田輝政公が境外に社領40石を、1618(元和4)年に徳川家光公が、御朱印地40石と山林を寄付された。又、往時の神仏混淆時代、御厨神社の別当時として海雲寺があり、神社に接して円林坊、常光坊、西二見に最蔵坊と宝積坊が塔頭として存在していた。海雲寺とはこの四坊の総寺号で、神社境内に接した二坊(菅相院)が天満宮を支配し、西二見の二坊(威徳院)が八幡宮の別当だったという。現在残っているのは西二見の威徳院だけである。祭事は1月18・19日の厄除大祭、3月25日春祭、7月10日・11日祇園祭、7月25日夏祭、10月20日~26日の土・日曜の秋祭がある。」
兵庫県明石市二見町東二見1323
map
鳥居
手水舎
安永三義之碑
「安永三義人とは江戸時代の安永年間(1772~81)に東二見村を飢えから救った弥惣兵衛、市郎右衛門、伊左衛門のことで、林村の漁師と東二見の漁師が鹿の瀬のタコツボ漁で争いがあり、東二見は裁決で敗れ、漁場が無くなり東二見の村人は悲惨な状況に追込まれました。安永2年老中松平右近が江戸城を下り二見村を通過した時に、3名は厳罰覚悟で老中に現在の窮状を直訴しました。この直訴のお陰で、東二見村の漁師は沖での漁が認められ、村は飢えから救われました。」
随身門
仮寝の松
狛犬
拝殿
本殿
社務所
庫
境内社、由加神社(手置帆負命)・秋葉神社(武甕槌命)・金刀比羅神社(大物主命)
朝日神社(天照大神)
高良神社(武内宿祢、大年神)、大年神は大正8年6月西二見字野々口より合祀
稲荷神社(宇迦能魂命、大山祇命)大正2年2月合祀
説明書より「祭神は、応神天皇(誉田別命)、菅原道真、素戔嗚尊(牛頭天皇)。往年の火災により、社殿と共に記録文書を焼失し創立の年月は不祥。社伝によると、神功皇后の西征の際、この二見浦に船を泊めて船子を加え兵糧を集めた時、土地の者が食物を奉ったところという。その故事によって御厨(神饌を調進する所)の名が起った。この御厨という言葉は、主として伊勢神宮について使用されることから、伊勢神宮の荘園ではなかったかとの説もある。貞観年間(985~987)に八幡宮を勧請した。901(延喜元)年菅原道真が筑紫大宰府に左遷されて西行の途次、船をこの浦に寄せて社地に上陸した所縁により、寛和年中(985~987)に天満宮を勧請した。この当時の社地は君貢神社(二見町東二見1)付近と伝え、菅原道真が西下の時、一夜の宿とした岡を"仮寝の岡"といい、そこに手植えした松を"仮寝の松"として神木とされ、二見の名所であった。松は枯れたが、石碑は残っている。しかし、菅公が休息したのは現在の社地であるという説もあり、鳥居の傍の松に"菅公腰掛松"というものがあったといい、また菅公が右大臣であったところから、大臣の唐名・丞相を冠して地名とした丞相谷は現在地の南方にある。現社地が卯ノ花ノ森に移ったののは長暦年間(1037~1040)と伝えられる。卯ノ花ノ森は常盤木の森ともいい、付近一帯を御社の岡と呼ぶ。土地柄から船頭や回船業者など開運関係者の崇敬が厚く、拝殿内に帆前船の絵馬と模型が奉納されている。天正年中(1573~1591)に池田輝政公が境外に社領40石を、1618(元和4)年に徳川家光公が、御朱印地40石と山林を寄付された。又、往時の神仏混淆時代、御厨神社の別当時として海雲寺があり、神社に接して円林坊、常光坊、西二見に最蔵坊と宝積坊が塔頭として存在していた。海雲寺とはこの四坊の総寺号で、神社境内に接した二坊(菅相院)が天満宮を支配し、西二見の二坊(威徳院)が八幡宮の別当だったという。現在残っているのは西二見の威徳院だけである。祭事は1月18・19日の厄除大祭、3月25日春祭、7月10日・11日祇園祭、7月25日夏祭、10月20日~26日の土・日曜の秋祭がある。」
兵庫県明石市二見町東二見1323
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鳥居
手水舎
安永三義之碑
「安永三義人とは江戸時代の安永年間(1772~81)に東二見村を飢えから救った弥惣兵衛、市郎右衛門、伊左衛門のことで、林村の漁師と東二見の漁師が鹿の瀬のタコツボ漁で争いがあり、東二見は裁決で敗れ、漁場が無くなり東二見の村人は悲惨な状況に追込まれました。安永2年老中松平右近が江戸城を下り二見村を通過した時に、3名は厳罰覚悟で老中に現在の窮状を直訴しました。この直訴のお陰で、東二見村の漁師は沖での漁が認められ、村は飢えから救われました。」
随身門
仮寝の松
狛犬
拝殿
本殿
社務所
庫
境内社、由加神社(手置帆負命)・秋葉神社(武甕槌命)・金刀比羅神社(大物主命)
朝日神社(天照大神)
高良神社(武内宿祢、大年神)、大年神は大正8年6月西二見字野々口より合祀
稲荷神社(宇迦能魂命、大山祇命)大正2年2月合祀
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