一日曇りでしたがすごく寒い日でした。18度までしか上がらなかったようです。ついこの間まで暑い暑いと騒いでいたのにこの気温の下がりよう、一体何なのでしょう。
きのうの続きで私の住む地区にある太鼓坂から続く街道筋に小さな神社があります。その神社と今はもう地名からなくなってしまいましたが地元の人たちに口伝えで残っている町の由来を紹介したいと思います。
太鼓坂を町方面に登りつめて急な坂をくだり終えると何軒か家が並び始めます。ここを少し行くと左斜面に赤い鳥居が見えますが気をつけていないと見逃してしまいそうなところです。
細い道を登っていくと両側が杉や竹に囲まれて次第に薄暗くなってきます。
雑木林の一画が少し平らになっていて小さなお宮が建っています。ここが地元の人たちが祀っている山の神神社です。こんなに小さくて目立たない場所にあるのにずいぶん古い神社らしいです。
建てられている石にもなにやら色々刻んでありますがもう刻みが薄くなってほとんど読めません。中央の大きな山神の文字だけは読み取れます。年号もあるようですが読めませんでした。
町にはたくさん神社がありますが町史や地元の伝説の本にはこの神社の事が語られています。奉納されていた絵馬の中には「文治二年姫路三郎義心願」と書かれたものがあったらしいといわれています(今は見当たらない)。文治元年と言うのが1185年平家が壇ノ浦で滅びた年です。もしその絵馬が本当にあったのだとしたら820年以上昔からこの神社があったことになります。
毎年秋には自治会でこの山の神神社前で神官さんを頼んでご祈祷をしてもらい神前で御神楽を奉納します。中の棚には木彫りの様々な御神体が祭られているようです。そしてそばには毎年必ず地元の人が手作りする赤い鼻緒の草履が供えられています。この草履がいつから供えられるようになったのかはわかりませんでしたが草履にまつわる面白い伝説が残っていて地元の歴史書などに書かれています。
きのうお話をお聞きしたお年寄りも同じような内容で話してくれました。
伝説に添って紹介します。
その昔仙台藩主伊達政宗公が疱瘡に罹り激しい頭痛と高熱に苦しみどんな医者にも治す事ができなかった。占ったところ「北に赤緒の草履がある山の神があるからそれを頂いて来ると病気が治る」と言うのではるばる訪ねて家来が探し当て無事に殿様の病気が良くなった。伊達家から宝物が奉納されこのを草履町と呼ぶようになった。
たちまち草履町は有名になり明治37年頃までは参詣者で賑わったが疱瘡にかかる人もなくなって次第に廃れてしまった。当時は草履が一足二文で売られて旅の人に買われた。
その後神社は荒れていたが昭和48年に自治会役員や有志の人たちによって現在のように立て替えられたそうです。
政宗公が幼少時に疱瘡で失明したのは有名な話で仙台藩主のときに再び疱瘡に罹ったのか疑問ですがもしそうだとするとおよそ300年くらいも草履町は草履を売る店や山の神様を参詣する人で10月12日の祭日は賑わっていたことになります。他藩からもずいぶんお参りに来たらしいです。
岩手南部藩の藩臣が藩主の命令で寛延4年(1751年)に江戸から盛岡城に至る道中を描いた「盛岡増補行程記」というのがあります。参勤交代時の宿場の様子を細かく描いたものでこの中にも「小草履町」として載っています。
今は地元の人たちは「草履っこ町」と呼んでいます。おもしろいですね。
今日、この地区で生まれ育った96歳になる近所のおばあさんからお話を聞いてきたのですが街道を旅する人たちのために草履やわらじを作って売っていた店が3軒くらいあったのを覚えているそうです。今でもその店は子孫の方たちが暮らしていますが店はやっていません。
ここの神様は女の神様で10月12日に母ちゃんたちでお精進したもんだ、(安産祈願らしい)とのこと。
郡誌によると安永頃の記録によれば神社はこの地区に十八社とあるが大正7年には郡内に十四社となっています。この中に ”はりさい女宮”というのがあって大体の場所が書かれています。お年寄りに女の神様と聞いてもしかしてここの事?っと思ってしまいました。
きのう神社の山の神の石碑を見たとき山神は読めましたが一番上は文字なのか絵なのか判断ができなかったのです。見方によっては天女のような絵に見えたりしたのできのうおじいさんに聞いてみたのですがわからないとのことでした。
義母は元旦にお供え餅を持って必ずこの神社にお参りします。私もいわれは知りませんでしたが近くにあるのだからと子供たちと何度か元旦にお参りをした事がありました。今回街道に興味を持って近所の事を調べてみて改めて地元の伝説が本当の事かどうかは別にしても伝えて行く事が神社の保存のためにも必要だなあと感じました。
町の方に向かう現在の草履っこ町。
以上写真は全部昨日写したものです。
きのうの続きで私の住む地区にある太鼓坂から続く街道筋に小さな神社があります。その神社と今はもう地名からなくなってしまいましたが地元の人たちに口伝えで残っている町の由来を紹介したいと思います。
太鼓坂を町方面に登りつめて急な坂をくだり終えると何軒か家が並び始めます。ここを少し行くと左斜面に赤い鳥居が見えますが気をつけていないと見逃してしまいそうなところです。
細い道を登っていくと両側が杉や竹に囲まれて次第に薄暗くなってきます。
雑木林の一画が少し平らになっていて小さなお宮が建っています。ここが地元の人たちが祀っている山の神神社です。こんなに小さくて目立たない場所にあるのにずいぶん古い神社らしいです。
建てられている石にもなにやら色々刻んでありますがもう刻みが薄くなってほとんど読めません。中央の大きな山神の文字だけは読み取れます。年号もあるようですが読めませんでした。
町にはたくさん神社がありますが町史や地元の伝説の本にはこの神社の事が語られています。奉納されていた絵馬の中には「文治二年姫路三郎義心願」と書かれたものがあったらしいといわれています(今は見当たらない)。文治元年と言うのが1185年平家が壇ノ浦で滅びた年です。もしその絵馬が本当にあったのだとしたら820年以上昔からこの神社があったことになります。
毎年秋には自治会でこの山の神神社前で神官さんを頼んでご祈祷をしてもらい神前で御神楽を奉納します。中の棚には木彫りの様々な御神体が祭られているようです。そしてそばには毎年必ず地元の人が手作りする赤い鼻緒の草履が供えられています。この草履がいつから供えられるようになったのかはわかりませんでしたが草履にまつわる面白い伝説が残っていて地元の歴史書などに書かれています。
きのうお話をお聞きしたお年寄りも同じような内容で話してくれました。
伝説に添って紹介します。
その昔仙台藩主伊達政宗公が疱瘡に罹り激しい頭痛と高熱に苦しみどんな医者にも治す事ができなかった。占ったところ「北に赤緒の草履がある山の神があるからそれを頂いて来ると病気が治る」と言うのではるばる訪ねて家来が探し当て無事に殿様の病気が良くなった。伊達家から宝物が奉納されこのを草履町と呼ぶようになった。
たちまち草履町は有名になり明治37年頃までは参詣者で賑わったが疱瘡にかかる人もなくなって次第に廃れてしまった。当時は草履が一足二文で売られて旅の人に買われた。
その後神社は荒れていたが昭和48年に自治会役員や有志の人たちによって現在のように立て替えられたそうです。
政宗公が幼少時に疱瘡で失明したのは有名な話で仙台藩主のときに再び疱瘡に罹ったのか疑問ですがもしそうだとするとおよそ300年くらいも草履町は草履を売る店や山の神様を参詣する人で10月12日の祭日は賑わっていたことになります。他藩からもずいぶんお参りに来たらしいです。
岩手南部藩の藩臣が藩主の命令で寛延4年(1751年)に江戸から盛岡城に至る道中を描いた「盛岡増補行程記」というのがあります。参勤交代時の宿場の様子を細かく描いたものでこの中にも「小草履町」として載っています。
今は地元の人たちは「草履っこ町」と呼んでいます。おもしろいですね。
今日、この地区で生まれ育った96歳になる近所のおばあさんからお話を聞いてきたのですが街道を旅する人たちのために草履やわらじを作って売っていた店が3軒くらいあったのを覚えているそうです。今でもその店は子孫の方たちが暮らしていますが店はやっていません。
ここの神様は女の神様で10月12日に母ちゃんたちでお精進したもんだ、(安産祈願らしい)とのこと。
郡誌によると安永頃の記録によれば神社はこの地区に十八社とあるが大正7年には郡内に十四社となっています。この中に ”はりさい女宮”というのがあって大体の場所が書かれています。お年寄りに女の神様と聞いてもしかしてここの事?っと思ってしまいました。
きのう神社の山の神の石碑を見たとき山神は読めましたが一番上は文字なのか絵なのか判断ができなかったのです。見方によっては天女のような絵に見えたりしたのできのうおじいさんに聞いてみたのですがわからないとのことでした。
義母は元旦にお供え餅を持って必ずこの神社にお参りします。私もいわれは知りませんでしたが近くにあるのだからと子供たちと何度か元旦にお参りをした事がありました。今回街道に興味を持って近所の事を調べてみて改めて地元の伝説が本当の事かどうかは別にしても伝えて行く事が神社の保存のためにも必要だなあと感じました。
町の方に向かう現在の草履っこ町。
以上写真は全部昨日写したものです。